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彼女も腐女子だった

「……何で、ここに」


 ミュケーナイ侯爵家の廊下の壁に飾られた絵画のひとつを見てエウリは呆然と呟いた。


 廊下の絵画は代々のミュケーナイ侯爵夫妻が描かれたものだと分かる。並んでいる男女の絵。女性達の姿は違っても男性達の姿はそろって真紅の髪の超絶美形ばかりだからだ。


 エウリが目を止めたのは、その中のひとつだ。


 オルフェの若い頃を思わせる、瞳の色以外ハーキュリーズにそっくりな美青年と、髪の色以外デイアにそっくりな可愛らしい少女が並んでいる絵画。


 この二人が誰か訊くまでもない。オルフェの両親、先代のミュケーナイ侯爵と義母の若い頃の姿を描いたものだろう。


「どうしたの?」


 一緒に歩いていたエウリが突然足を止め凍りついたように一枚の絵の前から動かない事に、当然ながら義母は不審に思ったらしい。


「私とオイア様の若い頃の絵ね。これがどうしたの?」


 亡くなった先代のミュケーナイ侯爵の名前はオイアグロスだ。オイアは愛称だろう。


「……これを描いたのは、ルペ・キャット様ですよね。絵の隅に、あの方のサインと三毛猫のマークもありますし」


 注視しなければ分からないほど目立たないが絵の隅に「ルペ・キャット」というサインと小さな三毛猫のマークがあった。


 そのサインもマークもルペ・キャットが今まで描いてきた挿絵にあるものと一致しているようにエウリには見えた。


 雅号にキャットと付けるほど猫好きなのだろう。提供する絵は猫の話が多い。特に三毛猫が好きなのか、思い入れがあるのか、絵には必ず「ルペ・キャット」というサインだけでなく小さな三毛猫をマークとして描いている。


「……こんな目立たないサインやマークに気づくなんてね」


 義母の言葉は、この絵、自分と夫の若い頃を描いたのはルペ・キャットだと認めたようなものだ。


「絵が素晴らしいので隅々まで見て気づいたんです。毎回隅に目立たないようにですがサインやマークをしている事が。ですが、それらに気づかなくても、この絵を描いたのはルペ・キャット様以外ありえないでしょう」


 その描線や色使いの秀逸さは他の追随を許さないルペ・キャット独自のものだ。


 ルペ・キャットが本の挿絵以外に絵を描いているとは知らなかった。


 どんなに著名な作家でも気に入らなければ絶対に絵を提供しないルペ・キャットが先代のミュケーナイ侯爵夫妻を描いた。それほど親しいのだろうか?


「悪いけど、ルペ・キャットの正体は教えられないわよ」


 エウリの期待に満ちた眼差しに気づいたのだろう。義母が釘を刺した。


「あなたは近い将来私の身内になるし秘密も守ってくれそうだけど、まず、あの子……ルペ・キャットに訊いてからでないと。私の勝手で教える訳にはいかないの」


 最後は申し訳なさそうに言う義母にエウリは慌てた。


「いえ、こちらこそ失礼しました。どういう方が、あんな素晴らしい絵を描いているのか、つい知りたくなってしまうのです」


「それを聞けば、あの子、喜ぶわ」


 義母は嬉しそうに微笑んだ。


「ああ、いけない。仕立て屋を待たせているわね。急ぎましょう」


「申し訳ありません。私が、つい絵に見入ってしまって」


「いいのよ。それだけルペ・キャットの絵が好きという事でしょう」


 正式な日にちは決めてないがオルフェとの結婚式で着る花嫁衣裳のためエウリはミュケーナイ侯爵家に来たのだ。


 貴族は仕立て屋が自宅に来るのが一般的で、本来ならエウリが今現在暮らしているティーリュンス公爵家に来てもらうべきだが「あなたに会いたいわ」という義母の希望でエウリが侯爵家に日参する事になったのだ。






 その日、エウリは一人で仕立て屋の相手をする事になった。


「せっかく来てもらって申し訳ないのだけど、しばらく私、家を空ける事になったの。仕立て屋や執事や使用人達には言っておくから、あなただけで花嫁衣裳を作ってもらってちょうだい」


 もうすぐオルフェと結婚しミュケーナイ侯爵家の一員になるとはいえ主が誰もいない館に勝手に入っていいものか戸惑うエウリに「あなたの花嫁衣裳を早く見たいわ」という義母の言葉もあり来たのだ。


 エウリがいつも行くのは午前十時頃だが、その頃にはもうオルフェとハーキュリーズ、デイアは皇宮だ。オルフェとハーキュリーズは仕事、デイアは将来皇太子妃になるための勉強のためだ。


 顔合わせの時は侯爵家にいたカシオペアだが、普段彼女は、この館にはいないらしい。


「彼女といると私達家族も使用人達も疲れるから」というのが義母の言葉だった。


 負けない自信はあるが、いつもいつもあの調子で突っかかってこられては確かに疲れるので、彼女と顔を合わせない事に安堵したエウリだ。


 主の妻とはいえ、やはりカシオぺアは使用人達にも敬遠されていたのだろう。


 顔合わせの時彼女を遣り込めたエウリに使用人達は最初から好意的だった。


 義母が傍にいなくても、オルフェとの結婚もまだだというのに、エウリに対する態度は丁寧なものだった。


 まだ陽も高い時分、仕立て屋との話やら衣装合わせが終わり帰ろうと庭に足を踏み入れたエウリは、そこであるものを見つけた。


 見送ろとしてくれる使用人達には馬車を用意してもらっただけで、後は一人で帰れるからと、それぞれの仕事に戻ってもらった。


「何かしら?」


 石のベンチに置かれていた一冊のノート。


 エウリも使っている見るからに上質な紙でできたノートだ。経済的に余裕がある商人や貴族が使う物だ。


 ノートには題名も名前も書かれていないが、こんなノートを使うのは使用人の誰かではなくミュケーナイ侯爵家の誰かだろう。


 少し迷った後、エウリはノートを開いた。


 落としたのがハーキュリーズで、綴られているのがエウリに対する欲望ならばよかった。もしそうなら、彼にノートを突きつけて嘲笑ってやるつもりだった。この上なく美しい容姿を持っていても、やはり普段他人に見せないその心は「男」にすぎないのだと軽蔑したかった。


 エウリに求婚し、高飛車な結婚条件を突きつけても「結婚するのは君しか考えられない」とほざく(エウリの心情はこれにつきる)ハーキュリーズ。


 こんな所にノートを放置したのはハーキュリーズの過失だが、勝手に日記を盗み見て嘲笑う女なら即行で恋情を消滅させられるだろうと期待したのだ。


 人が隠している心情を露にして突きつけて嘲笑うのが、どれだけ人として最低な行為かは分かっている。


 それでも、それでハーキュリーズが自分への恋愛感情を消滅させる事ができるのならエウリは何だってやる。


 その気持ちに応えられないからという優しさなどではない。


 恋愛感情であれ情欲の対象としてであれ自分を「女」として見る男性がとにかく嫌で重荷なのだ。


 よからぬ思惑を持ってノートを開いたエウリだが、そこに書かれていたのは――。






『殿下は長くしなやかな指で彼の鮮血のような赤毛を一房掬い取った。絹糸のようなその髪は絡まる事なく指をすり抜けた』


『雨のように降り注ぐ桜の花びら。それらが自分達を隠してくれるといいと二人は願った。全く同じ青氷色アイスブルーの瞳が互いを見つめている。見つめ合っていると鏡の自分を見ているようだ。瞳の色以外似たところはどこにもないのに。ここにいるのは自分達だけ。だから、ここなら誰も自分達を責めない。男同士で愛し合う禁忌も。背負っている重責も。今だけは忘れていいのだ。桜の雨の中、二人はそっと口づけた』






「……これって」


 どう見てもハーキュリーズが書いたものではない。


 美しいその文字は女性だと分かるし、何よりハーキュリーズがこんな、どう見てもBLとしか思えない文章を書くはずがない。


 小説ではない。思いついたBLのエピソードを書き留めている感じだった。


 エピソードに登場するのは特定の二人だけ。名前こそ書かれていないが「殿下」「赤毛の彼」「青氷色アイスブルーの瞳」それだけでエウリは「二人」が誰か分かった気がした。


 エウリも時々妄想する「二人」だ。


 どこかペイア・ラーキを彷彿させる魅力的な文章もあって夢中で読み耽っていたエウリは、「あ――っ!」という少女の悲鳴で我に返った。


 エウリが顔を上げると真っ青な顔をしたデイアが目の前に立っていた。走ってきたのか肩で息をし髪も乱れている。


「デイア様?」


 エウリの呼びかけに答えずデイアは無言で彼女が手にしているノートを乱暴にむしり取った。


 グレーヴス男爵家に引き取られるまで暴力は日常だったので、これくらいの乱暴では驚かないが、侯爵令嬢、それも皇太子妃になろうというほどの貴婦人がした事には驚いた。


 エウリの驚きなど、どこ吹く風という感じでデイアは奪い取ったノートを胸に抱きしめると彼女を涙目で睨みつけた。


 可愛らしい容姿なので全く迫力がない。むしろ、追い詰められた小動物みたいで、嗜虐心のある人間なら、はっきりいってもっと苛めたくなる姿だ。


「これ、読んだの!?」


 デイアは動揺しているのだろう。顔合わせの時のような敬語ではなくなっている。


「あなたが書いたのですか?」


 デイアがここまで動揺している以上、答えはもう出ているが一応エウリは尋ねた。


「……それは」


 どう言い訳しようか考えているのだろう。視線があちこちさ迷っている。


「そうよ! 悪い!?」


 ここまで動揺した以上言い訳は無理だと悟ったのだろう。開き直ったらしい。


「悪くありません。どうせなら、こんなエピソードばかりでなく小説を書いてください! ぜひ読みたいです!」


「……え?」


 エウリの言葉はあまりにもデイアの予想斜め上をいっていたので彼女は大きな瞳を何度も瞬かせた。


「これ全部、モデルは皇太子殿下とハーキュリーズ様ですよね? 分かります! 私も何度もお二人で妄想しましたもの! まあ、私はどちらかというと皇帝陛下とオルフェ様のほうが妄想しやすかったですが」


 白い手を胸元で組み夢見るように語るエウリは同性でも心を奪われそうなほど美しかったが、彼女の薔薇色の唇から飛び出す予想外すぎる言葉の連続にデイアは見惚れるよりも呆気にとられた。


「……あの、エウリ様も腐女子なの?」


 デイアがかろうじて言えたのは、この言葉だった。


 腐女子とはBLが好きな女性の事である。巷ではそう呼ぶのだが、侯爵令嬢であるデイアが、それを知っていたとは意外だった。


「……腐女子、そう、そうなりますわね」


 エウリは少し考えた後、あっさりと認めた。


「だから、あなたがBLこれを書いている事を私、絶対に言い触らしたりしませんわ」


 デイアの動揺した様子から彼女は絶対にBL好きなこの事を知られたくなかったのだと分かったのだ。


 それはそうだろう。侯爵令嬢、それも、もうすぐ皇太子妃になろうというほどの貴婦人がBL好きとは公言できないだろう。エウリ個人としては「仲間が増えた」と喜ぶが大半の人間はそうは思わないに決まっている。


 たとえ、エウリがBL好きでなくても他人が隠している事を言い触らしたりはしない。彼女にも絶対に他人に知られたくない事があるのだから。


「……そうね。あなたは、そんな方ではないわね」


 そうは言ってもデイアはエウリの言葉を完全に信じる事ができないようで、こう言葉を続けた。


「……ここで皇宮に持っていく荷物の確認をしてノートを落としたのを気づかなったのはわたくしの過失だから、もし、あなたが言い触らしても責められないけど……黙っていてくださるなら嬉しいわ。他人は勿論、わたくしの家族にも」


「あなたがばらしたら、わたくしもあなたが腐女子だとばらすわ!」と脅せばいいと思うのだが、デイアには、そいういう発想がないのだろうか?


 母親よりも容姿が似た祖母から聡明さも受け継いでいるようだのに、そういう発想が浮かばないのは腐女子だとばれた事に今も動揺しているせいなのか? 侯爵令嬢として大切に育てられたせいか? それとも彼女の生来の気質なのか?


 養父母に引き取られる前の荒んだ生活をしていた頃のエウリなら「甘いわね」と鼻で笑うところだが今は好ましく思う。それは、同じ腐女子として勝手に親近感を抱いているせいか。


「私の弱味を握れば安心できますか?」


(……ノーエ様も同じ事を言ったわね)


 言いながらエウリは二年前の事を思い出した。


 二年前、頑なに離婚に応じてくれない前の夫、アリスタとの離婚のため、現在の彼の妻、ノーエことアウトノエに協力してもらい目的を達成したのだ。


 その時に、彼女はこう言ったのだ。


 ――私の弱味を握れば、あなたは安心できるでしょう?


 ノーエは「あなたという方に興味を持ちました」と言いエウリがアリスタと離婚し自分が彼と結婚する事になっても仲良くしたいのだと、わざわざ自分の弱味を打ち明けてくれたのだ。


「あなたに弱味などあるの?」


 デイアはエウリにとっても腐女子だという事は弱味だと思わないのだろうか? まだそこまで考えが及ばないのか?


「……ありますよ。数えきれないほど」


そのうちのひとつ、デイアになら打ち明けても支障がない事をエウリは教えた。


「私、アネモネ・アドニスなんです」


(……しまった。これだけじゃ「誰の事?」と訊かれるのがオチじゃない)


 いくらデイアがBL好きでも全てのBL作家を知っているはずがない。


 ルペ・キャットの挿絵もあって、そこそこ売れているが、ペイア・ラーキほどの知名度はないのだ。


「……え? あなたが、あの・・アネモネ・アドニスなの!?」


 幸いというべきかデイアはアネモネ・アドニスを知っていた。


「わたくしの二番目に好きな作家だわ!」


 デイアは興奮したように叫んだ後、「あ!」という顔になった。


「ごめんなさい。二番目だなんて」


 申し訳なさそうに謝るデイアにエウリは首を振った。


「構いませんわ。誰を一番好きかは読む人の自由ですから。私が書いた本を好きだと言ってくださるだけで充分ですわ」


「……本当に、あなたがアネモネ・アドニスなの?」


「信じられないのなら、パーシー……あなたの叔父様であるティーリュンス公爵様や大叔母様であるクレイオ様に訊いてみてください。デビューしてからずっとお二人にはお世話になっていますから」


「……確かに、お二人はアネモネ・アドニスが所属しているプロイトス出版の社長と編集長だったわね。分かりました。信じます。ただの男爵令嬢が叔父様の愛称を気安く呼べるはずないもの」


 デイアはエウリがうっかり口にした彼女の叔父の愛称を聞き逃さなかったようだ。


 相手が女性でもパーシーは自分が認めなければ絶対に名前や愛称を呼ぶ事を許さない。それを彼の姪であるデイアは知っている。だからこそ、それだけエウリとパーシーが親しいのだと確信したのだ。


「でも、わたくしに話してしまってよかったのですか? 正体を知られたくないから、隠しているのでしょう?」


 自分の弱味を握っている相手を気遣うデイアをエウリは好ましく思うより心配になった。


 人間にとって優しさは美点だが、それだけでは生きづらい。特にデイアは近い将来、皇太子妃、そして皇后になる。国と民を守る義務と責任があるのだ。優しいだけの女性では、いずれその重責に押しつぶされるのではないかと思うのだ。


 だが、それはエウリが言うべき事ではない。デイアの父親と結婚するとはいえ本当の夫婦になる訳ではない。そんなエウリが「夫」の娘に踏み込んだ事を言うべきではないのだ。


 だから、エウリはこう言った。


「私の弱味を握れば、あなたは安心できるでしょうし、それに、あなたと仲良くなりたいのです」


「わたくしと?」


「はい。心置きなくBLを話せる方がいなくて、あなたとそうなれればいいなと」


「……そうね。わたくしも心置きなくBLを話せる方が増えれば嬉しいわ。それが、あなたなら尚更だわ」


 この日を境に、実母とはぎすぎすした関係しか築けないデイアが義母となるエウリとは周囲が不思議に思うほど仲良くなるのだ。















 






























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