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母の形見

「これを君に」


 イスメとオルフェ、エウリとアンが座るソファの間にテーブルがある。イスメは傍らに置いていた二胡ケースをそのテーブルに置いた。


「何でしょう?」


 怪訝そうなエウリの前で、イスメはおもむろに二胡ケースを開けた。中身は当然、二胡なのだが――。


「それは、お母様の二胡!?」


 エウリは一目で分かった。母が大切にしていた二胡。元は母の母、エウリの祖母、東方出身の二胡奏者ケンクレイス・(リー)の物だった。


「……憶えていたんだな」


 イスメは意外そうに言った。幼児期の頃の事など、ほとんどの人間は忘れてしまう。エウリもそう(・・)だと彼は思っていたのだろう。


「……お母様に関する事なら不思議と憶えています。……他の、忘れてはいけない大切な事は、忘れてしまっていますが」


 テュンダ(パオ)に関する事やハークとの出会いなどだ。


「なぜ、これをあなたが持っているのですか?」


 母は帝国に行く旅費などを作るために、ドレスや宝石、そして、母親(エウリにとっては祖母)の形見である大切な二胡も売るようにパオ(テュンダ)に頼んでいた。……結局は海賊に全て奪われてしまったが。


「パイエオン・イオニア、今はテュンダレオス・マグニシアとなったあいつとは、祖父の代からの知り合いなんだ。元は祖父同士が親友で、彼らの娘である母親同士も親友になった。だから、俺とティオは生まれた時からテュンダを知っている。


 テュンダの母、コロニス様は『あの男』の情人だった。それは別にいいんだ。誰が誰を愛そうと、その人の勝手だ。……けれど、そのせいで、母は『あの男』に目を付けられ俺とティオを産む破目になってしまった」


 イスメは忌々しそうな顔になった。


「……母はティオと同じ同性愛者、いや、心が男なんだ」


「……ティオ様もそうなんですね?」


「……分かるのか?」


 少し驚いているイスメにエウリは頷いた。


「……伊達に男性に恐怖と嫌悪を抱いていませんから」


だからこそ、エウリは真性の男色家(ゲイ)だけでなく心と体の性が一致しない人間も見抜けるのだ。


「……こういう言い方はなんだが、君の母と同じおぞましい行為の結果だ。自分に似たティオはともかく、「あの男」に酷似した俺を棄てるなり虐待しても仕方なかったのに、ティオと分け隔てなく愛してくれた。だから、俺は『あの男』を絶対に許せないんだ」


 自分を胎内で十月十日育み、この世に産みだしてくれた母親は、大抵の人間にとって特別だ。まして、堕胎されても仕方ない状況で産んで愛してくれたのなら余計にだ。


 その母親を苦しめた人間を許せないのは当然だろう。それが、たとえ自分の「父親」であっても。エウリもそうだ。だから、イスメのその気持ちは、エウリには誰よりも理解できる。


「……話が逸れてしまったな。


 帝国に行く三日前にテュンダが俺を訪ねてきて、この二胡を持ってきたんだ。『ミュラ姫に売るように頼まれたけれど、あの方の母親の形見を売る事は、とてもできないから預かってほしい。いつか、あの方の娘に会えた時には、これを渡してほしい』ってな。二胡を預けにきただけじゃなくて、偽造旅券を頼むためでもあったが」


 テュンダが言っていた「偽造旅券を頼んだ知り合い」というのは、イスメの事だったのか。


「……ずっと持っていてくださったのですね」


 いくら異母妹である母の大切な物で、頼んできたのが異母兄であるテュンダだとしても、イスメが預かる義理などなかっただろうに。


「……ミュラ姫や君のために何もできなかったんだ。これくらいするさ。勿論、こんな事で許されるなんて思ってはいない」


「……許す、許さないもないです。罪を負うべきは、『あの男』だけなのですから」


 エウリは二胡を手に取ると奏で始めた。母が教えてくれていたので、グレーヴス男爵の養女となってからも頼み込んで習わせてもらっていたのだ。


 天上の音楽と言っても差し支えない音色が辺りに満ちる。


 東方の楽器を奏でるのは西方の人間の特徴を持つ絶世の美女。


 けれど、不思議と調和し、何とも美しい光景だった。


 目と耳の保養ができたこの場にいる人間は、エウリが弾き終わっても、しばらく動く事ができなかった。


「……音が全く狂ってない。調弦もしてくださっていたのですね」


 エウリは感謝の眼差しをイスメに送った。


「放っておけば劣化するのは楽器に疎い俺でも分かったから、専門家に時々みてもらっていたんだ」


 エウリとイスメの会話の傍らで、オルフェは感に堪えないという顔で呟いた。


「……ミュラと同じ音色だ」


 オルフェの両目から一筋、涙が零れ落ちる。


 大人の男性。しかも、普段、冷静沈着な帝国宰相が人前で涙を流すなど奇異に映るだろう。


 けれど、緑柱石のごとき両目から零れる透明な雫が白磁のような頬を伝う様は、見る者の心を打つほど切なく美しかった。


「……オルフェ様」


 ずっと彼の顔が好きだった。男性に嫌悪と恐怖を抱くエウリにとって、帝国宰相オルフェウス・ミュケーナイの性を感じさせない美しい顔は、何よりも好ましかった。


 けれど、母との係わりを知る前から、オルフェという人間を知るにつけ好意を抱いた。それは、恋愛感情ではない。人としての好意だ。


 オルフェにとってのエウリは、ただ愛した、いや、亡くなった今も愛している女性の娘に過ぎないだろう。


 母を忘れられないのは、唯一愛した女性だから? 


 母の身に起こった事で、不要な罪悪感を抱いているから?


 亡くなる間際に、娘を見守るように頼まれたから?


 何にしろ、唯一愛した女性の娘で異母妹、彼女に酷似したエウリが傍にいる限り、オルフェは生涯、母を忘れられない。


(……私の存在は、あなたを苦しめる事になるかもしれない)


 だが、それでも――。


(……私は、あなた達と家族になりたいのです)


 エウリは、オルフェとオルフェの家族が大好きなのだ。


 自分の全てを知っても家族として受け入れてくれた彼らが――。


(私は私。娘で妹でも、どれだけ似ていても、お母様にはなれない。けれど――)


 自分の全てを捧げてオルフェと彼の家族に尽くそう。


(私ができる事なら何だってします。だから、オルフェ様、どうか苦しまないで)


 最期まで娘と唯一愛した男性であるオルフェの幸福を願っていた母は、自分のせいでオルフェが苦しむ事など絶対に望まないのだから。





 






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