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大切な名前

「実は、ずっと気になっていたのですが」


 エウリはオルフェを真っ直ぐに見つめた。


「なぜ、私をエウリと呼んでくださらないのですか?」


 求婚された時の呼びかけ以外で、エウリはオルフェから「君」としか呼ばれていない。エウリについて他人と話す時ですら「この子」だ。


「『エウリュディケ』は君の名前ではないだろう?」


 当然のようにオルフェは言った。


 確かに、この名前は、「エウリュディケ」は、養父母の亡くなった娘の名前だ。


 だが、それでも――。


「……今は私の名前です」


 アネモネやアドニスと名乗った頃の事を忘れはしない。けれど、今の自分はエウリュディケ・グレーヴスだ。


「……『エウリュディケ』はグレーヴスの両親が大切な娘に付けた名前です。それを、私がどんな人間か知っても生涯名乗る事を許してくださったんです。


 ……天国にいる『エウリュディケ』には申し訳ないけれど、私は生涯この名前を名乗ります」


 エウリは無表情なオルフェを見つめた。元々感情が顔に表れない人だが付き合っているうちに何となくだが彼の感情の機微が分かるようになった気がしていたのに、今は全く彼が何を考えているのかエウリには分からなかった。


「……お母様が名付けてくださった名前を棄てた事を怒っていらっしゃるんですか?」


「怒る? なぜ?」


 オルフェは、なぜエウリがそんな事を言い出したのか本当に理解できない様子だった。


「君が劣悪な環境を抜け出すために、男爵令嬢となるために、生きるために、母親(ミュラ)が名付けた名前を棄てても誰も君を責める事はできない」


 そうだ。アドニスだった頃の生活には戻りたくなかった。そのためなら情欲の対象以外ならなんだってできた。娘の身代わりくらいなんて事ない。そのためなら母が名付けてくれた名前だって簡単に棄てられた。


「……そもそも、アネモネは存在しない人間だ。名乗る事はできなかっただろう?」


 ……その通りだ。けれど、完全に失いたくなかったからペンネームとして使った。


 ……自己満足だと分かっている。グレーヴス男爵令嬢として生きるために母が名付けてくれた名前を棄てたのだから。


「……グレーヴスのお養母様(かあさま)に名前を訊かれた時、アネモネだと名乗れなかったのは存在しないからじゃない。名付けてくれたお母様以外、誰も私の名前(アネモネ)を呼んでくれなかった。だから、お母様以外の方に呼ばれるのに抵抗があったのです」


 今思えば、何をくだらない事にこだわっていたのか。呼ばれるために名前はあるのに。


 だから、養母に「好きに呼んでいい」と言ったのだ。そして、名付けられたのが彼女の亡くなった娘の名前だった。


「……私にとってエウリュディケは本当の名前(アネモネ)を名乗れないための仮初めの名前なんかじゃない。お母様が名付けてくださったアネモネという名前は勿論大切です。でも、同じくらいエウリュディケも大切な私の名前なんです。だから、否定しないで、どうか呼んでくれないでしょうか?」


「……悪かった」


 オルフェは心からの謝罪だと分かる声で言った。


「本当の名前ではないからではなく、エウリュディケ・グレーヴス、ミュラの娘ではない君を認められなかったから、呼べなかったのかもしれない。」


 ――私にとって君はミュラの娘でしかなかった。一人の人間として見てなかったんだ。


「……母娘で、どれだけ似ていても、君とミュラが違う人間、違う女性だと分かっている。だが、どうしてもミュラに似た君にミュラの面影を見てしまう。……ハークに身代わりになどしていないなどと言いながら……情けないな」


 オルフェはほろ苦く微笑んだ。


「……オルフェ様」


 母が亡くなったために「愛していた」と過去形を遣っているが、オルフェは今でも母を愛している。もうこの世のどこにもいない女性を今も想っているのだ。


 そんな彼の前に、娘であり……妹でもある、誰よりも愛する女性(ミュラ)に近い血を持ち、よく似たエウリが現れれば、どうしても面影を重ねてしまうだろう。


 それを責める事などできない。


「……あなたにエウリと呼んでほしいと願うのは、私の我儘ですね」


「それは違う」


 思いがけないほど強い口調でオルフェは言った。


「君は確かにミュラの娘だが、グレーヴス男爵夫妻の娘としても生きてきた。それを否定する事など誰にもできないのに……私は、そんな君を認められなかった」


「……それは、仕方ありません」


「今は亡くなった娘の身代わりではなく君自身を娘として愛しているグレーヴス男爵夫妻に対しても失礼だったな。……本来なら君の母親(ミュラ)に頼まれた私がすべき事をグレーヴス男爵夫妻はしてくれた。感謝してもし足りないくらいだのに」


「あなたがグレーヴスのお養父様(とうさま)やお養母様に負い目を感じる必要はないですよ」


 養父母は最初、亡くなった娘の身代わりとしてエウリを引き取った。


 エウリは過酷な生活(アドニス)に戻りたくなかった。


 養父母とエウリの利害が一致したから家族になったのだ。


 そもそも、いくら母が亡くなる前に頼んだとしても、実の娘でもないエウリを育てる義務などオルフェにはないのだ。


 オルフェが負い目を感じる必要などない。


 それに、何より――。


「グレーヴスのご両親に育てていただいて私は幸せでしたわ」


「君もグレーブス男爵夫妻を本当の両親のように思っているんだな」


「はい。最高の養父母(両親)です」


 オルフェの言葉にエウリは頷いた。


「勿論、私を産んだお母様も私にとって最高の母親です。私には最高の母親が二人いる。そう思っています」


 産んでくれた母と育ててくれた養母。


 どちらもエウリにとって最高の「母親」だ。


 養母が亡くなった娘の面影をエウリに見ていたように、エウリもまた養母に母の面影を見ていた。


 それでも、養父母と共に過ごしていくうちに、養父母がエウリ自身を娘として愛してくれたように、エウリもまた養母を養母として慕うようになったのだ。


「分かっているだろうが、グレーヴス男爵夫妻にとっても君は最高の娘だ。亡くなった娘の身代わりではなく君自身を娘として愛している。でなければ、あんな風に宰相(わたし)に食ってかかったりしない」


「食ってかかる?」


 養父母に対して遣うには相応しくない言葉だ。


 養母は母と同じく儚げでたおやかな女性で、養父は基本的に優しく穏やかな男性だ。


「基本的」というのは、それだけの男性ではないからだ。養父は商人として海千山千の人々を相手にしてきた。丁寧に接しながら結局は自分の都合のいいように運ぶ(したた)かさも持ち合わせている。優しく穏やかな夫であり父親というだけではない。


 それでも、宰相(オルフェ)相手に「食ってかかった」のは解せない。


 自分の子供達(エウリと義弟)を叱る時ですら決して声を荒げず教え諭す人なのだから。


「……お二人が、あなたに失礼な事を?」


「失礼な事ではない。娘を案じる親なら当然の行動だ」


 オルフェからは養父母に対する不快感は感じられなかった。


「……えっと、もしかして、私に内緒で、お二人に会ったのですか?」


 オルフェと再婚する事や結婚条件の事は勿論、養父母に伝えた。二人とも当然驚いたし最初は反対したが結局はエウリの意思を尊重してくれた。それで済んだと思い込んでいたのだが――。


「グレーヴス男爵夫妻から私に会いたいとパーシーを通して言ってきたんだ」


 オルフェは、そう言った後で取りなすように付け加えた。


「パーシーを怒るな。君には内緒でとグレーヴス男爵夫妻が言ったからな」


 オルフェが言うまでもなくエウリにパーシーを怒る気はない。親友であっても全てを教える義務はないのだから。


「……それで、お二人のお話は何だったんですか?」


 養父母が「エウリには内緒で」と言ったのに、オルフェは養父母との会話を打ち明けようとしている。それは、養父母が話していいと許可したからか、許可を得ずとも話すべきだとオルフェが判断したからなのか。


 ともかくエウリは養父母とオルフェの会話に興味があった。


「パーシーからグレーヴス男爵夫妻が君の出自を知っている事は教えてもらった。だから、私も話したんだ。君の母親(ミュラ)との係わりを」


 エウリは何となくだが養父母とオルフェの話の展開が読める気がした。


「……あなたが私をお母様の身代わりにするために結婚する。そうお二人は思ったのですね」


 だから、オルフェに食ってかかったのか。


「……ハークもそう思ったんだ。二人がそう思っても無理はない」


 特に、養父母は亡くなった娘の身代わりとしてエウリを引き取った。まず真っ先に、そう(・・)思うだろう。


「……実際は、身代わりなどよりも、ずっと酷い事を君に対して思っていたが」


愛する女性(お母様)の娘という眼でしか私を見れないという事ですか? 別に私は酷いとは思いませんが」


 情欲の対象にされるよりは、ずっといい。


「話し合いの結果、君と私が相愛にならない限り本当の意味での夫婦にはならない事、君が他の男と結婚したがったら円満に離婚する事、この二つが二人が出した結婚を許すための条件だった」


「……それは、ありえませんね」


 オルフェは今でも亡くなった母を愛しているし、何よりエウリがオルフェ以外の男性と結婚したがるとは思えない。


 養父母がエウリに女性としての幸福を望んでくれている事は知っていたが今も諦めてはいなかったのか。


「君に内緒で話し合ったのは不愉快だろうが」


「いいえ。お二人が私を案じてくださったのは分かりますから」


 エウリはオルフェの言葉を遮って言った。


「お二人ときちんと話します。あなた方が望んだような結婚ではないかもしれないけれど、私はちゃんと幸せなりますって」


 義弟から離れたいばかりに養父母とも距離を置いてしまった。


 結婚報告の時も義弟がいない時間を見計らって、さっさと報告して帰ったのだ。


 こんな娘など放っておいてもよかったのに心配して宰相(オルフェ)から話を聞こうと思ったのだろう。


「……私、あなたと結婚しても、お養父様やお養母様となるべく会うようにしますわ」


 義弟と縁を切りたいからと彼の両親というだけでエウリにとっても「両親」である養父母と距離を置くのは間違っていると、ようやく気づいた。


「ああ、そうしたほうがいい。本当に二人は君を心配していたんだ」


 オルフェは言った後、意を決した顔になった。


「私も君をエウリと呼ぶ事にする。ミュラの娘ではない君という人間を知ろうと思う。仮初めでも夫婦になるのだから」


「……オルフェ様」


 愛する女性(ミュラ)の娘。


 別段、オルフェにとってのエウリがそれだけの存在でも構わなかった。本当にそう思っていた。


 けれど、心のどこかで、ただ「愛する女性(ミュラ)の娘」、母の付属品のようにしか思われていなかったのは悲しかったのだと気づいた。


 何とも思っていない人間からなら、どんな感情を向けられても平気だ。けれど、好意を持った人からの嫌悪や無関心は堪える。


「……嬉しいですわ」


 エウリは誰もが見惚れるだろう綺麗な笑顔を浮かべた。












 







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