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母の最後の手紙

「私も君に話さなければならない事がある」


 そう言った後、オルフェはミュケーナイ侯爵家の自分の書斎にエウリを連れてきた。


 普段なら男性と二人きりという状況に恐れを抱くエウリだが今はそんな気持ちはない。オルフェは約束を守る人だと短い付き合いでも分かっているし、何より「この姿」だからこそ、彼はエウリに手を出せないのだと確信している。


 オルフェは本棚の手前の本をどかし、奥にしまっていた本から栞のように挟んでいた、いや隠していたのだろう鍵を手に取ると、やたら存在感のある大きな机の備え付けの引き出しの鍵を開け、中から寄木細工の箱を取り出した。


 オルフェが箱の面の一部、あるいは全面を様々な方向に動かす事五十四回、ようやく箱は開いた。


(あ、秘密箱だわ)


 養父が商談で東方の国に行った時のお土産で貰ったので、エウリは箱の正体が分かった。


 秘密箱とは東方の国で作られた施されている仕掛けを解除しないと開かない箱だ。


 主に貴重品を隠すのに使う物だが、オルフェが隠していたのは黄ばんだ手紙だった。


「これは、君の母親、ミュラが私に書いた最初で最後の手紙――遺書だ」


「……やはり、あなたは、お母様を知っていらしたのですね」


 オルフェの言葉にエウリは驚かなかった。予想していたのだ。


 エウリを最期まで愛し気にかけた女性など、彼女を産んだ母しかいない。


「でも、どうやって、お母様と知り合ったのですか?」


 母はフェニキア公国の大公宮の離れで幽閉同然だった。そんな母と、どうやって知り合ったのだろう?


「十八年前、私は公国の建国記念式典に帝国の使者として訪れた。外国からの客人に興味を持ったミュラは遠目から見ようと住まいにしていた大公宮の離れから奥庭にやってきて、一息つこうと式典を抜け出した私と出会ったんだ」


 オルフェはやるせない眼差しをエウリに向けた。いや、それはエウリではなく彼女に似た母に向けられたものなのかもしれない。


「君を産んだ母親、ミュラ・フェニキアは、私が唯一愛した女性だ。ミュラに似たミュラの娘だから傍に置きたかった。本当はハークの妻になってほしかった。私の叶えられなかった夢を私に似た息子に叶えてもらう事で、今も胸に巣食う虚しさを消してほしかったんだ。


 だが、それは、君にもハークにも、あまりにも残酷な仕打ちだったな。どれだけ似ていても、親子であっても、君達は私とミュラではないのに。……この苦しみも後悔も絶望も生涯私が抱えるべきものだったのに」


「……あなたの言いたい事が分かりません」


 どうやらオルフェは自らの心を覗くあまり傍にいるエウリの存在を忘れていたらしい。彼女の言葉に我に返った様子で手紙を差し出してきた。


「まずは、この手紙を読んでほしい。私に出された手紙だが、君が読むべきだと思い、ずっと持っていた」


 エウリが手紙を受け取る前に、思い出したようにオルフェが言った。


「ああ、そうだ。これは公国公用語で書かれている。読めるか?」


 万が一オルフェ以外の手に渡ったとしても内容を理解されないように、母は帝国公用語ではなく公国公用語で書いたのだろう。貴族や商人ならばともかく庶民のほとんどは外国語を学ぶ機会はないのだ。


 エウリは三歳まで公国にいたとはいえ、それから約十五年帝国で過ごしている。もう公国公用語など忘れているのだろうとオルフェは訊いてきたのだろう。


「はい。一応、商家でもあるグレーヴス男爵家の養女(むすめ)ですから」


 貴族や商人は教養として外国語は必ず習う。まして、商業が盛んなフェニキア公国の公用語。大多数の貴族や商人は学んでいるはずだ。


(……お母様の最後の手紙……)


 エウリは震える手で手紙を開いた。


 オルフェ以外の人間に読まれた時の用心のためか、「オルフェ様へ」という書き出しも「ミュラ・フェニキア」という署名もなかったが、その流麗で女性らしい筆記は、まぎれもなく記憶にあるままの母の字だった。





『何度も手紙を頂いたのに、返事を書かなくて申し訳ありません。


 貴方にこの手紙が届く頃には、私はもうこの世にいないでしょう。


 突然何を言い出すのかとお思いでしょうね。


 貴方が去った後、私の身に起こった忌まわしい出来事を書きます。


 本当は貴方にだけは知られたくない。けれど、書かなければ、あの子の事を説明できないので。


 体の弱い私を父はとても可愛がってくれました。……娘として愛してくれていると思っていたのに。


 貴方が去ったその夜、父が突然寝室に現れ、血の繋がった実の娘である私を無理矢理慰み者にしたのです。父は若く美しい女性が好きだった。私が貴方に恋心を抱いているのを知って許せず、今まで抑えていた欲望が爆発したらしいのです。


 そして、九ヶ月後、娘を産みアネモネと名付けました。私が一番好きな花の名前です。


 禁断の行為の結果であっても、地獄のような日々の中、あの子の存在だけが私の支えでした。


 娘を産んでもうすぐ三年、この弱い体でも何とか生きてきたけれど、それももう限界みたいです。


 私は、これから父を殺します。


 私にした事への復讐だけではありません。娘まで私と同じ人生を歩ませたくないからです。


 私に似た娘。今は幼いあの子に無関心な父でも、あの子が成長したら毒牙にかけるでしょう。そんな事は絶対にさせない。


 これは娘のためではありません。親殺しの言い訳に、あの子を遣ったりはしない。私は私のために父を殺すのです。


 お国に帰る前、私を好きだと言ってくださいましたね。


 けれど、どの宗教でも二大禁忌(タブ―)となる近親相姦と親殺し、それらを犯した私に対し、もう嫌悪しか抱けなくなったでしょうね。


 それでも、優しく高潔な貴方は、死に逝く者の最期の願いを無視する事もできないでしょう。


 それを分かっていながら、卑怯を承知で書きます。


 私の娘を、アネモネを、お願いいたします。


 私の主治医にアネモネを貴方の許に連れて行くように頼みました。


 アネモネを育ててくれとは言いません。ただ、あの子が自由に幸せに生きられるように力を貸して頂きたいのです。


 貴方を愛していました。私の最初で最後の恋でした。


 私のこの十八年の人生で愛したのは貴方と娘だけ。


 私が愛した二人、貴方と娘の幸福を祈っています』





「……お母様……」


 エウリの美しい瞳から真珠のような涙がこぼれた。ぽたぽたと手紙に落ちインクをにじませてしまうが、それさえ気づかなかった。


「……オルフェは様は、全てをご存知だったのですね。全てを知った上で、私の普通なら到底受け入れられない結婚条件さえ受け入れてくださったのですね」


 オルフェがエウリを愛していなかったからだけではない。彼女を通して母を見ていたからだ。母に頼まれたから傍に置く気になったのだろう。


「本当はハークと結婚してほしかった」


 そういえば、先程もそんな事を言っていた。


「私の『妻』となり傍にいれば、いずれハークを愛するのではないかと期待したんだ」


 これはアンが言っていた通りだ。


「私に似た息子とミュラに似た娘が結婚する事で、私の叶えられなかった夢を叶えてほしかった」


「……あなたの叶えられなかった夢とは、お母様との結婚でしょうか?」


「ああ。ミュラと出会った頃、私はすでに、(あれ)と結婚していたし、あれの腹にはハークが宿っていた。私の立場ならミュラを第二夫人に迎える事は可能だが……容姿こそそっくりだが、ミュラは君とは違う。あれに対抗できるとは、とても思えなかったし、私も母上も四六時中傍にいてミュラを守る事などできないしな」


(……オルフェ様、これと似たような事を以前、私に言ってなかったっけ?)


 ――君はミュ……いや、見かけよりずっと気丈な女性のようだから心配はしてないがな。


 求婚された時だ。「自分よりも若く美しい女性が夫の二番目の妻になれば、凄まじいい憎悪を向けてくるだろうから覚悟してくれ」と言われた時の言葉だ。


 あの時、本当は今と同じ言葉を言いたかったのだろう。(ミュラ)とエウリは容姿こそそっくりだが性格は真逆だと。


「……確かに、女性としてのお母様は、とても弱かったかもしれない」


 病弱だったせいか元々の性格か、母は儚げでたおやかな女性だった。オルフェの言う通り、とてもあの女に対抗できなかっただろう。


 だが、それでも――。


「あなたの知らない、私の母親としてのお母様は、誰よりも強い人でしたわ」


 自らの死期が間近に迫っているからこそ決断し行動できたのかもしれない。


 だが何にしろ、母は(エウリ)を守るために「あの男」を毒殺し、「あの男」の死体に火をつけ火事騒ぎを起こし、その混乱に乗じて主治医やエウリと一緒に大公宮を脱出したのだ。……それからしばらくして力尽きたのか、母は亡くなってしまったが。


 手紙で母は「娘のためではありません。私は私のために父を殺すのです」と書いた。


 けれど、母が何と言おうと(書こうと)、あれは(エウリ)のためだった。


 十五歳までは病弱だったため外出もままならず、(エウリ)を産んで亡くなるまでの三年は……「あの男」の「おもちゃ」として閉じ込めれた母。


 娘まで自分と同じ「あの男」の「おもちゃ」にされないように、自由に生きてほしいと願い、「あの男」を殺した。


 母に罪はない。真実人として許されない罪を犯したのは、母を苦しめ追い詰めた「あの男」だ。


「私とハーク様が結婚したとしても、あなたの夢は叶わない。私は、お母様ではないし、ハーク様も、あなたではないのだから」


 エウリは話を元に戻した。


「そうだ。その通りだ。だのに、私は君達が結婚する事で、過去の苦しみから解放されるのではないかと馬鹿な事を考えた。この苦しみも後悔も絶望も生涯私が抱えるべきものだったのに」


「……お母様を『あの男』から守れなかった事を仰っているのなら、あなたのせいではありません」


 フェニキア公国の前大公キニュラスは、エウリの生物学上の父親……そして、祖父でもある。


 その前大公の娘、庶出の公女だったミュラは、エウリを産んだ母というだけでなく……異母姉でもあるのだ。


 ……エウリは実の親子の禁断の交わりの末に産まれてきた不義の子供なのだ。


 帝国の現皇太后は前大公の妹。彼女が産んだ兄妹、現皇帝とオルフェの正妻だったあの女とは、いとこになる。エウリが「あなたとは血が繋がっている」と言ったのは、そういう訳だ。


「手紙が届いた後、君を捜した。だが、公式には存在していない君を捜す事は非常に難しかった。ハークから『アドニス』の話は聞いた。たくさん苦労をしたのだろう。すぐに見つけ出せなくて、すまなかった」


「オルフェ様が謝る事は何もありません」


 確かに、アドニスとして生きた過去を消し去りたいと思った事もあった。けれど、あの頃の自分を気にかけてくれた人達もいて、あの頃があって、現在のエウリになったのだ。


「何より、お母様の願いを叶えようとしてくれた事に感謝しています」


 手紙で一方的に頼んできたのだ。しかも、いくら愛する女性が産んだとはいえ自分の子ではなく、人として許されない行為の結果産まれてきた娘だ。オルフェが捜してやる義理などないのに。




















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