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唯一忘れたくない

 フェニキア公国。


 アルゴリス帝国とデモクラティア同盟国。その間にある大海原のほぼ中心に、かの国はある。


 国土こそ小さいが両国の中間地点である立地を利用し両国との貿易で栄えている。二国が戦争で対立していた時も中立を謳い両国と商業取引していた。


 フェニキア公国、エウリが三歳まで生まれ育った国だ。


 亡くなる前の母の望みで、アルゴリス帝国に行く事になった。なぜ、母がエウリを帝国に行かせたかったのかは分からない。母は何も語らず亡くなってしまったから。


 病弱だった母の主治医は、亡くなる前の母に頼まれ当時三歳のエウリを連れて帝国行きの船に乗った。だが、海賊に遭遇し主治医を含む、その船にいた男性達は残らず海に突き落とされた。その後、彼らがどうなったかエウリは知らない。


 その船に残ったエウリを含む女性や子供達は海賊によって帝国の帝都アルゴスに連れてこられた。思い描いていた方法とは違ったが母の望み通り帝国には来たのだ。


 その後、人買いの許に送られ、そこで同い年の「彼女」と出会ったのだ。





 放り込まれたのは、人買いの主の屋敷にある食物の貯蔵庫だった。


 そこには、たくさんの子供がいた。エウリのように、さらってきた子供を一時的に置いているのだろう。


 皆、しくしくと泣く中で、「彼女」だけが異質だった。


 己が不幸を嘆き悲しむ子供達の中で、彼女だけが乾いた目で、ぼんやりと宙を見ていた。


 エウリと同じ三歳で金髪に青い瞳。とても綺麗な幼女だった。


 その容姿以上に、幼子とは思えないほど醒めた眼差しをしていたのが印象的だった。


「なあ、一緒に逃げないか?」


 エウリは帝国公用語で、なるべく男の子らしい言葉遣いで彼女に声をかけた。この時エウリは髪を短く切り少年の恰好をしていたのだ。


 フェニキア公国は商業取引で栄えている国だ。公私ともに様々な言語が飛び交っている。


 特にエウリを帝国に行かせたがっていた母は主に帝国公用語で会話していた。母以外の人間と話す機会がさほどなかったためエウリは公国公用語より帝国公用語のほうが得意だ。


 声をかけたエウリ、いやアドニスに、彼女はだるそうな視線を向けた。


「逃げる?」


「ここにいる奴らは足手まといにしかならなそうだが、君なら役に立ちそうだから」


 本当に一緒に逃げようと思った訳じゃない。


 いざとなれば、彼女を囮にして自分だけ逃げるつもりだった。


 ――自由に生きて。


 母の最期の言葉、願いを叶えるためなら、誰を踏みつけにしてもいいと、この時のエウリ(アドニス)は本気で思っていたのだ。


 幼いエウリにとって母は世界の全てだった。もうこの世のどこにもいなくなったとしても、母の言葉は絶対だ。


 母が「自由に生きて」とエウリに望むのなら、どんなにつらい目に遭ったとしても自由に生きなければ。


「……逃げる、ね」


 彼女は微笑んだ。幼い子供が浮かべたとは到底思えない嘲りに満ちた微笑だった。


 最初は、いざとなれば彼女を囮にして逃げようという思惑を見抜かれたのかと思った。


 だが、違った。


 彼女の嘲笑はアドニスにではなく自分自身に向けられていたものだったのだ。


「逃げてどうなる? どこにいても同じだ。何も変わらない」


 彼女はアドニスの思惑を見抜いたのではない。


 彼女は全てを諦めきっているのだ。


 こんな所に放り込まれたせいなのか、別の要因なのか。


 まだ幼いのに、彼女は、もう自分の人生に見切りをつけている。


「……そうかもしれない。でも、わた……おれは、自由に生きなきゃいけないんだ。それが、お母さまの最期の願いだから」


 彼女は不思議そうにアドニスを見ていたが、やがてこう言った。


「君が逃げようとしている事を奴らには言わない」


 奴らとは、ここに放り込んだ子供達を見張っている人買い達の事だろう。


「でも、君が逃げるのにも手は貸さないからな」


 そう言っていたのに――。





「君は自由に生きるんだ!」


 ――あなたは自由に生きて。


 母と同じ色の髪と瞳。それしか共通点のない彼女が母と同じ言葉を叫んだ。


 隙を見て逃げようとしたが、あやうく捕まりそうになったアドニスを彼女が助けてくれたのだ。


「逃げるのに手は貸さない」そう言っていたのに。


 貯蔵庫に積んであった小麦粉をばらまき人買い達の視界をかく乱させると、彼女はアドニスの手を引き混乱しているその場から連れ出したのだ。


 二人で走って、走って、貯蔵庫からだいぶ遠ざかると、彼女はアドニスの手を放した。


「ここまで来れば大丈夫だろう。気をつけて。もう二度と人買いなんかに捕まるんじゃないぞ」


「え? 君は、どうするんだ?」


「戻るよ」


 当然のように言う彼女にアドニスは驚いた。アドニスの逃亡に手を貸したのだ。戻ったら、ひどい目に遭うのは確実だのに。


「言っただろう? どこにいても同じだって。でも、君なら、きっとどこでだって自由に生きられる。わたしとは違うだろうから。


 それに、わたしだけでも戻れば、奴らは君を追わない。男の子より女の子のほうが高く売れるしね。でも」


 彼女はくすりと笑った。アドニスが初めて見た彼女の子供らしい表情だった。


「君、男の子のふりをしているけど、女の子だよね?」


 どうやら最初から見抜かれていたらしい。


「……うん。男の子でいるほうが安全だろうからって、お母さまが」


「そうか」


「男の子の時の名前はアドニスだけど、本当はアネモネっていうの。それが、お母さまが名付けてくれた、わたしの名前。あなたの名前は?」


 初めてアドニス、いやアネモネは名乗った。今まで誰かに名乗る必要がなかったのだ。


「わたしの名前は――」





「……お分かりになったでしょう? 私がどんなに卑劣で卑怯な人間か」


 エウリは呆然と自分の話を聞いているハークに自嘲の笑みを向けた。


「私は、いざとなれば彼女を囮にして逃げようとしたのに、彼女はそんな私を助けてくれたんです。そればかりか人買いの許に戻るという彼女を止めなかった」


 ――どこにいても同じ。


 彼女の絶望に満ちた眼に何も言えなかったのというのもある。


「その事を、ずっと後悔してた。一緒に逃げたとしても彼女の言う通り『どこにいても同じで、何も変わらい』かもしれない。それでも、あんな所にいるよりは、ずっとよかった。どんなに大変でも二人で助け合って生きればよかったのに。あの時の私は自分の事しか考えてなかった」


 彼女と助け合って生きるという考えが浮かばなかった。幼いエウリにとって母が世界の全てだった。母以外の誰かと生きるという考え自体が思いつかなかったのだ。


「憐れみからでも、あなたは私に食べ物をくれた。自分に優しくしてくれた人を見捨てて逃げれば、私は彼女の時のように後悔しただろうから。


 だから、あなたと一緒に逃げたのは、あなたを見捨てられなかったなどという優しさなんかじゃない。彼女を見捨てて逃げた罪悪感を少しでも減らしたかった、自分のためです」


「アドニス」は、エウリは、ハークが思うような「根は悪い子ではない」などではないのだ。


 助けてくれた彼女を見捨てて逃げた卑怯で卑劣な人間なのだ。


 十四年も経っている。きっとハークの中で「アドニス」との思い出は美化されているのだろう。


 今のエウリの話を聞いて幻滅してくれればいいのだ。


「どんな想いからでも、君は私を見捨てず一緒に逃げてくれた。それで、充分だよ」


 ハークの言葉に、エウリは信じれないという顔になった。


「……私の話、ちゃんと聞いてました? 


 私は母の最期の言葉を守るためなら、誰を踏みつけにしてもいいと本気で考えて、彼女を本当に踏みつけにしたんですよ。


 私が『自由に生きる』ために、お母様の最期の言葉を守るために、誰かを犠牲にしていいはずがない。そんな風に生きても何の意味もないのに」


「……母親以外は恵まれた私が、こんな事を言えば君は怒るだろうが、幼い君がたった一人で生きるには、そうするしかなかったんだろう。


 それに君が言う『彼女』は自分から人買いの許に戻ったんだろう。それをずっと後悔して、私を見捨てず一緒に逃げてくれた。君が罪悪感を抱く事はないんじゃないか?」


「……確かに、人買いの許に戻った事は、彼女にとってはよかったんです。あの後、彼女は、とてもいい方に引き取られて幸せに暮らしているから」


 だが、それは結果論だ。


 エウリが彼女を見捨てて逃げた事に変わりはないのだ。


「彼女と再会できたのか?」


「はい。今も幸せに暮らしていますよ」


 かつて「どこにいても同じで、何も変わらない」そう醒めた眼で言っていた幼女は、叶わぬ恋に苦しんでも「あの方の許で働ける。それだけで幸せなんだ」と言い切る強くて美しい女性になった。


「そうか。よかったな」


 心からそう言ってくれてるのが分かる。


 ハークは容姿だけではない。中身も父親(オルフェ)に似ているのだ。オルフェは常に無表情だけど、彼は感情が表に出やすい。それだけの違いだ。


 こうやってちゃんと向き合えば、ハークも父親(オルフェ)同様、優しい人だと分かるのに。


 そうでなければ、出会い頭に食べ物を奪った子供に気前よく奢るはずもないが。


 だからこそ、自分への恋情など消滅してほしかった。


 これだけ美しく優しい男性なら、エウリのような容姿以外取り柄のない女などよりも、もっと相応しい女性がいくらでもいるのだから。














 















 























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