第三章:書架と鈍色の寂寥
いつも通り昼食前に一通りの掃除を終えたヘーゼルが用具を片付けていると、相変わらず冷たい目をしたアンが威圧的な空気を纏いながら、真後ろに立っていた。
用件はウィルフレッドが部屋で待っているとのことで、速やかに片づけを済ませたヘーゼルは、小走りでウィルフレッドの元へと向かった。
扉をノックするとすっかり聞きなれた声が「入ってくれ」と入室を許可した。
「失礼いたします」
落ち着いた動作で足を踏み入れたものの、ウィルフレッドの部屋に入るのは初めてで、当然のことながら緊張はしていた。
「あぁ、すまないな。急に呼び出して」
「いえ、大丈夫です。掃除も一区切りついたところだったので。それで、御用とは……?」
「用と言うか、見てもらいたいものがあってだな」
手招きをするウィルフレッドの後に続いて、部屋の隅にある扉をくぐり抜けた。
真っ暗な空間に満ちた埃っぽさに軽く噎せたが、灯りが付いた途端、ヘーゼルの表情は花が咲いたように明るくなった。
「本がたくさん……わぁ……すごい!」
部屋自体が円柱になっているようで、高さはヘーゼルの背丈の倍はありそうだ。天井には夜空を彷彿とさせる絵が描かれており、床には芝生のような色をした絨毯が敷かれている。
そして壁一面にはギッシリと本が詰められ、ヘーゼルの胸は躍った。
無邪気に喜ぶその様子にウィルフレッドも思わず口元が緩んだ。
「掃除が終わった後にでも好きに読んでくれ」
「……ここにあるの全部読んでいいのですか?」
ヘーゼルの問いかけに勿論だ、と答えると、更に目を輝かせた。
「本当に本が好きなんだな」
「はい……!とっても……あっ、すいません……子供みたいにはしゃいでしまって」
シュンと俯くヘーゼルの頭に、骨ばった指が触れた。
焦げ茶色の髪が乱れるのも構わず、まるで犬にするようにわしゃわしゃと撫でた。
「好きなものに熱心になれるのはいいことだ。何だかこっちまで楽しい気分になる。」
「それは、良かったですけど、子供扱いしないでください……!」
ヘーゼルが抗議しても、ウィルフレッドは暫く頭を撫で続けていた。
それからというものヘーゼルの退屈は読書のお陰で無くなっていった。
朝は日の出とともに起きて、朝食をとり、間もなく屋敷中の掃除を開始する。昼食を挟み、貴族が菓子と紅茶を味わう時間には掃除を終えて、本の世界に浸っていた。
その背中に、まるで親が子を見守るような柔らかな視線を向けていた。
「……いつまでこんな茶番を続けているおつもりでしょうか」
乾いた洗濯物を抱えたアンが、すれ違いざまにウィルフレッドに声をかけた。
その言い方は質問ではなく、どちらかというと叱責に近かった。
「さあ、いつまでにするか」
「とぼけないで答えてください」
鬼気迫るアンに一瞬たじろいだが、すぐに持ち直し、こう返した。
「彼女が死ぬまで、とか」
「なっ……」
衝撃的な返答に開いた口が塞がらない。
そんなアンの反応を見て悪ふざけが過ぎた、と反省したのか、
「冗談だ。ただ、何となく目が離せなくなってな……」
遠くを見るような目は哀愁を帯びており、アンの中にある不安をより一層膨らませた。
しかし尚も厳しい姿勢を崩さず、
「貴方が見ているのは彼女そのものですか?それとも、過去の後悔に重ねて憂いているだけ?……いずれにしても、利用するだけなら可笑しな情を持って接するのはお止めくださいな」
と忠告し、その場を去って行った。
それは耳にも心にも刺さる、ウィルフレッドにとって痛い言葉だったが、だからといってその解決策が見出だせる訳でもない。
「……自分の望みと現実は、いつだって乖離しているな」
心なしか、ヘーゼルとの距離が遠のいた気がした。
空が薄暗くなり、ようやくヘーゼルの意識が現実に向いた。
いつも本の世界に入り込みすぎて、時間を忘れてしまう。
読了した本をパタリと閉じると、食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。
「本を読むのもいいが、食事の時間は忘れないようにな」
「うっ」
閉じたばかりの本は、いつの間にか背後に立っていたウィルフレッドに没収されてしまう。
妙な呻き声を聞かれ赤面しながらも、ウィルフレッドの後をついていき、無駄に広い食堂に入る。
長方形の真っ白なテーブルクロスが掛けられたテーブルの周りには、計十二席あるが、今現在座る者は限られているため、扉付近の椅子はヘーゼルが来てからは一度も動いていない。
窓際の、革張りのやや豪奢な主人用の椅子にウィルフレッドが腰掛け、そこから見て左斜め前の椅子にヘーゼルが座った。
そして今日は珍しく私服に着替えたアンも、ヘーゼルの目の前に座った。
卓上には数種類のスパイスに漬けて皮がパリパリになるまで焼かれた鶏肉、角切りのトマトや葉野菜がたっぷり入ったスープ、綺麗な三日月型のクロワッサンが並んでいる。
本来ならもっと食事作法を重んじなければならないが、咎める者もいないこの屋敷でいちいち気にすることもないだろう、とウィルフレッドが許しているため、いつも食前の挨拶を済ませ直ぐに匙をとる。
ところが今日はその前に話がある、と背筋を伸ばし、ヘーゼルとアンの眼を交互に見た。
「わざわざ時間をとらせて申し訳ないが、知らせておかなければならないことがある」
「……妙に改まって、何か問題ごとでも?」
この屋敷に長く勤めているであろうアンでさえ訝しげに訊ねていた。何も事情の分からないヘーゼルは、ウィルフレッドの口が開かれるのをただ静かに待つしかない。
「そうだな、ある意味では問題ごとかもしれない。……実は用事があって、暫く屋敷を空けなければならなくてな」
沈黙が温かい食事を冷却しそうな勢いで、どっ、と押し寄せる。
ヘーゼルの記憶の中では最も信頼における人物であり、そのウィルフレッドがすぐ傍に居ないという状況は、不安以外の何物でもなかった。
アンの眼も大きく見開かれて、澄んだ空を映したような瞳が揺らめくようにも見えた。
「暫くって……どのくらいかかるのでしょうか?」
不安を気取られないように、平静を装いつつ訊ねたが僅かに語尾が震えた。
心配をかけてはならない、と頭では分かっていても挙動の端にヘーゼルの感情が、本人の意思に反して現れていた。
「一週間程で戻る。だが、色々と気がかりなこともあるからな、できるだけ早く帰って来られるよう努める」
「一週、間……」
なんだ、それくらいじゃ「暫く」なんて言わないですよ。
そうやって笑い飛ばすつもりの筈が、上手く笑えない。
暗い表情のまま固まって動かないヘーゼルに、何か言おうとしたウィルフレッドを鋭い声が遮った。
「暫くというほどでも無いですね。留守は私にお任せください」
「……ぁあ、よろしく頼む」
そして今度は先程よりも攻撃力の高そうな声が、ヘーゼルの耳を貫く。
「貴女にはその間、今より多くの仕事を仕込みます。ボサッと読書する時間はありませんので、そのつもりで」
「え………っ!?あっ、はい!」
視線を上げると糸のように細められたアンの目が、ヘーゼルを射抜くように見つめていた。
不安や恐怖よりも、アンと二人きりになる緊張感がヘーゼルの心を覆う。
「がっ、頑張ります……」
「声が小さいですね。やる気あるんですか?」
「頑張ります……!!」
いつにもましてアンの態度は厳しかったが、ウィルフレッドにとっては頼もしい存在だった。
「それじゃあ、留守中は仲良く頼むよ」
と、言ったものの関係良好とはいかない光景に、ウィルフレッドも苦笑いで誤魔化すしかなかった。