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第二章:青空の街並みと見えない闇

 ヘーゼルの記憶は回復の兆しを見せることなく、相変わらず淡々とした日々を過ごしていた。

 あの一件以来アンはヘーゼルの前に姿をほとんど現さなくなり、互いに気まずさを抱えたままだった。それでもヘーゼルは屋敷中の掃除を任されるようになり、ある意味では進歩したとも言える。

 アンとはもともと顔をあわせることが少なかったため、気にしないようにしよう、とヘーゼルは自分に言い聞かせて曖昧に済ませることにした。

 朝食を済ませ、休む間もなくデッキブラシを手にバスルームへと急ぐ。

 水で濡らした床を手際よくこすって汚れを落としていく。この土地のこの、季節の午前は、日が昇っていてもそれほど気温は高くない。

 冷たい水が白い素足にかかる度に、ヘーゼルは小さく声をあげた。

「やっぱり、冷たいなあ……」

 そう零しながらも手を休めることはない。後ろに少しずつ下がりながらデッキブラシを這わせるヘーゼルの右足がぬるりとした感触を捉えた。

 つるん、と飛び出した石鹸は床を走り回り、バスタブの足の影にそっと隠れた。その直後。

「えっ、あ、あっ!?ひゃあああっ!?」

 壮絶な衝撃が周囲に伝わったのは言うまでもない。



 ヘーゼルが転ぶ数分前。

 ウィルフレッドは自室のソファーに座り、新聞紙に目を通していた。ヘーゼルに淹れてもらった紅茶を舌の上で転がしながら、ぎっしりと詰まった文字に目を走らせていく。

 その面持ちは決して明るいとは言えない、寧ろ深刻な悩みでも抱えているようにも見える。

 人前では絶対に吐かない溜息を幾度もして、気が滅入るような記事が内側になるように折った。

 パサッ、とテーブルの上に新聞紙を放り捨てて、窓を徐に開く。溢れんばかりの大量の本が蓄えた湿気た匂いと、埃っぽい空気が光に向かって逃げていく。

 代わりに流れ込んできた新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、気持ちを落ち着かせる。僅かに軽くなった心で座り直そうとした、その時だった。

「えっ、あ、あっ!?ひゃぁ……」

 ドスン!ガラガッシャン!という衝撃音とともに、最近ようやく耳に慣れた声が階下から聞こえてきた。

 この部屋の真下はバスルームになっている。

 バスルームの掃除をしている最中にヘーゼルが転倒した、というのは簡単に推測できた。

「……大丈夫か?」

「っ!?」

 すぐさま様子を見に行き、声をかけたウィルフレッドに対して、ヘーゼルはばつの悪そうな顔をした。

「す、すいません……騒々しく……」

「いや、それより怪我はないか?」

「はい、大丈夫です」

「それならいいが……」

 ふとヘーゼルの足元に目がいった。

 時代がめまぐるしく変化していても、レイヴァース家の使用人の服装は代々受け継がれていってる。足首まである長いスカートもその一つで、今のヘーゼルのようにバスルームの掃除をするには言うまでもなく不便だ。

 掃除前にヘーゼルは、スカートの裾を捲り上げ、更に紐でその部分をしっかりと縛った。

 白く滑らかな曲線を描く両足は無防備に晒され、跳ねた水の粒がスゥと伝い落ちるのが見えた。

 が、ウィルフレッドが気にしているのはそのことではなかった。

 太ももの部分の布が濃い色になり、且つピッタリと張り付いている。

「早く着替えないと、風邪ひくぞ」

「う」

 先程からウィルフレッドに背を見せないように立っているのも、それ故だったらしい。

 ところが、一向にヘーゼルは着替えに行こうとしない。

 ますます顰めっ面になっていく焦げ茶色の髪の少女に、催促した。

「……着替えないのか?」

「えっ、と……そうしたいのはやまやまなんですけど」

「どういうことだ」

 曖昧な言い方に、ウィルフレッドも困り果てる。

 そんなに答えづらい理由なのかと考え込んでいると、意外な人物が助け舟を出した。

「着替えがもう無いのですよ。近頃は雨続きで、ほとんどが湿ったままでございます」

 そう淡々と告げるアンは、若草色のワンピースと同色で日除け用の帽子を抱えていた。やたらと嵩が増しているので、その間には下着類も入っているのだろう。

 ヘーゼルからデッキブラシを預かり、代わりに持ってきた衣類を手渡す。

「あー……すまない。すっかり忘れていた」

 必要なものは後日買いに行く、と自ら言って何日経ったのだろう。

 ヘーゼルも居候の立場で自分から言い出すことができなかったようで、居心地の悪そうな顔をしている。

「今からでも日暮れ前には帰ってこられるでしょう。留守は私わたくしが預かります。……貴女も早く着替えてきたらどうですか?」

 相変わらずの態度でアンに促され、慌てて着替えのためにその場を離れる。

 去り際にアンにお礼を言ったが、特にこれといった反応もなく、ウィルフレッドが見たヘーゼルの背は何処か寂しげだった。

「……そろそろ普通に会話すればいいじゃないか」

「余所者なんて信用できません」

 つっけんどんな言い方に、ウィルフレッドの悪戯心が疼く。

「とか言いつつ、この間のこと謝れずに気にしてるんだろう?」

「な……!」

 どうやら図星だったようで、珍しく動揺した様子を見せている。

「貴方こそ、一体何をお考えですか?あの者を此処へ置き続けるのは……」

「もう、察しはついているんだろう?」

「……」

 いつもと変わらぬ微笑の筈なのに、その裏には別の感情がべっとりと貼り付いているようだ。

 それ以上訊くことはせずに、アンは出掛ける二人の背を黙って見つめていた。



 屋敷の周囲は木々に覆われ、通る道と言えば獣道くらいしかないことに、ヘーゼルは驚いていた。

 なんの目的があってこのような場所に足を踏み入れたのか。

道に迷うのを分かっていても訪れた、過去の自分をきつく叱りたいところだが、ウィルフレッドに心配をかけるわけにはいかない、とグッと堪える。

「広い道まで出られれば、馬車が頻繁に往来している。足元に気を付けて、焦らずに行こう」

「は、はい」

 ここのところ天候がぐずついているせいで、地面の状態は最悪だ。

 アンがそれを考慮して踵の低い靴を選んでくれたようだが、靴底全体が容赦なくぬかるみにめり込む。

 不安定な足取りを見ていられなかったのか、すかさずウィルフレッドが、華奢なヘーゼルの手をとった。

 男にしてはやや線の細い身体つきに見えるが、やはりヘーゼルと比べると圧倒的に逞しい。

 骨ばっている指に絡められた手から感じる安堵感に身を委ね、着実に歩みを進める。

 馬車に乗り込むまで互いに手を握り続けていることに気付かず、そのことに先に気付いたヘーゼルは慌てて手を引っ込めた。

「す、すいません…!」

 俯き、前髪の隙間からのぞく顔は真っ赤で、ウィルフレッドはヘーゼルの心を解そうと、

「そういう『感情』はちゃんと覚えてるんだな?」

と、茶化した。

「そんなに幼稚じゃありません!」

 耳まで赤くなったヘーゼルに「からかって悪かった」と素直に誤ると、それ以上怒ることはなかった。

 樹木の生える間隔が段々と広くなり、開けていく景色に伴ってヘーゼルの心も開放的になっていく。

「わあ……!」

 赤褐色の屋根が立ち並び、頭二つ分飛び出ている時計塔が遠くからでもよく見える。

 緩やかな下り道を走り続けた馬車は、ヘーゼルが景色に夢中になっている間に、街の入り口を抜けていた。

 馬車専用の乗降場から商店街までは大した距離がないということで、散歩がてらゆっくりと歩いて行くことになった。

「人がたくさんですね」

「そうだな。あまり人混みは好きではないが、誰かとこうやって歩くのは良いものだな」

 感情がはっきりと表に出る性格ではないウィルフレッドだが、今は楽しそうな気持ちが、隣を歩くヘーゼルにも伝わっている。

「普段はこういった場所に来ることって……?」

「言われてみれば、半年に一回くらいしか来てないな……。食品や生活雑貨は定期的に届くようになっているから、わざわざ足を運ぶ必要がないだけだがな」

 だから今日は一緒に来ることができて嬉しい、とウィルフレッドはとある店の前で足を止めた。

 広い背中の陰から店の中を覗くと、ヘーゼルと同い年くらいの少女が流行りの服を買っているところだった。

 花畑を彷彿とさせるような明るい色とフリルやレースの付いた可愛らしいデザインに、ヘーゼルの表情は固まっていたが、ウィルフレッドの止とどめの一言で腹をくくるしかなくなった。

「その見た目で地味な服を着るとかえって目立つぞ?」

「……どういう意味ですか?」

「そのままの意味だが。年相応のものを着ろということだ」

 言い分は理解できたが、ヘーゼルにとっては戦慄するほどの値段ばかりが目に留まったため、躊躇なく首を縦に振ることはできなかった。

 せめて店を変える提案をしようと、一歩踏み出したそのときだった。


――たまにはこういうの似合うんだから、買えばいいのになぁ……。


 頭の中で響いたその声は、ヘーゼルの記憶にはない女性のものだった。

 海のさざ波のような心地良いその声音に、不思議と懐かしさがこみ上げ、何もない空間に問いかける。

「誰……なんですか?」

「……どうした?」

 傍から見ればただの独り言だが、ヘーゼルにとっては記憶を取り戻すきっかけだ。

 その目は真剣そのもので、見えない答えを必死で探しているようだった。

「此処へ来たことが、あるかもしれないです」

「……思い出したのか?」

 思い出した、と言うにはあまりに断片的すぎるため、ヘーゼルは徐に首を横に振った。

「でも、手がかりにはなったかもしれないです」

「……そうか。記憶の方も、収穫があって良かったな」

「はい」

「さて、買い物再開だな。帰りが遅くなったらアンに叱られてしまう」

 お腹の前で握りしめたヘーゼルの左手の拳を取り、ごく自然に互いの指同士を絡ませた。

「さあ、行くぞ」

 ぼうっと立ったままのヘーゼルを軽く引っ張り、商店街の奥へと進んでいく。

「だ、だから私は子供じゃないですってば……!!」

 これでヘーゼルの顔が赤くなるのは本日二度目となった。



 木々の隙間から黄昏の空が見える。

 屋敷に辿り着いたのは、本当に日が暮れる直前だった。

 手を繋がれる度に騒ぐほど異性との接触に慣れていないヘーゼルだったが、怪しげな空気漂う森に一抹の恐怖を感じたのか、ウィルフレッドの服の袖をぎゅっと握り締めたまま、エントランスホールに入った。

「もう大丈夫だぞ」

「……っ!すいません……!」

 またやってしまった、とヘーゼルは真っ赤になった頬を抑えながら、下を向いてしまう。

「お帰りなさいませ」

 まさに神出鬼没という動きで、いつの間にか目の前まで来ていたアンが、ヘーゼルから帽子を、ウィルフレッドからは上着と荷物を預かった。

「随分と……まぁ」

 嵩張る紙袋を見て声を漏らしたアンに、誰もが羨む整った目鼻立ちが歪んだ。

「いや、その……すまない。さすがに買いすぎたな……」

「全く……」

 こうして見ていると主従関係が逆転しているように見える。

 ヘーゼル以上に服選びを楽しんでいたウィルフレッドは、値段も見ずに次々と買い、最終的にここまで荷物が膨れ上がってしまった。

 ちなみにその間ヘーゼルは、目の前を流れていく貨幣の枚数に卒倒しかけていた。

「……まあ、衣類も消耗します故、替えがあるに越したことはないでしょう」

 これ以上主人を責めるのも心が痛むのか、アンはそれだけ言い残し、預かった荷物を片しに行った。

「……みっともないところを見せてしまったな」

 苦笑いを浮かべるウィルフレッドだったが、ヘーゼルは寧ろ意外な一面を見ることができて新鮮な感じがする、と言った。

 その途端、悲しげに下がる眉尻がやや上を向いた。

「……ははっ、やはりヘーゼルは変わり者だ。勿論、いい意味で」

「どういうことですか?」

「人とは違う見方ができる、ということかな」

「記憶がないからですよ」

「そうだとしても、生来の性格が変わる訳ではないだろう?きっとたくさんの人間から好かれていたのだろうな」

「そう、でしょうか」

 もしも誰かに好かれていたならば、愛されていたならば、自分のことを捜してる誰かが未だに訪れないのは何故なのか。

 そんな感情が、ヘーゼルの内側からじわじわと溢れ出る。

 ヘーゼルは屋敷で目覚めてから今日まで、ずっと一つの疑問を抱えていた。

 どうして自分のことをこんなにも思い出すことができないのか。

 そしてあるひとつの仮定に辿り着いた。

「私は……好かれるどころか、憎まれたり嫌われていたかも」

「え?」

 ウィルフレッドにとっては突拍子もない言葉に、少々間抜けな声を漏らす。

「いえ……そんな気がしただけです」

「突然、どうしたんだ?」

 いつも以上に思いつめた様子のヘーゼルを心配し、徐に歩み寄った、その時。

 必要以上に広いエントランスに、コンコンと扉を叩く音が反響した。

「……もう日も落ちているのに」

 命知らずな客人だ、と思ったヘーゼルの目に映るのは、今まで見たことがないほど険しい表情のウィルフレッドだった。

「……ウィルフレッド様?」

 恐る恐るかけたその声は、僅かに震えていた。

「っと、すまない。招かれざる客人が来たようで、どうしたものかと考え込んでしまった」

 微笑む後ろでは、未だ扉が音を立てている。

 コンコン、コンコンコン、と初めのうちは控えめだったノックも次第にゴン、ゴッ、ゴッゴッゴッ、と鈍いものに変わっていった。

「ひっ……」

 最終的に扉を何度も殴打されていることに気づいたヘーゼルは、小さく悲鳴を上げた。

 身体が硬直しその場から一歩も動けないヘーゼルの身体を包み、耳元で囁いた。

「目を閉じて、耳を塞いでいろ。その間に、終わらせておく」

「は、はい」

 抽象的な言い方に当然ながら疑問を感じたが、恐怖で質問どころではなかった。

 ヘーゼルは言われた通りにし、真っ暗で音が遠い世界の中でじっと待った。

 それはまるで、なかなか過ぎ去らない嵐の中に取り残されたように、孤独だった。

(この気持ち……前にも)

 方角も分からない森の中で一人泣き喚く声と、鬱蒼と生い茂る木々の様子が、ぼんやりと蘇る。

 あの時何があったのかまでは思い出せないが、それでいいと思った。

 思い出すことで苦しくなるのなら、いっそ無かったことにしてしまいたかった。

「どうせ、一人だもの……」

 無意識に溢した呟きはコロコロと転がるように、ウィルフレッドの元へと辿り着く。

「そんな寂しいことを言うな」

「……っ」

 耳を塞いでいた両手を握り、宛もない呟きに真剣な目で応えた。

「ヘーゼルの昔のことは知らない。知る術も無い。だが、その必要もないと思うんだ」

「どう、してですか」

「少なくとも、今目の前にヘーゼルが俺の知るヘーゼルだからな。」

 熟した林檎のような色をした瞳が、笑むことでスッと細くなる。

「俺の知るヘーゼルには、ウィルフレッドという友人がいる。……これでは納得できないか」

「あ……」

 何でもそつなくこなしてしまいそうなウィルフレッドだが、その動作や言葉はよく観察していると少々ぎこちない。

 ヘーゼルの顔色を窺う、不安げな青年がしようとしていることは何となく予想がついた。

「あの、ありがとうございます」

「ん……?」

「励ましてくださって……すいません、楽しくない話ばかり」

「何を言ってるんだ。喜怒哀楽全てが君の感情と記憶なんだ。楽しい話だけでできている訳じゃないだろう」

「……はい」

 布に水が染みるように、ウィルフレッドの言葉はヘーゼルの中に不思議なくらい浸透していく。

 納得がいかないことも、ウィルフレッドを介せば多少は理解できそうだった。

「あの、『お客様』は……」

 扉を穿つように殴っていた『招かれざる客』が気になり、ヘーゼルは恐る恐る訊ねた。

「『客』といっても吸血鬼の客だ。追い払っておいたからもう大丈夫だ」

 稀に屋敷にかけられた守りが効かない奴もいるんだ、と溜息をついているが、今日まで吸血鬼の存在を認識していなかったヘーゼルからすると、その守りはかなり強固に思えた。

「それにしても……どうやって追い払っ……」

 気になるその方法を質問しようとした、ヘーゼルの唇が骨ばった指に塞がれた。

「秘密、だ」

 あまり教えたくないやり方なんだ、と言われてしまったため、それ以上訊くことはできなかった。

「とにかく、こういうことがあっても屋敷の外に出なければ、問題ない。……まあ、周りを彷徨いていると思うと気味が悪くなるだろうが……」

「……大丈夫です。このくらいでいつまでも怯えている訳にはいきませんから」

 根拠はないが、少なくともウィルフレッドの側はこの森の中で一番安全な場所に思えた。

 今のウィルフレッドに抱いている感情は、まるでこの世に産み出されて初めて親の姿を見て、親と認識するようだった。

 その他に味方を知らない。だから、今知っている人物に最上の安心感を覚える。

 ましてや、非の打ち所のなさそうな青年であれば、ヘーゼルが気を許すのも無理はなかった。

「さ、疲れただろう。もうできているようだし、夕食を頂こうか」

「はい」

 食堂から漂う香ばしい香りで肺を満たし、ヘーゼルは僅かに残っていた不安に目をつむった。



 その後は部屋に戻るよう促され、 ヘーゼルはその夜、いつもより早くにベッドに入った。

 しかし眠ろうと意識すればするほど目は覚めるもので、時計の規則的な秒針がそれを告げていた。

 むくりと体を起こし、テーブルの上の水差しで喉を潤す。

「いつの間にか寒くなったなぁ……」

 ヘーゼルがここを訪れてからひと月も経っていないが、青々としていた葉の色は段々と鮮やかさが抜けて、季節の変化を静かに告げていた。

 指先を擦り「はぁ」と息を吹きかけるが、それだけで暖かくなる訳もなく、ますます身体の末端が冷えていくだけだった。

 そろりそろり、と足音をたてずに広い居間へと向かった。

 灯りを点けると真っ先に暖炉が目に入ったが、まだ使うほどの寒さではない、とグッと堪える。

 次にヘーゼルの目が留まったのは小さな棚に綺麗に並べられた本だった。

 与えられた部屋に置いてあった本の多くはどうやら以前読んだことがあるらしく、タイトルを見ただけでその内容が頭に浮かんだ。そうではない本も気が付いた時には読了していたため、こういった状況で時間を潰すものがなくなってしまった。

 そんなとき、居間の掃除をし、そこに少しばかり本があることに気付いた。

 なかなか読む機会がなかったため今日まで我慢していたが、どうやら読書好きの性分らしく、無意識のうちに棚から一冊抜き取っていた。

「『どろぼううさぎのこども』……」

 囁くような声でタイトルを読み上げ、表紙を開く。

 少し湿気た臭いとともに目に飛び込んできたのは、単純な文章で書かれた物語だった。

 薄さからしても子供向けの絵本だということは明らかで、題名から漂う不穏な展開を忘れて、楽しい気分で読み進めようとした、その直後。

「わっ」

「ッ!?」

 肩をトンと押して脅かしてきたのは、寝間着姿のウィルフレッドだった。いつもきちんと纏めている髪が無造作に垂れ下がり、それはそれで何だか色っぽかったが、驚き過ぎたヘーゼルはそれどころではなかった。

「も、もう!びっくりしすぎて心臓止まっちゃうかと思いましたよ……!」

「っと、すまなかった。……しかしな、夜更けに灯りがついているからこっちも驚いたぞ」

「あー……すいません……。なかなか眠れなくて」

 乾いた笑いで誤魔化していたが、ウィルフレッドは少し怯えたヘーゼルの瞳を見逃さなかった。

「……あんなことがあった後ではさすがに寝つけないか」

 そう言いながらヘーゼルの手の中にある絵本に目を向ける。

「懐かしいな。子供の頃によく読み聞かせてもらった」

 一ページずつ捲る指がピタリと止まる。

「……一つ頼みがあるのだが」

「はい?」

 改まった口調に思わずヘーゼルの背筋もピンと伸びる。

 大きく見開かれた目に角灯の炎がゆらりと揺れて、そこに金髪の青年が映りこむ。

 縮まる距離に緊張しながらも、ウィルフレッドの次の言葉を大人しく待っていたが、その頼みごとの内容はあまりに意外すぎた。

「この本、読んでもらえないか」

「え……?」

 戸惑いを隠せないヘーゼルに、慌てて言い直す。

「いや、読み聞かせがないと眠れないとか、そういうわけではなく、単純に懐かしくてつい……」

 慌てふためくその様子に、ヘーゼルの口元が緩んだが、すぐさま「いいですよ」と答えて最初のページに戻した。

 すう、と息を吸い込み、慣れた様子で絵本を読んでいく。



 むかしむかし つめたいいわやまのかげに いっぴきのうさぎがいました

 そのうさぎは まちのひとから おかねやほうせきをぬすんで くらしていました


 そんなあるひのこと

 うさぎは おおきなあかいやねのいえを みつけました

 たくさんのおかねがありそうないえだ とこっそりいえのなかに はいりました

 ところが なかはからっぽで ひとがすんでいるようすはありません

 あきらめてかえろうとすると へやのすみで なにかがうごいています

 そっと ちかづいてみてみると きんいろのながい きれいなかみのおんなのこが すわっていました

「おまえ なにしてるんだ」

「おとうさまと おかあさまが かえってくるのをまっているのよ」

「ここにはなんにもないじゃないか こりゃあ だれもかえってきやしないぞ」

「そんなことはないわ わたしがあそびにいくとき おかあさまは いってらっしゃい っていってくれたのよ」

「けどなあ ここだってよるはさむいし ごはんもたべなきゃ おまえ しんでしまうぞ」

「でも……」

 こまりはてたおんなのこに うさぎはこういいました

「しかたがない だれかがむかえにくるまで おれがせわしてやる」

「ほんとうに? いいの?」

「むかえがきたら こんどはおいてかれないように ちゃんとついていけよ」

「うん! ありがとう! くろうさぎさん!」

「けっ」

 つめたくいった うさぎでしたが うれしそうなおんなのこをみて あんしんしたのでした


 おんなのこと くらすようになってから うさぎは まいにちいそがしくなりました

 おんなのこがおきているじかんは ごはんをつくったり そうじやせんたくをしに かわまでみずをくみにはしり おんなのこがねむったよるに どろぼうをしていました

 いわやまのわれめにつくっただけのいえは いつのまにか おんなのこのふくやぬいぐるみで にぎやかになりました


 しかし そんなひびは ながくはつづきませんでした


 おんなのこのいえに ひとがやってきたのです

 うさぎは あわてておんなのこを いえまでつれていきました

 とびらのまえで きんいろのながい きれいなかみのおんなのひとが しくしくと しずかにないています

「おい あんた」

 うさぎはおんなのひとに おんなのこのことをたずねました

 すると おんなのひとはおどろき すぐにまたなみだをながしました

「たしかにそのこは わたしのむすめです

 けれども ひっこしのぜんじつに いけにおぼれて しんでしまいました」

 うさぎもびっくりして そんなはずはない といっしょうけんめいいままでのことをせつめいしました

 しかし いっしょにつれてきたはずの おんなのこのすがたが みあたりません


 いわやまにもどっても おんなのこはもちろん ふくやぬいぐるみもなくなっていました

「ふん しずかになったもんだ あー やっとゆっくりできる」

 そういってねそべったうさぎでしたが ちっとものんびりしたきもちにはなれません

 それどころか さびしいきぶんになってきました

「ひとりぼっちのほうが いい」

 つよがってみても むねにぽっかりと あながあいたようなきもちです

「さびしくないぞ」

「さびしくなんかない」

「さびしいもんか」


「けれども つまらないな」


 ほんとうのきもちが こぼれていきます

 それはやがて ひとつのおおきなひかりになって うさぎのまえに あらわれました

「わたし しんじゃってたのね」

 ぼんやりとしたひかりのなかで おんなのこがかなしそうにいいます

「まったくだ じぶんできづかないなんて てんごくにいってからもしんぱいだ」

「えへへ でも わたしはてんごくにいけないわ」

「どうしてだ?」

 ふしぎそうにたずねるうさぎに おんなのこはくるしみながらこたえます


「それはね うさぎさんをじごくに つれていくからよ」


 きんいろのかみがびしょびしょにぬれて かおいろもまっさおになったおんなのこは うさぎのうでを きつくにぎりました

 そのまま ちかくのいけまでひきずられた うさぎとおんなのこは みずのなかにきえていきました


 うさぎさんは わたしのいえにはいろうとした どろぼうなんだから

 じごくへおちるのよ



「…………………………………………………」

 そして読み終えたヘーゼルの顔色も、作中の「おんなのこ」同様、真っ青になっていた。

「こ、こんなのあんまりですよ……子供向けじゃないです……!」

「いや、こんな終わり方だったとは……すっかり忘れていた」

「も、もう、本当に眠れない……」

 やや涙目になりながら、速やかに絵本を棚に戻した。

「そうだな……何か別の話をしよう」

 暫し考え込んだウィルフレッドだったが、いい話題が思いつかない。

 するとヘーゼルの方から控えめな提案があった。

「あの、吸血鬼の話を聞きたいです」

 あれほど怖い思いをした筈なのに、ヘーゼルのほうから聞きたい、と言われるのはウィルフレッドにとっても意外だった。

「怖くないのか?」

 その問いかけに対し、ヘーゼルは苦笑いのような、複雑な表情をした。

「怖くない、と言えば嘘になります。でもウィルフレッド様の傍なら安心かな、って」

「そんなに頼られてるのか、俺は」

 ヘーゼルに頼られているのが嬉しいのか、ウィルフレッドは曇りのない笑みを浮かべた。

「だが、君が使っている部屋にも本はあった筈だが。わざわざここに来なくとも」

「あの……全部読んでしまって。……勝手なことばかりしてすいません!!」

 みるみる目が丸くなるウィルフレッドに勢いよく謝った。が、勝手に本を読んだことはウィルフレッドにとって何ら問題はなかった。

「いや、本も埃を被ったままより、読む者が居てくれた方が喜ぶに決まっている。……それよりも、あの部屋に置いてあったものは様々な言語で書かれていた筈だが……?」

「確かにそうですけど……それが普通なのかと……」

 複数の言語を読み書きできることを、さも当たり前のことであるかのように応えるヘーゼルに、ウィルフレッドの顔は引き攣った。

「……いやいや」

 キョトンとしているが、その頭の中には膨大な知識が詰め込まれているのかと考えると、途端に見方が変わってくる。

「しかし、それはそれで身元を知る手がかりになりそうだな」

「そうだと良いですけど……」

「心配するな。さ、今度は俺が話をする番だ」

 そう言って、静かな、いつもより少し低い声で吸血鬼の話をし始める。

 窓から差し込む月明りと角灯の光を受けて煌めく金髪は、庭に咲いた花々の香りを纏っている。

 まるで子守唄を聴いた子供のように、ヘーゼルはことん、といつの間にか眠りに落ちていた。

「やれやれ」

 そして肩を貸していたウィルフレッドも、安らかな寝息をたてて眠るその様につられて、瞼を閉じていた。



「で、揃ってこんなところで寝ていたと?」

「はい……」

「すいません……」

 アンのわざとらしい咳払いで飛び起きた二人は、早々に説教されることになった。

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