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第一章:まっしろな記憶と森の秘め事

心地よい風が頬を撫でていく。

 ゆっくりと眼を開いた少女は、数回の瞬きの後に周囲を見渡した。

 風は控えめに開けられた窓から流れ込んでいるらしく、その隙間からは淡いピンク色の花が咲いているのが見えた。

 勢いよく、まだすこし痛む足で、窓辺まで飛び出した。

 木々のみずみずしい空気を肺いっぱいに吸い込み、冷静に考えた。

「……ここ、何処?」

 気を失う直前の記憶は何となくある。

 ぼんやりとその時のことを思い出していると、扉を二回ノックする音が響いた。

「失礼する」

 ギィと軋みながら開かれた扉の向こうには、少女が全く知らない青年の姿があった。

 青年は少女の強張った表情にも特に動揺する様子も見せず、そのまま部屋の中に入った。

「良かった、目が覚めたんだな」

 微笑を浮かべ、手に持っていた金属のトレーを手近なテーブルの上に、そっと乗せた。

 鼻梁の整った横顔をじっと見つめていると、不意に互いに目が合った。

 何か用か、と言いかけた青年は寸前でその質問を飲み込み、少し恥ずかしそうに少女に向き直った。

「すまない、自己紹介がまだだったな。俺の名はウィルフレッド・ミルズ・レイヴァース。先祖代々この森の屋敷に住んでいる」

 じっくりと話を聞くと、森の中で気を失っていた少女をこの部屋まで運んできたのが、青年――ウィルフレッドだという。つまり、少女を助けた恩人ということになる。

 部屋にウィルフレッドが入ってきてから今までずっと、訝しげに見ていた少女も慌てて名乗った。

「あの、助けてくださってありがとうございます。私は、ヘーゼル・レインブリーズといいます。えっと――」

 その先の言葉が続かず、少女こと、ヘーゼルの唇は小刻みに震えた。

 自分が何者であるか、何のためにこの森に来たのか。よくよく考えてみると、気を失う前後より昔の記憶がほとんどない。

 寧ろ名前や文字を覚えているのが奇跡と言ってもよいほどの忘却だ。

「私は……」

 顔面蒼白のまま必死に記憶を絞り出そうとしていると、ウィルフレッドは心配そうにヘーゼルの顔を覗き込んだ。

「……どうしたんだ?」

「……いえ、大丈夫です」

 記憶がないと言ったら余計な心配をかけてしまうだろう、とヘーゼルは咄嗟に取り繕った。

「そうか。それでは互いに紹介も済んだことだし、朝食としよう」

 こうして話している間にもウィルフレッドの手はてきぱきと仕事をしていたようで、テーブルの上では食事が整然と並べられていた。

 ぷっくりとした黄色いオムレツとカリカリに焼かれたベーコン。添えられている色とりどりの野菜がメインを更に美味しく見せている。一切れのトーストからはガーリックの食欲をそそる香りがする。

 薔薇の絵が控えめに描かれたティーカップの中には、甘く優しい香りの紅茶が注がれている。

「ありがとうございます。……いただきます」

 助けてもらった上にこんなに手厚いもてなしをされると恩返しが大変だなぁ、とヘーゼルは心中で呟いたが、胃が暴力的なまでに刺激を受けているようで唾が出ていた。体は正直なようだ。

 それから無言のまま次々に匙を口へ運びあっという間に平らげてしまった。それほどまでに美味だったということらしい。

 満足そうにヘーゼルが二杯目の紅茶を飲んでいると、神妙な面持ちになったウィルフレッドが向かいの椅子に座り、単刀直入に訊ねた。

「で、君は一体何者なんだ?」

「……っ」

 やはり名乗るだけでは違和感を感じたのか、怪訝な目でヘーゼルの瞳を見つめた。

 このまま黙っていても納得などする訳がないので、ぼそぼそとヘーゼルは記憶がないということを説明し始めた。

「……名前以外に覚えていることは?」

「えっと……誕生日とか……確か、藍玉の月の七の日だったかと」

「家族構成とか、友人とか、他に手掛かりになりそうなことは」

「ええっ、と」

 家族も友人もいたに違いないが、靄もやがかかったように思い出すことができない。

 すぐそこまで出かかっているのに、何かが邪魔をしているようだった。

「……すいません。何も」

「……そうか」

 素性が分からなければ住んでいた所も分からない。これから何処へ帰るべきなのか、そもそも帰る場所など自分にあるのだろうか。

 どっと押し寄せた孤独感に押し潰されそうになっていると、ウィルフレッドは微笑みかけて、ヘーゼルを励まそうとした。

「焦っていても仕方がない。これから少しずつゆっくりと思い出していけばいい」

「でも……」

「帰れないのなら、暫くここで暮らすといい。俺と使用人が一人しか住んでいないから部屋はまだまだ余っているんだ。この屋敷も使ってくれる客人がいれば、喜んでくれるに違いない」

「けれども……タダで置いてもらう訳には……」

 ウィルフレッドの提案はヘーゼルにとって有難すぎるものだった。それ故に、必要以上に甘えるのはヘーゼルの良心が許せず、二つ返事をすることはできなかった。

 記憶がなくとも、自分に厳しい生活を送っていたのは他人の眼から見ても明らかだ。

 ウィルフレッドは苦笑いを浮かべて、ヘーゼルの納得のいく方法を模索した。

 すると意外にも、ヘーゼルの方から控えめに一つ提案をしてきた。

「あの……何か私にも仕事をさせてください。家事くらいなら一通り覚えているみたいなので……使用人として……駄目でしょうか?」

「……見たところ、君は何処かのご令嬢だと思ったんだが」

「え?」

「いや、君の身に着けているものがどれも高価なものだからな、家事や身の回りの世話なんて使用人がやっていた可能性が高いと思ったんだ」

「そう、なんですか?」

 今は汚れた服をウィルフレッドの使用人が洗濯をしてくれているらしい。

 ヘーゼルは窓から身を乗り出して、物干し竿に掛けられた自分の洋服を見た。

 胸元にフリルのあしらわれた真っ白いブラウスに、鮮血のような赤色のジャンパースカートが風にゆらゆらと、気持ちよさそうに吹かれていた。

 生地の良し悪しなどヘーゼルには分からないが、その目で見ても高級そうであった。

「……何か、思い出せたか?」

 不安気に声をかけるウィルフレッドに返事をした顔は、寂しそうに首を横に振った。

「いいえ、何も」

 焦っても仕方がない、と先刻のウィルフレッドの言葉を反芻し、ぎこちない笑みを浮かべる。

 けれども、身体が思い出すことを拒んでいる感覚が消えることはなかった。



 その後はウィルフレッドが屋敷の案内をし、生活必需品を二人で部屋に運び、そのまま昼食まで済ませることになった。

 衣類は取り敢えず、ウィルフレッドの使用人の予備で賄った。が、それだけでは数が足りないだろう、と後日街まで買い出しに行くことが決まった。

「すいません、何から何まで……」

「気にするな」

「記憶が戻ったときは、ちゃんとお礼させていただきます」

「そう急くと、思い出せるものも思い出せなくなるぞ?」

 意地悪そうな物言いだったが表情は柔らかで、ヘーゼルもつられて微笑んでいた。

「そんな顔、初めて見たな」

「え?」

「今の今まで、笑っていても何だか硬かったからな。これから毎日顔を合わせるというのに、ずっとそのままだったらどうしたものかと」

「あはは……」

 言われてみると確かにそうだな、と反論の余地がなく、ヘーゼルは苦笑して誤魔化すことにした。

「さて……必要なものは大体揃った。……が一つ厄介なことがある」

「厄介……と申しますと?」

 首を少し傾げて返答を待っているものの、ウィルフレッドの口はなかなか開かない。

 催促するのも気が引けるので、ヘーゼルは根気強く、深く考え事をしているウィルフレッドの次の反応を待った。

 腕組みが解かれ、口にした内容は、ヘーゼルにはどうしようもできないことだった。

「我が家の使用人――アンと言う女性なんだが、これがなかなか難しい性格をしていてな。主人や、一部の気を許した者以外にはとことん愛想がない」

「さ、左様でございますか……」

 この時点でも既に心が折れそうなヘーゼルだったが、これで終わりではないようで、

「いや、愛想がないだけならどうにかなるかもしれない。だが、アンは余所者には顔を合わせようとすらしない。ばったり鉢合わせても挨拶などしたためしがない。俺の命令があれば嫌々会ってはくれるだろうが……」

「嫌々……ですか」

「この屋敷の家事は全てアンが一人でやっているんだ。これから君も手伝うというのなら、まずはアンに話を通しておかなくてはならない。それに生憎だが、俺はそういった仕事に関しては壊滅的にできない。必然的に君に教えるのもアンだろう」

「は、はあ……」

 何も始まってすらいないと言うのに、先が思いやられる状況に嘆息せざるをえない。

 そしてウィルフレッドに呼び出されたアンの態度は案の定、真冬の吹雪よりも冷たかった。

「……という訳だ。人付き合いが好きではないのは俺も承知しているが、協力してほしい」

 ギロリ、と硝子玉のような碧眼がヘーゼルに向けられ、思わず肩が跳ね上がった。

「……畏まりました」

 シニヨンに纏めた金髪と抜けるような白皙は、動かなければ人形と見紛うような繊細さを醸し出しており、ヘーゼルは恐れを抱くと同時に、その美しさに惚けていた。

「……何か?」

「いっ、いえ、何も……」

 素直にその容姿を褒めるわけにもいかず、ヘーゼルは目を逸らしつつ言葉を飲み込んだ。

 ヘーゼルを訝し気に見る目は糸のように細められていたが、ウィルフレッドがその視界に回り込み、静かに制した。

「彼女の記憶が戻るまでの辛抱だ」

 そっと耳打ちをしたウィルフレッドにまで、アンの不満が及ぶ。

「……貴方が彼女を傍に置いておきたいだけでしょう」

 アンとヘーゼルの初対面が真冬の吹雪のような冷たさなら、今の空気は極北の地のブリザードだ。

 居心地の悪い状況を感じ取りながらも、会話の内容まで知ることができないヘーゼルは、その場でじっと大人しくしているしかなかった。



 翌日から早速アンに仕事を仕込まれることになったが、家事全般に関しての記憶が辛うじて残っていたヘーゼルは、難なく命じられた掃除や洗濯をこなしていった。

 用具の場所や、水場の使い方などの最低限の説明をしてもらい、気が付けば昼食の時間が迫っていた。

 相変わらず不機嫌そうなアンに、ヘーゼルは恐る恐る声をかけてみた。

「あの……」

「何か?」

「えと……その、私のやり方で何か問題とか……」

「いいえ」

「……そうですか」

 態度が一定なために、ヘーゼルは自分のしていることが正解か不正解か自信をもてずにいた。

 思い切って訊いてみても、アンの返事は単語のみでその真意を知ることもできない。

 気が滅入りながらも、ヘーゼルは案内されたキッチンで、アンと共に昼食の準備に取り掛かった。

 包丁がトントンとリズミカルに食材を刻んでいく。暫くその様子を黙って見ていたアンも、途中で自分の作業に戻った。

 熱気で満たされていくと同時に、キッチンは香ばしい香りに包まれ、ヘーゼルの緊張を少しずつ解していった。

 が、その気の緩みが注意力を欠いていることに、ヘーゼルは人差し指に走った痛みに思い知らされることとなった。

「いっ、た……」

 プスリと針で刺したような傷口からは徐々に血が溢れ、ぷっくりと小さな赤い球体が出来上がるのにそう時間はかからなかった。

「何があっ――」

 指を抑えて立ちすくむヘーゼルを不思議に思ったアンは、足早に近付き声をかけた。が、すぐさまその顔は苦虫を噛み潰したようになった。

「……直ぐにこれで抑えなさい。後のことはわたくしがやっておきます。血が止まるまで部屋から絶対出ないこと」

「いえ、このくらいの怪我大したことないです。直ぐに血も止まると思うので――」

「つべこべ言わずに部屋に戻りなさい!!」

「—―っ」

 この小さな傷一つでまさか怒鳴られることになろうとは。あまりに予想外の出来事にヘーゼルの肩がビクリと跳ね上がる。

 怒声の反響も収まり、シンと静まり返った空間に、階段を下りてくる足音が割り込んできた。

「何だ、今の声は」

「旦那様、直ちに部屋にお戻りください」

 現れたウィルフレッドの進路を妨げるように、立ちはだかったアンの表情には焦りが滲み出ていた。チラリと睨むような視線を感じたヘーゼルは速やかに部屋に戻ろうとしたが、それも間もなくウィルフレッドに制止させられた。

「……怪我をしているじゃないか」

 つー、と流れ始めた血を見てウィルフレッドも眉を顰めた。傷自体は極々小さいが、思いの外深かったようで直ぐには止まらない。

「いえ、その……本当に大丈夫なので」

「いいから、後はアンに任せるんだ。俺が傷の手当てをしよう」

「ですが、旦那様」

「アンはやりかけの仕事を頼む」

 未だ何か言いたげなアンをその場に残し、足早に階段を駆け上がる。

「君の部屋に確かあった筈だが……これだな」

 ウィルフレッドは本や雑貨が綺麗に並べられた棚からくすんだ木箱を取り出した。中には包帯や塗り薬の入った小瓶などが所狭しと並べられており、ウィルフレッドはその中から一つの瓶を取り出した。

「取り敢えずこれだけ塗っておけばだいじょうぶだろう」

 きゅぽ、と蓋の外れる音と共に薬草特有の癖のある香りが、ツンとヘーゼルの鼻を刺激する。

「どれ、見せてみろ」

 ウィルフレッドの骨ばった手が差し出され、反射的にその上に手を乗せた。

 気が付けば流れ出た血は赤褐色に変わり、ひび割れを起こすほど乾燥していた。

 傷口に直接触れないよう慎重に指を左手で抑え、右手の中指で優しく薬を塗り込んだウィルフレッドはその手つきとは真逆の顔をしていた。

「すいません……ご迷惑ばかり」

「……いや、こちらこそすまなかった。驚かせてしまったな」

「いえ、私が最初からアンさんの言うとおりにしておけば……でもどうしてあんなに」

 未だにヘーゼルには分からなかった。アンの憤怒の理由が何なのか。

「あぁ……君はこの森のことも忘れてしまっているんだったな。最初に言っておくべきだった」

「……どういうことでしょうか」

 答えを聞く前から、身体の末端が冷えていくような感覚に、ヘーゼルは不安を覚えた。頭の中から記憶が抜け落ちてしまった代わりに、身体が危機を知らせているようだ。

 後片付けまで終えたウィルフレッドは振り返り、焦げ茶色の双眸を見つめて告げた。


「この屋敷の周りに広がる森には、古くから『吸血鬼が潜んでいる』と言われている」


「……だからアンさんは」

 過度だと思われたアンの怒りもヘーゼルの身を案じてのことだったようだ。

「少しの血でも夜になれば近くの吸血鬼共がが嗅ぎつけて群がってくる。この屋敷には特別な守りを施してあるが……一歩でも外に出れば身の安全は保証できない」

「そう……でしたか。そうとは知らずに……アンさんにも嫌な思いをさせてしまいました」

 記憶が欠落していることで生じるトラブルや不便さを身をもって知ることになり、ヘーゼルは目を伏せて押し黙った。

「配慮が足りなかった俺のせいでもある。あまり自分を責めてくれるな」

 気を落とすヘーゼルを見かねて掛けた言葉は、驚くほどその心に深く染み込んでいった。

 そのような言葉をかけられるのも初めてな気がして、無意識のうちに、

「……優しいですね」

と零れた。

「優しい……俺が?」

 ウィルフレッドは、というと自分に向けられた台詞だとは思わなかったようで、目を丸くし、かつキョトンとしている。

「そんなことを言われるのは初めてかもしれないぞ」

「私だってこんなに人に優しくされたのは初めてです」

「初めて……って記憶がないのだから当たり前だろう」

 ははっ、と柔らかなテノールで無邪気に笑った。

「でもウィルフレッド様が『優しい』と言われたことがないなんて、謙遜なさらなくても」

「いや、これでも昔は気性が荒くてな。所謂『嫌われ者』だった。今もかもしれないが」

「意外ですね。でも、今は嫌われ者なんかじゃないです。私はとても感謝をしていますし、アンさんもウィルフレッド様と会話なさっているときは笑顔じゃないですか」

「アンの場合は主人に対して従順なだけだと思うが……君が嫌っていないというのは嬉しい」

 先程とはまた違った笑みに、ヘーゼルは目を奪われた。

 顔も名前も覚えていない誰かとも、こうやって笑いあっていたのか、確かなことを知る術も今のヘーゼルにはない。

「嫌う訳ないじゃないですか。それに……」

 すっと立ち上がり、窓際まで歩き、ウィルフレッドに背を向けて続きを話す。

「嫌うとか、憎むとか、どんな気持ちなのか……分からないんです」

「……そうか」

 数々の経験によって培われていくはずの感情が、今のヘーゼルに十分にあるわけもなかった。

「……これから嫌でも知っていくことになるさ」

「え?」

「いや、何でもない」

 そう言い残し、足早に部屋を去るウィルフレッドの悲し気な横顔に、ヘーゼルは一抹の不安を覚えた。

「……こんな気持ちばっかり」

 自身への悪態にも似た呟きは、何処にも届くことはなく、空中に溶けてなくなった。

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