第十八章:榛(ハシバミ)とヘーゼルとノワゼット
鎖骨あたりまでしかなかった髪は、胸を覆い隠す長さまで伸びた。
以外にも器用な彼にヘーゼルは毎朝その髪を結わえてもらっている。
「そろそろバッサリ切ろうかと、思ってるんです」
「バッサリはダメだ。結ぶ楽しみがなくなる」
「手入れも大変ですし、何より重いんですよ」
口を尖らせ反論すると、彼は無邪気に笑う。ヘーゼルの少し怒った顔も好きだ、とよく揶揄うが、今がまさにそうなのかもしれない。
「それでは、行ってきますね」
「行ってらっしゃい。気を付けて、ヘーゼ……じゃなかった、ノワゼット」
「もう、気を付けてください。ウィル」
踵を返し、仕事場に向かう。
雪があまり降らない気候なので、少し歩いただけで汗が滲む。体型を隠すような服装ばかりしていたが、ここに来てからは自然と肌を見せる服装になってしまった。
「ふぅ……暑いなぁ……」
手の甲で汗を拭うと前髪がぴったりと額に張り付いた。
ウィルフレッドが似合う、と勧めてくれたフリルつきのブラウスも台無しだ、とため息を吐く。
けれども気持ちは今まで生きてきた中で一番前向きになれている、と思っている。現在名乗っているこの名前もヘーゼルはとても気に入っている。
「先生おはよう」
「おはようございます。今日も暑いですね」
後ろから早歩きでヘーゼルに追いつき挨拶をした少年は、ヘーゼルの生徒の内のひとりだ。敬語を使わない上に、ぶっきらぼうな言動だが、心優しいことをヘーゼルは知っている。
そして少年もまたヘーゼルには心を開いているようで、最近は積極的に挨拶をしてくれるようになった。
「先生、やっとここに慣れてきたね」
「そうですね。きっとみんな優しくしてくれるからですね」
周囲と馴染めずにいたあの頃のヘーゼルが見たら卒倒するに違いない、というほど朗らかな表情をしている。当時を知るウィルフレッドが「今が正午の太陽ならあの頃はまるで日食のようだった」と例えるくらいなのだから相当な変わりようだ。
この街の人々はほとんどが酪農や農業で生計を立てている。貧しくもないが豊かとも言えない街の住民の教育は、最低限の読み書き程度で止まっているらしい。
ヘーゼルはウィルフレッドと共にこの街に住まわせてもらう代わりに、子供たちに勉強をほぼボランティアで教えることになった。
勿論それだけでは生活できないので定期的に都会の学校にも赴いている。
一方のウィルフレッドは畑や牧場の手伝いをしながら、他の作物も育てられないか、と日々模索している。
貴族の家系だったため、様々な方法で領地を活性化させるのは得意らしい。そして顔の造形の美しさも相まってか、女性陣から密かに黄色い声が上がっていたりもする。
その話をヘーゼルにしたこともあったが、特に表情も変えず「よかったですね」と返された。一つ屋根の下で生活しているが関係が進展するのはまだまだ先だろう。
「今朝はあんなに晴れてたのに」
月明りのない雨が降る夜の帰り道を、ヘーゼルは小走りで進んでいた。
その表情は焦りと諦めが入り混じったような、複雑なものだった。
ぬかるむ不安定な地面を踏み、眼前続く一本道を躊躇うことなく駆けていく。
暗闇に慣れ始めた目が頼りになりはじめた、そのときだった。
「……っあ!?」
ヘーゼルは足元の石ころに気づかず、つまずいて転びそうになった。
しかしその身体を確りと受け止めてくれる人物が目の前にいた。
「傘ないだろうと思って、迎えに来た」
「ありがとう、ウィル」
「感謝のキスとかは」
「そんなものはありません」
ウィルフレッドの冗談をぴしゃりと制すヘーゼルだったが、暗くても拗ねた顔が目に入り、堪らず噴き出していた。
傘の下で二人は肩を寄せ合って歩きながら、今日の夕飯の話をした。
ぷっくりとした黄色いオムレツとカリカリに焼いたベーコン。それから色とりどりの野菜が盛り付けられたサラダ。食後には薔薇の絵が控えめに描かれたティーカップに紅茶を。
共に歳を重ねていく日々は、まだまだ終わらない。




