第十五章:覚悟と凍えた桃色の頬
「ふざっけんなよアイツ……」
本人の前では口が裂けても言えない文句をダラダラと、まるで赤子の涎のように溢す。
結局リリスがほったらかした部下たちに帰るよう命じ、怪我だらけだったエリカに応急処置を施したのもロジャーだった。ヘーゼルのことも当然心配ではあったが、この仕事に対してリリスのよう無責任にはどうしてもなれなかった。
「これでヘーゼルに追いつけていなかったらマジで許さねぇ」
と、言ってもそんなことを口走った日にはこの大雪の下に確実に埋められてしまう。リリスの前でボロが出ないように今から口を噤んでおくべきだろうと、下唇をきゅっと噛んだ。
馬の蹄が白銀の世界を駆けていく音に心を落ち着かせる。
大丈夫だ、リリスが向かったなら絶対に連れ戻してくれる、と己に言い聞かせ手綱を握りなおした。
三人を乗せた馬車と一人しか乗っていない馬では速度が段違いだ。
幸い直ぐに部下が馬を連れてきてくれたおかげで、難なく追いつくことができた。
「何なのよ、あの二人……いや二体は」
距離を詰めただけで分かった血の匂い。それは人のものではなかったが、吸血鬼であることに変わりはない。
そんなことより、リリスにとってかけがえのない妹がそのような輩と共に行動していることが問題だった。
ヘーゼルが二人の正体に気付いていないとは考えにくい。だとすれば、ヘーゼルの意思で一緒にいるということだ。どうして、どうして、と応えのない問いを繰り返してしまう。
馬車の前に回り込み、強引に進路を塞ぐ。騎手の老人に向かってリリスは「ごめんなさい!」と叫び、愛馬から勢いよく飛び降りる。
「エル、いい子だからここで待っていてね」
この馬に「エルピス」という名をつけたのはヘーゼルだった、とたてがみを撫でながらふと思い出す。異国の言葉で「希望」を意味するらしいが、なんとも妹らしい名付け方だと、リリスは微笑みながら白い息を吐いた。
「どうもごきげんよう、吸血鬼のお二方」
腰の剣を抜き、徐に三人の元へと近付く。もはや逃げることは叶わないらしい、と観念したのか衣服についた雪を手で払い、ヘーゼルはリリスの目をじっと見つめる。
「……姉さん」
たったその一言だけでリリスの表情に安堵の色が浮かんだ。別れてから然程時間は経っていない筈なのだが、一日千秋の思いで再会を待ち侘びていたのだろう。ヘーゼルの胸に一抹の罪悪感が生まれた。
「……さぁ、帰ろう?そいつらはアタシが片付けてあげるから、心配しないで、ね?」
「……めて」
「え?」
「や、めて」
これ以上ないくらいの優しい声と共に差し出した左手は、またしてもヘーゼルの手を握ることはなかった。
つっかえながらも、確かな拒絶にリリスの頭は混乱した。
「どうして……。そいつらは吸血鬼よ」
「分かっています。……分かった上で一緒にいます」
「一応訊いておくわ。何のために?」
声音は落ち着いているが、リリスの胸は張り裂けそうだった。と、同時に妹を誑かしたかもしれない吸血鬼二体に対しては、怒り心頭に発していた。
「私は……家にいるときはちっとも心が休まらなかったんです。仕事をしているときも足手纏いな気がしていつも不安でした。だけど、アンさんと料理をしているときはずっと楽しくて……」
言葉を切って、ふとアンの顔を見上げる。短くなった金髪でもその整った顔立ちの印象が薄れることはない。寧ろほころんだ顔は今までよりも優し気で、ヘーゼルの胸の中に温かい何かが宿った。
「ウィルフレッド様と本の話をしているときもいろんな発見があって……。私は吸血鬼祓いじゃなくても、あの街でなくても、生きていけると思ったんです。だから……見逃してください」
ウィルフレッド、という名前にピクリとリリスが反応する。
人を頼ったりするのが苦手で、何でも一人でこなしてしまうヘーゼルからの数少ないお願い。
いつもならどんな状況下でも親身になって話を聞くところだが、確かめねばならない固有名詞に、リリスの声音はヘーゼルが知らないくらい低くなっていた。
「ウィルフレッド・ミルズ・レイヴァース……」
一文字も間違えることなくその名を口にすると、リリスは閃光の速さで剣を振り上げた。狙うは燃えるような瞳の吸血鬼。
吸血鬼の名家がこぞってその首を狙ったが、警戒心も力も強いその者の姿を捉えることすらできなかった。
こんな千載一遇の好機を絶対に逃すわけにはいかない。逸る気持ちを抑え、その首に剣を振るった。
しかしいつまでたっても肉を裂く感触はなく、リリスの剣は空中でピタリと制止してしまった。何が起きたのか一瞬理解できず視線を向けると、今にも泣きだしそうなヘーゼルが、リリスの腕をしっかりと掴んでいた。
「ごめんなさい……」
「邪魔しないで。そいつは自分の一族を皆殺しにして人じゃなくなったのよ。ずっとずっとこいつを殺すために私たちがしてきたこと、ヘーゼルも分かっているわよね」
あぁ、責めるつもりなんてないのに。敵を目の前にした途端口調が荒っぽくなってしまう自分がもどかしい、と鋭い表情の下で悔やむ。
凄んだつもりはないが、気圧されたヘーゼルは反射的に腕をぱっと放す。
ありがとう、と唇の動きだけで感謝を伝え、目線より少し低い妹の頭を撫でる。
しかし唇を噛み締めたヘーゼルが向かったのはウィルフレッドの元で、まるで盾のようにその前に立ちはだかった。
剣を持たず空いている左手は爪が食い込みそうな程、固く握り絞められ、小刻みに震えていた。勿論恐怖などではなく、怒りのせいだ。
こんな丸腰の状態で本気になったリリスに勝てるわけなどなかったが、ヘーゼルもここで妥協するわけにはいかなかった。
とても大切で誰よりも手強い姉はどう攻めてくるだろうか。
身構えていたが、リリスは一向に攻撃しては来ない。何やらコートの内側を弄っているらしく、取り出した物をヘーゼルの方へと投げる。それはヘーゼルの名前が刻まれた革製の鞘と短剣で、森で行方不明になって以降はじめての再会だ。
それをやおら拾い上げ抱きしめると、その余韻を待たずに、リリスはどうにか捻り出した代替案を握りしめた剣と共に突きつける。
「……その覚悟、次期当主として確かに見受けたわ。どうせ説得しても聞かないでしょうし。家を出たいというのならその剣でそこの吸血鬼を殺しなさい。もしくは……」
「姉さんとの一騎打ちで、私が勝てば良いんですよね」
「……えぇ、そうね」
リリスの言葉を皮切りに姉妹の剣がぶつかった。キィン、と甲高い金属音が幾度も白銀の世界に響き渡る。不安定な雪と氷の地面に足をとられながらも、双方の切っ先はほとんどぶれることなく相手の肉体を捉えている。
下から襲ってきた刃を短剣で弾き、左の掌底でリリスの胸を突く。が、見切られていたその動きは、リリスの鋭い蹴り技でいとも簡単に防がれる。寧ろまともにその攻撃を食らったせいでヘーゼルの左腕はじんじんと痺れた。
鍛錬でリリスが手を抜いたことはなかったが、今はまるで敵の首を狩る勢いだ。普段の鍛錬が一だとすれば、一と〇.五くらいの本気度か。
三分も経っていない剣戟にヘーゼルの息は上がり、対するリリスも肩で息をしている。吸い込む空気が恐ろしく冷たいせいで、肺は今にも凍ってしまいそうだ。
「――っ!」
地面を強く蹴り、上から短剣を振り下ろす。がら空きの懐にリリスが一撃加えようと試みるが、今度は手首にヘーゼルから強烈な蹴りを貰う。
「うぐっ……!」
辛うじて剣は手放さなかったが、今にも落としてしまいそうな程利き手の感覚がない。
それを固唾を呑んで見守るウィルフレッドは、吸血鬼を圧倒する技術と身体能力の高さに感嘆していた。
一方のアンは胸の前で両手の指を絡ませ、ただただ祈る。ヘーゼルが痛そうに顔を歪める度に、身を切られそうな表情で視線を逸らしていた。
「……しっかりと見るんだ」
「……できません。あんな痛々しい……」
「ヘーゼルの覚悟を見届ける義務が、俺達にはある筈だ」
「……はい」
歯切れの悪い返答からはいつもの凜としたアンの面影は一切ない。娘のように大事に思っている、というのは確かなのだろう。
リリスから繰り出された突きの技を、体力の消耗からか、かわし切れずに左の二の腕で受ける。幸い着込んだ衣類のお陰で軽い切り傷で済んだが、真っ赤な血が白いケープをみるみるうちに染めていった。
「…………っ!」
意味のある言葉を発することはなかったが、誰が見ても分かるその痛みに弓なりの眉が歪んだ。
「悪いけど、アタシはレインブリーズ家の次期当主よ。強大な力をもった吸血鬼を目の前にしてみすみす見逃すなんて、家名にキズひとつなんかじゃ済まない。それは、分かっているわよね」
「勿論です。何一つリスクがないとは思っていません」
目的のためならば絶対に手加減をすることはないが、ヘーゼルの命を奪うこともあり得ない。
つまり急所を外すほどの余裕がリリスにはまだあるということだ。それでいて優位を保っている。
傷口を押さえて、なおも剣を構える妹にリリスは最後の慈悲を見せる。
「今なら降参をしてもいいわよ。どうする?」
しかしヘーゼルは躊躇なく首を横に振った。
「いいえ、絶対に勝ちます。勝つまで、諦めません」
これは本当に動けなくなるまで負傷させなくてはいけないのね、とリリスも断腸の思いで覚悟を決める。
再び姉妹の刃がぶつかろうとしたそのとき。
遠くから聞き慣れた声が響いてきた。それはウィルフレッドとアンの耳にも届いていたようで、四人は一斉に声のする方へ振り向いた。
黒毛の馬をエルピスの横に待機させると、声の主は姉妹の元へ駆け寄る。
「何だよ、これ。何やって……」
鍛錬用の模造剣ではなく、本物の刃を向け合う姉妹の様子に絶句するロジャー。その澄んだ碧い目の揺らめきは、戸惑いを表していた。
今にも剣戟の間に生身で飛び込んできそうなので、リリスが嘆息しつつ簡潔に説明する。
「ヘーゼルがそこの吸血鬼たちと一緒に行きたいというものだから、力づくで止めているだけよ」
「………………………………………………………………………………ハァ!?」
長い沈黙を経て素っ頓狂な反応をするロジャーに、うっかり笑い出しそうになってしまった面々。
こんな状況でなければ大いに盛り上がったかもしれない。
「お前さ……ヘーゼルのことになると脳みそ筋肉になるよな……」
「はぁぁ!?アンタだって脳みそピンクのお花畑でしょう」
「なんだと」
「うるさい!」
リリスのブーツのつま先がロジャーの脛にめり込む。厚着をしているにもかかわらずその効果は抜群だったようで、ロジャーは声にならない叫び声と共にその場にしゃがみ込んだ。
いつの間にかヘーゼルの真横に立っていたウィルフレッドは、そっと、
「ヘーゼルは二人にちゃんと愛されていたんだな」
と耳語した。
「愛され、てた……?」
ずっとずっと、煙たがられるだけの存在でしかない、と。
故に今していることは「逃げ」だ、と。
後ろめたさにも近い気持ちを抱えたままだったヘーゼルの胸から、それは零れ落ちた。
「私も……二人が大好きでした」
たとえ周りからは似ていない姉妹だと言われても、釣り合わないと言われても。
「だからこそ、ここで生半可な終わり方をするのは、良くないですね」
覚悟を決めて短剣を握り直しリリスの姿を見据える。
「決着、つけましょう!」
思ったよりも大きな声が出たために、その場にいた全員が一斉にヘーゼルの方を向いた。
未だに状況を理解できていないロジャーをそっちのけ、自信たっぷりの笑みを浮かべたリリスがずい、と前に出る。
姉妹ならでは、と言っても差し支えのない阿吽の呼吸で再び金属同士がぶつかる。
しかし先ほどと違って迷いのない攻勢にリリスは無意識にたじろいだ。
(急所を狙いに来るなんて――)
流石のリリスも首筋や心臓目掛けた攻撃には動揺を隠せなかった。今互いに握り締めているのは訓練用の木剣などではない。
「くっ……」
うっかり口を開けば舌か唇を噛んでしまいそうで、砕けそうな程歯を食いしばった。
斜め下から突き上げるように繰り出されたヘーゼルの短剣をかわし、その剣先を滑らかに受け流す。
やはり細かな剣術では、僅かだが長く生きているリリスの方が上だ、と誰もが思ったその刹那。ヘーゼルが大きく後退った。
どうやら動いて体が温まったらしい、血に染まったケープを脱ごうとしているようだ。
ボタンを引きちぎるようにして脱いだそれをヘーゼルは大きく振りかぶって放り捨てた。
リリスの眼前目掛けて。
「なっ――」
ヘーゼルがこんな卑怯な手を使うわけがないとどこかで思い込んでいたらしい。数秒視界を遮られ、力任せにケープを払いのける。
リリスが動き出す前に、ヘーゼルは雪に足をとられそうになりながらも全速力で走った。
目的は呆然と立ち尽くしているロジャーの背後。
ごめんね、と心中で謝りながら羽交い絞めにし、短剣の先端を首に突きつける。
「ヒッ……」
まさか巻き込まれるとは思ってもいないロジャーの喉からは絞り出されるように短い悲鳴が上がった。
「な、なんの冗談」
「ロジャーは黙ってて」
「理不尽」
勝手に人質にされた上、冷たく制され、その目にはうっすらと涙が滲んでいた。唯一の救いといえば好意を寄せている相手の息遣いがすぐ傍で聞こえることくらいか。
「姉さん、引いてください」
「……言うことを聞かなかったら幼馴染を手にかけるって?」
「……はい」
「そんなこと、ヘーゼルにできるの?」
ヘーゼルに訊ねているつもりで、その一言は自問自答だった。
まだ思いとどまり戻ってきてくれる、という考えの甘さがリリスの中にはあった。
目の前にいる妹の変化を測りながら、少しずつ距離を詰めるその背を突如、悪寒が襲った。
ヘーゼルに気を取られ、周囲の確認を怠っていたことを思い至り振り返ったが時すでに遅し。
見物しているだけだったアンが懐まで迫り、リリスの背中に強烈な蹴りを入れた。
「……っあ゛!?!?」
声にならない叫びが、潰れた蛙の鳴き声のような音になった。
痛みを堪え態勢を立て直そうとするが思ったように力が入らない。ロジャーに助けを求めようと目配せしたが、とっくに気絶していたらしく、雪の上で白目をむいていた。
ほんとに何しに来たのよ!?と心の中で叱責しつつ逃げる三人を追いかけようと試みるが上手く息ができない。先ほどの衝撃があまりにも大きすぎたらしくゲホゲホと咳き込みながら剣を拾い上げる。
しかし追いかけてもその距離は一向に縮まらない。
ヘーゼルを失い、標的も取り逃がし、ぬけぬけとこのまま帰るなどということは、リリスの次期当主としてのプライドが許さなかった。
せめて――、吸血鬼に傷を与えられれば……。
馬車の荷台を起こしている無防備なその背を見つめ、力を振り絞る。




