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第十二章:相見える紺碧と深紅

「痛たた……」

 乗合馬車に揺られ何時間経ったのか。できるだけ暖かそうな装いにしてきた筈だがとっくに指先の感覚は鈍り、硬い板の上に長時間座ったせいで下半身全体が痛む。

 目的地も決めずにここまで来てしまったヘーゼルだったが、辺りを見渡してハッとする。

 ウィルフレッドと共に買い物をした商店街と赤褐色の屋根に積もる雪。堂々と町を見下ろす時計台は変わらず時を刻み続けている。

 咄嗟に思いついた行先だったが、無意識にウィルフレッドの元へ行こうとしていたことに気付き、苦笑いをした。

 また馬車を乗り継いでできるだけ遠くに向かうことを試みるが、灰色の分厚い雲が空を覆い、大粒の雪がふわりと舞い降りてきた。

 馬車を探している間にもその数は段々と増えていき、ヘーゼルは諦めて宿をとることにした。



 翌日、ヘーゼルは日の出より早くに起き、持ってきた固焼きのパンで腹ごしらえをした。

 味気のないパンは口の中の全ての水分を吸収し、ヘーゼルは反射的にアンが作ってくれた朝食を思い出した。

 一緒に収穫した木苺のジャムにウィルフレッドお気に入りの銘柄の紅茶。内側がモチモチしているバゲットにトウモロコシのポタージュ。食事を済ませたばかりなのに思い出しただけでお腹が空いてきそうになる。

 頭を振ってどうにか気を紛らわせ、乗り場まで早足で移動した。

 息まで凍りそうな寒さだったが、昨日降っていた雪は宿で休んでいる間に止んだらしく、乗合馬車も普通に運行しているようだ。

 行き先を告げると運転手は出発時刻だけを伝え、準備に取り掛かった。

 隅に設置してある、不揃いな丸太を縄で縛っただけの簡素な椅子に腰掛ける。ポケットから懐中時計を取り出そうとするが、時計台が見えることを直前で思い出し、顔をあげる。

 時刻を確認すると同時に、乗降場に訪れる人々の顔を見た。

 まだ朝早いこともあり行き来する人の数は疎らだが、それでもすぐ目の前にいる者たちが自分のことを知らないというだけで、ヘーゼルは酷く安心していた。

 レインブリーズという鬱陶しい名前さえ教えなければこれ以上傷つくことも、故意に傷つけられることもない、と。

 寂しくないと言えば嘘になるが、日記の中で悲嘆する過去の自分も救えるのならば多少の寂寥など気にせずにいられた。

 時計の針が運転手の言った時刻を指示し、ヘーゼルは荷物を抱え馬車に乗った。

 これから赴く土地はもしかすると辺鄙なのか、ヘーゼル以外の乗客は一人しかおらず、荷物をぞんざいに置いても足を目いっぱい伸ばしても大丈夫らしい。

 ネイビーのチェスターコートに同色のボーラーハットを目深に被ったもう一人の乗客は腕組みをしたまま頭を垂れていた。どうやら長旅になることを想定して居眠りの準備だろうか、とヘーゼルはようやく白んできた空を仰いだ。

 こんなに空を見上げるのはいつぶりだろう、と幼い頃の自分に問いかけそうになる。

 ツツジの鮮やかな赤紫を少し零したような空に、まだ薄っすらと月が浮かんでいる。

 視線を下げると既に運転手は座席に着いており、気怠そうな声で出発を告げた、そのときだった。

「ヘーゼル!!!!」

 両親の声よりも聞き慣れたそれはあまりにも大きかったようで、周囲の人間が一斉に振り返った。

 ヘーゼルも例外ではなく、思わず声をした方を見てしまい、風にたなびく亜麻色の髪が真っ先に視界に入った。

「……どうして」

 か細い声で問いかけてみるが、ロジャーが降りると同時に黒毛の馬がブルルと鼻息を鳴らしたせいで、全てかき消されてしまった。

 手綱を右手で確りと掴んだまま、大股でヘーゼルの元へ歩み寄るロジャーは八の字を寄せている。

 謝ろうと口を僅かに開いたが、幾許もなくロジャーの左手がヘーゼルの右手にのびた。

「帰るぞ」

 それだけ言うと、ロジャーは一頭と一人を掴んだまま踵を返し、乗降場とは真逆の方へ進む。

「やっ…………」

 眉を顰めながら強引に振り払う。

 パシッと乾いた音が響き、ヘーゼルは申し訳なさそうに俯いたが、いくら言葉を探してもその正解は見つからずただただ黙るしかなかった。

 空いた左手を一瞥し、ロジャーは今にも泣き出しそうな顔で唇を震わせたが、今度は無言でヘーゼルの荷物を奪い取った。

「……返して」

「……家に着いたらな」

 問答無用、という風に脇目も振らずスタスタと歩き出す。

 頭一つ分は高い背のロジャーが早歩きをすると、ヘーゼルは必然的に小走りになってしまう。腕を伸ばしてやっとのことで追いつき荷物を鷲掴みにしたが、ロジャーも易々と手放してはくれなかった。

「あのね」

 乱れ始めた呼吸で必死に声をかける。

「私……」

 微塵も振り返らないロジャーは、今どんな顔をしているのだろうか。

 恐る恐る言おうとしていた最後の言葉を添える。

「全部、思い出したの」

 その一言にロジャーは一驚を喫したのかピタリと立ち止まり、懸命について行ってるヘーゼルはその大きな背中にぶつかってしまった。

 ぅわぷ、とおかしな声を上げ、真っ先に潰れた鼻をさする。それから徐に開いた目に飛び込んできたのは、いつ見ても変わらない澄んだ碧い双眸だった。

「……辛いことも思い出しちまったか」

 伏し目がちにヘーゼルの頭をくしゃりと撫でるその所作があまりにも優しく、ほんの一瞬決意が揺らぎそうになる。

 一方のロジャーもヘーゼルが父親からぞんざいな扱いを受けていることを知っていた。全てを思い出したとなるとこの突然の家出も理解できなくはない。

 だからと言ってここでそれを認めてしまったら、二度とヘーゼルに会うことはないだろう、とロジャーには分かっていた。

 この手が届く場所にいて欲しいと思うのはあまりに自己中心的すぎるだろうか、と脳内で論ったが、それでもやはりヘーゼルが居なくなることには堪えられそうにない。

 リリスにも何か考えがあるに違いないが、今ここに居ない者に妙案を求めることはできない。

 ヘーゼルが納得した上で、家業から少しでも遠ざかることができる方法。

 それは──。

「け、けっこ、ん、とか」

「えっ?」

 はっきりと聞きとれなかったヘーゼルは、首を傾げながらもう一度言うように頼んだが、ロジャーは頑なにそれを拒否した。

 何を口走っているんだ俺は、と己を叱り適当に誤魔化す。

 無理矢理にでも連れ帰る予定だったがヘーゼルを前にした途端に、まるで歯車がガタガタと噛み合わなくなるように調子が狂ってしまった。

 記憶を取り戻したヘーゼルが行方不明になる前と同じ調子でロジャーに話しかけているせいだろうか。

 やはり他人行儀な態度より、自然と他愛もない会話をするヘーゼルが好きなのだ、とロジャーは忘れかけていた幸せを噛み締めた。

 心臓が大きく脈打つのを感じ、導かれるようにヘーゼルの肩に頭を預ける。

 そして馬と荷物を放し、ヘーゼルの華奢な身体を両腕で包み込んだ。

「ろっ……ロジャ……何して」

 子供の頃はしょっちゅう手を繋いだり、背負われたり、肩を組んで歩いたりしたが、いつからかそれらは当たり前でなくなった。

 それはロジャーがヘーゼルをはっきりと恋愛対象と認識してからだった。

 ヘーゼルも大きくなるにつれて年頃の男女の距離感を次第に学んでいったが、ロジャーの心を知らないヘーゼルはますます置かれている状況に混乱してしまった。

「……に……くれ」

「……え?」

「傍にいてくれ、ヘーゼル」

 身体を少し離すと、ロジャーの顔は真っ赤になっていた。

 凍てつく空気のせいではない、と色恋沙汰に関してはやや疎いヘーゼルにも分かった。

 それはただの同じ家業の下に生まれた幼馴染ではなく、一人の少女に向けた精一杯の告白であることを。

 けれども自分たちの感情で、一生を共に添い遂げる相手を選べないことも知っていた。

 貴族や豪商とはことなる位置づけではあるものの、吸血鬼祓いの一族も政略結婚は例外なく行われている。つまりはどんなにロジャーが望んだとしてもその通りに事が運ぶとは言い切れない。

 そして何よりヘーゼル自身がロジャーに対して、恋慕の情があるのかと訊かれると首を縦に振ることができないのだ。

「ありがとう、ロジャー。……でも、ごめん、私じゃロジャーには吊り合わないよ」

「吊り合いとか……そんなの俺は関係ない」

「関係なくないよ。ロジャーは吸血鬼祓いとして立派にやってるけれど……私は」

 エリカの射殺すような視線を思い出し肩を震わせる。

 あぁきっと彼女はロジャーの恋心を既に知っていたんだな、と今更になって納得をした。

 周囲の目が気になったのと、ロジャーからの好意を受け取ることができず、腕をロジャーの胸に押し当て突っぱねる。

 しかしロジャーも素直に解放してはくれなかった。

 剣術では圧倒的にヘーゼルの方が優位だが、単純な腕力では到底敵わない。

「やめ……」

 強く抱きすくめられ身動きがとれない。コートから香るほのかな薔薇の匂いは幼い頃を否が応でも思い出させた。

 ロジャーのことは昔から好きだった。優しいけれどあまり素直ではない上に口が悪いので、よく大人たちに叱られていた。それでも成長するにつれて面倒見の良さが際立ち、大勢の人に慕われるようになった。

 そんな周囲の内の一人でいたかった、ただそれだけなのに。

 もうただの幼馴染には戻れないことを悟ったヘーゼルの目からは、大粒の雫が零れた。

 鼻の奥がツンと痛み、次から次へと涙が流れてくる。

 精も根も尽き果てたヘーゼルは手を引かれるままに、己の意志もなく歩いた。

 このまま家に帰ったらどうなるのだろう、とぼんやりと思考を巡らせるが、何も思い浮かばない。というよりは、もう何も考えたくなかった。

 ロジャーの骨ばった指に絡んでいる自分の手は、冷え切っていて既に感覚がない。凍てつく風が一陣吹き、反射的に目を瞑った、その刹那。

 身体が後方に引っ張られる。

 繋いでいた指が解け、ロジャーがもう一度掴もうと必死な様子で腕を伸ばした。が、その手の中にあったのはただの空気だけだった。

 注意を欠いていたとは言え、何の気配も音もしなかったため、態勢を立て直しながらヘーゼルは振り向くと同時に相手の顔を見上げた。

「な………!?!?」

 拳を一発食らわせるつもりだったが、見知った顔にそんなことをする訳にはいかない、とヘーゼルは右手を引っ込める。

 勢い余ったせいで足がもつれたが、転ぶ前にしっかりと全身を受け止められた。

 やおら目を開くと、そこには温かそうなネイビーの生地があった。

 地面に同色の帽子が落ちているのを確認し、もう一度その持ち主の顔を見る。

 少しだけ顔を出した陽の光を受けて煌めく金髪。紅玉を埋め込んだような瞳は真っ直ぐにヘーゼルを見つめている。

「久しぶり……でもないか」

 それはヘーゼルが一番多く見ている、ウィルフレッド・ミルズ・レイヴァースの柔らかな笑みだった。

「ウィ…………」

 今までどおり名前を呼びそうになったが、慌てて口を手で抑える。

 どう呼べば良いのか考えあぐねていると、ウィルフレッドは靭やかな動きでヘーゼルの背中に手を回し、薄紅色の唇の前で人差し指を立てた。

 二人のどこか親しそうな様子が気に入らなかったのか、ロジャーは顔を顰めながら大股で二人に近づく。

「こりゃどーも」

 ヘーゼルに手を貸したことに対してなのか、無味乾燥な礼を口にすると、普段剣を振り回しているとは思えないほどか細い腕を掴み、自分の方へと引っ張ろうとした。その一瞬のことだった。

 パシッと乾いた音が響き、ロジャーの手が弾かれる。

 代わりにヘーゼルの手を握っていたのは、ウィルフレッドで、心做しかその表情は硬いものだった。

 それからは双方一言も話さず、睨み合い、膠着状態になった。

 口火を切ったのはウィルフレッドの方で、

「いけないな、女の子をそんな風に扱うなんて」

と、気の遠くなるほどの年月を生きているであろう年長者の重みのある言葉を繰り出す。

 ウィルフレッドの正体に未だ気付いていないロジャーは、ムッとしながらも素直に二人から距離をとった。

「もしかして、ヘーゼルの言う恩人ってあんたのこと?」

「恩人?そんな大層なものじゃないが、記憶のない彼女に衣食住を提供したことはあったな」

 それを恩人と言うんだよ!と噛みつきそうになるが、グッと堪える。

 どうやらこの男はなかなか食えない奴らしい、と考えることが得意ではない頭で、この場を打開する妙案を捻りだそうとする。

 しかし先手を打ってきたのはまたもやウィルフレッドの方で、胸元から何やら液体が入っている小瓶を取り出した。

「何だよソレ」

「あぁ、これのことか?少し落ち着かねばと思ってお気に入りの香水の匂いでも、と。君も嗅ぐか?」

 そう言ってウィルフレッドはロジャーの方へと小瓶の口を向ける。

 恐る恐る鼻先を近付けたそのとき、急激な睡魔がロジャーを襲った。

 視界がぐにゃりと歪み、突然重くなった頭は重力に従って積もった雪に沈んでいく。

 ヘーゼルの名を掠れた声で呼び続けるが、見えている世界は暗闇に包まれ、ロジャーは静かに目を閉じた。

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