幼虫
下心のない、気持ち悪くない優しさは、不自由でちょっとクレイジーなのかもと思うのです。
男は座席に静かに座った。つり革を掴んでいた手でカバンに触らないように注意した。誰が触ったかわからないつり革など本当は触りたくなかったが、そのせいで転んでしまうのは恥ずかしかった。男は目だけを動かして周りを眺めた。横一列に靴が並んでいる端に、綺麗で長い脚を見つけてふと顔を上げる。悪くない。綺麗ではないが、可愛いと言える容姿。電車に揺られて横で寝ていたサラリーマンが男にもたれかかってきた。大げさに身をよじりそれを避けながら、女をもう一度見る。大胆に脚を露出したラフな格好は、程よく肉付きの良い体によく合っている。横のサラリーマンを肘で小突いているとやがて電車が止まり、視界に骨張った手が入ってきた。その年季の入った手は視界から女の脚を遮るようにぶら下がっていた。男は老人の顔を見ることなく、すっと立ち上がった。
「おや、すみません。ありがとうございます。」
男性だったのか。
「すぐ降りますから。」
男は小さく笑顔を作ると、少し移動してつり革をつまんだ。ちらりと横を見ると、女は脚を組んだまま携帯にしがみついている。男はふっ、と自嘲して笑った。別に女に自分の優しさを見せたくて席を譲ったわけではない、そう自分に言い聞かせるように身をよじり、女に背を向けて別のつり革をつまんだ。ふと、視界の端に小さな虫が入った。小さな音をたてながら顔の周りを飛んでいる。首をひねらせ手で払っていると聞き慣れた駅名がアナウンスされた。いつの間にか駅に着いていたことに気づき、男は急いで電車から這い出た。
周りを見回しながらふらふらと歩いていると、住宅街の中に突然、森が出現した。見慣れた帰路に飽きて男は遠回りをしていた。近くに少し大きな公園があることは知っていたが来たのは初めてだったので、男はゆっくりと公園の中へ進んでいった。木々は男を迎え入れてくれた。木漏れ日の間を縫って、少し湿り気のある地面を滑らないようにしっかりと踏みしめる。風に木々が揺れる音が心地良い。鳥の声が聞こえてはっと顔を上げると、風に揺れる葉ばかりが見えた。右に左に肩ごと大げさに体を動かして緑を眺めていると、木々の間に小さな池が見えて男の興味を誘った。道に沿ってのそのそと近づいていく。木々の間を抜けてたどり着いた池は、ところどころ藻が浮いていて少し残念に思った。あまり美しくはない。近くに生える花々も澄んだ池を眺めたかっただろう。花に囲まれ飛ぶ蝶もまた不釣り合いで、鮮やかで美しくこの池とは別世界に思われた。体を包む柔らかな風に花が小さくなびき蝶と共に踊った。蝶が高く舞い上がる。つられて顔を上げると、予想外のものが目に入り男は眼をこすった。花々の中に、車椅子の少女がいた。長く美しい髪が花と共にさらさらと流れる。澄んだ白色のブラウスは住宅街には華美だが、おかげでより幻想的に見えた。しばらく少女に見惚れ、男は、なるほど彼女が蝶か、と思った。ゆっくりと少女に近づいていった。少女は車椅子に座ったまま前かがみになって手を伸ばしていて、何かを取りたいらしい。花々の間へと伸ばしている腕は細長く、簡単に折れてしまいそうだった。近づいてきた男に気づくと、少女は少しはにかんで佇まいを直した。
「俺が代わりに取りましょうか?」
少女は驚いた様子で少し口を開いた。
「すみません、わざわざありがとうございます。」
少女は鮮やかな笑顔を作った。美しく整った顔立ちだった。男は少女の側へ寄って、先ほど少女が手を伸ばしていた辺りを探した。
「そこの虫を、どうしても近くで見たくて。」
少女が指を伸ばした。白く細いその指を見、流れるように視線を走らせ、花々の間を抜けるとそこには、親指ほどの大きな大きな芋虫がいた。うっ、と思わず声を漏らしそうになった。毒々しい鮮やかな色をした模様を動かしながら、大きな芋虫はゆっくりとゆっくりと、葉の上で体をひねらせていた。気持ちが悪い。少女の方を見ると、美しい笑顔でその芋虫を指差していた。
「この芋虫ですか。」
何かの間違いであって欲しいと思ってした最後の確認だったが、少女は嬉しそうに頷いた。
「あ、もしかして、虫は苦手でしょうか。」
少女が気付いてくれてありがたいと思ったが、申し訳なさそうな顔で見つめられ、男には断ることができなかった。花の間に分け入り、ゆっくりと指を伸ばしひょいと芋虫をつまんだ。その柔らかさに男は鳥肌が立った。急いで少女の元へ芋虫を持って行き、嬉しそうな顔で広げている手へとそれを落とした。すかさずつまんだ指をズボンで拭く。帰ったらすぐズボンを洗おうと男は決意した。少女は笑顔で手の上のそれを眺め、優しく撫でた。
「この幼虫は、優しい色をしていますよね。」
少女が呟いた。男はどうしても嫌悪感が拭えず、曖昧な返事を返した。
「家に、もう数匹いるんです。集めていて。捕まえられて良かった。本当にありがとうございます。」
少女はその髪を揺らしながら、男に大きく頭を下げた。気の利いた返事をしたかったのだが、上手く言葉が出てこなかった。しばらくの間嬉しそうに芋虫を眺める少女を、男はじっと見つめていた。
初めて少女と会ってからそれほど日は経っていなかったが、公園の景色はもう隅々まで見慣れたものになっていた。男は草をかき分けてあの気持ちの悪い芋虫を探していた。努力はしたが、相変わらず少女の感性は理解できない。男は気持ちの悪いものを求めている自分が面白くなり、自嘲して少し笑った。やがて顔を上げ、腰を伸ばして道へと戻った。軽く地面を蹴り靴に付いた土を落とす。今日は諦めるか、と思った矢先、近くの葉にあの芋虫を見つけた。男は嬉々として近づき芋虫を拾い上げると、片手で包んで池へと走り出した。少女は毎日、あの池にいた。車椅子で1人、じっと花を見つめていた。男はいつもしばらくそれを遠くから眺め、ゆっくりと近づいていくのだった。少女は男を見つけると鮮やかな笑顔を見せたので、男も微笑みを作り、ずっとそうしてきたかのようにゆっくりゆっくりと少女の元へ近寄った。はい、と手を出して芋虫を渡すと少女の顔は緩やかに明るくなり、それから申し訳なさそうに男を見た。
「今日もたまたま見つけただけだから、気にしなくていいよ。思ったより、たくさんいるものだね。」
それでも少女は毎日、初めて会ったあの日と同じように頭を下げた。
「優しいのですね。」
少女は微笑んで男へ顔を向けた。その笑顔はあまりにも弱々しく、美しく、男は思わず視線を逸らした。男はこれが優しさではないことはわかっていた。少女との仲を深めたいという下心を思うと、少女の笑顔を直視することができない。あの気持ち悪い、ぶにぶにとした芋虫を思い出す。その柔らかさにはいつまで経っても慣れなかった。少女の体も、きっと柔らかいのだろう。それは、どんなに心地よい柔らかさなのだろう。視線を少女の身体中に這わせている自分に気づくたび、男はぐいと体を曲げ池を眺めた。相変わらず男には、美しい花壇に不釣り合いな汚い池に思われた。やがて真に綺麗になることはできるのだろうか。自分も、池も。しばらくぼんやりしていると、声をかけられて男は少女に視線を戻した。少女は、日を追うごとに男と打ち解けてはいるものの、相変わらず掴むには至らない。そんな少女はひらひらと舞う蝶なのだ、と男は思った。
毎日、毎日、男は池へと向かった。少女はいつもそこにいた。どこにいても男は少女のことを考えていた。芋虫のことを考えていた。停車駅を告げるアナウンスが流れると、人がどっと押し寄せ電車に詰め込まれた。沢山の傘が男に当たる。乾いていようと不快なことには変わりなかった。男は身をよじらせる。芋虫のようだな、と男は思った。毎日、毎日、毎日、男が届けている芋虫はどのように飼われているのだろう。今の自分のように、ぎゅうぎゅうと詰め込まれているのだろうか。だとしたら、とても、気持ち悪い。気持ち悪い。男は自分が届けた芋虫を思った。どれだけの数を届けただろうか。なんて気持ちが悪い。男は笑うこともできなかった。電車を降りると急いで公園へ向かった。入り口近くの草に早速芋虫を見つける。今日は運が良い。片手で包んで道を進むと、再び鮮やかな模様が目につく。探してもいないのに、二匹も芋虫を見つけるのは初めてのことだった。男は顔がほころぶのを感じた。2匹目の芋虫を手に取ると、そこら中の草木をかき分ける。3匹。4匹。まだだ、もっとだ。靴が泥だらけになるのも気にせず、男は芋虫を探し続ける。既に、いつも少女の元へと向かう時間は過ぎていた。辺りが赤く染まり始め、初めて男は時間の経過に気付いた。普段なら、まだ少女は池にいる。両手いっぱいの芋虫を握りしめ男は池へと走った。階段を一つ飛ばしで駆け降り、道を外れて近道をして、あの花の元へ飛び降りるとそこには、少女はいなかった。花、花、花。ぐるぐると辺りを見回す。そこに少女の姿はない。なぜだ、いつもならこの時間まで、ここで花を眺めているのに。右手に力を込める。芋虫の柔らかさを感じる。ぎゅうぎゅうと、右手の中に詰め込まれている。ぐるぐる、と見回す。少女の姿はない。これだけ、頑張って探してきたのに。どうして今日に限って。右手にさらに力を込める。ぶちっ、と音がして、右手の指から何かが垂れる。ぶにぶにと柔らかい。次々と、小さな破裂音が続く。力一杯右手を握りしめた後、その拳を開く。指先へと垂れていく。花、花、花。左手を高く上げる。芋虫を草花へと投げつける。男は息が荒れていることに気付いた。右手の異様な感触に鳥肌が経った。背後で水たまりを踏む音が聞こえてゆっくり振り返ると、少女と目が合った。少女は表情を変えず車椅子を進めて近づいてきた。
「今日も、来てくれたんですね。」
少女はいつもと変わらぬ声で、男に話しかけた。
「何か、あったのですか。お話、きけませんか。」
少女が怒ったり怖がったりするのではなく、真っ先に男の心配をしたということに、男は強く嫉妬した。
「俺は、どうしても、気持ち悪いよ。」
男は少女に背を向け、歩き出した。
昨日の右手の感触は一日中残っていた。日をまたいでも、ぽたぽたと、右手を何かが滴るような気がしてその度に鳥肌が立つ。男は重たい足で池へと向かった。公園の道はまだ湿っていて、男は滑らないようにゆっくりと進んだ。花々が見える。相変わらず鮮やかに、美しい。近づくと花から蝶が飛び立った。手を伸ばすと蝶はその指先に止まった。羽を触ると手に鱗粉が付き、羽は簡単に折れてしまった。少女はいつもと同じように花を眺めていた。昨日男が作った染みが車椅子の横に見える。男がゆっくりと近づいていくと、少女は鮮やかな笑顔を見せた。しばらく2人で花を眺めていた。今日は、幼虫を連れてきてくれなかったんですね、と笑う少女は美しかった。
「幼虫は、いずれ蝶になるんです。だから、気持ち悪いなんてこと、ないですよ。」
少女はまっすぐ前を見て言った。ああ、花じゃない。彼女は池を見ているんだ。
「優しいんだな。」
少女はいつも通り微笑んだ。その人形のように無機質な微笑みに、男は強い憧れをもっていた。少女が言うのなら、いつか自分も羽ばたけると信じてやろうか 。少しくらい、汚れているのも我慢しようか。
「気持ちは悪いよ。」
男は花を見て呟いた。
「でも、嫌いじゃなくなった。この幼虫は。」