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観光業の好景気と、ちょうど日本で開かれた国際的なスポーツ大会により。日本国内は労働者不足に悩まされていた。
コンテンツ産業もそれは例外ではない。《小咄菊造くん》により、面白いストーリーは作れても、面白いストーリーを再現するための人手が足りなかった。
必然、海外へ製作を下請けすることが増える。これが逆にタイミングが良かった。
お隣の韓国に中国は既に人件費が高騰している。白羽の矢が立ったのはインド、そして東南アジアだった。
距離的な問題は、インターネットがある。コンテンツ産業で扱うのは今や、大半がデジタルデータと化している。遠くとも納品に問題はない。
コンテンツのグローバル化という観点から、インドとは不思議な国だった。国内の供給だけで、ほぼ国内需要が満たされてしまっている。つまりはコンテンツの自給自足が成り立っている。アメリカ一強の現在、これは日本の他にはインドくらいのものだろう。
全世界で流通している映画収益の五十パーセントはハリウッド映画が占めている。だがハリウッド映画の放映権は高価だった。
するとイスラム・ヒンズー圏、更にはロシア圏へは安価なインド映画の方が多く流通することになる。すると経済的にはともかく、視聴者数的にはインド映画の秘めた力は計り知れないものがあった。
自給自足しているインドにとってハリウッドは敵ではない。だがハリウッドのような、世界へ向けた覇権意識もギラギラと抱いている。インド版ハリウッド・ボリウッドには情熱あるクリエイターが大勢、集まっていた。
だからハリウッドのノウハウも積極的に取り入れる。取り入れるが、でも最終的には全く揺るがない。それがインドだった。
だが揺るがないゆえの苦悩もある。
例えば「歌と踊り」がない映画は、インド国内で通用しない。必ず入れる必要がある。すると、どうしても様式として古臭くなってしまう。
そこへ中国との軍事的な対立だ。中国はコンテンツ産業のソフトパワーによってもインドと対立する、という戦略を立案していた。思想的な自由はないものの。中国市場の勢いは侮れない。中国との対立に勝つためにも、インドは新しい風を吹き込んでくれるパートナーを必要としていた。
そこに《小咄菊造くん》を携えた若門書房が、提携の話を持ってくる。お互い、渡りに船だった。まずはフォーマット・トレード。そして共同企画による制作。日本とインドは急接近していった。
不思議なことに、《小咄菊造くん》で作られた物語は、どこか日本人好みに合った作風になる。例えば、勧善懲悪、因果応報、判官贔屓といったように。
これは恐らく内蔵辞書に、日本語の国語辞典や、歳時記などを使っているため。長い年月の間、日本語独特の構造が、日本人の気質を作り上げてきたからだろう。
どうやら日本語の特性を活かしたプログラムの《小咄菊造くん》は、日本人の気質に合わせた物語を作ってしまうようである。
そして日本人好みな物語というのは、イスラムやヒンズーのモラルと相性が良かった。
というよりイスラムはアメリカの個人主義に対して、どうしても拒否感を覚えてしまうというのに。当のアメリカ人はそのことに気づいていない節がある。だからハリウッドはローカリゼーションが苦手なのだろう。
他民族国家ゆえ、インドはローカリゼーションを得意とする。だからハリウッドの手法を積極的に取り入れても、決してブレない。
またグローバル市場に対してもインドコンテンツは、ヒンズー・イスラム圏への輸出拠点として機能している。
そのノウハウに若門書房は目を付けた。
世界のエンタテイメントのシェアは、収益はアメリカが支配しているも同然。だが流通している作品数ならばインドが勝っている。
しかし、ここに「面白さ」の計測はあるのだろうか? コンテンツの世界とは、一作の大ヒットが、その他の駄作を駆逐してしまうもの。そして日本には《小咄菊造くん》があった。
遂に日本コンテンツがグローバル市場へと踏み出そうとする。




