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 トリシャは落ち着かない気分で長椅子に腰掛けていた。

 ふかふかの椅子は、うっかりすると沈み込んでしまいそうに心地いい。

 椅子を覆う布地は、見事な模様が浮き出ている織物だった。

 普段ならトリシャがまず座らない椅子、だ。心地いいけれど、同じくらい落ち着かなくて困る。

 足に怪我さえしていなければ、とトリシャはため息をつく。

 後宮から連れ出され、あれよあれよという間にここへ連れて来られ。

 大人しくここで待っていてねとこの部屋へ放り込まれてしまった。

 ここが何処かを問う間もなかった。

 トリシャを連れてきた宰相はすぐに姿を消してしまったし、足を手当てしてくれた、この棟の侍女に尋ねてみても、宰相様が戻られたら説明されます、としか答えてくれなかった。

 居心地の悪さと……何より不安を抱えたまま、ここで待つしかなかった。

 トリシャは明らかに後ろから突き飛ばされていた。後宮で自分がそんな目に遭う覚えといえば、側室方がらみしかない。キリから自分を引き離して、それから……。考えたくもない光景が頭をよぎりそうで、慌てて頭を振った。

「大丈夫よ、きっと。宰相様も大丈夫だって心配しないでいいからって仰ってたもの」

 きつく両手を握りしめて、言い聞かせる。そばのテーブルの上には、茶が入った茶碗と茶器が置かれているが、それに手をつける気にはなれなかった。もうすっかり冷えてしまっているだろう。

 そうして。不安な時間はとても長く感じられたけれど。

 扉の外が騒がしくなっているのに気付き、トリシャは俯けていた顔をあげる。誰か来たのだろうか。 もしかしたら……その期待を込めて、扉の方を見た。

「ああ、ごめんね、だいぶ待たせちゃったね。どうぞ、おはいり下さい」

 ひょこりと宰相が扉の影から顔を覗かせたかと思うと、後ろを振り返り誰かを促している。

 開いた扉から、待ち望んでいた人が姿を現した時、本当なら駆け寄りたかった。安堵のあまり泣き出してしまいそうだった。実際は立ち上がったものの、足の痛みですぐに座りなおしてしまったのだけれど。

「ああ、立たないで。足を捻ったと聞きました。大丈夫ですか」

 キリが椅子の傍に屈み込み、心配そうに見上げてくる。

 仕える主を差し置いて、座ってなどいられないとトリシャは再び立ち上がろうとしたのだが、呻くだけに終わってしまった。

「トリシャ、いいから座っていて下さい」

「いえ、大丈夫ですからっ、っ、いたたたたっ、キリさま、そこ痛いですからっ」

「触られるだけで痛いんでしょう。大人しく座っていて下さいね」

 すこしひんやりとした声でキリが言った。

 トリシャはもう言い張る気もなく、おとなしく頷いた。

 キリは、あのやんちゃな双子のお子様たちにも、声を荒げる事が殆どなかったが、時に大声で怒鳴られるよりも恐ろしい怒り方をする。

 まさに、その時の声音にトリシャは白旗を上げた。

 その遣り取りを、宰相はどこか面白がるような目で眺めていた。見てないで何とか言って下さいよとトリシャは思う。

 侍女が室内に入って来て、テーブルの上の茶器を片づけていく。

 長椅子の前に座り心地のよさそうな椅子を移動させ、テーブルの上には新しい茶器が置かれた。

 どなたか、この部屋に来られるんだろうか。

 首を傾げながら、その光景を見守るしかない。

 侍女とはいえ、トリシャがここで手を出すことは出来なかった。彼女たちの職分を侵すことになるから。

 とても居心地が悪くはあっても。

「キリさま、どうぞお掛けになってお待ちくださいね。すぐに来られるそうですから」

 宰相は長椅子をキリに示す。キリは、でも、と幾分困惑したような声をあげた。

「でも、掛けたままお待ちするのは……」

「そのように、と申されておりますのでね。もしキリさまがお嫌ならお好きになさっても構いませんが、なにその時は私があの方にお叱りを受けるだけですので」

 にこりと笑う宰相の顔は、容貌は違っても国元にいる“彼ら”のものと同じだった。

 うわ~……ここにもリヒトさまたちと同類がいる……。

 “客人”であるキリを王城で保護する事になったときも。王の娘として迎えると決めた時も。

 うん、キリの好きにしていいけど、でもね。

 時には悲しげな顔をつくり、時には嬉しそうな顔を作り、キリの良心を疼かせるような言い方をして、言質をとってきたのだ。

 あくどいわねえと思いながらも、トリシャに全く異論はなかった。

 それどころか、リヒトさまあと少しです、と澄ました顔で応援さえしていたのだから。

 宰相さまは呆れていらっしゃったけど、でもやっぱりご同類よね。涼しい顔で後押ししてくれたんだもの。

 ここに居てくれた方が、私にしても嬉しいです、ってすっごく珍しい笑顔つきで。

 やはり、こういう“あくどさ”がないと、権力者なんてやってられないのね。

「……わかりました」

 トリシャの内心など勿論知る由もなく、キリは隣に腰かけた。

「あの、どなたがおいでになるんですか」

 ここが王宮の中であることは、トリシャもわかる。贅を凝らされた内装からも、高貴な身分の方が使われる棟だということも。どう転んでも、相手はトリシャより高い身分の方だ。

「あのね、ここは……」

 キリの言葉が言い終わらないうちに、侍女の手によって扉が開けられ、すらりとした人影が現れた。

 宰相が腰を深く折って礼をする。

「王太后陛下、お越しいただきありがとうございます」

 その言葉に、トリシャは目を見開いたまま、硬直してしまった。



「ああ、そのままで構わぬ」

 王太后は気さくにそう言うと、向かいのソファに腰を下ろす。

 キリは目礼し、トリシャも座ったままで精一杯の礼をした。王太后は鷹揚に頷くとおもむろに口を開いた。

「こたびはこちらの不手際でそなたらにも迷惑をかけたな。済まない事をしたと思うておる」

 王太后はキリと、そしてトリシャとを等分に見、そして頭を下げてくる。うわ、王太后さまがっ、とトリシャは驚き、つい要らぬ事を口走ってしまった。

「え、あのこのとおり怪我もたいした事ないですしっ、いっ、たたたっ」

 立ち上がりかけて、再び椅子に沈み込んでしまう。さっきからこの繰り返しで、いい加減自分でも嫌になりそうだった。

 それにトリシャが言わずとも、キリが上手く返事をしてくれるのに。

 涙目で顔を俯けていると、宥めるようにキリが肩や背中を撫でてくれる。 わかっていますから、心配しないでとその手は言っているようで、少しずつ頭が冷えてくる気がした。

 そろりと顔を上げると、王太后はトリシャを咎める様子はなく、むしろ柔らかい笑みを浮かべてこちらを眺めていた。

 王太后陛下はたしか陛下の実母で。つまりはそれなりのお年であるはずなのに、そう見えないほどお若いなあ、と全く違うことを頭の隅で考えてしまう。

「王太后さま、謝罪には及びません。いささか恐ろしい思いも致しましたが、ちゃんと守ってもいただきました。わたしの身に関して言えば、少しでもお役に立てたなら何よりです」

「……そう、か。そなたがそう言うのであれば、わたくしは何も言うまい。なれど、そなたらにはこれまでの経緯を聞く権利がある。あまり気分のいい話ではないが、聞くも聞かぬもそなたら次第じゃ」

 はて、とトリシャは首を傾げる。単なる側室方の嫌がらせだけではなかったのか。

 キリは静かな目を王太后に向け、いいのですかと尋ねた。

「いいのですか。あまり他国に知られては、さし障りのある部分もあるでしょうに」

「よい。それこそアレがどうにかする。それにそなたらは巻き込まれた当事者じゃからの。詫び代わりに説明くらいさせてくれぬか」

「……それでは、お聞かせ下さいませ」

 キリがそう言うと、それまで静かに控えていた宰相が後を引き取った。

「それじゃあ、私から説明させていただきます。事の発端は、陛下のお妃問題で……」



 陛下がなぜ三人の側室を迎えているかは……ああ、ご存知なんですね。え、厨房の噂で知ったの。

 まあ概ねその通りでして。ご即位後少し色々あった所へ、あまりに煩く“お世継ぎを”と言われるものだから、とりあえず、と側室を迎えたのが事の始まりでして。

 側室方の実家は、もともと互いに競い合う間柄でして。

それが娘たちが後宮に上がった途端一層激しくなりましてね。死者が出ないのが不思議なほどの有様でしたよ。

 陛下としても、いい年になったというのに、妃にと望む方がなかなか現れなくてですねえ。側室方の家は煩いし、かといって下手に権力を持っているから、正当な理由もなしには黙らせる事が出来ない。

 そう、側室方の父親は大臣だったり貴族の上位だったりしますのでね。

 そんなときでした、東の国が、そちらの国との境へ侵入を繰り返していると知ったのは。

 これを好機だと陛下はとらえたのですよ。

 そちらの国へは、キリさまと婚姻を結ぶことで東の国への牽制となると説き、またこちらの国においては……“王みずから望んだ側室”を迎えることで、側室方、ひいてはその実家への牽制にしようと考えられたのです。

 むろん、外交的にキリさまと陛下の婚姻は効果がございましたよ。

 東の国の動きも、最近では随分大人しいものとなっているようです。とはいえ、すぐに国元へはお返しが出来ないと思いますので、もうしばらくはこちらでお過ごしいただくかと思います。

 ああ、キリさま、東の国に関しては、こちらでも頭が痛い問題ですのでね、お互いさまというものです。キリさまはもっと我儘に振舞っていただいて構いませんのに、ねえ。

 まあ陛下はあれで色々悪だくみをしますのでね、ただでさえ険悪な間柄の側室方の中に、“王自らが望んだ”側室を迎えれば、互いに潰しあってくれるかと思ったんでしょうが。

 もしくは望みなしと悟って後宮を辞するかと期待したんでしょうが。

 いささか予想が甘かったようでして。側室方も、そして仲のわるい三家も手を組んでしまいまして。

 ええ、それが、キリさまへの嫌がらせが酷くなった背景でもあります。

 けれど流石に、他国の王の“娘”に何か仕出かせば、それは外交問題です。

 それくらいは三家も理解しているかと思ったんですが……目の前の欲に取り憑かれた彼らには無理な話だったようですね。後宮の女官を抱き込み、内部への侵入を手引きさせてトリシャとキリさまを引き離して……それからキリさまを攫ったのですよ。

 ああ、トリシャ落ち着いて下さいね、キリさまは特段怪我も何もされていませんから。とりあえず話を進めさせていただきますよ。

 その後は、キリさまはご存知ですね。彼らはキリさまさえいなくなればと浅はかにも思ったようですが。

 何分杜撰な計画が成功するはずもありません。彼らは己が処分される理由を、自ら作りだしてしまったのです。

 どのような処分を下すか、それはまだ決定しておりませんが、今までのような権勢をふるえない事だけは確かです。そして後宮から、彼らの娘も出される事になります。彼女たちも関与していますのでね。



「……これが、今までの経緯と背景でございます」

 宰相は一旦口を閉じ、そしてキリとトリシャに向き直って深々と頭を下げた。

「あちらの国よりの、預かりものであるあなた方を、危ない目に遭わせてしまい、陛下ともども申し訳なく思っております」

 宰相の話で、トリシャがはっきりわかったことと言えば。

 何かが起こる事をわかっていて、陛下がキリを迎えたこと、だった。つまりはキリを利用したのだ。 

 東の国に対してだけでなく、自国の問題に対しても。 

 なにそれ、もともと自分の不手際じゃない、あんなひどい言葉しか吐かない男がっ。

 トリシャは口を引き結んで黙り込んでいた。そうしていないと、王太后の目の前で、陛下を罵ってしまいそうだったから。

 キリは淡々とした声で宰相にかえす。

「宰相様、頭をおあげ下さい。先ほど申しましたように、謝罪は不要です。わたしだけならば、お役に立てて何よりでしたと言うのですが……」

 キリの目がトリシャの足元へと向く。何だか嫌な予感がした。

「宰相様、トリシャを国元へお返しいただけませんか。もし何かあれば、わたしは悔やんでも悔やみきれません」

 トリシャは目を見開いて、腕組みをして唸る宰相と静かな瞳をしているキリとを交互に見た。

「キリさまがたは、こちらの棟で暮らしていただくし、護衛も増やします。なにより王太后陛下がおられる棟に何かを仕掛ける莫迦者はない、はずですが……何より、キリさまの侍女が一人もいなくなりますよ、色々お困りにはなりませんか」

「身の回りの事に関して言えば、一人でも不自由しません。ああ、こちらの衣装だけは手を借りるかと思いますけれどね。もともと、誰かにお世話されるような身の上でもありませんし。手伝っていただける方を寄こして下されば結構ですよ」

「そう言われましてもですね……とりあえず、本人の意思を確かめてみましょうよ。トリシャ、君はどうしたい?」

 宰相に呼ばれ、トリシャはそこで我に返る。

 このままだと、キリは国元へ自分を返してしまう。怪我などするような、危ない目に遭わせたくないと言って。

「キリさま、わたしは帰りませんよっ、わたしはキリさまの侍女なんですからっ」

「でもトリシャ、あなたに怪我をさせては、わたしは国元のご両親にあわせる顔がありません。今回はたまたま足を捻ったくらいで済みましたが、もっと酷い怪我をしていた恐れもありました」

「でも!キリさまも攫われたって……っ、せめてお傍にいれば何か出来たかもしれないのにっ」

「わたしは見てのとおり無事ですよ。そう、少し恐ろしい思いもしましたけど、無事助けていただいて、ここにいますから。わたしにはここでまだ役目がありますが、トリシャまで付き合う必要はありません」

 だから、帰りなさいと続けようとするキリの言葉を遮り、トリシャは叫ぶように言った。

「嫌です!わたしもここにいます!」

 困ったようにキリが視線を揺らす。表情をあまり変えないキリ。けれどその目は感情を映し出す。

 嬉しい時には輝き、困った時にはゆらゆらと揺れる。淡々として見える中にも、様々な色を持っていた。

 困らせたいわけじゃなかった。出来るならキリの望みを叶えたかった。

 でも自分が国に帰ってしまえば、キリはここで一人になる。ここでキリは不自由することなく過ごせるだろうとは思えるが、それでも。

 “客人”として城で暮らし始めた頃のキリを思い出す。

 寂しいとも悲しいとも言わずに、ただ淡々と日々を過ごしていた。

 寂しいとも言えない人だと、知っている。だからみなあれだけキリを構いつけたのだ。

 寂しいと少しでも思わないように。

 ここではどうだろう。確かに陛下はキリに好意を持っているのだろう。

 けれどあの調子ではキリを困惑させ、傷つけるだけだ。

 だから。

「わたしは帰りません!わたしがお側にいれば、この身に代えてもキリさまの盾になる事だって出来ます!だから……っ」

 言い募ろうとしたトリシャの口は、キリの指でそっと塞がれた。

「トリシャ、それは言っては駄目ですよ。己を賭けるのは、己の為にのみなさい。けして誰かの為にするのではありません。……もし、今度同じ事を言ったら、その時は国に帰しますからね」

 いいですねと念を押され、トリシャは頷いた。何度も。

 キリは宰相と王太后とに軽く頭を下げた。

「お騒がせいたしましたが、今までどおり二人とも、こちらでお世話になります。よろしくお願い致します」

 王太后は広げた扇で口元を隠し、優雅に笑う。

「ほほ、これしき騒ぎでもないわ。二人とも大事な預かり物じゃからの、妙な事を仕出かす輩が出ぬよう、触れまわっておくゆえ、安心するがいい」

「そうそう。こちらの王太后陛下を敵に回すほどの莫迦者はいないから、安心して下さいね」

 と言っても、勿論ちゃんと護衛もいるからと宰相は請け負うが。

 そこでトリシャには疑問がわいた。

 陛下は、王太后さまより組みし易いと思われてるとか……王太后さまが一番強いって事なのかしら?

 けれど懸命に口を噤んでいたトリシャだった。ひとまずは国元へ返されずに済み、安堵していたせいもある。

 王太后陛下の近くで過ごすと言うなら、あんな嫌がらせからは解放されるし、護衛をつけてであっても散策も可能だろう。

 やっとキリも籠の鳥ではなくなると思った。

 そうそう、ところでねえ、と宰相が言う。

「これまでのいきさつは今話した通りですけれど、これからの事をお話してもいいですかね」

「これからの事、ですか」

 キリの言葉に、ええ、と宰相はひとのわるい笑みを浮かべる。

 これから、なんてただ大人しく過ごすだけではないのだろうか。

 王太后もなにやら楽しげな顔つきでこちらを眺めていた。


「意趣返し、なんてしたくありませんか?」

 

 ええ、嘘から出た実になるなんて、思いもしませんでしたね。

 我ながらいい思いつきでした。

 のちに、宰相はとても晴れやかな顔で言いきったのだった。


                               

             




「側室方と陛下と……わたしとで、お茶会ですか」

「ええ。五日後に、ということで後宮の女官には申し入れしておりまして。名目としては、仕事で忙殺されている陛下をお慰めするため、としておりますが」

「まったくの詭弁じゃな。名目としても酷いものじゃが」

 王太后がふん、と鼻を鳴らす。宰相は動じた様子もなく、

「名目は名目として役目を果たせばそれでいいんですよ」と朗らかに答える。

 ……後宮は当分の間閉鎖する事になったらしい。

 本来特定の側室に肩入れしないはずの女官が、今回の件でいずれかの側室及びその実家の意向を受けていたから、というのがその理由である。

 そんな場所にキリさまを戻せませんしねえと宰相は言った。それに一人のためにあんな広い場所を維持するのも不経済だとキリは思った。

 後宮に居なくても構わないのなら、キリに異論はない。

 けれど。意趣返しとやらとお茶会が、どう関係するのだろう。

 王太后がテーブルの上の鈴を鳴らすと、侍女が部屋の中に入って来た。

 そしてお茶の支度をして、茶の入った茶碗を渡してくれる。

 お茶のいい香りがふわりと広がり、ほう、と息を吐いた。

 いつもキリにする事を、人からされるせいか、トリシャは少し居心地悪げだった。

 キリの隣に椅子を持ってきて、腰を下ろした宰相がお茶を一口飲んでから口を開いた。

「側室方が実家に戻される事は決定しています。ですが、それはまだ彼女たちには知らされていません。こちらの不手際でキリさまには大変ご不快な思いをさせてしまいましたので……もしも彼女たちに何か言いたい事がおありでしたら、この機会を利用していただきたいのですよ。憤るなり罵るなり、何でもお好きにどうぞ」

 にこにこと笑顔で宰相は言うが、丸い眼鏡の奥の目は笑っておらず、表情と話す内容が符合していないこと甚だしい。

 はあ、と答えながら、キリは自分の心の中を浚ってみた。

 彼女たちに言いたい事。大切な人を侮辱され、あるいは傷つけられた怒りは、ある。

 それと、たぶん彼女たちには響かないかもしれないけれど、言いたい事はあった。

「もし、キリさまが彼女たちと二度と顔を会わせたくないと思われるのでしたら、無理にとは言いません」

 キリはいいえ、と首を振った。

「そのお茶会に出る事にします。ただ作法などには疎いものですから、教えて下さいね」

「あまり構えなくとも大丈夫ですよ、あくまでも気晴らしの“お茶会”なのですからね」



 王太后が、少し用があるゆえ、と席を立ち、トリシャも足の治療のために席を外すことになった。部屋の中には宰相とキリだけが残された。

 実のところ、あまり男の人と二人きりになるのは、落ち着かない。

 が、それを知ってか知らずか、宰相は穏やかな声音を崩さず、ゆっくりとした口調で話してくれるから、少しは気が楽だった。

 お茶のお代わりを貰ったあと、宰相はキリに尋ねた。

「この際だから、他にも聞きたいことはありませんか?女官たちのせいで、色々行き違いがあったようですし」

 そう言われ、キリはふと思い出した。贈り物、のことを。

 自分は貰った覚えはないけれど、王は贈ったという、それ。

「陛下はもしや、わたしに何か贈って下さっていたのですか?」

 宰相は首を縦に振った。いささか苦笑気味に。

「ええ、それはもう色々と。衣装から装飾品から、お菓子の類まで。残念ながらあなたのもとへは、何一つ届かなかったようですね。女官がいずれかの……あるいは三家の意向を受けて処分してしまったようです」

「……そうだったんですか。では、宰相様から、お贈りいただきありがとうございましたと陛下にお伝えいただけますか。今度お会いした時に、わたしの口からも言いますけれど」

 色々贈っていたのに、礼の一つもなければ、それは気分も悪いだろう。

 そう言うと、宰相は微妙な表情を浮かべキリを見ていた。

「もしかして、そのうえで、これからは何も要りませんとか、仰るつもりでは、ありませんよね?」

「え、ええ、そのつもりですが」

 女官が贈り物を処分していたのなら、もしかしてキリが王への目通りを願ったのも、王へは伝わっていなかったのかもしれない。

 あの日王がやって来たのは、偶然だったのかと思う。

 はて、自分から訪れないと言った王が、あの日は何の用件があったのだろう。

 キリは、自分が望んだから王がやって来たのだと思い込んでいた。

 少し考え込んでいたキリだが、宰相のため息で我に返る。

「お願いですから、そんな事は仰らないで下さいね。さしあたってお茶会のために、新しい衣装やら装飾品を準備させるでしょうから、まずそれをお受取り下さい。あなたの立場を知らしめるためと、ある意味武装でもありますから」

 そう言われては、キリも頷くしかない。

 確かにあまり貧相ななりで、王に恥をかかせてはなるまい。

 似合うかどうかは、また別問題だけど、割り切る事にした。

 そういえば、と宰相が言った。

「王太后陛下が仰っていましたね、薄紫の衣装がとてもよくお似合いだったと。あれも陛下からの贈り物なんですが、まあ後宮の慣習ですから、あれだけはさすがに取り上げなかったんでしょうね」

 万が一キリさまが慣習をご存知の場合、色々面倒だと思ったのでしょう。

 え、とキリは目を丸くする。

「ご存知なかったですか」

「ええ。トリシャにも聞いたのですが、こちらでご用意されていたもの、と言っておりました」

「そうですか、女官は何も言っていなかったのですね。いえ、こちらの後宮の慣習で、名が決まった側室へ陛下からその“名”に関した色の衣装を贈るというものがあるんですよ。以前は歓迎の意味があったらしいですが、今では“名”と同じく形骸化しておりますがね」

「そう、だったのですか。こちらの慣習などまったく知らなかったものですから、陛下へのお礼も遅くなってしまいましたね」

 キリは薄紫の衣装を思い出す。

 側室たちが着ていた衣装とは異なり、あまり嵩張らないものだった。

 こちらの“当世風”の衣装では、キリに似合わないが、あの衣装は自分でも可笑しくないと思えた。

 その衣装を贈るよう指示したのは王だろうか。いや、とキリはすぐさまそれを否定する。多忙な王がそんな些細な事に時間を割くはずがない。

 けれど“キリ”を知らなければ贈らないような衣装ではあったから。

 それを嬉しく思った。

「……キリさま?」

 宰相が訝しげな声で呼びかけた。

「ああ、いえ失礼しました。あの衣装はトリシャにもよく似合うと褒められましたし、わたしも気にいったものだったんです」

 薄紫の、ここから遥か遠い地で咲く花に似た色の。

 その衣装を見た時、キリはもう帰れない場所を思い出した。

 心の底が揺れて……静まるまで、そっと目を閉じていた。

 大きな木と、そこに咲く花の幻影が消えるまで。

「お気に召されたのなら、何よりです。陛下もお喜びでしょう」

 安堵したような、満面の笑みを浮かべ、それから、と宰相は言った。


「陛下は、まあ多少変わった所がおありなんですが、どうか見捨てないでやって下さいね」


 キリははて、と首を傾げた。これと同じ事を王太后からも言われた。

 二人して一体どういう意味なのだろうと不思議に思ったのだった。





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