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「ご迷惑にならぬよう、いただいた部屋で大人しくしておりますので、どうぞわたしの事はお気になさらず」
所謂“初夜”の時。
側室として迎えたとはいえ、それはあくまで名目上のもので。
自分が触れていいかどうかは、また別問題だった。かの国の王や王子からは、“くれぐれもよろしく”という書簡をもらっている。
その背後に隠された意味は明白だった。
不用意に娘に触れれば、間違いなく小が大を呑みこむがごとくに、かの国は牙を剥いてくるだろう。いい度胸だとも食えぬ奴らだとも思う。こちらの思惑なども知られているはずだ。
それでも。折角手元に呼んだ娘だ。手出しはせぬものの、色々な話もしてみたいとの思いで娘の部屋を訪れたはずだった。
視線はまず娘の体に引き寄せられた。
娘は体の線もあらわな薄物を身にまとうだけで。
広い襟繰りから鎖骨がのぞき、やわらかそうな胸のふくらみが透けて見えそうだった。
側室たちのような豊満な体つきではなく、まだ青い果実のような……ほんの少女のような体つきだった。
それなのに、鼓動の音が煩いくらいだ。
何故自分が娘を気に掛けていたのか……ここへきてようやくわかったというのに。
それなのに、娘はそっけない口調で自分の事は気にかけるなという。
瞬時に頭に血が上った。恐ろしく低い声が出たが怒鳴り付けなかっただけマシだと思った。こちらが投げる酷い言葉にも娘は淡々と頷く。
酷い言葉を吐いているのはこちらのはずなのに、何故だか泣きたくなった。
酒瓶を抱えて宰相の元へ突撃したため、“初夜”の顛末は知られていた。 あくる日、こちらが二日酔いで苦しんでいるというのに、横で遠慮なく爆笑してくれた。
「あ~あ、お前すっかり悪者だよねえ。よく言って軟禁に、放置?それ宣言しちゃったもんね。で、言った本人が落ち込んでどうするの」
「うるさいっ。不用意にうろつくと側室の実家が何か仕掛けるかもしれないし、俺が通うと側室どもが嫌がらせするだろうがっ。それを防ぐためにだな……」
「という説明してないんだよね?絶対お前の評価あの子の中じゃ下がってるな。ま~もしかしたら“仕方なく側室にしたから、あまり構いたくない”とか受け取ってるかもね。本当はその反対なのに」
「うるさいっ。俺だって、あれがあんなことを言わなけりゃ……」
「はいはい、お前は何が気にいらないの。仕方ないでしょ、あの子は王の養女っていう“立場”でここへ来た。お前はあの子をその“立場”ゆえに利用する。互いが互いの為に利用する関係であって、それ以上でも以下でもない。わかってるんだろ?今回、非はお前の方にあるよ」
「……わかってる。でも、あれに“俺”が要らないって言われたみたいで……それで腹が立ったんだ」
うーんと宰相は腕を組んで考え込む。
「あ~……あの子、お前に迷惑かけたくないって意味でも言ったんだろうけど、もしかしたら単に煩わしいのが嫌なのかも?」
何がと目線で促せば、宰相は言いにくそうに言葉を続けた。
「お前自身はともかく、お前の“立場”には色々面倒なものがくっついてるでしょ?それと関わるのが嫌なんじゃないかなあ」
それから日々は何ごともなかったように過ぎてゆく。
世継ぎをと言う声は相変わらず煩く、渋々側室たちの元へ通う日々が増えた。王自ら迎えた側室に、いずれ正妃に迎えるのではと王宮内には緊張が走っていたが、一度訪れて以降王が全く通わないため、早くも飽きられたのだという声がひそやかにささやかれていた。
その分、現在側室となっている娘の実家や、これから娘を送りこもうと画策をしている家の間が何かと喧しい。
ため息しか零れない。
通わないと宣言した手前、近くにいても会うことが出来ないでいる。
娘付きの護衛によると、娘は一度も部屋の外に出た事はないという。
ただ無聊を慰めるためか図書室から大量の本を借り出しては読んでいるらしい。籠の鳥の生活は窮屈だろうに、娘からは何も言ってこない。
なにより。
「……つまらぬことをする」
王が通わないのを嘲るように、娘は嫌がらせをされているらしい。王が望んだ、その事実のみでも側室たちにとっては腹立たしいのだろうか。
娘は何も言わない。言葉通り煩わせたくないと思っているのか、それとも全く頼りにさえしていないのか。
信用されていないのだろうか。考えると何やら気分が落ち込んでくる。
どうであれ。
娘は此処に居るのだ。自分は確かに間違えた。けれどそれを正す機会は……まだ残っていると思いたかった。
恭しく開けられた扉の中に入る。
「陛下、おいで下さって嬉しゅうございます」
熱っぽい言葉とともに、しなだれかかる豊満な体。甘ったるい香水の匂いに辟易する。
あの娘の細い体を思い出す。胸も腰も豊かな女には、まったくそそられないのに、あの夜の様子を思い出すだけで体の一部が熱くなってくる気がした。
「陛下……」
甘えたような声で身を擦り寄せる女。無言で女を寝台に放り投げ、うつ伏せにしたままのしかかった。
代わりにもならぬが、と苦い思いを押し潰しながら。
「まあこんなものを寄こすなんてねえ」
細い指先が摘みあげるのは、一枚の手紙。
封筒にも便箋にも、かの国の王であることを示す紋章が梳きこまれている。王の紋章で厳重に封印がなされていた。ただしそれは入れ物だけの話。
中身といえば、便箋にはたった一言だけ。
“わが娘をくれぐれもよろしく”
そっけないまでの言葉だったが、あの男らしいと思った。そしてそこに込められた意図を読み取る限り、相変わらず食えぬ男よなとも思う。
王としての立場を示すもので、正式に西の国の王太后へ書簡を送る。
けれど内容はあくまで個人的なもの。
個人的に、自分の“娘”の力になってやってくれと……あの男は言っているのだ。
「公にわたくしが動くわけにはいかぬが、私的に動くのもまた難しい。それをわかって言うのだから始末が悪い」
東の国で不穏な動きがあり、男が養女にした娘が側室としてこの西の国へと嫁いできた。東の国への牽制である、というのが、かの国でもこの国でも……事情を知るものにとっては表向きの理由であるのだが。
「ほんに、わたくしの息子は情けない。好いた女のひとりも守れぬのか」
側室やその実家に振り回される息子を見るにつけ、苦々しく思っていた。
これを好機に息子は側室たちとその実家、および後宮問題にケリをつけたいらしいが。さて図ったように上手くいくものやら。表舞台を退いた身であるゆえ、息子がすることに口出しは控えてきていたけれど。
「かの娘は預かりものであるからの。もし傷の一つでもつけた日には、あの食えぬ男がどう豹変することやら」
“わが国はそちらにとってはとるに足らない小国でしょうが”
いっそ朗らかに言いきり、そしてその目には己を卑下する色など欠片も見つけられなかった。
あれは何の折りだったか。
三国の王や大臣たちが集った場所で、東の国のある大臣が蔑むような発言をしたのだ。
あたりは眉を潜め、あるいは不遜な事よとさざなみのように囁きを交わす。
その中であの男は怒りもせず、言ったのだ。
“小国には小国なりの、身の処し方がありますので”
男はあくまでも笑顔だったが、明るい茶の目の奥の静かな迫力に気押されたか、大臣は顔を青くして押し黙った。
そして男は、まさに今思い出したとでもいうような、飄々とした声音で続けた。
“そうそう、先日打診のあった、技術者の派遣ですが。やはりお断りさせて下さい。なにぶん小国ですのでね、他国へ貸し出せるほどの人員がいないのですよ”
大臣はますます顔を青くする。そして震える声で己の発言を謝罪したが、あの男は聞き入れなかった。
ただ笑顔のまま繰り返した。
“小国ですのでね”と。
何が小国かと、その遣り取りを眺めながら鼻で笑ったものだ。
確かに国は小さく、人も西と東の二国に比べればかなり少ない。
生産物の量でも軍事力でも、二国には到底及ばなかった。
けれどあの国には、それを補って余りあるものがある。
付加価値の高い繊細で高度な製品を作り出す力や、二国の間を取り持つ流通の中心地としての役割がそれだ。
また、何故か“客人”が多く現れる国であり、その“客人”たちからもたらされた知識も、技術力に生かされているのだろう。
その中にはふたつの大国が、喉から手が出るほど欲しいものも、ある。
それを知っていて……時には手を組み時には拒絶して、のらりくらりと命脈を繋いでいる。
ふたつの大きな国に挟まれていながら、どちらかに過剰に寄りかかることをせず、在り続けていた。
“そのうち小が大を呑みこんでしまうのではないかえ?”
あの男とすれ違いざま、そんな言葉を囁いてみた。
するとあの男は笑みを深くして答えたのだ。
“呑みこんだとして。それは、我が身を滅ぼすだけと知っています”
呑みこめないとは、けして言わなかった。
その男が、くれぐれもよろしくと言ってよこした娘。
おそらく、息子が気にいったのであろう娘。
あのひねくれた息子が、東との均衡を図るためとはいえ、わざわざ側室にあげようというのだ。
気にいっていなければ、そもそも婚姻という提案すらしなかった筈。
楽しくなってきたと、紅をひいた唇を笑いの形に引き上げる。
息子もいい歳だ。そろそろ孫の顔を見たいものだと一人呟く。
さて……“客人”である娘は、一体どんな娘なのだろう。
「だれか」
声をあげながら、卓上の銀の鈴を鳴らす。
「何か御用でございますか」
しばらくして侍女が現れる。
「今度お茶会を開こうと思う。準備を頼みたいのじゃが」
「かしこまりました。どなたをお招きするのですか」
側室となった娘たちは、後宮では別の名で呼ばれる。色の名を冠したもので、元来それは実家とは切り離されるのだ、という事を現わしていたのだが、今では形骸化していた。ただ慣習として、色の名で呼ばれる。
あの娘は、たしか。
「……紫の方を。使いにたってくれぬか」
「かしこまりました」
さて……久しぶりにとても楽しみな事が出来たものだと、王太后はひそやかに微笑んだのだった。
「ねえキリさま~」
「トリシャ、その先は言わないで下さいね、わかってますから」
「いいえっ、それでも言わせて下さいっ。もう我慢できませんっ、あの腐れ外道ども~っ!」
大音声でトリシャは叫び、握った拳はぶるぶると震えていた。
キリはやれやれと肩を竦めた。
その気持ちはキリもわかるのであまり強くは咎められないでいた。
何しろこの部屋の防音は完璧だ。
うつくしい内装の裏で、とても堅固なつくりをしている。大声を出したところで外には少しも漏れない。何故そう作られたか、に思い至るとああ確かにとキリは一応納得は、した。
他人の喘ぎ声など聞きたくはないし自分の声を他人に聞かせたくないだろう。
要は後宮における、精神衛生上の問題である。
ただこれって、何かあったとき大声あげても助けが来ないってこと、ね。
扉を閉ざしてしまえば。キリやトリシャがいくら叫んだところで、誰にも声は聞こえない。それが現実にならない事を祈るのみだ。
叫び疲れたのか、トリシャは肩で息をしていた。その横でキリはせっせと片づけをしている。
そう、片づけである。豪奢な部屋の中、入口の扉付近の場所に、まことこの場にはそぐわないものが鎮座していた。拳大のものからもっと小さなものまで、小山になるほどの石がばら撒かれていたのだ。
もちろん、キリやトリシャがやったことでは、ない。
「それにしても、これだけの石をどうやって仕掛けたんでしょう」
キリはため息をつきながら石を拾い集めていく。
泥や腐ったものがないだけ、マシと思う。石ぐらいならまだ片づけが楽だ。
「後宮の誰かがこの部屋を尋ねる事があれば、その方が被害にあっていたでしょうに。そこまでは考えなかったのかしら?まあ、誰かが此処に来る事もないでしょうけど……あら、トリシャどうしたんです、どこか怪我でもしたんですか」
無言のまま険しい顔をしているトリシャを振り仰いだ。
トリシャはひとつ息を吐くと、キリと同じようにしゃがみこみ石を拾いだす。傍らに広げた布切れの上に石を放り投げていく。
「キリさま……ある程度予想はしてましたが、そろそろ洒落になりませんよ。この石だってまともに当たれば大怪我をしてるところです」
「そうですね。実害がない嫌がらせ程度でしたら、気にしないつもりでしたけど。もしあなたが怪我するような事になれば、わたしは国元のご家族に合わせる顔がありません」
キリに対する嫌がらせが始まったのは、後宮へ入り少し経ってからのこと。
思えば、側室たちを招いてのお茶会の後からだった。
お茶会を開くというだけでも気が重かったのに、後宮ならではの面倒な決まり事や作法があって、それらを頭に叩き込むだけでもうんざりした。側室方の序列にも気を遣わねばならない。
そう。この国の後宮には面白い習慣があって、側室となった娘たちは実家の名もそれまで名乗っていた自分の名も捨て、別の名前で呼ばれることになる。それは後宮を権力争いから遠ざける狙いがあったのだが、今では有名無実化していた。娘たちは別の名を名乗りはするけれど、実家の意向を受けて行動する。
今、後宮には三人の側室がいる。
それぞれ権勢を誇る貴族の娘であるという。
彼女たちは、紅の方、藍の方、白の方と呼ばれていた。
ここへ来た時、当然キリにも別の名がつけられることになった。
どう呼ばれたいかと女官に問われ、キリは首を傾げた。
名は好きなものを選べるらしい。
紅の方は紅い色がお好きだから、藍の方はうつくしい青の瞳を持ってらっしゃるから、白の方はぬけるように白い肌を持っていらっしゃるから……そう女官は説明した。
しばし考えたのち、キリは「では、紫で」と答えた。
理由を問うことなく女官は頷き、その時からキリは「紫の方」と呼ばれることになった。
お茶会の席で初めて顔を合わせた側室方は、みなうつくしかった。
零れおちんばかりの胸や、両手で掴めそうなほど細い腰を、絢爛豪華な衣装につつんで、指の先まで優雅に振舞っていた。それぞれ名が示す通りの赤、青、白の衣装を身に纏ってくれていたおかげで、キリは三人の区別をつけることができた。
個々に見れば勿論別の人間だとわかるのだが、表情も言葉もまるで写したかのようにそっくりなのだ。
キリは衣装の違いで彼女たちを区別することにした。
さて、お茶会である。表面上は和やかに進んでいった。キリが“紫の方”という名を名乗り、そして“客人”である事を告げたあとは、流行の衣装や化粧法や美容法などの話に終始した。
気づまりで仕方ないお茶会も終盤に差し掛かった頃。
棘を含んだ言葉が投げられたのだ。
「そういえば“客人”が王族の娘になったなんて、今まで聞いたこともありませんわ。あなた、あちらの陛下にどうやって取入ったんですの?」
「ええ、是非教えて頂きたいわ。そんな身体でも満足させて差し上げてるんでしょ?とても素晴らしい技術をお持ちなのね」
三人はそれぞれ羽のついた扇で口元を覆い、忍び笑いをもらす。
あからさまな侮蔑にキリは奥歯を噛みしめた。おそらく、こんなのはまだ序の口だろう。ここで取りみだすわけにはいかなかった。
己がどう言われるか思われるか、それは全く気にならない。けれど。
口元には笑みが浮かんでいただろうか。トリシャの手により唇には紅がひかれ、頬紅もさしている。
薄紫の衣装は国元では見なかったもので、こちらに来てから用意したのだろうか。キリの体には少し大きくて、あちこちを詰めてもらっていた。布を何枚も重ねた嵩張らない衣装で、あまり体を締め付けることもない。
これなら動きやすいとキリは思っていた。
「ねえ……っ」
まだ何かを言おうとしていた側室が、ふいに言葉を途切れさせた。
キリはただじいっと彼女たちを見つめていた。目を逸らさないまま、一言ひとこと、ことさらゆっくりと告げる。
「……あちらの陛下や皆さま方には、困っていた所を助けていただきとても感謝しております。何分、突然こちらへ呼ばれてしまいましたので。とくに陛下には、本当の“娘”のように大事にしていただいております。“娘”としていずれご恩を返さねばと思ってはおりますが……」
キリの言葉は静かで、どこまでも淡々としている。
みじんも揺らがない様子に、側室たちは面白くないものを感じた。動揺したり怒りで我を忘れたりすれば……そんな態度に出れば可愛げがあるものを。
「そう。とても頼りになさっているのね」
「ええ」
キリは短く答えた。その言葉の後ろに、とても酔狂で困った方ではありますがと内心では続けて。
側室たちはその後席を立ち、お茶会はお開きとなった。
アラム陛下への侮辱は許し難いが、無用な波風を立てるわけにはいかない。やれやれこれで顔合わせという義務は果たしたし、後は大人しく引きこもる生活が始まるかと思えば。
「……トリシャ、どうかしたんですか」
「キリさま、やはり始まってしまいました」
扉の所で立ち尽くすトリシャに尋ねると、何やら意味不明な言葉が返って来る。キリが近寄ってみれば、扉の向こうには、何やら大きな箱が置かれており、中に生き物でも入っているのか、がさごそと動き回る音がする。
「これって、もしかして……」
「キリさまに対する、嫌がらせでしょうねえ。あっキリさま触らないで下さいっ。誰か呼んできますから」
言い置いてトリシャは駈け出していった。キリは部屋の中に入り盛大なため息をつく。
「まったく、見当違いも甚だしいでしょう。わたしの所へ陛下が通っていないのはとうに知れているはず。それなのになぜでしょう。この間のお茶会で、何か気に障ったんでしょうかね……」
それはお互い様ですがとキリは思う。あんなに人を見下しておいて、加えて嫌がらせまで仕掛けてくる。
そこまでの執念があるなら他の事に目を向けて欲しいと心底思った。
そうして。嫌がらせは続いていった。
部屋の前に不審物が置かれているのは、まだ可愛らしい方だった。
借りた本の間に生き物の死体が挟まれていた時は、さすがに悲鳴を上げて飛びのいてしまった。出されたお茶に奇妙な虫が浮いていたこともあった。 それらの手口を見るに、側室たちは自分たちの侍女だけでなく、後宮の女官たちをも取り込んでいるらしかった。
それ以来。口にするものはすべてトリシャがじかに厨房へ取りにいくようになり、蔵書の借り出しもやめてしまった。手すさびにトリシャに刺繍を習っている。籠の鳥の生活がますます窮屈なものになっていた時だった。
「王太后陛下からのお招きです」
これにはとても驚いた。現陛下が王位を継ぎ、落ち着いた頃。王太后は離宮へ去ったと聞いているからである。聞けば、王太后は現在王宮へ滞在しているとのこと。後宮を出られないキリのために、自ら出向いて下さるという。
王太后が側室の一人と会うというのは異例であるが、それはキリの立場がそうさせるのかもしれない。
側室の一人に会うというより、“王の娘”であるキリに会いにくるのだろう。そうでなければ納得がいかなかった。
「ありがたくお受けいたしますとお伝えください」
それから数日後。キリは後宮の庭で王太后と初めて会うことになる。
「初めてお目にかかります、王太后陛下。こちらでお世話になっております、紫と申します」
トリシャとルドヴィカさまに叩き込まれた作法が役に立ちましたね。
内心で思いながらキリは衣装の裾を摘み、礼をする。
衣装は先日のお茶会でも身につけたもの。
悔しいですけど、これがキリさまに一番よく映えるのでとトリシャは言い、白い真珠の首飾りも身に着けさせたのだ。
初めて会う王太后は、とても三十をこす息子がいるように思えないほど若々しい。
艶やかな焦げ茶の髪を結いあげ、派手さはないものの凝った織の衣装に身を包んでいる。
おだやかな声で、キリに座るよう促した。
「初めまして。わたくしはこちらの王太后で、スランディアという。どうぞ掛けられよ」
キリが腰掛けると、すっと茶の入った茶碗が差し出される。おそらく王太后付きの侍女なのだろう、動作も優雅で淀みない。
お茶を受け取ると、どうぞと視線で促される。
キリは礼を言ってお茶を口に含んだ。
癖のないお茶は美味しかった。風のとおる緑あふれる庭も気持ちがいい。
ここへきてから、庭であっても外へ出るのは初めてだと気がついた。
「口にあうかの」
にこやかに王太后が微笑んでいる。
「ええ、とても美味しゅうございます」
「それならよかった。ところで」
王太后がじっとキリを見る。王と同じ藍色の瞳。
その視線を受け止めつつもキリは首を傾げた。
何かを探るような視線だ。けれどその中には確かに面白がるような色も見え隠れしている。そんな目をするひとを、キリは他にも知っていた。もしかして、とキリは思い始める。
「あの狸陛下はご健在か。わたくしは表舞台から身をひいているうえ、会う機会もないからの」
王太后の様子は、アラム陛下に似ていたのだ。
「……狸かどうかはさておき、元気でいらっしゃいます」
「相変わらず仕事をため込んで、宰相辺りに雷でも落とされているのではないかの?」
「……よくご存知ですいらっしゃいますね。まさにそのとおりです。最近はリヒト殿下も雷を落とす側に加わっていますよ」
「ほほ、目に浮かぶようじゃな。相変わらずで何よりと言うべきか、相変わらずと呆れるべきか」
王太后は軽やかな笑い声をあげた。どうやらあちらの国の陛下とはそれなりに付き合いがあるらしい。
気安い様子にキリは安堵する。
「先ほどそなたは“紫”と名乗ったが、わたくしは側室としてのそなたではなく、あの狸の“娘”としてのそなたに会いにきたのじゃ。もう一度名を名乗ってはくれぬか」
「はい。わたしはキリと申します」
「キリ、か。のうキリ、しばしわたくしの話につきあってもらえぬか」
「はい、喜んでお付き合いさせて下さい」
王太后とのお茶会は初め思っていたのと違い、とても楽しいものだった。 王太后はあちらの国の陛下や殿下方の話を聞きたがり、キリもそれに応じた。
ほんの少し前に離れたばかりなのに、話す度にキリも懐かしくなってくる。
「もうあちらへ戻りたいかえ?」
キリは答えなかった。
「いや詮ない事を言うてしもうたな。そなたの立場では何も言えぬか。のうキリよ」
はい、とキリは返事をして王太后に視線を向ける。
「わたくしの息子はいささか頼りないがな、それでもまあ“それなり”に出来ると思うておるよ。だから今しばらく見捨てないでやってくれ」
はあ、としかキリは答えられなかった。
その後からだった。キリへの嫌がらせがより酷くなったのは。
キリが王太后陛下のお茶会に呼ばれた事は、後宮で知られていた。
それを、立場を利用して王太后に取りいっているのだと側室方は解釈したらしい。
それまでも日々の嫌がらせにうんざりしていたが、そろそろ少し危険かもしれないとも思い初めていた矢先だった。
まかり間違えば怪我をするような“嫌がらせ”。
これは見過ごせないとため息をついた。
「トリシャ。陛下にお会いできるよう、お願いしてもらえますか」
「ええ、わかりました!」
トリシャは元気のいい返事をして部屋から出て行く。
直接キリやトリシャが陛下に伝える事は出来ないから、後宮の女官を通して伝えてもらうのだけど。
「煩わせるつもりはなかったんですけどね……」
この状態では仕方がない、とキリは再びため息をついたのだった。
「今日もなし、か」
届いた幾つかの書簡を執務机の上に無造作に投げ出し、カーライルはため息をつく。
いや何をか言って欲しくてしているわけではないが。
なしの礫だと悲しくなるのもまた事実。
「何へこんでるんだ~?ああ、今日も礼状来なかったってか?」
宰相はにやにや笑いながら手元を覗きこんできた。こんなとき、幼馴染は遠慮がない。気安くていい半面、平気で抉る事を言うから始末が悪い。
うるさいと言いながら、不機嫌な顔で書簡の封を開けはじめた。中を取り出して斜め読みをする。たいした重要な用件は何もなかった。
「それにしてもさあ」
サイン済みの書類を確かめ、順番を整えながら宰相は首を傾げた。
「あの子の様子からして、贈り物貰ったら必ず礼状寄こしてくると思うんだけどなあ」
そこら辺りは、律儀にきっちりやる子に見えたけど。
宰相は一度顔を合わせたきりの、“客人”の娘の顔を思い浮かべた。
よく見れば整った顔立ちの娘だが、表情の乏しさがそれに気付きにくくしている。
一番印象的なのは、何よりもその目だった。
どこまでも淡々とした、静かな瞳。
“客人”の娘の元へ通わない代わりとばかりに、王はたくさんの贈り物を娘にしていた。
衣裳や装飾品、珍しいお菓子など様々だ。けれど今まで一度も、娘から礼状が届いた試しがなかった。
初めは自分の態度に気を悪くしているのだろうと思い、ついで礼をする事で煩わすとでも思っているのかと考えた。
しかし、宰相の言う通りだとも思う。
あの娘に関して言えば、どのような経緯があったとしても“贈り物”に何らかの返答を寄こさないわけが、なかった。あの娘の事だから、贈り物など不要とまで言ってくるかと思いもしたのに。
けれど、後宮での暮らしの所為で、自分に関わる何もかもが嫌になっているのかもしれない。そのため敢えて何も返さないのかもしれない。自分で考えていて余計落ち込んできた。机に肘をついて、頭を抱えてしまう。
「ちょっとちょっと、何たそがれてんの!そんなに気になるなら、会いにいけばいいじゃない!お前一応国王でしょ!二枚舌は標準装備じゃない!前言撤回は当たり前!」
「何気に酷い事を言いやがったな……」
「お前に落ち込まれてたら、仕事がちっとも進まないのでね~。この際手段は選んでいられないよ」
忙しい時だ、おまけに色々裏で動いてもいるため、表の仕事も裏の動きも把握せねばならない宰相には、負担も大きいはずだ。
迷惑をかけた自覚はあったため、ふいっと顔を背け、悪かったなと言った。宰相は呆れたようにため息をつく。
「これからが正念場なんだよ?わかってると思うけど、中途半端な事になって、あとあと禍根でも残ったら洒落にならないんだよ。勿論、逆恨みされないように緩める所は緩めるけどね」
「わかってる。……今日にでもあれに会いに行ってくる」
前言を撤回する形でいささか気まずいし、どんな顔をして会ったらいいのかわからないけれど。確かにここで悶々と悩むよりはましだと言えた。
「ああ、そうしろ」
宰相はにやりと笑い、そしていらぬ助言も寄こしてきたのだった。
「最後までしなきゃ、大丈夫だって~」
ま、がんばってよ!
それは、俺が大丈夫じゃないと低く唸ったのだった。




