3
ふう、とため息をついてキリは本を閉じた。
とても面白くて読んでいる間は本の世界に入り込んでいるけれど、現実の世界に立ち戻れば、ああまた一冊読み終わってしまったと思う。
そうしてただ過ぎるばかりの時間を思う。
無為に耐える、それが此処におけるキリの立場であり役割でもあると重々承知の上で……それでもため息が零れてしまうのは止められない。
いつまでこの状態は続くのだろう。
それはキリには知りようがなくまた判断も出来ないものだった。
キリは何人も座ることができそうな、大きな長椅子に腰掛けて本を読んでいたのだが、本来空いている筈の空間は本で埋め尽くされていた。
すべてキリが読み終わった本である。
そこへ、新たな一冊を積みあげていると、トリシャがからかうような声をかけた。
「あらキリさま、この調子で読まれると、あっと言う間にこのお城の蔵書を読み尽くしてしまいそうですね」
「流石にそれはないでしょう。このお城の蔵書数はかなりのものですよ。沢山素晴らしいものがあって嬉しいです」
肩を竦めてそう言いつつも、キリの顔は晴れない。
そのわけを、侍女のトリシャはよくわかっていた。
「ええ、流石に西の大国ですからね、蔵書は素晴らしいですし、このお部屋の調度もお道具も、何もかも素晴らしいですけれど。まさか、こうまで籠の鳥になるとは思いもしませんでしたね」
そうなのだ。キリが西の国へ、王の側室として嫁して、はやひと月ほどが経った。
嫁すといっても側室として、また東の国への牽制といった極めて外交的な理由が高いものであるから、国元でも西の国でも、華々しいお披露目などはなかった。
内々の話として、東の国へ十分な牽制が出来れば、側室を辞すとの取り決めがあるからだ。
キリはトリシャだけを連れて西の国へと嫁してきた。
王宮でキリを出迎えたのは西の国の宰相で、ムラートと名乗った。
西の国の王がまだ若いのと同様に、宰相もまた若かった。おそらく王と同年代だろう。
金の巻き毛を首の後ろでゆるく束ね、丸い眼鏡をかけている。
薄い硝子ごしに、晴れた空のような青い目が覗いていた。
身につける衣装も大国にふさわしく、刺繍の施された豪奢なものだ。
“ようこそお越しくださいました。私は宰相を務めております、ムラートと申します。王は多忙故ご挨拶出来ないことお許しください”
態度は恭しいものの、彼の青い眼はキリを値踏みしているかのようだった。
王の養女、という立場のキリに礼は尽くすものの、その目は冷めている。
勿論あからさまなものではないし、不快になる程のものではないため、キリは特に気にしなかった。
当然だろうとさえ思う。“客人”を側室として受け入れるのだ、いくら外交的な理由とはいえ気になるだろう。
“宰相様には初めてお目にかかります、キリ、と申します。お聞きおよびのとおりの者でございますが、ご期待に沿えるよう精一杯務めさせていただきますので、よろしくお願いします。陛下にも宰相様の方からよろしくお伝えください”
キリはここへ来る前に、体に叩きこむが如く習い覚えたとおりの礼をしてみせた。
衣装も化粧もトリシャが太鼓判を押したものだ。自分で似合うとは思えないが、それはこの際置いておく。
ここで笑顔の一つでも浮かべれば完璧なのだろうが、それはキリには無理な相談だった。せめて従順で大人しやかに振舞ってみせる。
暗に、自分は大人しく引きこもっているし陛下も自分の顔など見に来る必要はないと言葉に含ませてみたものの、どこまで伝わっているかは不明だ。 ムラートはにこやかな表情を保ったまま佇んでいる。
宰相、なんて立場の人間は食えないヒトばかりだと思う。ちらりと薄青の目の宰相を思い出していた。
ムラートは確かに承りましたと言い、彼のそばで控えていた、後宮を取り仕切る女官をキリに引き合わせた。
彼女が後宮での生活について教えてくれるらしい。
後宮へ案内されながら、キリはいくつかの事を聞かされた。
後宮には数人の側室方がいること。まだ誰も陛下の子を授かっていないこと。
そして陛下には正室がまだいないこと、などを。
“貴方様も、ここでは側室の一人として遇されます。よろしいですね”
つまりは王の養女という立場は忘れろと言いたいらしい。王の養女という立場ながら、キリは“客人”でもある。それを知っている女官は、キリをあまりこころよく思っていないらしい。王の血筋にどこの誰とも知れぬものの血を混ぜるなどと眉を潜める向きもあるのだろう。
わたしはそう遠くないうちにここから去るのですがねとキリは胸の内で呟いた。
ともあれ、突然降ってわいたような立場に固執はないため、何も異論はないキリだった。
“わかりました。他に何か気をつける事はありますか”
あっさり頷くキリを、どこか胡乱げに女官は見、そして答えた。
“新しく側室となられた方には、他の側室方へのご挨拶として、お茶会を開いていただきます。その折りに側室方に自己紹介なさって下さい”
よろしいですねと言われ、これには少し困惑した。
後宮へ入って、あとは自分に与えられた場所に引きこもっていればいいと思っていたからだ。誤算であるが仕方がない。
“一度開けばよろしいのですね”
一度、に念を押して確認すると、女官は頷いた。それなら手順や決まりなどを確認して、トリシャの手を借りてなんとかやり遂げるしかないだろう。 これも役目の一つだと思うことにした。
案内された部屋は想像以上に広く明るく、その豪華さにキリは回れ右をして帰りたくなった。
キリ一人が使うにしては、ばかばかしいほど広い上に豪奢だ。零れそうになるため息を何とか呑み込み、入り口に立ち尽くしていると、女官は気にした様子もなく、食事はこちらにお持ちしますのでと言い置き、すぐに立ち去ってしまった。
しばらくしてトリシャがやって来て、ようやく心細さが薄らいだのだった。
そうして。キリの後宮生活が始まったのである。
初めから予想していた通り、たった一度を除き、キリのもとへ王が通ってくることはなかった。
それでいい、むしろそれがいいとキリは思っている。
キリが此処にいる、その事だけである程度の役目は果たせているはずだから、だ。
それ以上のものなど、誰も期待していまい。期待されても困る。
お茶会で顔を合わせた側室方は、みなこの国の有力貴族の娘たちだった。
それぞれの実家が勢力争いをしていることはすぐに見てとれた。
競うがごとく豪奢な衣装を身にまとい、髪を複雑なかたちに結いあげ、紅をひいた唇から零れる言葉には棘が潜んでいる。
皆うつくしく微笑んでいても目がちっとも笑っていない。互いに競い合っているが、互いに他国からやってきたキリを警戒しているらしかった。
そしてキリの立場をも。
この婚姻が外交上の名目的なものであることは、内密にされている。
どこから話が漏れないとも限らないからだ。
あれだけ色とりどりの“花”が咲いていらっしゃるんですから、何の面白みもないわたしの所になどくるはずがないと……側室方も何故おわかりにならないのでしょうか、ねえ。
キリにとって、いささか頭の痛い問題が起こっていた。
ひっそりとわたしは引きこもっているんですけれどね、皆さま方と寵を争う気はさらさらないのですが、とため息をつく。
そこへトリシャが湯気のたつ茶碗を差し出した。
「キリさま、お茶でもいかがですか」
「ありがとう、丁度飲みたいと思っていた所です」
「いいえ、私もここではする事が限られていますから。ほんと、ここまで行動範囲が制限されるとは思いませんでしたね」
そうなのだ。後宮に入るとはいえ、少しくらいは……後宮の庭くらいであれば散策も出来ると思っていたのだが。キリが自由に行動出来るのは、この部屋のみと王より言い渡されてしまっている。
ここ以外の場所へは、許可なしでは出られない。わざわざ許可を得てまで外に出たいと思わないキリとしては、大人しく部屋に居るしかない。
本も当然、自分では選びに行けないため、蔵書の目録を見せてもらい、その中から選んでいるのだ。
部屋まで運んでもらい、読み終わった本は返しに行ってもらっている。
ここが後宮のため本を運ぶのは女官たちだ。思わぬ重労働にさぞ困惑しているに違いなかった。
ここではお茶を飲むか本を読むかしか、することがない。
贅沢なようだが、さすがのキリも退屈になってきた。
トリシャもキリの身の回りの世話の他は、刺繍をしたり縫物をしたりして過ごしている。
やはり国元と違い制約の多い状況は堪えるのだろう。
「そうですね、仕方がない事なんでしょうけど、ね……こちらの陛下にしてみればわたしが此処にいさえすればいいのですから、余計な手間はかけたくないのでしょう。わからなくはないです」
お部屋や食事は十分すぎるものですから、そのあたり気は配っていただいてますよとキリは言ったものの、トリシャは納得いかないといった顔で首を傾げている。
「私の印象かもしれませんが、こちらの陛下はもっと気配りの出来る方だと思っていたんです。ですから、キリさまをこんなふうに閉じ込めて、まして一度おいでになった後、全く通わないなんて事はされないと思っていたんですけど」
キリさまの立場も考えて、通うふりくらいはされるんじゃないかと思っていたんですけれどとトリシャは続けた。
「あら、閉じ込められてはいませんよ。鍵がかかっているわけではなし」
「でも……陛下は“そう”仰ったんでしょう?」
トリシャはいささか不機嫌そうに唇を引き結ぶ。
そうすると普段の大人びた様子が一変し、年相応の子どもっぽい顔になった。そんな時、キリはトリシャが自分よりも一回り以上年下である事を思い出す。
色んなことを頼ってしまっているなあと申し訳ない気分にもなる。
ええそうですけどねと答えながら、キリはその時の事を思い返していた。
この国にやって来た日。
いわゆる“初夜”を迎えるためキリは体中をすみずみまで洗われ、肌が透けるような薄物の寝巻を着せられて寝室に放り込まれていた。
一応形ばかりは体裁を整えるのだろうと、キリは寝台に腰掛けて王の訪れを待つ。
薄い衣装は胸も腰も豊満な女性が身につければ扇情的なのだろうが、自分が身につけても滑稽なだけだとため息をついた。王も何の茶番かと眉を潜めるだろう。羽織るものがあればよかったのだが、あいにく何もなかった。 俯くとなんども櫛を通され艶が出た黒髪が肩を滑り落ち、胸のあたりまでを覆った。
しばらくして寝室の扉が開き、王のカーライルが中に入って来た。
夜着だろう、ゆったりした衣装を身にまとい、大股で歩いてくる。
そして。キリに視線を止めるなり、藍色の目を見開いて絶句した。
案の定だとキリはこっそりため息をつく。焦げ茶色の髪も藍色の目も、そして多少近寄りがたいような雰囲気も見憶えていたとおりだった。
貧相なものをお目に掛けて申し訳ありませんねと思いながら、いまだ硬直している王に、挨拶をした。
「このたびはお力添えをいただき、ありがとうございました。しばらくこちらでお世話になります。ご迷惑にならぬよう、いただいた部屋で大人しくしておりますので、どうぞわたしの事はお気になさらず」
こんな薄物を纏った身では様にならないが、叩きこまれた礼儀作法に則り振舞うものの、キリが言葉を重ねるたびに、どんどん王の表情が険しくなる。
「あの、陛下?」
何の返答もないためキリは首を傾げた。王は我に返ったように唇を引き結ぶ。
「気に掛けずともよい、か。ならば……私が今後こちらへ通わなくとも構わないのか?」
「ええ、陛下もお忙しいでしょうから、わたしのことなど気にかけていただく必要はございません」
「……お前がそのつもりなら、私はここへは通わない。ああそうだ、要らぬ面倒は起こしたくないから、この部屋から不用意に出るな。……いいな」
「わかりました」
キリが頷くと王はますます不機嫌そうに顔を歪める。
その理由を問う間もなく、王は入ってきたばかりの寝室の扉を開け、出て行こうとして、ふと立ち止まった。
振り返ることなく、背を向けたまま言った。
「私がすぐここから出てゆけば、お前は“私に見向きもされなかった”とまわりから嘲笑される事になるが、それでも構わないんだな」
ええ、とキリは頷いた。それがいかほどのことかとキリは思う。取りあえず、西の国へ嫁いだ、という“形”があればいいのだから。
そうかと短く呟き、王は寝室から出て行った。
その言葉通り、あれから王は一度もキリの所へ通っては来ない。
他の側室の元へは訪れているというのに。
それがトリシャには面白くないらしい。本当の意味で通われては困るキリの事情を知っている上で、言う。
「この度の事情は私も重々承知しておりますよ。でもキリさまはわが王の“娘”の立場で嫁がれたのですから。それを……こうも蔑にされては面白くありません」
「そうね、国の対面がありましたね。まあアラム様などは気にしなくていいと言いそうですけどね……どうしましょう、時々は来て頂けるようお願いした方がいいかしらね」
煩わしたくないばかりに、自分の事など気にかけるなと言ってしまったのだが、少し拙かったかもしれない。
するとトリシャは違いますと首を横に振った。
「違います、体面とかではなくて、キリさまが……っ」
キリ自身を蔑にされたのが腹立たしいとトリシャは訴えたかった。けれどキリは、自分の事などどうでもいいとまったく気にした様子はないから。
余計に悔しいのだ。
キリは着ている衣装を指先でつまみ、うっすらと笑う。
「あれだけトリシャにもルドヴィカさまにも特訓につきあってもらったのにね。成果を披露する機会はどうやらなさそうですね」
嬉しいような悔しいような、複雑な気分ですと肩を竦める。
キリはいつも国元で着ていたような、動きやすい男物の衣装を身につけていた。他の誰かに会う時だけ衣装を着替える事にしたのだ。
側室の部屋を訪れる者は限られており、訪れに際しても事前に連絡がある。それを受けてから着替えても十分に間に合うからだった。
王はこの部屋の中は自由にしていいと言った。
ならばその通りにさせてもらおうと思う。
大人しく籠の鳥でいる引き換えとして。
本当にそうですねとトリシャも頷いた。でも、と言葉を続ける。
「でもきっと、“お披露目”をする機会はこれからいくらだってありますよ」と。
そんなのありませんよとキリは笑った。
「あるとしたら、ここから出る時ですね」
しかしトリシャは何やら意味ありげに笑い、キリの言葉には同意しなかったのである。
「さあ、どうでしょう」
色々もっともらしい理由をつけたものだけれど。
蓋を開けてみれば、まさかこんな面白い事態になるとは予想外だった。
「……あの国の娘を側室に、ねえ」
東の国がまた性懲りもなく領土欲を出しているという情報は上がっていた。東の国の狙いはこの西の国である。負けるとは思わないが戦になるのは避けたく、何らかの手を打たねばと相談をしている最中のこと。
王のカーライルが提案した事に、宰相のムラートはふむと顎に手をやった。そもそも。
「あの国の王族に、丁度いい年まわりの娘がいたかねえ」
あの国に後宮という制度はない。王や王子に愛妾はいない。王族としては珍しいことだと思う反面、王位の継承については随分と無頓着ではなかろうかとも思う。
王の子は王子一人のみ。
そして王子の子も双子の姉弟のみという少なさだったからだ。
王子については、この国に留学していた事もあり、面識はあった。
物腰がやわらかく、にこやかに微笑む青年だったが、どうにも掴みどころがない印象が強い。
いずれ、大国に挟まれた小国のかじ取りをしていく人間だ。したたかさ、あるいは抜け目のなさがなければ、到底やっていけるものではない。見た目どおりの人間ではないだろうと考えている。
けれど。
「リヒト殿下には娘がいるけど、たしかまだ四歳か五歳くらいじゃなかっけ。その子を側室にするって事かい?」
お前いつの間に幼女趣味になったのとからかうように言えば。
「……違う」
不機嫌そうに王は低く唸る。
おや、とその場にいた王弟のヤズルカもムラートも、密かに目を見開いて王を見た。
この場……王の執務室には王とムラート、そして王弟の三人しかいない。 三人はいわゆる幼馴染であるから、他の者の目がなければ態度も言葉も砕けたもの……遠慮も何もないものになる。
二人の目線に気付かず、椅子に寄りかかり王は腕組みをして言葉を続けた。
「アラム陛下は“客人”を養女に迎えている。その娘をこちらの側室とするよう提案してみればいい」
「……ああ、そういやそうだった。あそこの王も酔狂な事をすると思ったんだ。一応、“娘”としての立場はあるから、側室にすることも出来ないわけじゃないけど、さてあちらは何と言うかな」
“娘”として迎えるくらいだ、余程大事にしているのだろう。
こちらからの提案とはいえ、すんなり頷くとも思えず疑問を投げる。
すると王は自信ありげに笑った。
「東への牽制としては一番の手段だろう。頷くに決まってるさ。断ったとして、この提案以上に有効な手はない。あちらの王もそれくらいの計算はするだろう」
不機嫌さもどこへやら、何やら楽しそうな笑みが引っ掛かった。
それはそうかもしれないがと呟きかけて、ふと思いいたる。
「お前、この機会に面倒事を一掃するつもりだろう」
王はどこの悪人だと言いたくなる笑みを浮かべた。端正な顔に優雅な微笑み。けれど目は冴え冴えとした光を放ち、見るものを凍りつかせる。
余程腹に据えかねているんだなとムラートは大仰にため息をつく。
後宮のあの有様やそれまでの経緯を思えば当然かもしれないが。
兄上は本当に腹黒いなと王弟はしみじみと言った。
煩い、と弟のがっしりした背中を王ははたく。
「養女といえど、王の娘の立場であれば、側室の中では一番身分が高くなる。ましてお前が“望んで”迎える側室となれば、後宮はさぞ喧しいことになるだろうな」
おそらく、いや確実に何らかの騒ぎが起こる。ただでさえ火種を抱えている場所だ。今でも側室たちの実家は競い合っていて、死人が出ないのが不思議なほどだ。
王としても後宮に迎えている側室たちは、自ら望んだものではない。
貴族たちの均衡を図るため、あるいは跡継ぎをと口うるさい向きを黙らせるため、やむなく迎えた者ばかりだった。そこへ“他国の王の娘”という劇薬を投げ込むかとムラートは頭を抱えたい気分になった。
どんな騒動になるか想像するだに恐ろしい。金の巻毛に指を突っ込んで、がしがしとかき回した。
「助けましょうかと親切ヅラしといて、自分の為に利用するんだ。呆れるよねえ」
「なに、利用はお互い様だろう。この機会を活用して何が悪い」
しれっとした顔で、胸まで張って言う王に、もう返す言葉もなかった。
王弟と二人、顔を見合わせて肩を竦める。確かにいずれ片付けねばならない問題ではあった。
こうして。
あちらの国から側室を……形ばかりのものであるが……迎える事は確定となったのである。
わかりにくいようで、その実わかりやすい。
ムラートは最近の王を見る度そう思っていたが、ますますその思いを強くした。
後宮へ娘を迎えるにあたり、部屋を整えさせた。他の側室の部屋のように、分かりやすい絢爛豪華さはないものの、その実細部にわたって吟味されたものが揃っている。これは王自ら指示したものだった。他の側室の時には、すべてを人任せにしていて、関心すら払わなかったのに。
ひょっとして、こちらへ来る娘を本当に気にいっているのだろうか。
王はあちらの国を何度も訪れているから、“客人”の娘と面識があってもおかしくはなかった。
そして娘がやって来た日。朝から王は落ち着かない様子だった。
あげくに、娘を自ら出迎えようかと言いだすにあたり、ムラートは遠慮なく呆れた視線をくれてやった。
「何寝ぼけた事言うかと思えば。王自ら出迎えるなんてよほど望まれて来たんだ……って、その娘が一気に恨み買うのが目に見えるだろうが。それにその時間は大臣たちとの会議が入っていただろう」
不満そうに唇を引き結び、王は黙り込んだ。
この婚姻は外交上の問題を避けるため、そして後宮問題にケリをつけるためだけに交わしたものだとばかり思っていたが。
どうやら王の思惑には、まだ何かがありそうだった。
「とにかく。王の娘はこっちで出迎えるから。お前は夜になったら会いに行け。いいな」
そして迎えた娘は。
礼をとりながらも、その目はどこまでも冷静だった。宰相という立場の自分に対し、過剰にへりくだりもせずおもねりもせず、畏れた様子もない。
ただ淡々と取るべき礼をとり言葉を発する。
これでは……己の立場に驕る者には、忌み嫌われようなと思った。
そして。“立場”でなく“自分自身”を見て欲しいと望む者には、好かれようとも。
そして己の立場を理解している娘は、王の訪れなど不要と言ってのけたのだ。
“陛下によろしくお伝えください”
その通り王に伝えたら、おそらく機嫌は地を這うだろう。
それが目に浮かぶようで、ムラートはあえてその言葉を伝えなかった。
どのみち夜には顔を合わせるのだ。
さて、あの娘と王とで、無事“初夜”が迎えられるのだろうかと思っていたら。
案の定。
「……なんでもう帰って来てるわけ」
一応“初夜”であるからして。
この婚姻が外交手段であるからして、“本当に”初夜を迎えるのかは別問題にしても、互いに話くらいはするだろう。
面識がある間柄なれば、多少の懐かしさもあるはずである。
王が側室を迎えると言いだしてから、余計な仕事が増えてしまった。うず高く積まれた書類の山を見やり、今日は徹夜かとうんざりしていたムラートのもとに、王が酒瓶とともに現れたのは、夜もまだ浅い時刻だった。
まあ聞いてくれと酔い交じりに王が話す内容に、苦笑しか浮かばない。
王が娘を気にかけるのとはまるで正反対に、娘の方は全く王に関心がないようだったから。
ため息をつきたくなる。
確かに押し付けられた側室たちは、それぞれに厄介だったけれど。
何故こう難しい相手に惹かれるかねえ。
娘との遣り取りを聞かされ、そう思う。
王のわかりにくい態度が原因だろうが、あの娘なら王の訪れが全く無くても気にしないのだろう、そう確信できた。
王には不本意なことだろうが。
引き留めて欲しかったにしても、素直になれなかった王の作戦負けである。
「さて、これからどうなるかな」
ムラートは不機嫌な顔つきで酒を飲む王と、山と積まれた書類とを等分に眺めながら呟いた。
どのみち、嵐は起こりそうだと天を仰ぎたい気分になり。
それならそれで、楽しそうかとも思ったのだった。
初めてあの娘に会った日の事は、今でも鮮明に思いだせる。
小国ながら、流通の中継点として、また面白いモノを生み出す国としてなかなか侮れないかの国を訪れていた時の事。
王城の奥まった庭で世継ぎの王子と、その妃とでお茶を飲んでいた。
かの国に後宮という制度はなく、王子は妃を自ら望んで迎えたという。
仲睦まじそうに寄り添う彼らを見ていると、微かに羨む気持ちも生まれた。
後宮にいる側室たちについては、いささかならず頭を悩ませていたからだ。
父王が早くに亡くなり、年若い自分が王位を継いだ。それと同時に世継ぎを残すために妻を娶れと矢の催促が飛んで来た。わからないでもないが、万が一何かあったとしても弟がいるし、世継ぎの事を考えるより先にする事が山積みだろうと思ったのだ。
事実、いつか王位を継ぐことが決まっていたとはいえ、自分に与えられた準備期間は短かった。父は病を得て急に亡くなったからだ。
その後続いた諸々の出来事は今でもあまり思い出したくはない。
父に仕えていた前宰相が色々教えてくれなければ、上手く乗り切る事が出来たかどうか怪しかった。
そのような折でも。莫迦の一つ覚えのように妻を迎えろと言いたてる者がいた。それも複数だ。
互いに競い合う関係の貴族たち。娘を側室に、あわよくば正室にして、上手い汁を吸いたい……その思惑が透けて見え、いつも“まだそんな余裕はない”“まだ早い”と断り続けていたが、彼らは呆れるほどしつこかった。
その執念深さを他の事に充てろと言いたくなるくらい。
彼らは言葉だけでなく、行動でも示してきた。
ある夜会の折り。休憩をとるため小部屋に下がれば、そこにはしどけない姿で横たわる妙齢の美女がいた。即座に扉を閉めて飛び出したのは言うまでもない。いくら据え膳といっても、食ってしまった後が恐ろしい。
似たような事は枚挙に暇がなく、流石に疲れ果ててしまったのだ。
幼馴染かつ現宰相は、とりあえず娘たちを側室として後宮に入れたらどうだと言ってきた。
断れば断るほどあちらも意固地になるだろう。で、お前も余計に疲れるっていう悪循環だ。何も一人だけ入れろってんじゃない、煩く言ってるのは……三人だろう?その娘たち全員、側室として召しあげてやればいい。
誰か一人を選びかねたとでも言えばいいだろうさ。
ふむ、と考えた。取りあえずの時間稼ぎにはなるが、一時しのぎにしかならない。今度はまだお世継ぎはないのかと催促してくるぞと眉を潜めた。
宰相は器用に片眉だけあげてみせた。
お前、あの娘たちのうちの誰か、気にいってでもいるのか?
まさか、と即座に首を振った。姿かたちはうつくしいと認めよう。髪のひとすじ、爪先まで完璧に整えられ豪奢な衣装に身を包み、優雅な微笑みを浮かべている。張り出した胸や細い腰、なめらかな白い肌などは、大抵の男であれば振るいつきたくなるのだろうが。
笑みの後ろに醜悪さが透けて見えては……食指も動かない。ましてどの娘も判で押したようにまったく同じにしか見えなかった。
宰相はにやりと笑った。青い目を酷薄に眇める。
まあ王の通いがないわけにはいかないからな。後宮に迎えたら、娘たちの所には通ってやれよ。要は孕ませなきゃいいんだろう?
あの娘たちのうちの誰かが自分の子を産む……その想像はぞっとしない。
溺れない自信があれば頻繁に通えばいいさ。その方があの大臣どもも喜ぶだろう。ただしきっちり避妊はしろよ。道具にされる娘たちは哀れなものだが。
宰相はそう言うが、思わず眉が寄った。
そうそう通うか。そんな時間があれば俺は寝るぞ。もちろん一人でな。だいいちあれらが哀れな娘であるものか。実家の権勢を増すことと、自分が着飾ることしか考えてない。
そう言ってやるなと宰相は肩を竦める。それしか教えられてないんだろう。それも哀れだなと。
ふん、と鼻を鳴らして答えなかった。取りあえずは側室たちを娶ることにして。
時間を稼ぎ……そして自らが望む妻を得る、その筈だったのだ。
世継ぎの王子との気の置けない会話は楽しいものだった。
自分の学友でもある王子は、現王とはまた違った掴みどころのなさを感じる王になるだろうと予想している。先の事はわからないが、駆け引きめいたやりとりも腹の探り合いもこの相手となら楽しい部類に入る。
うちは何分小さい国ですからなとこの国の王は笑うが、小が大を呑みこむ、そんなあり得ない事を起こしかねないのがこの国でもあった。
取るに足らない小国でございますよと王はからりと笑うばかり。
それでもその中に、したたかに生き延びる意思と力をひそませている。
この王子も東西の大国から受ける力を柔軟に受け止め、あるいはかわしながら、小国の舵をとってゆくのだろう。大国の片方である自分が言うのも可笑しいが、それはとても難しい事であろうに。
ある時王子は、“大国には大国のご苦労がおありでしょうね。私だったらとても支えきれません”と言った事がある。そこには同じではないけれど似たような荷を背負う者同士の共感めいたものがあった。
「お茶のおかわりはいかがですか」
王子の妃が微笑みながらすすめてくる。ついつい話し込んでいる間に茶碗は空になっていた。
「いただこう」
妃は侍女に言いつけ、新しいものを用意させる。そこへ、元気な笑い声とともに小さな金のかたまりが駆けこんできたのだ。
「こっちだよ~っ、はやく~っ」
「キリ、おそ~いっ」
金のかたまりはそれぞれ王子と妃に飛び付いた。
「おとうさま」
「おかあさま」
王子は幾分ため息をついて金のかたまり……子どもの頭を撫でる。
「陛下、お騒がせをして申し訳ありません。ほら、陛下にご挨拶なさい」
金の髪の子どもたちは、よく似た笑顔を寄こしてきた。
「陛下、ごきげんよう」
「ごきげんようっ」
王子の双子の子どもたちだ。産まれたばかりの頃に一度顔を見に来た事があった。まるで金のつむじ風さながらの様子に苦笑する。
「大きくなったものだな」
「ええ。元気がいいものですから、毎日喧しいですよ。おや、キリ今日も負けたんだね」
王子の視線の先を辿ると、ほっそりとした人物が肩で息をしながら立っていた。侍従の衣装に似た衣服を身につけている。肩をこすくらいの黒髪を首の後ろで束ねていた。
「殿下方に、追いかけっこで勝てるわけがないでしょう。わたしの年を考えて下さい。……さ、ルーシャスさまもトールさまも、追いかけっこは終わりですよ。あちらでおやつにしましょう」
おやつ、と聞いて双子たちはキリ、と呼ばれた人物に駆け寄る。
「キリ、今日のおやつはなあに?」
「それは見てのお楽しみですよ」
「ええ~っ、じゃあ、早く行こうよっ」
はいはいすぐにと双子たちをなだめながら、キリと呼ばれた人物はこちらに向けて礼をとる。
「お見苦しい形をお目にかけましたこと、ご容赦下さい」
淡々とした声と、淡々とした表情。伏せられていた顔があげられ、そこで男物の衣装を身につけている娘である事に気がついた。
こちらの身分は知っているだろうに、まるで恐れる様子もない。
王子と妃に目礼をすると、子どもたちを連れて王城の中に入っていったのだった。
その細い背中を何故かずっと目で追ってしまっていた。
「陛下、どうぞお茶でございますわ」
王子の妃に声を掛けられて気付く有様だ。
礼を言って、茶碗に口をつける。
こちらの様子に気付いてかどうか、王子はのんびりと話しだした。
「さっきの、キリ、という娘ですがね、久しぶりに現れた“客人”でして。父上が養女として迎えたので、私の義理の妹になります」
「……それは陛下も酔狂な事をする……」
“客人”を王族の養女にするなど、前例がない。しかし王子は肩を竦め、
「本当は私の娘にしたかったんですが、年を聞いて諦めました」と言う。
「年……?まだ年若い娘に見えるが」
「ええ、私が十五、六で子どもを持っていたら、あの年頃の娘がいても可笑しくないのですがね。……年を聞いてみれば驚く事に、私とたいして変わらないんですよ。流石に娘にするのは無理でした」
「そうなんですのよ。私よりも年が上なんですって。驚きましたわ」
ふわりと笑う妃の言葉に、声も出なかった。まだほんの少女に見えたものが、自分ともあまり年が変わらないと聞いて驚いた。それと同時に。
むけられた静かな湖面のような黒い瞳。風ひとつない凪ぎのような。
畏れもへりくだりもせず、阿るような色もなく。それを、とても面白いと思ったのだ。
そう。はじめは小さな興味だった。
かの国に滞在中、偶然を装って王子の妃と娘が、お茶を飲んでいる場に加わったり、偶然を装って散策中の娘の前に姿を現わしたりもした。
“西の王”の立場であれば娘を呼びつけることも可能ではあった。
けれどそうしてしまえば……娘は立場上応じはするだろうが、態度も言葉も取り澄ましたものになるだろう、そんな気がした。
そしてそれは、おそらく間違っていない。
なぜなら、自分が現れても。娘は僅かに驚きはするものの、言葉も態度も、表情もいっそ見事と言いたくなるほど淡々としていたのだから。
“客人”ゆえか、娘じたいの性質かわからないが、この娘の前では、自分の地位や立場はまるで無意味なもののようだった。
それを面白くも心地よくも思う。
「こちらには慣れたのか」
花が咲き乱れる庭を娘と歩きながら問うた。
「ええ、まあ。皆さまには良くしていただいてますし」
“客人”である娘は今日も男物の衣装を身にまとっている。
女ものの衣装は動きづらいと言って着ようとしないらしい。
王城とはいえ娘が“客人”であることと、この国の鷹揚さあるいはいい加減さのお陰で、娘はかような異装を許されているとの事だ。
王子の妃などは“似合っているからいいんじゃありません?”と微笑んでさえいた。
他国の王の前といっても、この娘に正式に“会って”いるわけではない以上、こちらとしても異装を咎めだてする気はなかった。
袖口や裾に繊細な刺繍が施された衣装は、真冬にも凛と立つ木々のような印象の娘によく似合っていた。
「こちらとあちらでは、色々違うのではないか」
娘の居た所はどんな所だったのだろう。
尋ねてみると娘は首を傾げ、微かに笑みを浮かべた。
「確かに暮らし方や考え方が違う事も沢山ありますが……それでも、どちらもあまり変わらないと思います。ひとの在りようもそのこころも……」
ええ、あまり変わりませんねと何かを思い出すように。
そしてふと眼を瞬かせる。
「陛下の治める国はたいそう大きな国と聞いております。わたしがあちらで居た国は、大きな国々に囲まれた、とても小さな国だったんですよ。まるでこの国のような」
「ほう。するとこの国と同じように、大国からの無理難題には苦労していただろうな」
娘は答えず、つと咲いていた白い花に手を伸ばす。
花に触れるだけで手折ることはせず、そっと手を下ろした。
「さ……それは陛下のご想像にお任せします。ただ、細く長くと申しますように、周辺のどの国よりも長く“国”として在り続けておりますよ」
わたしがここへ呼ばれたのも、面白いご縁ですねと娘は締めくくった。
その後。王自ら他国を訪れる機会は滅多になく、娘と顔を合わせたのも両手の指で足りるほどだ。
何度会っても娘の態度は変わらない。それを面白く思いつつも、顔を合わせる機会が少ない事を心の隅で残念に思っていた。
側室たちを迎えてから数年経っていた。初めに懸念したとおり、世継ぎを望む声が喧しくなっている。どの側室たちも……避妊をしており、またロクに通わないため……子を孕む気配がまるでない事から、側室たちの親である、大臣たちの視線が厳しくなっている。
そんな折だった。東の国の、不穏な動きが伝わってきたのは。
これはいい機会だと自分の中で囁く声がした。
あの娘を側室としてこの国へ嫁がせる。東の国へは、牽制となるだろう。
そして。王自ら望んだ側室の娘が後宮に入る。さて……どんな騒動が起こるか。
望みがもう薄いと判断して、側室を辞してくれればよし。
何か事を起こしたら……それを好機として側室を辞めさせ、場合によっては家の方も処分の対象となる。
何が起こるか、楽しみだとさえ、思っていたのだ。あの時までは。