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国王との話を終えた後、キリは与えられた部屋に戻った。
子どもたちの所へ顔を出した方がいいとわかっていたが、どうにも表情を取り繕える気がしなかったからだ。
キリの部屋は二間続きの広いものだ。広い部屋には初めなかなか慣れず、馴染むまでしばらくかかった。
部屋に入ると、そこにはキリの世話をしてくれている、侍女のトリシャがお茶の用意をしている所だった。トリシャは豊かな赤茶色の髪の毛を、一つに纏めて結い上げている。榛色の目を細めてキリに笑いかけた。
「お帰りなさいませ。あらあらキリさまったら、とっても疲れたお顔をされてますよ」
また双子のお子様たちと追いかけっこでもしましたかと、可愛らしい笑顔を浮かべ、トリシャは首を傾げる。
「それもありますけど……どちらかと言うとそれ以外で、ですね。聞いてくれますか?」
「ええ、もちろん」
キリはトリシャに、テーブルの向かいに座るよう促した。
キリがここで暮らすようになってからずっと、トリシャはキリの身の回りの世話を一手に引き受けている。
小さい子じゃあるまいし、一人で出来るから自分には不要だと言い張ったのだが、これがわたしの仕事ですので、とにっこり笑顔で一歩も引かなかった。
誰もかれも、折れてくれる事を知らないのだろうかとキリはため息をつきたくなった。
攻防を繰り返した結果、トリシャの世話を受け入れるかわり、自分に対してあまりかしこまった態度を取らないで欲しいと言ったのだ。人目がある所では、仕方がない。けれどキリとトリシャだけの時ぐらいはくだけた態度でいてほしいと。
トリシャは頬に手をあてしばらく思案していたが、出来る限りご要望に従いましょうと言った。
それ以来。言葉づかいは相変わらず恭しいものの、こうして差し向かいでお茶につきあってくれたり、他愛ない話をしてくれたりもする。
トリシャが腰を下ろした所で、キリはカップを引き寄せミルクをたっぷりと注ぎ、いつもは入れない砂糖を放りこんだ。
トリシャも自分のお茶をいれ、砂糖とミルクを入れて匙でかき混ぜる。
「余程お疲れですか。お砂糖まで使われるのは珍しいですね」
お茶を一口飲んでからキリは答えた。
「疲れたというか、これからを考えたらしんどいかなあって思ったんです。たぶん、近々皆には知られると思うんですが、一足先にトリシャには言っておきますね」
「何でしょう」
「わたしは、西の国に嫁ぐことになります。いつ頃になるか時期までは知らないんですが、そんな先の話ではないと思います」
まあ、とトリシャは榛色の目を見開いたものの、あまり驚いた様子ではなかった。
「あんまり驚いてませんね。ひょっとして知っていました?」
「いいえ。ただ……私の兄がこちらで護衛の任についている関係で、多少は最近の情勢が聞こえてきます。もしかしたら、そういうお話もあるかもしれないくらいには思っておりましたが、半分くらいは実際はないだろうとも思っておりましたよ」
「なぜ?この際婚姻は有効な手段でしょう。ルーシャスさまが嫁がれるのはかなり年齢差もありますが、全くあり得ない話ではないでしょう。このお話に限っては、何故かあちらが“わたしに”と持って来たらしいのですがね」
わたしは唯の養女で、あちらもそれはご存知のはず。それが腑に落ちないのですけど。
キリの言葉に、トリシャはいいえと首を横にふる。
「いいえ、キリさま。あり得ないと言ったのは、もちろんルーシャスさまのお年の事もありますが、キリさまが“客人”であることも関係します。なぜなら、基本的に“客人”には、どんな権力も及ばないのですから。陛下だってキリさまに命令する事はできません」
「……は?それってどういう意味です?」
「つまりは、“客人”は権力外の存在っていうことです。神様が招いた“客”なのですから。けれどキリさまの場合は陛下の義理の娘という立場を得られていますからね……今の状況では、陛下も断ることは難しかったんでしょう。平時であればともかく」
こんな事になるなら、頑として養女だのなんだのは断っておくんだったとキリは項垂れる。すでに後の祭りであるが。
ただ保護してくれるだけなら、こんな面倒を背負いこまなくても済んだのにという思いも頭をかすめるけれど。
まだ幼いルーシャスの身に降りかかるよりはマシだとも思うから。
「……そう。わたしがあちらに行くことで、少しでも牽制になるなら、よしとしましょう。いつ頃発つか聞いておかないといけませんね。荷造りなんかもありますし」
さて何を持って行こうかとキリは考える。
“国王の娘として”の用意……衣装やら持ち物やらは、全て陛下たちに任せればいいだろう。問われてもキリにわかるはずはない。
キリが持っている全てのものは、こちらで皆から貰ったものだ。
あちらに全て持って行けはしないので、殆どこちらに置いて行くことになるだろう。
そこでふと考える。ここに戻って来ることがあるのだろうか。
一応嫁ぐとなれば、離縁されない限りは戻されないだろう。けれど今回の婚姻はあくまで見せかけのものだ。三国の関係が落ち着けば、婚姻は解消されるのではないだろうかと思ったのである。
どれくらい時間がかかるかわからないけど、あちらの王宮に広い庭と大きな図書館があればいいとキリは思う。
それらがあればキリは長い時間を過ごすことができるから。
ここに居て自分に似つかわしくない立場を得ても、役立つ何かが出来たわけではない。あちらに行ってもそれは同じだろう。
いや、こちらに居る時よりももっと居たたまれないかもしれない。あちらが必要なのは自分ではなく、“自分のような立場”にいる人間なのだから。
たまたまキリが今その位置にいるだけで、なにも“キリ”である必要はない。
キリがぼんやりと取りとめもない思考を巡らせている間にお茶は冷めてしまったようだ。
すかさずトリシャは新しいお茶へといれかえる。
湯気の立つお茶をすすめられて、キリはようやく我に返った。
「キリさま。お荷物については私にお任せ下さい。キリさまはご自分の個人的なものだけご準備下さいね。流石に今日明日に発つと言うことはないでしょうが、私も自分の荷造りがありますから、これから忙しくなりますね」
「……え?ちょっと、トリシャ?今なんて……」
「あら、勿論私もご一緒しますよ。だって私、キリさまの侍女ですから。それとも他の者がよろしかったですか?」
最後の方はいかにも悲しそうに言われ、キリは慌てて首を振る。
「トリシャが一緒ならとても有り難いと思ってます。でも、本当にいいんですか」
「ええ。これからもお世話させて下さいね」
こちらこそよろしく、とキリは心から言った。気心も知れている彼女が一緒なら心強い。
トリシャはお茶を一口飲んでから、にこりと笑った。なんとなく、キリは居心地が悪くなる。笑顔なのにどうも直視しがたいものを感じたのだ。
「ねえ、キリさま」
キリはそっと顔をそむける。優しい声なのに……続く言葉を聞きたくないと心底思う。
「これまでは、いえ、ここでならキリさまのその形は許容範囲でしたけど……あちらではそうはいかないと思います。この機会に、女性のご衣裳にも慣れておきましょうね」
「……と言うわけで。念願かなってキリさまを着飾らせてみました」
いかがですかと楽しげに笑うトリシャとは対照的に、キリはぐったりした様子で椅子に腰かけている。
いかがもなにも、何これ苦しいんだけどとキリは呻く。腰から胸にかけて下着でぎゅうぎゅうに締め付けられているうえに、肩も動かしにくい。広がるスカートは床に届きそうなほど長くて、歩くたび足が縺れそうになる。
胸のあいた衣装を着つけられなかっただけ、幸いだけど。
「あらあ、予想以上に可愛いわ。トリシャお手柄よ」
「ありがとうございます」
手を打って笑う女性とトリシャとを等分に眺めながら、いつになったらこの衣装を脱げるのかとキリは考えていた。
この嵩張るうえ窮屈な衣装を常時着ている女性を尊敬すると心底思う。しかし自分には無理だと早々に白旗を揚げた。
「……もうこれ脱ぎたいんですけど。苦しいし。おまけにお化粧で顔はべたべたするし」
「キリさま、これでも緩めに着付けているんですよ?あちらに行かれたら常時このお姿なんですから、今から慣れておかないと大変ですよ」
これでも緩めと聞いて、キリは青ざめた。
「そうよお。この国はねえ、東と西の間にあるせいか、なんでも取り入れて混ぜこぜにしてしまうから、色んな事に寛容だけれどねえ。あちらは……陛下自身のご気性はともかくも、うるさい方々はどこにでもいらっしゃるからねえ」
つけ入る隙を与えちゃ駄目よ?
にっこりとほほ笑む姿はとてもたおやかでうつくしいが、話す内容は辛辣だ。見た目は砂糖菓子みたいなひとなのに、少し齧れば激辛だなんて詐欺だとキリは思った。
「ルドヴィカさま……わたしはあちらに行ったら大人しく引きこもってますので、こんな格好常時する必要はないと思いますが」
あらあ、と女性……ルドヴィカは嘆かわしげに首を振った。その動きにつられて、結いあげてない波打つ金の髪がふわりと揺れる。
若葉のような緑の目を持つ彼女は、ほっそりとした姿と相まって、儚げな妖精のように見えるのに。
「ねえトリシャ。私あの方が少し可哀そうに思えてきたわあ」
「そうですね。まあ後はご本人の努力と熱意に期待する事にしましょう」
「と言いつつ、これからが見ものだわあなんて思ってなあい?」
「思ってませんよ。私だって今の状況は分かってますから」
「そういうことにしておいてあげるわ。あらあキリどうしたの?」
「……さっぱり話が見えないんですが。それより、本当にこれ脱ぎますよ。そろそろ限界です」
あらあ、残念だわとルドヴィカは笑い、じゃあ今度はもう少し長く着ていましょうね、お茶が飲めるくらいの間はねとおっとり口調で容赦なく言ったのだ。
思えば。ルドヴィカという人はキリにとっていささか鬼門であった。
ふわふわ掴みどころがないかと思えば、突飛な事を言いだして人を驚かせる。初めて彼女を紹介された時も、とても驚いたものだ。
『キリ、彼女が僕の奥さんだよ』
こちらへ来てしばらく経った頃。
リヒトは城の奥まった場所にキリを連れてゆくと、とある女性を紹介した。
『あなたがキリ?私はルドヴィカよ。これからよろしくね』
少女めいたたおやかな肢体で、ふんわりと微笑む彼女。とても二人子どもを産んだようには見えない。こちらの人の年齢はよくわからないが、自分と同じくらいか少し上くらいかと思っていた。
『こちらこそ、よろしくお願いします』
内心しばらくの間ですがと付け加える。すると、ふふふ、と鈴を転がすような笑い声が響いた。
それと同時に腕をとられ、疑問に思う間もなく華奢な腕の中に抱きこまれていた。
『か~わい~っ。リヒトの言ったとおりね。ねえ、この子私たちの“娘”にしちゃ駄目かしらあ?』
『きみも気にいると思ったんだよ。勿論僕も賛成だよ』
『それなら、はやく陛下にお願いしましょうねえ』
『神殿には僕の方から根回ししておくよ』
何やら雲行きが怪しいような。ルドヴィカさま、見た目以上に胸がけっこうありますね。うわ、顔に押し付けないで下さいと内心で悲鳴をあげつつ、キリは言った。
『お二人とも何の話ですかっ。わたしはこちらで保護していただくだけで十分ですからっ』
『あらあ、“娘”になって貰った方が、楽しいじゃない。これまで以上に公然と構えるし~』
『そうそう。お得になる事はあっても損はないから。ね、いいでしょ?』
二人から、とてもいい笑顔を向けられ、キリはめまいがしそうだった。
華奢な見た目に反してルドヴィカの腕の力は緩まないから、諦めて大人しく腕の中におさまってはいるけれど。
キリが男なら、やわらかな胸に夢見心地になったかもしれないけれど。
これだけは言っておかねばと顔をあげる。
『お二人とも、わたしの年をご存知ですか……?』
二人は顔を見合わせる。
『十五、六くらいでしょ?僕たちの初めの子が元気だったら、そのくらいだし』
『そうよ。私たち早くに結婚したのよ。その後なかなか恵まれなかったけどねえ』
『そうではなくて。わたしの年は、お二人が思われているものの、倍近いんですが』
『ええ?』
『あらあ、そうなの~?』
驚く二人に、キリは思った。
ひょっとしてここの人たちからは、まだ子どものように思われていたのではなかろうかと。いい年をした大人だと分かれば、早々に住む場所や仕事を世話して貰えるかなあと思ったのだが。
それは甘い期待に終わってしまった。
『そうかあ~じゃあキリを僕たちの娘には出来ないねえ』
『残念だわあ。私より年が上なんて』
『僕も、僕と殆ど年が変わらないとは思わなかったよ』
これで、面倒くさい提案から逃れられたと思っていたのに。
その後。トリシャとルドヴィカからの厳命で、女性の衣装を着て立ち居振る舞いや作法を学ぶ日々が続いていた。
さすが毎日着ていれば嫌でも慣れるもので、以前よりは長く着ていられるようにはなった。
とはいえ出来るだけ下着は緩めに、また地味な衣装で首が詰まったものがいいと頑として言い張るキリにトリシャもルドヴィカも呆れ顔ではあった。
「折角綺麗な衣装をご用意しましたのに……」
「わたしの年であれを着ろと?」
「大丈夫です。まず誰も、そんなお年とは思いませんから!」
きっぱりと言い切るトリシャにため息をつくキリだった。派手な色柄のものは避けつつも、着せ替え人形のように衣装を着替えさせられる日々は続く。
それはまあ仕方ないと諦めもつく。なにせキリがこれまで着ていたのは、西と東の折衷的な衣装で、おまけに男物だった。見た目は侍従が着る衣装に似ていた。
こちらに来て困ったものの一つが衣装だった。こちらの女ものの衣装はキリにとって動きづらいものだった。なにしろ、女性がズボンを履く習慣がない。
また女性は髪の毛を長く伸ばして、結いあげるのが一般的だったから、キリのように肩をこすくらいしかない女性は殆どいないらしい。
髪の毛は放っておけば伸びるからいいとしても。こちらの衣装で過ごす自信はまったくなかった。
もう少し動きやすい衣装が欲しいと言ったキリに、リヒトが持ってきたのが男物の衣装だったのである。
それ以来、ずっと同じ形の衣装で通していた。誰も何も言わなかったし、似合っているとまで言ってくれた。
見苦しくなくて動きやすければなんでもよかったのだ。
けれど。今のこの状況はどうも腑に落ちない。
「……みなさん、お仕事はいいんですか?」
女性の衣装を着て立ち居振る舞いの特訓。その場にトリシャとルドヴィカが居るのはおかしくはない。
トリシャはキリの侍女であるし、ルドヴィカは王太子妃であり、もとは東の国の姫だ。それぞれ礼儀作法には通じている。
しかし一段落して休憩も兼ねてお茶をしている時、決まって誰かしらやってくる。
アラムだったりリヒトだったり、時にはカディージャだったり。ああたまたま休憩が重なったのだなと思い、また化けっぷりが気になるのだろうなあとも思っていた。お茶を飲んで他愛ない事を話しては戻っていくのだが。
このたびは何故か全員揃っていた。流石に聞いてしまう。
「いいんですよ、きちんと休憩をとって気分転換でもしないと、仕事が捗りませんからね」
カディージャは澄ました顔でお茶を飲んでいる。
「そうそう。ちゃんと仕事はしてるからな」
アラムも胸を張って答えた。
「というか、親父どもの顔を見ながらお茶飲んでも楽しくないしね。どうせ飲むなら綺麗な花に囲まれてたいし」
リヒトはにこやかに言う。はあそうですかと全く気のない返事をキリはかえす。
このまま賑やかな日々がどこまでも続いて行くように錯覚しそうになったけれど。
「キリさま」
西の国への出立を明日に控え、キリはアラムの所へ出向いていた。
明日になれば色々話す時間もとれないだろう。その前に世話になった事の礼を述べに言ったのだ。
これまで世話になった人たちには言おうとしたものの、誰もかれもその気配を察すると笑顔でそれ以上言わせてくれなかった。
面倒な事態に巻き込んでしまい、こちらの方が心苦しく思っているのですからと皆浮かない顔をしていた。
それでも礼儀として礼と別れの挨拶はしなければと、とりあえずキリとして言いたいことは伝えておいた。
一応肩の荷を下ろして安心して自室へと戻りかけていた。
その時、声を掛けられて振り向くとそこには宰相のカディージャが立っていた。
「宰相様。あの、今まで……」
いい機会だ、彼にも礼を言っておこうと口を開きかけた所で、遮られる。
「それはいいですから。今少しよろしいですか」
「はあ、もう部屋に戻るだけですし。なにか」
それならば、と宰相はキリを庭園の方へと促した。庭園では色とりどりの花が咲き、風に乗って甘い香りが辺りに満ちている。日は落ちかけていて、橙色の光が陰影を添えていた。
「……よく似合ってますね」
宰相は薄青の目を細めるようにしてキリを見た。特訓の成果で、キリは女性の衣装でも長時間過ごせるようになっていた。
立ち居振る舞いに若干ぎこちなさは残るものの、まあ及第点でしょうと特訓をしてくれたルドヴィカも太鼓判をおしてくれた。
「ありがとうございますと言っていいやら、何やら変な気持ちです」
似合わない格好をしていると思っているキリにしてみれば、どうにも居心地が悪い。借り着を褒められている気になってしまう。
「あなたはどうにも苦手なようですが、本当によく似合っていますよ。勿論いつもの格好も可愛らしいですけどね」
怜悧な表情のまま、淡々と宰相は言葉を紡ぐ。表情や態度ほど冷淡な人ではないと知っているが、それでも普段はこんな事を言わない人ではある。
リヒトやルドヴィカあたりなら言いそうな……割と頻繁に言っている言葉であるため驚きはしないのだが。
思わず宰相を凝視してしまうキリだった。
「おや、殿下あたりと入れ替わったわけではありませんよ」
宰相は苦笑を滲ませた。
「もう明日が出立ですか……早いですね。こちらでも手は打ちますので、出来るだけ早く戻れるようにしますから」
「陛下にもそうお約束していただきました。大丈夫ですよ、トリシャも一緒ですし、ひっそり静かにしていますから」
あちらでも手は打って下さるのでしょうから、宰相様たちもお体には気をつけて下さいね。どうぞわたしの事はお気になさらず。
そう言ったキリに、宰相は苦いような苦しいような複雑な表情をした。壮年に近づいても若い頃のうつくしさが窺える顔に、陰影が落ちている。
薄情ですねとため息交じりの声が零される。
「あなたは……まったく仕方がないひとですね。私たちの言うことなど、結局聞いてはいないんですから」
その言葉はキリが言いたいものだったが、何かを言い返す前に宰相は言った。
「あなたこそ慣れない環境に身を置くようになるのですから、体には気をつけて下さいね。あなただから色々考えてしまうのでしょうが、出来れば自分がただ健やかに過ごすことだけを考えて下さいね」
そんなの無理だとキリは即座に思った。“宰相”ならばそんな事は口が裂けても言えない言葉だろう。
けれど今は。彼は宰相としてではなく、カディージャとして……キリの“身内”として言っているのだろう。
その言葉だけは有り難く貰っておこうと思った。
「はい、ありがとうございます」
キリの内心などカディージャはお見通しだろうに。けれど何も言わなかった。
かわりに腕が伸ばされて、胸の中に抱きこまれる。銀の髪がキリの頬を滑り、鼻先に彼が身にまとう香りが掠めた。
「ちょっ、と、宰相様っ」
「わたしの名前は“宰相”ではないんですけどね」
「……カディージャさま、あの、この体勢はですねえ」
「お嫌ですか」
「……嫌ではないですけど、ちょっと落ち着きません」
正直にキリが言えば、カディージャは喉の奥で低く笑った。拘束する腕は強くはないものの緩みもしない。
やはりアラムやリヒトの親族なだけあるとキリは諦めて体の力を抜いた。
結局のところ自分の我を通すのだから。
やがて笑い声はやみ、色のない口付けが頬に、額におとされる。
「私もあなたを自分の娘のように思っていますからね。必ずここへ戻ってきなさい」
はい、とキリは素直に頷いたのだった。
「キリ、いつから平気になったの」
「何を藪から棒に」
カディージャは先に中庭を去り、キリは見納めにここを散歩してから部屋に戻る事にした。そこへリヒトがひょっこり現れたのである。
「え、だってさ」
リヒトの腕が伸びてきてキリを抱きこむ。
その途端キリはリヒトを思いきり突き飛ばしていた。
ざわざわと背筋に悪感が走り止まらない。
リヒトは気にした様子もなく、ほらねと肩を竦める。
「キリ、男の人苦手でしょう。さっきはカディージャに抱き締められてても突き飛ばさなかったからさ、平気になったのかなって思ったんだけど、違ったみたいだね」
年齢かな、それとも枯れ具合が関係するのかなとリヒトは呟いている。何とも暢気な様子にキリは落ち着きを取り戻す。
「それで、リヒトさまは何が言いたいわけですか」
「本当にこのまま嫁ぐ事になっていいの。もしきみがどうしても嫌だって言うならなんとでもするよ。それこそきみが此処に来ていなかったら……父上が養女にしなかったら、カーライルさまに嫁ぐ事になってたかもしれないのは、ルーシャスだったわけだし」
親子ほど年の離れた夫婦も、僕らみたいな立場では珍しくないし。
何をいまさらとキリは呆れた。
「今更ですよ。それに陛下もこの婚姻は形ばかりのものだと言っておられました。あちらの陛下にしてもこれはいわば口実なのでしょう?“わたし”が必要なわけじゃあ、ない。だから了承したんです」
もし“本当に”結婚せよと言われたのなら、断っていましたとキリはきっぱりと言う。
人でなしと言われようがどう非難されようが、出来ないものはどうしたって出来ないから。
「きみはそう言うけどねえ。きみ、僕たちがどんなわがまま言っても許してくれちゃうから。これも断れなかっただけかと思っちゃうんだよ」
「わがままを言われたという自覚はおありなんですね」
よかった安心しましたとキリが呟けば、酷いなあとリヒトはぼやく。
「僕たちはきみがとても好きなだけなのにさ」
はい、と首を傾げる。どうも話の繋がりがわからない。
「好きだから構いたいし側に居て欲しいし。こっちを見て欲しいし。だからごめんね」
「……それは、これからも我儘を言うけど諦めてねって事ですか」
「そう。ごめんね?」
「……わたしにはわかりません。なぜ皆さまがそうもわたしによくして下さるのか」
「理由がわかれば安心するの?好きだからでいいじゃない?」
「そもそもそこが疑問です」
それじゃあね、とリヒトは首を振る。
「それじゃあ、今は教えられないな。こっちに戻って来た時に教えてあげる。だからそれまで、元気にしているんだよ」
カーライルさまはちゃんと守って下さるだろうけど、色々複雑なんだよなあ、本当に娘を嫁に出す気分だよとリヒトはぶつぶつと呟いている。
わたしは娘でなくて義妹ですがと言いかけて、キリはやめた。
「約束ですね、楽しみにしています……お義兄さま」
わざとおどけたふうに言うと、リヒトの目が見開かれ、ついで満面の笑みが浮かぶ。
「楽しみにしててね。で、これはおまじない」
「ひゃ、何をするんですっ」
額に掠めるような口付けが降って来た。身構える間もなく掠めたそれには、嫌悪感を抱く間もなかった。
「きみに人の悪意が降りかからないように。どんな時でも道を見つけられるように。気休めかもしれないけどね」
真摯な響きのそれに、キリはありがとうございますとわずかに頬を緩めて答えたのだった。
「とうとう発ったか……」
執務室でアラムはぼんやりと呟いた。自分の養女として迎え入れた“客人”の娘。
こちらが我を通せばどこまでも受け入れる娘なだけに、心配だった。
発つ前の日に娘に言った。どうしても嫌なら嫁がなくてもいいと。
しかし娘は仄かに笑ったかと思うと、きっぱりと言う。
どうしてもしたくない事に、頷く事はないと。
たしかに女ものの衣装をけして着なかったし、こちらを呼ぶ時も頑固に敬称をつけて呼んでいた。
流されているようで、したたかでもあり、頑固だ。
今回の事は……娘が了承した事に安心した半面、断ってくれればよかったのにという二律背反の思いにも囚われた。
もし娘が断っていたら、他の道を探しただろう。難しくなると予想は出来たが全く道がないわけじゃなかった。
娘が西へと嫁ぐことが取りうる最善の手段だったとはいえ。
手放したくないのは皆同じ。
大事にされる理由を娘は知りたがっていたようだったが、まだそれは告げられなかった。知れば娘は表情も変えぬまま心に壁を作るだろう。
態度も変えぬままこちらを切り捨ててしまうだろう。諦めてもしまうだろう。
それがわかるだけに、けして告げられない。
そして今では、それは“理由”の一つに過ぎないからだ。
いつかそれを安心して話せる日が来ればいい。
「さて、俺らは仕事に精を出す、か」
アラムはひとり呟いた。
発った娘がここへ帰れる日が少しでも早まるようにと。