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12<完>


 王宮はあっという間に見えなくなった。

 馬車に揺られながらキリはぼんやりと外を眺めている。

 早朝の出発だったためか、これまでの慌ただしさが祟ったか、馬車に乗りこむなりトリシャは眠りこんでしまった。

 勿論それを咎める気はキリにもリヒトにもない。

 これまで一人で奮闘してくれていたのだ、疲れも溜まっていたのだろうと申し訳ない気になってしまう。眠りやすいようクッションを当ててやり、リヒトと言葉を交わした後は、キリもぼんやりしてしまった。

「戻りたい?今ならまだ戻れるよ」

 不意にリヒトに声を掛けられて驚く。

「戻るってどこにでしょう。わたしはリヒトさまやトリシャと戻っているではないですか」

 そうじゃなくて、とリヒトは苦笑し、見えなくなった王宮の方を指した。

「あそこ。本当にこのまま帰っていいの?」

「いいんです。これでいいんですよ」

 そう、とリヒトはため息をつき、それから何やらごそごそと荷物を漁ったかと思えば、小さな包みを出してきた。

 それをキリへ差し出してくる。

「はいこれ、あげる」

 首を傾げながらも受け取る。中を覗きこみキリは驚いた。

 それはキリがよく貰っていた焼き菓子だったから。

「リヒトさま、これ……」

「うん、預かったんだよ。でも色気もへったくれもないね。贈り物にそんなお菓子って……キリ?」

「なんでもありません」

「そう。ああ、僕も少し眠るよ。何かあったら起こして」

 はい、と頷いた声は少し震えていたけれど、リヒトは何も言わなかった。

 ぽたぽたと包みの上に雫が零れる。

 後から後から……花に注ぐ雨のように止める事が出来なかった。

 今だけだからとキリは唇を噛む。

 心が揺れるのもこの時だけ。

 あちらの国に戻る頃には全て凪いで、心の底に沈めているから。

 がたがたと音をたてて馬車は進んでいく。

 過ぎ去った方向を見やり、キリは小さくさようならと呟いた。




                                 


「キリさま、またお手紙が届いておりますよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 双子の子どもたちの遊び相手になったあと、いつものように木陰のテーブルで本を読んでいた所へ、トリシャが手紙を持ってやってきた。

 また、というトリシャの言葉から、誰からのものかわかる。

 平静を装って受け取りながら、嬉しいと思う気持ちが沸き上がって来る。 トリシャにはお見通しなのか、口の端がひくひくと震えていた。

「……トリシャ、」

「あっ、私お茶の準備をしてまいりますねっ。ごゆっくり~っ」

 何かを言う前にトリシャはぱたぱたと走り去ってしまった。

 受け取った手紙には見慣れた字でキリの名前が書いてあり、後ろをひっくり返せばそこには西の王の名前が記されていて、紋章入りの封印がされていた。名前を指でなぞると、心臓が変なふうに跳ねる気がする。

 中を読むのは少し落ち着いてからにしよう。

 キリは息を吐き出し、雲ひとつない空を見上げる。


 こちらに戻ったキリをまず出迎えたのは、ルドヴィカの熱烈な抱擁と、トールとルーシャスの突撃そして盛大な泣き声だった。

 なんで手紙のへんじをくれなかったの。

 わたしたちのことなんて忘れちゃったの。

 満面だった笑顔をたちまち泣き顔に歪めて、キリの腰にしがみついて泣きじゃくったのだ。宥めるのは骨が折れた。まわりの大人たち……その父母でさえ泣いている子どもを宥めてはくれなかったのだ。

 

 だってキリのせいなんですものお。私たちもとっても困ったのよ?泣くわご飯は食べないわ、悪戯は酷いわで。もうすこ~し、この子たちとちゃんと話をしてから行って欲しかったわあ。

 そうそう、少しは僕らの苦労を味わってね。父上なんか、孫二人に「おじい様のばかあ、きらいっ」て言われて落ち込んでたんだよ。まあそれも、僕が「おじい様が決めた事だからね」って言ったからだけど。

 

 夫婦揃ってにっこりと微笑まれ、キリは白旗をあげるしかなかった。

 不義理をした自覚はおおいにある。

 子どもだからどうせすぐに忘れてくれると薄情な事を思ったのも事実だから。

 その報いなら仕方がないと、キリは泣きわめく子どもたちに謝り宥め……どうにか泣きやませた時には疲労困憊だった。

 泣き疲れて眠った子どもは、自分たちの部屋で寝かしつけられている。

 キリは自分が以前使っていた部屋に戻り、椅子にぐったりと座りこんだ。 西の国へ行く前と全く変わらない室内。掃除も行き届いていて、帰って来る日を知っていたのだろう、綺麗な花も飾られていた。

 まるで昨日もここに居たかのように、違和感がない。

“帰って”来たんだなと思う。張りつめていた神経も、ゆるゆるとほぐれていくような気がした。

 荷物の片づけは明日にするとして、あとは陛下とカディージャ様にご挨拶したら、早めにやすんでしまいましょうか。

 ちなみにトリシャは家族のもとへ帰っている。

 一度顔を出してきなさいとキリがすすめたからだ。長い間親元を離れて異国へ行っていたのだ、さぞ心配しただろう、安心させてあげなさいと。

 ではお言葉に甘えて、実家に帰ってきますけど!キリさま片づけは私がしますからね、手出し無用ですよ!約束破ったらあとで酷いですからね!

 トリシャも“それなりに”いい家柄の出であるはずだった。

 実家に戻れば身の回りの世話をされる立場だろうにとキリは思うが、それはそれ、これはこれ、とトリシャも譲らない。

 わかりました、言いつけは守りますと神妙にキリは頷いた。まあ自分の手荷物を整理するくらいはトリシャも目くじらを立てないだろう。

 アラム陛下は今お客様のお相手をされているそうだから、もう少ししたら顔を出してみましょうか。

 宰相様の方はどうでしょうかね。

 そう思いながら行儀悪くテーブルに頬杖をついていると、ふとお茶のよい香りが漂ってきた。

「どうぞ、これでもお飲みなさい」

 キリの前にお茶の入った茶碗が置かれる。

 すっとお茶を差し出したのは宰相のカディージャだった。

 その背後には茶器をのせたワゴンを押す侍女たちの姿が見える。彼女たちはテーブルの上に茶器や茶碗、そして茶菓子や軽食を置くと、すぐに下がっていった。ぼうっとしていて、人の気配に全く気が付かなかった。

 カディージャはテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろす。

「帰るなりお疲れ様でしたね。でもそれはあなたの薄情さのせいですからね、ある意味自業自得でしょう」

 キリを労っているのか非難しているのか微妙な言葉に、首を竦めた。

 眉ひとつ動かさず言われては多少堪えるというものだ。己に非があると自覚している分尚更。恐る恐る上目遣いで窺ってみる。

「カディージャさま、何か怒ってらっしゃいます?」

 カディージャはつんと横を向いて答えた。

「いいえちっとも。あなたが手紙の返事を寄こさなかったことも、便りひとつ寄こさなかったことも、怒ってなどいませんよ」

 チクチクと言われ、キリとしては言い訳の言葉もなく項垂れるしかない。

 自分など居なくなれば忘れられると……心のどこかで思っていた。

 そうなれば、東の国との件が解決しても此処へ戻れるかわからないとさえ。そうなったら働き口を紹介してもらって、西の国で暮らしましょうか、と。

 本当に、薄情者と罵られても仕方がない。

「ええと……ご心配おかけしてすみませんでした」

 本当にね、とカディージャはため息をついた。

「私たちがこちらでどれほど気を揉んでいた事か、あなたは知らないでしょう?まあこうして無事に戻ってくれて何よりです。変わりなく、と言いたいところですが」

 カディージャはキリを頭の先から爪先まで眺め下ろして、うっすらと微笑んだ。

「ここに居た時より、綺麗になりましたね。その衣装も似合ってますよ」

 褒められると何だか落ち着かない。まして珍しいカディージャの微笑みつきだ。

 キリが身につけている衣装はあちらでよく着ていた、体を締め付けない型の……布を何枚も重ねたものだ。

 キリとしては帰るだけなんだし、この国で着ていた男物の衣装でいいと言い張ったのだが、トリシャが「これしかないんです!あとは全部荷物の中です!」とにっこり笑って言いきるので、しぶしぶ身につける羽目になったのだ。リヒトも、キリが毎日そういうカッコしてるの珍しいよね。目に嬉しいから戻ってもずっとその格好でいてよ、いいよねと笑って圧力をかけてきたが、キリは聞いていないふりを貫き通した。

 動きやすくてもひらひらした衣装は落ち着きませんし。

 なによりお子様方を追いかけるのには、まったくもって不向きですから。 戻ったらいつもの衣装に着替えようと心に決めたキリだった。

「……ありがとうございます。衣装は確かに綺麗ですよね。これ動きやすい上に着心地もいいんですよ。でもカディージャさまに綺麗になったと言われても何だか複雑です」

「何故ですか、私は本当の事を言ったまでですよ」

「いえ、カディージャさま、今でも十分そうですけれど、お若い頃はさぞかし……」

「やめて下さい、鳥肌が立ちます」

 本当に二の腕の辺りをさすりながらカディージャが言うので、キリも口を噤んだ。壮年に近づいても若い頃の端整さが窺える容貌のひとだ。

 それなのに、それを言われるのは酷く嫌がるのだ。

「まあ、それはともかくとして」

 咳払いをひとつして、カディージャは微笑んだ。

 今日は本当に珍しく笑顔をたくさん見せてくれると思う。

 そっと手のひらが伸ばされ、キリの頭を撫で、頬をゆっくりと撫でられる。伝わる温かい体温は、ただ安心させてくれるもので。キリもちいさな笑みを返す。

「お帰りなさい。本当に元気そうでよかった」

「はい、ただいま戻りました」



 お茶を飲みながら、キリはカディージャに問われるまま西の国での出来事を話した。

 側室たち及びその実家との件などは、もし聞かれたらどう答えたものかと思っていたのだが、それについては全く触れられなかった。

 とっくに情報を得ているのかもしれないし、キリとしてもあまり思い出したくはないのでほっと息をついた。

 聞かれたのは、散策した庭の事や読んだ本の事、美味しかった食べ物の事など……他愛のないことばかりだ。

 そうして話をしているうちにお茶は空になり、追加のお茶を頼もうかそれともカディージャさまはそろそろお仕事に戻られるかしらとキリが考えていると、さて行きましょうかとカディージャに促された。

「え、どこへでしょうか」

 つられて立ち上がりながら、首をかしげた。

「もちろん、さっきまでお仕事をしていた陛下の所へですよ。お疲れでしょうから休憩に付き合ってやって下さい」

「はい、喜んでお付き合いしますけど、というか戻った挨拶をしますけど、その前に着替えてもいいでしょうか」

 戻ってきたなら、楽な衣装に着替えたい。本当ならとっくに着替えているはずだったが、その機会がなかっただけだった。

 カディージャはキリを見おろし、きっぱりと言い切った。

「駄目です。私たちだけが、あなたの綺麗な姿を見たと知ったら、陛下がごねて仕事に差しさわりが出るに決まってますから」

 さ、行きましょうと尚も促され、キリは頷くしかなかったのである。



「キリ!よく戻ったな。元気そうでよかった」

 執務室を訪れると、机にへばりついていたアラムががばりとおきあがるなり、満面の笑みを浮かべてキリに抱きついてきた。

「ちょ、陛下っ、苦しいですっ」

 キリの抗議も聞かず、アラムは強い力で抱きしめてくる。

 触れたり触れられたり、に抵抗がない数少ない人ではあるけれど、ここまできつく抱きしめられたのは初めてで、嫌ではないが落ち着かない。

 何より胸が圧迫されて息苦しくなってきた。もがいても腕は緩まず、何とか顔を横に向けて側にいるはずのカディージャに助けを求めた。

 そこへ、耳に飛び込んできた重いため息と安堵の声。

「……本当によかった。あちらであった事は聞き及んでいる。大変な目にあわせて済まなかった。大事ないと聞いてはいたが……こうして顔を見て、やっと安心出来たぞ」

 後悔の滲む声音にふと胸を突かれた。

 本当に自分は薄情者のうえ、ちっとも周りの人の気持ちを考えていなかったのだと思い知った。そう、ここまで心を傾けてくれていた人たちだった。遠く離れて時間が経っても、あっさり自分を忘れるような人たちじゃない。

 カディージャは陛下をしばらく安心させてあげなさい、と言わんばかりに、肩を竦めるだけだった。

 この国を発つ前、あの時カディージャはキリを薄情と言った。

 キリの考えている事などお見通しだったのだろう。

 非難はしなかったけれど、どこか悲しげな顔をしていた。今更ながらに申し訳ない事をしたと身を縮める思いだ。

 確かにこれくらいの苦しさなど甘受するべきだろう。

 大人しく腕の中におさまったまま、キリは小さく呟いた。

「……ご心配おかけして、すみません。便りも出さず不義理をしてしまい、申し訳ありませんでした」

「もうよい。無事に戻ってくれただけで十分だ」

「……はい。ただいま戻りました。またお世話になります」

 腕の力が緩み、呼吸が楽になる。しかし未だ腕の中に囲われたままで、アラムの手はキリの頭を撫でたり背中を撫でたりしている。少し落ち着かない気分になるものの、やはりその手はどこまでも優しく、安堵だけをキリにもたらした。

 そこへ、咳払いをしながらカディージャが割って入る。

「陛下、いくら娘とはいえ、いつまでも若い娘にそう抱きついているものじゃありませんよ。いい加減離れたらどうです。キリに嫌われますよ」

「ふん、羨ましいならお前もやってみればいいじゃないか」

「……陛下」

 カディージャの声が低くなった。

 途端にアラムがキリの体を離し、そそっと距離をあける。これ以上はよろしくないと判断したのだろう。全くお変わりないようで、とキリはおかしくなった。それと同時に安心する。

 そうして少し離れたところで、アラムはキリの姿を眺め下ろした。

「それにしても、その衣装はよく似合うな。これからずっとその格好でいてくれるか。なあ、いいだろう?」

 にこやかに笑うその顔は、息子とよく似ていた。

 しかしキリはそっけなく答える。

「遠慮させて下さい。この格好は走り回るには不向きです」

 己の薄情さについて、小さくない罪悪感はあるが、それはそれ、これはこれ。

 たちまちアラムは唇を尖らせて不満を露わにした。

「何で。だいいち走り回る必要ってあるのか?」

「陛下、他でもないあなたさまの孫お二人と、わたしはしょっちゅう追いかけっこをしていたんですけれど」

 お忘れでしたかと言えば、ああそうだったなあとアラムは頭をかいた。

「まあ、着て貰える機会はあるでしょうからね」

 そうカディージャは言ったが、キリは曖昧に笑って何も答えなかった。

 そのかわりに言った。

「何はともあれ、これからもよろしくお願いします」



 キリの格好に満足げな顔をしながらも、ルドヴィカはあかい唇を尖らせた。

「ねえ、あちらの国で着ていた衣装、なんで着ないのよう~。勿論その衣装も似合ってるけど、あっちの方が動きやすいんでしょう?」

 子どもたちが昼寝をしている間にと、ルドヴィカと二人でお茶をしている時の事。ねえあの衣装を着ているのが見たいわとルドヴィカがまた言いだした。

 西の国で贈られた衣装は全て仕舞いこんでしまった。装飾品も何もかも。

 こちらへ戻って初めのうちは、トリシャも西に居た時の衣装をすすめてきたが、首を横に振り続けるキリに今では何も言わない。

 キリの言う通りに衣装を衣装棚の奥へと仕舞いこんでくれた。

 その代わりのように。双子の子どもたちの相手をしない時などは、キリの苦手としている衣装を差し出してくる。

「折角この衣装を着られても、平気になったんですから。いつまた正式な場所に出るとも限りませんから、練習しておいて損はございませんよ」

 それとも、あちらで頂いた衣装の方がよろしいでしょうか。

 キリは諦めて、時々窮屈な衣装を身につける羽目になっている。

 こんな衣装を着て日々平気な顔をしている女性……ルドヴィカなどを、本気で尊敬してしまいそうになる。

 以前よりは着方にも慣れ、楽に着ていられるようになったものの、いつもの格好の方が気が楽だ。

「あれはもう、仕舞ってしまいましたから。それにこの衣装もあちらの衣装も、お子様方と遊ぶには不向きですよ」

「それはそうだけど~私、一度しかあの格好のキリを見てないのよう~。夕食の時にはもう着替えちゃってたじゃない!可愛かったのにっ」

 酷いわあ、私の頼みを聞いてくれてもいいじゃない~とルドヴィカは恨めしげにキリを見る。

 その遣り取りも、もはや何度目になるだろう。いつもキリは淡く微笑みながらも、頷く事はしなかった。

 けれど、この度は多少違った。

「そうですね……もし機会がありましたら、ね」

 あらあ?たちまちルドヴィカは目を輝かせる。

「どういう心境の変化かしらあ?」

 いえ、とキリは手にしていた茶碗をテーブルに置き、窓の外を見た。外には長い冬を越えた緑の葉が、風に揺れていた。

「そんな大袈裟なものじゃありません。ふとそんな気になっただけですよ」




 贈られた衣装も装飾品も、なにもかも普段目につかない場所に仕舞いこんだのは。

 それを目にして心を揺らすのが怖かったからだ。

 そうして時間が経てば、水面に広がる波紋もやがては消えるように、心も凪いでゆくはず。

 そう思っていたのに、波紋は別の方向からやってきた。

「キリさま、お手紙が届いております」

 こちらへ戻って、しばらくしたある日。トリシャが一通の封書をキリに差し出した。それには繊細な地模様が浮き出ていた。

「わたしに手紙ですか……一体どなたでしょう」

 首を傾げながら封書を受け取る。

 親しくしている人はほぼこの城内にいるから、わざわざ手紙など寄こさない。全く心当たりがなかった。

 封書の表には、たしかに宛名にはキリの名があった。

 そして何の気なしに裏を見てキリは息をのんだ。

「キリさま、こちらに便箋と封筒をご用意しておきましたので、お使い下さい。私は少し用事がありますので」

 トリシャがそう声をかけ、部屋を出ていった。

 それに返事も返せないほど驚いていた。

 差出人は、西の国の王、だった。署名と紋章入りの封印がある。

「一体何のご用事でしょうか、ね」

 息を吐き出してキリは封筒を何度もひっくり返す。堂々とした字体にはいささか不似合いな繊細な封筒。あの王がみずからこれを選んだのだろうか。 そう思うと自然と口元に笑みが浮かんだ。

「どのみち、お返事は書かねばなりませんしね」

 中を見たいような見たくないような。逃げ出したい気分に駆られながらも、キリは封を切った。封書と同じく繊細な模様が入った便箋には、これまた堂々とした字体で文章が綴られている。

 恐る恐る読み進み、キリは肩に入っていた力を抜いた。

 綴られているのは、庭園を散策していた時に話していたような……他愛のない優しい話ばかりだった。

 最後はキリの体を気遣う文で締めくくられている。

 何度も手紙を読み返し、キリはそれを元通りに仕舞った。

 静かな湖面に波紋が広がる、そんな情景が目に浮かび、何かが動くような予感がする。それを振り払うようにキリは声にだして呟いた。

「さ、どうお返事しましょうかね」

 しろい便箋を前に、キリはペンを取り上げた。



 そうして。手紙のやり取りは続いていった。

 他愛のない話題ばかりだ。口に出して話した所で、次の瞬間に忘れても、差し支えがないような。

 面白かった本の事や、最近あった事、美味しかった食べ物の話など。

 こんなやり取りなど、数回で終わるだろう。そんなキリの予想に反して、手紙のやり取りは季節をまたぎ続けられた。ひとつこえ、ふたつこえ……そうして冬が過ぎて春がやってくる。

 気付くと手紙は、箱一つ分ほどの量になっていた。

 よくもこれだけ寄こしたものだと感心するような呆れるような……お仕事で忙しいでしょうにとキリはため息をつき、そして自分も同じほどの量を返しているのだと思いいたると、どうにもいたたまれない気分になった。

 まるで降り積もる雪のようだと思う。

 花の盛りなら、地に降り積む花弁か。

 知らない間に、いつの間にか溺れてしまいそうだった。

 少しずつ少しずつ……降り積もり大きくなった何かのせいで。


 受け入れられないと拒んだのは自分のはず。

 ここに居るのも、まだ違和感が付き纏っているのに。

 その気持ちに変わりはないけれど、それでも。大きな波がくれば揺すぶられそうで。

 もう返事を書くのはよそうと、そう思ったのに。


「おやキリ、そんな薄着では風邪をひきますよ。こんな夜に何をしているんですか」

「カディージャさまこそ、今お帰りですか。毎晩遅くまでお疲れでしょう」

「まあいつもの事ですから、大丈夫ですよ。それより、何をしていたんですか」

「少し……庭を散歩していました。なかなか寝付けなくて」

 春まだ浅い日のこと。

 夜が更けてもキリは眠れなかった。原因には心当たりがある。

 それに視線を投げたのち、夜着の上から上着を羽織り、さらにショールを掛けて部屋を出た。

 眠れないなら庭でも散歩しようと思ったのだ。早春の為、まだ花には早い。空気も冬の名残でしんと冷えている。月明かりので足元は明るく、歩くのに不自由はなかった。

 膨らみはじめた花を眺め、冷えた空気を吸い込み、輝く月を見上げる。

 そんなときだった。カディージャと行きあったのは。

 カディージャは眉をひそめて言った。

「夜更けに若い娘が出歩くものじゃありませんよ、不用心な。気をつけなさい」

「でも、ここは一番安全な場所のはずでしょう?」

「それでも、です。いいですね」

「はい……」

 首を竦めてキリは答えた。ここで反論しようものなら、冬の空気より冷たい目で、しんしんと怒られる事が予想できたからだ。

 視線を逸らすように、目を空に向ける。

 大きな丸い月は、きらきらひかる銀貨のように見えた。

「ところで、何か気がかりでもありましたか。浮かない顔をしていますね」

「いえ、別に……」

「浮かないというより、悩んでいる顔でしょうか。そういえば、西の国の陛下から、手紙が届いていましたね。そのせいですか」

「……」

 キリは答えられず俯いた。その頭に、カディージャの手がのせられる。

 子どもを宥めるように、ぽんぽんと撫でられ思わず笑ってしまった。

「そうそう、笑っていて下さい。難しい顔をしているより、その方がずっといいですよ。ねえキリ、あなたは本当にこのままでいいんですか?」

 本当に。

 それは何度も何度もキリが自分に言い聞かせた言葉だった。

 このままでいいのだ、本当にこのままがいいのだと。

 言い聞かせないと揺らいでしまいそうになっていたから。

「だって……今でもわたしは、この立場にさえ違和感があります。ましてそれ以上責任ある立場なんて恐ろしいばかりです。それでも……怖いのに、それを望んでしまうなんて、変でしょう」

 優しい言葉に、今までずっと隠していたものを吐き出していた。

 王から受け取った手紙には、最後に「元気でやっているか、またお前と会って話がしたい」と記されていた。

 気持ちは変わっていない、とも。

 これまでの、たくさんのやり取りの中で、それは嫌でも思い知らされたことだ。

 ただの酔狂でこれほど頻繁に送れるものではない。

 もうとっくに、沈めたはずの気持ちはこころの表面に浮かび、そして波に浚われようとしていた。

「いいえ、変じゃありませんよ。私は……私たちは、あなたが望みを諦めてしまうより、望み通りにしてくれた方が嬉しい。あなたが怖がる気持ちもわからなくはないですが……あなたは一人じゃないでしょう?」

 その言葉にキリは顔をあげる。穏やかな目でカディージャはキリを見ている。

「ここに私たちが居るように、あちらにも陛下や王太后陛下、宰相殿もいらっしゃる。みなあなたの助けになって下さる方ばかりですよ。一人で抱え込まずに、困ったら彼らを頼ればいいんです。なに、本当にどうしようもなくなったら、こちらに戻ってくればいいんですからね」

 事もなげに言われ、キリは目を瞠った。

「おや、何ですかその顔は。何かあってもあなたひとりくらい、守れる甲斐性は私たちにはありますよ。信じられませんか」

 いいえ、とキリは首を横に振る。そしてわざと明るい声を作った。

「わたし、本当にいつか逃げ帰ってくるかもしれませんよ。そうしたらご迷惑がかかるでしょう。いいんですか?」

「構いませんよ。万が一そんなことになれば、陛下も殿下もそりゃあ恐ろしい報復に走るでしょうが、何私も同様ですからご心配なく」

「なんですか、それ。ちっとも安心出来ません」

 くすくすと笑うキリの体を、カディージャはそっと抱き寄せる。

 冷えた体に熱をわけるように、腕の中に囲いこんだ。

 報復だのって、冗談だと思っているんでしょうが、まぎれもない事実ですがね。

 その内心がキリに伝わる事はない。

 万が一そんな事になれば……表立っての動きはないにしても、小国なりのやり方でじわじわ西の国を苦しめる、そんな光景がありありと浮かんだ。

 そんなことにはならないでしょうけど、とのカディージャの呟きは、誰にも知られる事無く月の光の中に溶ける。

 ありがとうございます、とキリはカディージャの胸に顔を埋めたまま呟いた。



 


 手紙を読み、キリは頬に手をあてた。さっきよりも一層煩く心臓が鳴っている。

「どうしましょう……」

 呟いてみても誰から返事が返るわけでない。そう知っていても、言わずにおれなかった。

「どうしたのさ、さっきから百面相してるじゃない」

「ひゃ、リヒトさま!おられたんですかっ」

「うん、さっきからね。僕に気付かないし、百面相してるしで、見守ってたとこ」

 で、どうしたのとにこにこ笑いながらキリに問いかける。

 キリは次第に赤くなる顔を手で覆い、答えあぐねていた。

「で、どうしたのさ?」

 リヒトの追及は止まない。いずれ知れることだ、とキリは腹を括る。

「実は陛下から手紙をいただきまして……それで、ですね。わたしを迎えにくると書いてあるんですが」

「ふうん?で、キリはどうしたいの」

「……一緒について行きたいと思ってます……」

 そこまで言うのがやっとだった。

 どうにも恥ずかしくて顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまう。

「うん、わかった。それがキリの望みなら、その通りにしたらいい。さてキリ、ぐずぐずしてる時間はないよ、陛下はもうこっちに向かってる筈だからね」

「え、何ですかそれっ」

「あ~多分キリに手紙出すのと同時くらいだろうね。父上に向けて書簡も出してたみたいでね。まあ娘さんをいただきにまいります?みたいなこと書いてあったってさ。父上なんか、今度こそごねてやるぞって息まいてたけどね。カディージャも、どれひとつ釘でも刺しておきますかだって。遠路はるばるやってきた挙句がそれじゃあ、陛下もお可哀そうに」

 キリには返す言葉もない。

 というか、王の用意周到さや、こちらの陛下たちの反応にも呆れてしまうというか。

 どこまで自分に甘いのかと嬉しいような気恥かしいような気持になる。

 それにしても……王は、キリが「わたしも会いたいです」と返事を出したすぐ後に行動に出たと言う事か。

 そこでふと、キリはあちらの国における自分の立場を思い出した。

 一度は側室としてあがったが、一度縁を切っている筈。

 もう一度婚姻など、面倒な事にならないだろうか。

 それを問うと、リヒトは肩を竦め、あっけらかんと答えてくれた。

「心配しなくてもいいよ。だってキリはまだ陛下との婚姻関係は続いているから」

「……は、何ですかそれ」

「だから、側室っての、解消してないの。ま~あっちの陛下がごねてごねて。それくらいの望みはもたせてくれてもいいだろうってさ~。だから対外的には、キリは一時的に帰国、って事になってるよ。だから陛下の体面にも問題はなしってこと」

 にこやかに笑って言いきられると、キリとしては何か言いたいのに何を言っていいやらわからなくなる。

 そこでふと、リヒトは表情をあらため、キリを見つめた。

「ねえ、君は僕の義妹だし、父上の娘だ。カディージャにとっても娘みたいなものだよ。だから何かあったらいつでも頼りにしてくれていいんだから。たとえば、陛下のここが我慢できないとかあったら、気にせず帰っておいで」

 そしてにやりと口元を歪め、突拍子もない事を口にする。

「ねえ、やっぱりきみを僕の“娘”にしておくんだったよ!そうしたら陛下に“義父上”って呼ばせる事が出来たのにさ!」

 ああ惜しい事をした、絶対ニガムシ噛みつぶしたような、しかめっ面しただろうにと笑うリヒトに、キリもつられて笑ってしまった。

 



 そしてリヒトはキリの背後を見て笑いをおさめる。

 案の定、しかめっ面をした男がそこにいた。

 誰が“義父上”なぞ呼びたいものかとその顔は語っていた。

 キリはまだ気付かない。

 

「迎えにきたぞ」

 その声にキリは後ろを振り向き……そして、かたい蕾が花開くように、笑ったのだった。



 たくさんたくさん……雪のように降り積もった、もの。

 たかい壁さえこえて。

 深い溝さえ、埋めてしまって。

 

 そうして溢れだした思いは、もう止める事は出来なかった。







「あ~あ、“義父上”って呼んでいただくのは無理ですが、僕はキリの義兄ですからね。義兄上って呼んでいただいてもよろしいでしょうか」

「……善処しよう」




                                         END



               


 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 これにて本編完結です。

 続く番外編は、“客人”が何故やって来るようになったかを書いたものです。

 アラムやリヒトたちのご先祖が出てきます。もうしばらくおつきあいくださいませ。


 ありがとうございました。




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