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「顔が怖いぞ兄上」

「これが地顔だ煩い」

「このままあの子帰しちゃうつもりなんだ~?」

「それが初めからの取り決めだからな。迎えも来てしまったしな」

「ああ~まさか王太子自ら迎えに来るとは思わなかったな。こちらへの挨拶がてらとかは建前で、絶対連れて帰るっていうアピールだろうねえ」

「そうだろうさ。何せ恐ろしいほどの笑顔で言っていたからな。迎えにきたと」

 

 執務室でうんざりした顔も隠さず書類を裁いていた。

 今頃娘は迎えに来た義兄と話をしている頃だろうか。

 腕の中から解放すれば安堵したような顔をして、こちらを見ずに義兄の方へと駆け寄って行った。

 挨拶には後ほどお伺いします。

 娘の義兄は笑顔のまま一礼すると、こちらに有無を言わせず娘を促して歩き出した。華奢な背中が見えなくなるまで、見送るしかなかった。

 あれはおそらく見ていたのだろう。自分が無体な真似を働いたところを。 あの冷ややかな笑顔はそれゆえかと思った。この仕事が片付いた後に会う事になっているが、何を言われるかと気が重かった。

「本気であちらに帰すつもりか?」

 弟のヤズルカが念を押した。

「ああ、今こちらに引き留めても、よい事にはならんだろう。それに一度はあちらに戻してやらんと、それこそあちらの国の陛下が何か仕掛けてきそうだ」

 出来るならこのままここに居て欲しいと思う。

 しかし無理に引き留めても娘は頑なに気持ちを受け入れようとはしないだろう。

 少し前に見た場面が頭の中で蘇る。


 

 母親に呼び出され、この部屋に居るようにと言われた。

 ただし声は出さぬようにとも。一体何をするつもりかと尋ねれば、隣の部屋にこれから娘を招くという。お前は大人しくそこに居れと母親は笑い、隣の部屋へと移動した。

 自分が居る部屋は側仕えたちの為の部屋で、何かあってもすぐ動けるよう隣の部屋の者音や話し声が筒抜けで聞こえてくる。

 そこで自分は、ようやく娘が何に引っ掛かっているかを知る事が出来たのだった。

 娘が去った後、隣の部屋へ行くと母親は頬杖をついて椅子に腰かけていた。

「責任を負うだけの覚悟がないのじゃと。なに、それを分かっておるのなら十分じゃと思うのだがな」

 母親は娘を気にいっているらしい。ならばと母親に言った。

「子どもの顔を見せるのは少し先になるかもしれん。それでもいいか」

「お前はあの娘がいいのじゃろ?仕方ない待ってやるし煩い奴も黙らせてやるゆえ、これ以上下手を打つでないぞ。なんじゃあの色気のない会話は、呆れるわ」

「……どこからどこまで知ってるんだ……」

 ほほ、と母親は優雅に笑うと扇で口元を隠す。

「ま、しばらく長期戦でいくのじゃな。あまり急げばあの娘にはかえって逆効果であろうよ」



「一旦は返すが諦めたわけじゃないぞ。少し長期戦になると思うが……」

 目の前の宰相と弟は、仕方がないと肩を竦めている。

「お前がそう決めたんならいいさ。ただますます世継ぎがとか側室がとか、煩く言われると思うよ~。それは覚悟しておくんだね」

「まったくな。俺の所にもまた縁談が増えそうだな。これは貸しにしておくぞ」

 悪いなと言って手元の書類に目を落とす。そこへ弟が驚く言葉を落とした。

「まあ、嫌いとは言わなかったからあとは兄上の頑張り次第……というか、執念しだいだろうな」

 この面倒くさい兄上を嫌いと言わなかったんだ、あの方なら義姉上と呼んでもいいと言う弟に、何から聞くべきかしばし唖然としてしまった。

「お前、あれに会ったのか?何を聞いたっ」

 弟は悪びれずに答える。

「兄上を思っているか聞いた。はっきりとは答えてくれなかったが、あの様子だと嫌われてはないようだな」

「散々酷い事も言ったし、不可解な言動もしてたのにねえ、心が広いというか物好きというか。俺だったらこんな面倒くさい男絶対にお断りだよ」

「お前っ、何勝手な事をしてるんだっ」

 怒ってみても弟は平然とした顔で答える。

「兄上の結婚は、兄上一人の問題じゃないからな。俺としても気になるのは当然じゃないか。まあ多少物事を難しく考えるきらいがあるようだが、あの方なら喜んで義姉上と呼ぶぞ。だから兄上、しっかり掴まえておけよ」

「そうそう、これを逃せば、いつお前に春が来る事やら~」

 勝手な事をいう、ともう一度呟いて書類を机の上に置いた。

 にやにやと笑う弟と宰相の顔を見ていられず顔を背ける。

 嫌われていない、むしろ好意を持ってくれている。

 それくらいは気付いていた。

 それ以上に自分の立場が厄介なのか。こればかりは変えようがないから、この立場にある自分ごと好いて貰えるようにしなければと密かに決意を新たにした。

 ひとまず娘の義兄との話し合いが待っている。

 そこではたと気付く。

 もしも念願叶った場合。あの男を義兄と呼ばねばならないのか、と。

 背筋を凍らせるような、冷たい笑顔を浮かべる男の顔が脳裏をよぎり……肩を落とす。


 それでも諦めようとは思わないのだった。





                                  


「ところで陛下、ひとつお尋ねしてもよろしいですか」


 今後についての話し合いも終わり、一息つこうかとお茶を飲んでいた。

 自分たちが居るのは見事な庭が見渡せるテラスで、気候も穏やかなこの時期、心地よい風が吹いている。常緑の緑の木々や咲いている花々が目を楽しませていた。

 のんびりとお茶を楽しむ様は、傍目には王と他国の王子が歓談でもしているように見えるだろう。

 下手に人払いをして話をした方が、余計な憶測を生むしねえ。

 この国の宰相はそう言って、話をする場所として見通しのいいこの場を指定してきた。

 見晴らしがいい分、身を潜める場所もない。話し声にしても近くに噴水があるために、耳をそばだてても聞き取れはしないだろう。

 とはいえさして外聞をはばかる話をしていたわけではない。

 薄々はそうと感づかれている類の話だったから。

 そして、いずれ時期が来ればどのように取り計らうか初めから決めていたはずの話でもあった。

 話自体は二、三の確認だけであっという間に終わり、後は雑談に終始した。子どもの事だったり噂話だったり。

 そのうちどんどんと目の前の相手が浮かない表情になるのに気付いた。

 珍しいことだと内心思いながら、まあそれも仕方ないかとごちる。

 今までのあれこれは全て報告されている。何とまあ、と呆れかつ驚いたものの、それは悪い感情はもたらさなかった。

 むしろ微笑ましいとさえ思うものの、それも程度問題。

 この期に及んでさて、どうするつもりなのかと思う。一応は体面も考え、王の願いを聞き届けるつもりではいるけれど。

 それもさて、あの娘相手ではどう転ぶ事やら。

 最低限の手助けはするのだから、後はご自分でお願いしますよと心の中で呟く。

 内心はおくびにも出さず、全く違う事を相手に問いかけた。

 答えてくれるかどうか、半々だろうと思いながら。


「ところで陛下、ひとつお尋ねしてもよろしいですか」

「……なんだ」

「私の義妹の様子に一喜一憂している様子と、側室方へのあしらい方を拝見してると騙されてしまいますが、陛下……この度の事、もともと何かと厄介な三家の威勢を削ぐためのはかりごとだったのでは?」

「何故そう思う。私はあの三家があまりにも煩いから、その娘たちを側室として迎えざるを得なかっただけだぞ」

「それがそもそも可笑しいんですよね。ことは世継ぎを生むかもしれない側室問題でしょう。それを三家を一時的に黙らせるために要望をのむとは思えません」

「……それで?単に私が一時凌ぎにでも譲歩したとは思わぬのか」

「譲歩と見せかけて誘い込んだの間違いではないでしょうか。まあ陛下の目論見どおり三家の威勢にも陰りがさし側室問題も片付きましたね。この状況を見てやれうちの娘を側室にと言いたてる者もしばらくはいないでしょうよ。今回の事がなくとも、近々片づけるおつもりだったんでしょう?」

「どのようにだ?理由がないぞ」

「理由など。後宮を私物化しているとでも専横が過ぎるとでもいくらでもあるでしょう。どうせ言い逃れ出来ない証拠を色々お持ちのはずです」

「……さて、何のことやら」

 口の端だけで笑い、明確な答えは返さない相手に、こちらも小さく笑い返す。答えが返るとは思っていない。けれど否定もされなかった。

「やはり、恐ろしい方ですね」

 それは本心からの言葉だったが、それは当の相手に否定される。

 藍色の目には呆れた色が滲んでいた。

「何を言う、そちらはどうなのだ。こたびの事だって本当はそちらだけでも対応出来たはず。この国を頼らずとも自国だけでも蹴散らせる相手ではなかったか?」

「いいえ、うちは何分小国ですから。そのような力はとてもとても」

 にこりと笑って手を振るが、胡乱げな視線が寄こされる。

「小国小国と言うがな、私はその言葉がどうにも胡散臭く聞こえて仕方ないぞ。今回の事にしても、あちらの国に手を引かせる材料は幾らでも持っていたはずだろう」

「いえとんでもない。買いかぶりすぎですよ。そうですね、多少材料はありましたがね」

「それならなぜ、あのような後宮には全く不向きな娘を寄こしたのだ」

「あの娘をこちらに寄こした方がより波風が立たないと判断したまでです。それに、あの娘をと望んだのは、陛下ご自身でしたが。お忘れですか」

 いいやと王は首を横に振った。表情には些か苦いものが浮かび、そこに後悔の色が見える。

 後宮で起きた事はすべて知っている。こちらとしても、まさかそこまでの事が起きるとは予想外でもあった。多少何かあったとしても、あの娘に危険は及ばないだろう、こちらでの守りの手は万全だろうと思い、密かに護衛を差し向けるまではしなかったのだが。

 欲にかられた人間の行動は予測がつかなかった、ということか。

 報告を聞いて、悔やんだものだ。

 それでも……視線の先には庭園で花を摘む娘の姿が見える。何やら楽しそうに侍女や庭師と話をしている様子は楽しげで。

 陛下もまた娘の方へ視線を向けていた。

「確かに望んだのは私だ。しかし本当に寄こして来るとは思っていなかったぞ。こちらの習慣には不慣れな娘だ。側室になれと言われても承知するとは思えなかった」

「……まあ普通ならそうでしょうね。それにこちらとしても、断っても構わないと言いましたし。けれどあの娘は自分でここへ来る事を選びましたよ。うちとしては断って欲しかったんですけどねえ」

「何故だ。お前たちがそれがよいと判断したのであろうに」

「誰が大事な子を、危ないとわかっている場所に送り出したいものですか!案の定危ない目には遭うし、嫌な思いや不自由な思いをさせてしまいましたよ。あの子も初めから覚悟の上とはいえ、ね。それに……まあこればかりはなるようにしかなりません、か」

「何を言っているんだ。しかし、何故危ない目に遭うとわかっていても、あの娘は来たのだろうな。断る道もあったなら……それがどうにも腑に落ちん」

「それは私たちにも原因があるのでしょう。

 あの子は“客人”ですから、請われるまま様々な“客人”の話をしました。ご存知のとおり“客人”の中には様々な有益な物をもたらした者が多い。それに引き換え、自分は役立つ何かなどないとあの子は言いましたよ。自分一人ならどうとでもなるから街へ降りて働くと言い張りまして。

 まあどうにかこうにか養女の件も了承させて今に至るのですが……役立つ何かがあるから側に居て欲しいわけじゃないんですけれどね」

「そちらの国には神々の血筋の者が多かったな。それゆえ“客人”には惹かれるか?」

「事実ですけれど、それはきっかけの一つでしかありませんよ。ただ、あの子にはまだ言えませんね。いずれは知れる事ですが、まあそれまでにはちゃんと分かってもらいますよ」

 そうか、と王は短く答えた。その視線は娘に向けたまま。

 そのような目で見ているくらいなら、何故……と歯がゆくて仕方がない。

「陛下。明日には私たちはこの国を去ります。よろしいのですね」

「……いいもなにも、初めからそう決まっていた事だろう」

「それでも、婚姻の解消はしない、と」

「……それくらいの望みは持っていてもいいではないか。そちらも了承しただろう?」

「ええそうですね。うちとしては、あの子には平穏に過ごして欲しいんですが、あの子が望む事なら叶えるにやぶさかではありません。誰を伴侶に選ぼうと、ね」

「それは……?」

「ここからは一人ごととしてお聞き下さい。うちの国には確かに“客人”が多くやってきました。神々の血筋の者も多く居ります。“客人”には無条件に惹かれますからね、神々の血筋の者が“客人”を見つけた場合、これを伴侶としている場合もまた多いのですよ。その“客人”の子孫たちのことをも、神殿の本山は把握しています」

 息を呑む気配がある。それを気にせず言葉を続ける。これは神殿の本山でも一部の者とそして己の一族しか知らぬ事。それを何故明かすかという事に。さて気付いてくれるかどうか。

「ずうっと前に、もう忘れるほど昔にですね、かわした約束がありましてね。“客人”には不自由がないように取り計らうと言ったそうなんですよね。うちの先祖が。本人が亡くなった後はその子孫に困った事がないように、というのが元々の目的だったんでしょうけれど。

 今はやって来る“客人”も殆どいませんし、“客人”の子孫にしても代を重ねた今は、本人たちも先祖に“客人”が居たと知っているかどうか。今では単に子孫を把握するという役割しかありませんし。流石に昨今では数えて三代くらいしか把握もしていませんし、記録も残してませんよ。さて、陛下はそれでも構わないと仰いますかねえ。あの子がもしも望めば、子や孫の代まで神殿に記録が残される、それに納得してくれますかねえ」

 神殿には国の力も及ばない。

 どのような記録が残っているか知る事も出来ない。

 自分たちにしても記録が残されるという点を知るのみで、内容までは窺い知れないのだ。

 王は何を言うとでも言いたげに鼻で笑った。

「……もともと色んな事を知られる立場だ、それに神殿が加わるだけの事。何を知られるにせよ、構うものか」 

 そうですか、と息を吐き出した。それならもしあの子が望んだとしても、安心だと思う。でもその前に。

「陛下、こちらとしても出来るだけは待ちますが、あまり遅いとあの子は安心できる所へやってしまいますからね?候補はいくらでも居るんですから。たとえばうちの宰相あたりとか。年は多少離れていますが、まあ悪くない縁組ですしね」

 がたがたと大きな音をたてて王は立ちあがる。顔色がわるかった。

「それは本気か?」

「さあ……それも今後の陛下しだいですよ。ことさら応援もしませんが、邪魔立ても致しません。ですが時間は有限ですからね」

 

 さあ陛下のお手並みを拝見いたしましょう?

 笑って、お茶に口をつけた。吹く風は穏やかで目に優しい緑が広がっている。

 

 凪いだ湖面のような娘の心に、吹き荒れた嵐。

 それがもたらすものは、一体何だろうか。




                                  





 出立は明日の早朝だった。

 見納めにとキリは一番よく散策した庭園に来ていた。

 明日の出発に備えトリシャは忙しそうだった。

 荷造りは済んでいるのだが、何かと色々あるのだろう。

 キリさまはどうぞゆっくりなさってて下さいねと隙のない笑顔で押し切られては、手伝うとも言いだせなかった。迎えに来たリヒトは何か用事があるのだろう、朝挨拶に訪れた後どこかへ出かけてしまっている。

 そういえば昨日も、キリたちと話をした後陛下に挨拶してくると言ったきり、遅くまで戻らなかった。

 慌ただしい空気の中、本を読んで時間を過ごす気にもなれなかった。

 窓の外はいい天気で、空には刷毛で描いたような白い雲が浮かんでいる。 キリは扉の外の護衛に声をかけて、庭に出る事にしたのだった。


 迎えがリヒトだとは思わなかったが、今回の事で王と直接話し合う事もあるのだろうとすぐに思いいたる。

 リヒトはキリに、双子たちからの手紙だよとふわふわした感触の軽い封筒を差し出してきた。

 感触を不思議に思い、すぐにキリは封を開ける。中には手紙は入っておらず、かわりに薄紫の紙がたくさん入っていた。花の形に切り抜かれたそれに、キリは驚いてしまう。

「あの子たち、君が国を出てからは、しばらく泣いて手が付けられなかったんだ。君は君で手紙一つ寄こしてくれないし。東の国との問題が片付かなくとも、一度は戻ってもらおうかな、なんて父上とも話していたんだけどね」

 僕たちの手紙にも全然返事をくれなかったしねと拗ねたように言われ、慌ててキリは弁解した。

 後宮で問題があって手紙が届かなかったこと、そのような状況だったから、返事を出せなかったことなどを。

「まあそういう事にしておいてあげるよ」

 何やら不穏な言葉にキリは眉を潜めるが、リヒトはそれ以上何も答えてはくれなかった。

 かわりに出立は明後日だからね、とさらりと爆弾を落とす。

 え、とキリが目を丸くしている横で、トリシャがえええっと声を上げている。

「ちょっとリヒトさま、明後日ですか?また急ですって!」

「え、でも荷づくりは済んでいるよね?お世話になった人への挨拶も済んでるしょ?何か問題でも?」

「……いえありません」

「じゃあそのようによろしくね」

 にこりと笑った後、リヒトはトリシャにお茶を入れてくれるよう頼んだ。トリシャが部屋を出た後、リヒトはキリに向き直り、ごめんねと口を開いた。

「ごめんね、来るのが遅くなって。色々不自由な思いもさせたね」

 キリは首を横に振った。

「いいえ、遅くはありませんよ。確かに少し困った事もありましたが、とてもよくしていただきました」

 それはキリの本心だったが、何故かリヒトは苦い顔をする。

 それを問う前にトリシャがお茶を運んで来たので、結局聞けずじまいだった。



 花の盛りは過ぎた庭園だが、滴るような緑が目に優しかった。

 花殻を積んでいた庭師がいたので、すすめられていた庭園を散策した事を伝えた。とてもうつくしい気持ちのいい庭だったと言えば、彼はそうじゃろと豪快に笑う。彼はまた別の庭園をすすめてきたが、そこに行く時間はないだろう。けれどそれを言うわけにもいかず、曖昧に笑ってやり過ごした。明日ここを発つとも言えないのだ。

 どうぞごゆっくりと庭師は帽子を取り挨拶してくれる。

 ここに来て色んな事があったと思い返す。嫌な事怖い事もあったけれど……心をよぎった面影を打ち消した。

 明日ここを発てば、キリが二度とここへ来る事はない。

 心を揺らす思いも、やがては静まり消えてゆく。それでいいと思った。

 自分の中にまだやわらかな気持ちがある。それを思い出せただけで十分だと。

 花の散った茂みを抜けた先で、キリは足を止めた。そこには先程キリが思い出していた人が佇んでいる。

 静かな目でキリを見おろしていた。

「明日、ここを発つそうだな」

「はい。陛下には色々お世話になりました。ありがとうございます」

 キリの言葉に、王はほろ苦く笑う。

「とうとう何も答えてはもらえぬか。いや、言うまい。だが一つだけ答えてくれ」

 なんでしょうとキリは王を見上げる。王はキリの両手を取り、しっかりと握りしめている。

 これでは逃げられないとキリは諦めた。

「もし……もし俺が王という立場に居なかったら、お前は俺の気持ちに応えてくれたのか?」

「その仮定は無意味でしょう。陛下とそのお立場は切り離せないものです。ですが、そうですね……」

 言うべきでないと頭のどこかで声がする。しかしキリは向けられるものに一つも答えられないのだ。 だからせめてと思った。これはあくまで仮定の話だからと。

「もし陛下が今のお立場でなければ、お応え出来たかと思います」

 そう答えた途端、体を抱き寄せられて口付けが降って来る。額に、頬に、唇に。ぎゅうっと抱き締められるのは本当は好きだった。大きな腕の中はとても安心した。けして言わないけれど。

 口付けをほどいたあと、王はキリを腕の中に囲いこんだまま、低く呟く。

「もしお前が望むなら、俺は……」

 その先を聞きたくなくて、キリは言葉を遮った。

「わたしは何も望みません。気持ちだけではどうにもなりません。わたしにも、どうしても受け入れられないものがあります。今の立場でさえ受け入れがたいのに、それ以上は、どうか」

 キリの言葉を聞いた後、王はそうかと静かに呟き、キリの体を離す。そして微かに笑い、キリの額に口づけた。

 唇を押し当てるだけの、色のないものを。

「……旅の無事を祈っている」

 去ってゆく後ろ姿を見つめながら、キリは言葉もなく佇んでいた。






 やはり駄目だったか。いやでもこれぐらい予想していたじゃないか。

 駄目でもともとの気で言ったものの。

 こうまできっぱり断られると落ち込むものだな……。

 重い脚を引き摺るようにして執務室に戻って来て、ますます気分が下降した。

 何故お前たちがいる。

 元凶どもはこちらの気も知らず、陽気に囃し立ててきた。

「うわ~酷い顔だねえ。最後の駄目押し食らってきたって感じ」

「長期戦になると自分で言ってただろう。今からへこたれてどうする。そんな怖い顔をしてると、義姉上に逃げられるぞ」

 宰相と弟に口ぐちに言われ、ただでさえ少ない気力が根こそぎ奪われそうな気分だ。

 無言で椅子にどかりと座り、頬杖をついた。

「あれれ、どうやら本気で落ち込んでるみたい。どうしたのさ」

 ひょいと宰相は顔を覗きこんでくる。

「別に。俺の立場が一番の問題だってことを再確認して気が重いだけだ……そうだいっそ、お前に譲位してやろうか」

 弟に向けてそう言い放ってやれば、はあ?と眉を跳ねあげて不審そうな声をあげる。

「ちょ、兄上何を言い出すかと思えばっ。俺はもう臣下だから無茶だろうっ。というか脈絡もなくそんな事言わないでくれ!」

 心臓にわるいと弟は文句を言うが、ああ譲位した所で駄目だなと頭を振る。それで「諾」と言うような娘でないし、逆に安易に責任を放り出すのかと軽蔑されてしまいそうだ。

 長期戦の覚悟はしているが、こうまで手詰まりだとため息しかでない。

 抱き寄せて抱きしめて。そして口付けをしても大人しく腕の中にいてくれるのに。

 好意を持ってくれていると、わかるのに。

 最後の最後で、邪魔をするのが自分の立場。

 今まで自分の立場を辛いとか苦しいとか思った事は、そりゃああるが、これほど恨めしいと思った事はなかった。

「……ああ、もう……どうしたらいいんだ……」

 ずるずると机に頬をつける。いい考えなど少しも浮かんでこなかった。

 明日になれば、娘はここを発ってしまう。そうしたら次に会えるのはいつだろう。自分は気軽に他国へ行ける立場ではないし、娘も あちらに戻ればしばらくは何処へも出ないだろうし。

 ため息をこぼす自分の頭の上で、あれまあと宰相の呆れたような声がした。

「ほんとに参ってるねえ。何言われたのさ、ほんと。言ってみなよ」

「……俺が今の立場に居なければよかったと、まあそういう意味の事だ」

「それでか、さっきのは。兄上がおかしくなったかと思ったぞ」

 驚かせないでくれとため息交じりに弟が言った。勿論本気で言ったわけじゃないが、何割かは本気が混じっていた。

 またため息をつきかけた時、実は~と宰相が妙な節回しで口を開いた。

「実は!なんとか陛下に春を迎えていただこう!と言う事で、助言者を呼んでみたりしました!」

「……なんだそれは」

 伏せていた顔を起こし、やけに陽気な宰相をじろりと睨む。今俺の機嫌は下降の一途をたどっているんだぞ。

 下手な事を言ってみろ、ただじゃおかないぞ。視線にこめた意味を、しかし宰相は肩を竦めてかわす。

「まあ、まず話を聞いてみなよ。何か助けになるかもしれないよ?ここで鬱々としてるより、絶対いいって!あ、来たみたい~どうぞ、入って入って~」

 おい、ここは俺の執務室だと言いかけて、入ってきた人物を見てぽかんと口をあけた。

「お邪魔いたします。陛下先程はどうも」

 ……娘の義兄だった。


 娘の義兄はにこやかに笑いながら言った。

「ほんとは手助けとかしないつもりだったんですけどね、こちらの宰相様がもう熱心で。仕方がないので助言くらいは致しますよ」

「助かりますよ、なにせ陛下はこの体たらくですのでね。周りが何とかしてやらなければ、まとまるものもまとまりませんし」

 宰相も同じくらいのイイ笑顔で答えていた。なんだ、この体たらくとは。

「あはははは~僕は別にまとまらなくてもいいんですがね」

「ふふふふ、そうつれないことは言わないで下さい。もしかしたら、我が国とは縁続きになるやもしれないのですから」

 互いに笑顔なのに。素晴らしく笑顔なのに。近寄りたくない、いやいっそこの場から逃げ出したい。 

 笑顔でまわりを凍りつかせる奴らだと思って視線を泳がせ、こちらから関心が薄れている間に部屋を出てしまおうか。

 そろりと椅子から腰を浮かせた所で、くるりと二人の目がこちらを向いた。お前ら、示しあわせているのか?

 弟は諦めろと目で伝えてきた。

 ちょっと助けろ、薄情者!内心で叫んでいると、娘の義兄は憂鬱そうに額に手をあてていた。

「婚姻を解消しないだけでも、十分手助けだと思っておりましたが……ま、これもあの子の為だと思う事に致しましょう。陛下、あの子は手強いでしょう?」

「ああ。壁に歯が立たん」

 きっぱりと頷くと、彼はそうでしょうそうでしょうと何故か嬉しげだった。

なんだその嬉しそうな顔は。俺にも苦労しろと言う事かと勘繰ってしまう。

「僕たちもかなり苦労しましたからね。ま~頑固でなかなかうんと言ってくれなくて。最後はうちの子の泣き落としが効きましたけど……陛下の場合泣いて縋ったら逆効果ですからね、きっと」

 さらりと釘を刺されて、そんなことをするものかと答えた。それに近い事はもうやってしまったとは言えない。

 おい、そこ、何変な顔をしている!

 弟と宰相は、噴き出すのをこらえていた。

「まあでも、長期戦は正解ですよ。時間をかけて外堀埋めていけば、そのうちほだされてくれる……と思いますがね。そこはそれ陛下の熱意次第でしょう」

 そんな、ほだされたくらいで崩れるような壁かと首を傾げていると、娘の義兄はにやり、としか言いようのない、何とも腹黒い笑みを浮かべて言葉を続けた。

「そりゃあ毎日言い続けましたからね。養女になった方が色々お得だよとか嫌になったら解消もできるよとか、子どもたちも懐いているから居てくれると嬉しいなとか、まあ色々」

「それは洗脳って言わないか?」

「心外ですね。ま、多少強引だったかなとは思いますけど、それでも僕たちがあの子を大事にしてるって事、わかってくれていたから……まあいいかと思ってくれたんでしょうね。少しくらい自分を曲げても、ね」

 ふむ、と顎に手をやった。さらに言葉は続けられる。

「と、言う事で、僕は陛下には手紙を書く事をお勧めいたしますよ。毎日は無理でしょうが、出来るだけ間空けずに書かれてみては。お互いを知るいい機会にもなるでしょうしね」

 そうだな、と頷いた。口ではうまく伝えられなかった事も、文字でなら何とか伝えられる、そんな気もした。

 ふと気付くと、宰相と弟の二人が、にやにや笑いながらこちらを見ている。お前ら半分面白がっているだろう!

 腹立たしさをこらえて頭をひとつ振り、そういえばと疑問に思いあたる。

「そういえば、何故助言をしてくれる気になったのだ?勿論俺としては有り難いが」

 すると娘の義兄は途端に顔をしかめた。

「陛下、僕がこちらに来て、初めにお目にかかったとき、何をされてました?」

 そう問われて、記憶を辿り……いささか気まずい気分になった。そう、娘を抱きしめて口付けをしていたのだった。やはり、しっかり見られていたらしい。

「あ~、それは、だな」

「別にいいんですよ、あの子がそれを許しているんだったら。なに、未だに僕も触れないのに、面白くないとか、ちっとも思っていませんとも、ええ」

 とりあえず何も反論せず黙っておいたほうがいいだろう。

 ひんやりとした笑顔が恐ろしいというか。この男と宰相がもし手を組めば冷気も二倍か……そんな恐ろしすぎる想像が頭をよぎり慌てて打ち消した。 今は自分の問題だ。

 娘の義兄はあ~あとため息をついて、仕方ないでしょう、と言った。

「あの様子を見せられたら、ね。あの子の幸せのために多少の協力は致しますとも。ただ言いましたように、あまりにも遅ければこちらで別の縁組を用意しますからそのおつもりで」

「わかっている。……感謝する」

 心からそう言えば、娘の義兄は、ふと表情を緩めた。

「あの子の壁は硬くて高いかもしれないけど、なに、それをひょいと越えるくらいまで、外堀を埋めてしまえばいいんですよ。何も無理して壊す必要はない」


 頑張って下さいねと、未来の義兄は笑った。





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