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以前別アカウントで連載していた話の、移行版です。

誤字脱字等の修正の他は、内容に変わりありません。


 高い木々に囲まれた空間が、目の前に広がっている。

 そこにはふくらはぎの下に届く程度の、丈の短い草が一面に生い茂っている。

 その柔らかな緑の上を、二人の子どもが歓声を上げながら走り回っていた。

 平らな場所であるし、また転んだところで下は草と土であるから怪我の心配はあるまいと、キリは少し離れた木の根元に腰を下ろし、膝の上に持ってきた本を広げた。

 日のあたる場所はは汗ばむほどの暑さだが、木陰を渡る風は涼しい。

 子どもたちのお守りとして此処にいるのだが、少しくらい休憩してもいいだろうと思ったのだ。肩から滑り落ちる、胸の辺りまで伸びた黒髪を首の後ろで結わえ直し、ふうと息をつく。

 

 キリがこの世界に来て、気が付くと二年ちかくが経っていた。

 自分のように、他の世界からやってくる者は、この世界では滅多にいないが珍しくはないらしい。慣れない環境と便利な道具がない事に、戸惑うことも多かったが、何かと構いつけてくる人たちによって、今ではすっかり馴染んでしまっている。

 そしてこれまでの例によると、元の場所へ帰った者はいないらしい。

 その事については……微かに胸の奥が軋むものの、今では仕方ないと思う事にしていた。

 視線の先では子どもたちが、いまだ歓声を上げながら追いかけっこをしている。

 昼下がりの眩い光を受けて、子どもたちの金の髪が純金のようにきらきらと輝いている。

 この日差しの中で、よくもああ元気に走り回れるものだといっそ感心する。

 側でお守りをしているだけでも、こちらはかなり疲労するというのに。

 何度かは子どもたちの遊びに付き合って、全力疾走をさせられるから余計にそう思う。子どもの体力の底なしさ加減は、空恐ろしいものがある。

 あの小さな体のどこに、そんなものが潜んでいるのだろうかと。

 とはいえ。あまり長い時間、子どもを日差しの強い場所で遊ばせるのもまた、よくないだろう。そろそろ中に入って何か飲ませた方がいいかもしれない。子どもたちは追いかけっこに飽きたのか、しゃがみこんでぷちぷちと草花を摘んでいた。そっくりな金髪の頭が、ひょこひょこと動いている。

 さて、問題は。キリは顎に手を当てて考えた。

 外で遊ぶのをやめて中に入ろうと言ったところで、素直に言うことを聞いてくれるかどうか。

 しゃがみこむ子どもの体は、それぞれ片腕で抱えられそうな大きさである。五歳になったばかりの子どもの背丈は、こちらの腰にも届かない大きさだ。

 それでも、二人いっぺんに暴れられると、流石に困る事になると予想できた。

 本を閉じ、斜め後ろを振り返る。そこに……子どもたちを守るために、必ず誰かが控えているのを知っていたからだ。

 駄々をこねられたら、彼にも手伝ってもらおう。その意図を……目線で合図をする前に、近づいてくる人影に気付き首を傾げた。そろそろ戻って来るようにと誰かが催促に来たのだろうかと思ったが、すぐに違うことに気付く。

 その人影が子どもたち付きの侍女ではなく、陛下の侍従であったから。

 子どもたちの護衛に何ごとか話しかけたあと、彼はまっすぐキリの方へとやって来た。

「キリさま、陛下がお呼びです。どうか私と一緒に来て頂きますよう」

 木の根元に座ったまま、キリは侍従を見上げた。

「今すぐ、でしょうか」

 はい、と侍従は短く答える。

 キリは立ち上がると、わかりましたと返事をし、子どもたちの護衛に声をかける。

「後の事を頼んでもよろしいですか」

 護衛が頷くのを見届けて、キリは侍従の後について歩き出した。



 

 侍従に先導されて、キリは長い廊下を歩き何度も角を曲がる。

 開放的な白い石造りの建物は吹き抜けが多く、また内側に中庭を抱く回廊も多く造られている。季節ごとにうつくしい花が咲き、見る者の目を楽しませていた。

 ここに来た当初はともかく、今では案内されずとも道順はわかるのだが、侍従の仕事を奪うわけにはいかないので、大人しく彼の後をついて歩いていた。

 侍従の衣装に身を包み、きびきびと前を歩く背に、ため息交じりに話しかけた。

「何度も言ってますが、わたしに“さま”など敬称は不要なんですが。改めてはもらえませんか」

 侍従は足を止めることなく、また振り返ることなく答えた。

 いつもと……他の皆と同じ答えを。

「私どもも何度もお答えしていますように、キリさまはキリさまでございます。継承権はないとはいえ、れっきとした陛下の養女であらせられるのですから」

「……皆さん本当に頑固者ですね」

「そのお言葉、そっくりキリさまにお返し致しましょう」

 思わずキリが零した言葉に、侍従は微かな笑い交じりの声で答えた。

 そんなやり取りをしている間に、ひときわ豪奢で重厚な扉の前に辿りついた。それは国王の執務室への扉だった。

 その扉の両脇には中に居る国王を守るための護衛が、隙なく立っていた。 侍従は彼らに一言二言告げると、扉を叩いた。すぐに中から返事が返る。

「さあ、どうぞ。陛下がお待ちでございます」

 キリは両脇に居る護衛たちに目礼すると、侍従が開けてくれた扉の内側へと入ったのだった。


 

 キリが中に入った時、国王であるアラムは重厚な執務机にかじりついて、時折唸り声を上げながらなにやら大量の書類と格闘していた。書類の束がもとは広いはずの机を占拠していて、大きな震動を加えれば今にも雪崩を起こしてしまいそうだ。

 アラムの背が高く引き締まった体つきや、明るい茶色の瞳は、孫がいる年齢には見えないほど若々しいが、孫とよく似た金の髪はだいぶ色褪せ、白いものが混じっている。

「陛下、わたしをお呼びと聞いたのですが」

 キリの声にアラムは顔を上げて口を開きかけたのだが、それより一瞬早く氷のような声音に遮られた。

 アラムの執務机の傍には、いささか顔を引きつらせた、この国の宰相であるカディージャが威圧するように立っていたのだ。アラムと同年代である彼は細身の体を品のいい衣装で包み、背の半ばまで伸ばした鈍い銀の髪を飾り紐で一つに束ねている。薄青の目を半眼にして、王を見おろした。

「陛下。キリさまとお話をされるまえに、まずはこちらにサインをお願いします。さあさあ手が止まってますよ、しゃきしゃき動かして下さい」

「あ~~~いやでも~」

「はい?ええ、大切なお話だと言うことは私も承知しておりますとも。けれどこちらの書類をさばく事もまた非常に重要なんです。勿論おわかりですよね?」

 諦めたようにげっそりと頷くアラムを横目に、カディージャは身にまとう雰囲気を和らげてキリに声をかけた。

「申し訳ございませんが、今しばらくお待ちください。陛下はあの状態ですので」

「……陛下、またお仕事溜めてらしたんですか。駄目ですよ苦手だからって放り出しては。宰相様に怒られるの、わかりきってるでしょうに」

 実のところ、これまで何度も何度も見慣れた光景だった。

 とにかく書類仕事が苦手なアラム陛下は、出来るだけ後回しにしたがる。 やがて、しびれをきらした宰相に執務室に拘束され、凍るような空気の中ペンを走らせる羽目になるのだった。

 呆れたようなキリの声に、アラムは首を竦めて、だってさあと子どものように唇を尖らせる。

 しかしカディージャの目が光っているため、サインする手が止まっていないのは見事なものだった。

 こういう状況ですので、と宰相はキリを執務室の奥の部屋に案内する。

 そこはソファやテーブルがあるこぢんまりとした部屋だった。

 おもに国王が休憩用に使っているものだ。テーブルの上には茶器やカップ、美味しそうな焼き菓子が盛られた皿があった。

「お茶でも召し上がりながら、しばらくお待ちください」

 誰か侍女でも呼びしましょうかと宰相は言ったが、キリはそれを断った。 ただでさえ人の手を煩わせる立場にいるのだ。

 人の手を借りなくてよい時くらいは自分でする。

「それでは、陛下のお仕事が一段落着いたら、声をかけて下さいね」

 美味しいお茶とお菓子、そして読みかけの本がある。

 これだけあれば、キリにとって、待つのはちっとも苦にならなかった。



 奥の部屋の扉をちらりと見、アラムは、なあとカディージャに話しかける。

「陛下、サインを続けて下さい」

「してるさ。なあ、お前はどう思う。キリはあの話を受けるかそれとも……断るか」

 宰相は国王のサインずみの書類を検分しながら、感情のうかがえない声で答えた。

「キリさまは承諾するでしょうね。もともと、自分には何も返すものがないと気に病んでおられましたから」

 そうなんだよなあとアラムは嘆息し、がりがりと頭をかいた。

「キリがこちらに来たのは不可抗力だし、“客人”を保護するのはこちらの義務だ。気にする必要はないのになあ」

「こればかりは、いくら話しても平行線ですしね。ところで、手が止まっておいでですが」

 宰相の冷徹な指摘に、慌ててアラムは手を動かした。

 全くどちらが“えらい”のかわからなくなる光景だ。

 アラムより幾分か若いが、壮年の年齢に差し掛かったカディージャの顔にも年相応の皺が刻まれている。いつも澄ましたような冷静な顔をしており、従兄弟同士ということもあり、長い付き合いのアラムであってもそれが崩れた所を見たことがなかった。 

 ただ、一度を除いて。

 それはキリがこちらにやって来たとき。

 何の巡り合わせか、カディージャの腕の中に飛び込んで来た時のこと、だった。

 再び手を動かし始めた国王に、宰相はため息交じりに言った。

「折角時間稼ぎをしてさしあげたのですから。覚悟を決めてちゃんとキリさまにお話して下さいね。いくら話したくない内容であっても、それが貴方の義務なんですから」

 わかってるさと、苦々しくアラムは吐き出したのだった。



 ポットの中のお茶を飲み干し、持参した本を読み終えた頃。扉の向こうからようやくキリに声がかかった。

「お仕事、終わられたんですか。お疲れ様でした」

 執務室の方へ移動して、いささか憔悴した様子のアラムにそう声をかけると、アラムは仕事というより……と何やら口の中で呟いていた。けれどそれはキリには聞き取れなかった。執務室の中には宰相の姿はなかった。

「とりあえず、そこに掛けてくれ」

 アラムはソファへ腰掛けるようキリに言う。その向かいにアラムは腰を下ろし、重いため息をついた。

「……あの、お話って、何でしょう」

 ここまで話しにくそうにされれば、何やら嫌な予感がひしひしとしてくる。ましていつもは快活で歯に衣着せぬ言いざまのアラムなのだ。

 アラムは意を決したように顔をあげ、キリの顔を見据えた。キリも思わず息を止めて見つめ返す。

「……嫌だったら断ってくれてもいいんだ。実はお前に縁談があるんだが……どうする?」

 キリは予想外の言葉に黒い目を丸くした。どうすると言われてもとキリは首を傾げた。

「縁談、ですか。わたしに。けれど、わたしは……」

「お前が養女であって、この国の王位継承権を持たないと言うことはあちらもわかっている。そのうえで、の申し出だ」

「……ちなみに、その奇特な縁談のお相手はどなたなんでしょうか」

 キリはとても驚いていた。アラムが言ったように、キリは国王の養女である。

どうにか辞退しようとするキリを、周りがよってたかって首を縦に振らせてしまった。


“王位継承権もないし、王族として何かをする義務もない。

ただこの国できみを保護する上での必要な措置だと思ってくれないかな”

 

 住むところと仕事を世話してくれれば、それで十分だからと言い募ったキリだったが、義理の兄となった人からの懇願と懐いてくれた子どもたちからの泣き落としに根負けした。

 その結果。キリは王城で暮らしてきたのだけれど。

 あとになって、これまでの“客人”がどのように遇されていたかを知って、何も養女になる必要性なんてなかったのにと憤慨したものの、後の祭りだった。なんのかんの上手く言いくるめられて今に至る。

 立場は不本意であるものの、周りの皆が優しいぶん、キリは心苦しくなってしまうのだ。

 貰うばかりで、自分は何も返せないから。

 これまでの“客人”たちは、様々な知識や技術などの恩恵をもたらした。翻ってキリは何も持っていない。

 

 キリの目の前で、アラムは……養父である国王は渋い顔をしながら答えた。

「西の国の王、だ。お前も何度か顔を合わせた事があっただろう」

「ええ、こちらにおいでの時に何度か。そのときに多少お話はさせていただきましたけれど」

 西の国は、この国の隣にある大国である。国の規模も人口も、比べ物にならないほど大きい。

 西の国の王は、この国の王太子……キリの義理の兄だ……とは、学友の間柄だ。

 王太子が西の国に遊学したときに親しくしてもらったらしい。その縁もあり、この国には何度か訪れているという。

 そのうち、キリが会ったのはほんの数回。顔を合わせた時に話をしたとは思うが、内容などは少しも覚えていなかった。

 ああ、でも少し変わった方だったような。アラムと同じくらい背の高いひとだったと、記憶にある姿を思い起こす。光の加減で黒にも見える、濃い藍色の目が印象的だったとも。

 しかし、そのひととの間に何故縁談が持ち上がるのだろう。

 キリとしては首を傾げるしかないが、王族の婚姻とはそんなものだと言われれば……そんなものかと納得するしかない。

 とはいえ。

「陛下。事の初めから説明していただけますか。何か隠していらっしゃるでしょう」

 これが断れる話ならば、アラムがこうまで難しい顔をしているはずがなかった。少し話を聞いただけで、キリにだってこれが“断れない”類の話だってことがわかる。

 西の大国が、西と東の間にある小国へ申し入れてきたのだ。

 力関係から言って断れるはずがない。

 けれど、なぜキリを指名するのか。キリが名ばかりの王族であり何の後ろ盾も持っていない事は知っているはずだ。再び西の国の王、カーライルを思い浮かべる。確か年は王太子より二つ三つほど年長だっただろうか。

 初めて顔を合わせた時は、側に寄るのが少し怖いような雰囲気があった。

 アラムは拗ねたように唇を尖らせ、抗議してきた。

「陛下、じゃなくて名を呼べというのに。もしくは“お父さま”でも構わんぞ」

「……アラムさま。お話しして下さいますよね?」

 このままでは埒が明かないと思ったキリは、少し目に力を込めてアラムを睨む。

 とうとう諦めたのか、アラムは事の次第を話し始めたのだった。



「事の起こりはそもそも、東の国に不穏な動きがあってな……」

 東の国との国境付近で、小競り合いが頻繁に起きているのだとアラムは言った。

 その話をキリは全く知らなかった。

「そもそも、今の東の王は領土欲が強いらしくてな。前の王が退位した時から懸念はあったんだが。自分の姉がこの国に嫁いでいると言うのに、国境付近の村への侵入を繰り返して、な」

 それがここのところ頻繁になってきているとアラムは苦い顔をした。

 いつもは明るい茶色の目が陰っている。

 アラムの息子、この国の世継ぎの王子の妃が、東の王の姉である。

 この国に嫁いだ姉の身を、まったく顧みない行動と言えた。

「まして……この国とのみならず、いずれ東は西と事を構えるつもりらしい。そのための準備として、この国が欲しいんだろうさ。全く頭の痛いことだ」

「そんなことが……」

 キリは細く息を吐いた。揃えた膝の上で両手を組んだ。

「わたしは何も知りませんでした。ここで暮らしているにも関わらず」

「お前たちの耳には入れないようにしていたからな。小競り合いで済めばよいと思っていたから……だが、このままでは不安なのも事実だ」

 忌々しい事にこの国は戦になると圧倒的に戦力が足りない。

 技術力はあっても、それを使うための人手が少ない。

 そのため代々西や東の国と婚姻を結び、その縁で二国間との均衡を保ってきた。ふたつの大国にとっても、たがいにとってじかに国境を接するよりも小国を挟んでいた方がよいとの判断が働いたのだろう。

 また、この国は人々の心の拠り所である神を祀る神殿の、本山を抱えている。

 一度滅びかけたこの世界を、元通り修復したと伝えられるその神に、名前はなかった。

 この国にも他国にも……各地に多く神殿はあれど、聳え立つ山々に抱かれたその神殿がもっとも位が高いものとされていて、世界中から人々が訪れる。そして本山が在る地域は治外法権とされていた。

 そこには国王といえどもその権力をふるうことは出来ない。

 この国と争えば、場合によっては神殿側とも争うことになるかもしれない。

 各地へ根をはる神殿の勢力も無視できない。

 様々な……危うい均衡の上に三国間の平和は成り立っていた。

 だから、とアラムは呟いた。

「だから、西の王から申し入れがあったんだ。婚姻を結ぶことで、東の国に対しての牽制にしようと、な」

 東の国にも、西の国と事を構えたくない者もいるだろう。いやむしろ今回の事は王の暴走ではないかとの見方が有力だ。ここで、西の国との結びつきを見せておけば、引くかもしれない。

 だから今のうちに打てる手は打っておきたいとアラムは言った。

「それは西の王も同じ。あちらも好き好んで戦にはしたくないと思っているからな」

「そうですか……だから、わたしなんですね」

 国王であるアラムには、子は王太子しかいない。王太子の子どもは男女の双子で、まだ五歳だった。

 対して西の国の王は、確か……。

「カーライルさまのお年は、確か三十を幾つかこえたくらいでしたっけ。確かにルーシャスさまを嫁がせるのはあまりに酷でしょうね」

 先ほどまで一緒だった、金の髪の子どもたち。いつかはそういう日が来るのだとしても、それは今ではない。

 キリは薄く笑った。心の底からよかったと思った。自分でも役に立てるのだと。

「お話はわかりました。このお話、わたしはお受けします」

 本当にいいのかとアラムは心配そうな顔で何度も念を押す。キリはきっぱりと答えた。

「ええ。皆さんにはとてもよくしていただいているのですから、わたしにも出来る事があって嬉しいです」




 こちらへやって来たキリの事を、皆は“客人”だと言った。

 

 久方ぶりの“客人”ですね。

 そう一番初めにキリに言ったのは、宰相であるカディージャだ。

 あの日、キリは仕事が終わったあと、いつものように歩きなれた道を歩いていた。

 日が落ちた道は薄暗く、ぽつりぽつりと立つ街灯が足元を照らしていた。

 人気のない道で、心細さからいつもは足早に歩き去るのだけど。

 ふと何かに呼ばれたような気がして、後ろを振り返った時。光の渦に巻き込まれたように目が眩み、何も見えなくなった。

 そして次に目を見開いたとき。

 キリが目にしたのは見慣れた風景ではなかった。街灯もなく、暗くもない。明るい日差しが差し込む、天井の高い室内にいて。

 よく似た茶色の二対の目と、薄青い一対の目が驚いたように自分を覗きこんでいて。

 見知らぬ男の人に抱えられていた自分に気が付いた。

 いつもだったら。男の人が苦手なキリは恐慌に陥っていたかもしれない。 けれどその時は目に見えるものが信じられなくて、ただただ茫然としていたように思う。

 


 きみはね、父上と宰相と僕とが仕事をしている時に現れたんだよ。初めきみを見た時、とても驚いたなあ。

 仕事疲れかと思ったもの。それくらい仕事が山積みでさ。そう、主に父上の所為で。

 もう捌いても捌いても終わらなくて、父上はやさぐれるし宰相は底冷えするほど怒ってるしで、うんざりしてたなあ。

 一番驚いていたのは宰相だね。そりゃそうだね、腕の中に突然女の子が現れたんだから。しばらく口、ぽかんと開けてたか思うと、ペンを放り出して慌てだすんだもの。

 うん、あんなに焦った宰相見たの、初めてだったよ。

 

 のちに王太子であり、キリの義兄になった人は、人が悪そうに笑いながら言った。とても楽しげな口調だった。

 残念ながら、キリはその時の事を殆ど覚えていない。

 それからしばらく、キリは夢でも見ているような心地でいたからだ。

 突然の事態に頭がついていかなかった。

 それでも。神官と言う人からの話や、宰相や、王太子から色々話を聞かされたおかげで、次第にキリも理解した。ここが、今まで自分がいた世界とは異なる世界であること。もう二度と元の場所へは帰れないこと。

 ここで生きて行くしかないことを。

 キリが現れた場面に居合わせたせいか、王太子であるリヒトは何かとキリを気にかけてくれていた。

“客人”は神殿に預けるのが慣例であったらしいが、ここで面倒を見てもいいよね、と城内にキリの部屋を用意してしまった。

 もっと普通の所でいいと訴えたのだが、きみの言う普通とこっちでいう普通が違うんじゃないかな、などと笑顔で押し切られては何も言えなかった。 どのみち、こちらの常識をまだ知らないのは事実だった。 

 こちらの常識や立ち居振る舞いを身につけて、そうして自分にも出来そうな仕事と住む場所を見つけて、そうしたらここから出て行こう。この時、キリはそう決心していた。

 ここが、居心地が悪いというわけではなかった。

 むしろその反対だ。食べ物はおいしいし、人は優しい。

 しかし、ここではキリの仕事はなかった。侍女の仕事を手伝おうとすれば、これは私たちの仕事ですから、とやんわり拒絶される。どの役割もかっちり決められているから、キリは下手に手出し出来なかった。

 何故かこの国の言葉は理解出来ていたし、文字も読めたので、空いた時間キリは本を読むか城内の広すぎる庭を散策していた。

 その日は天気がよかったので、散策に出る事にした。キリが迷子になることを心配しているのか、移動する際には必ず誰かが付き添っていた。

 城内にある庭と思えないほど広々とした場所へ行く。

 ぐるりを背の高い常緑樹で囲まれた空間が広がっている。柔らかそうな緑の絨毯の上に、小さな黄色の花がたくさん咲いていた。

 しばらくここに居る旨を告げると、ここまで付き添ってくれた青年は頷き、いずこかへ姿を消した。

 一人になり、大きくため息をつく。贅沢なことだが、何だか気疲れしてしまいそうだった。休憩用に設えているベンチに腰を下ろす。

 そこへ。背後の茂みが、がさがさと大きな音をたてた。驚いて目を向けると、茂みから顔を出したのは金の髪のよく似た顔立ちのこどもたち。

 互いに無言で見つめ合う事しばし。

「……こんにちは」

 そう声をかけてみると、子どもたちはぱあっと顔を輝かせ、茂みを抜けてやってきた。髪の毛や服に葉っぱが絡まるのをちっとも気にしていない。

「こんにちは!わあ“客人”て初めて見たあ」

「べつにふつうのひとじゃないか。何でカディージャは近づいたら駄目って言ったんだろ」

「でもほんとに“違う”かんじがする」

「うん、ほんとうだ」

 はて、カディージャとは誰だったかと首を傾げる。

 立て続けに人を紹介されたせいで、人の顔と名前が一致していないのだ。 ともあれ、よく知らない相手を警戒するよう、小さな子どもに言い聞かせるのは当然だろう、とキリは特に気にしなかったが、それがまるで反対の意味だと知るのは少し後になってから。

「ねえ、わたしはルーシャスっていうの」

 金の髪に緑の目の女の子が言った。

「ぼくはトール」

 金の髪に茶色の目の男の子も言った。そして声をあわせてキリに尋ねる。

『お姉さんのお名前は?』

 ああ、おばさんって言われなくてよかったなあと変な事に安堵しつつ、答えた。

「キリ、と言います。よろしくね」

 ここに居る間は。そう心の中で付け加えて、出来るだけ笑ってみる。

 すると、ルーシャス、トール、と名乗った子どもたちは顔じゅうを笑顔にして元気よく答えたのだった。

『よろしくね!たくさん遊んでちょうだい!』


 その数日後、宰相に会った。

「双子のお子たちが迷惑をかけてしまっているようですね」

 双子の、と言われ、金の髪の子どもたちが浮かんだ。

 ああ、あの子たちと言いかけて、城内で暮らしているのだから、もしかしてと思いつつも尋ねる。

「あのう、どなたのお子さんだったんでしょう」

「殿下のお子様方です。元気すぎて周りも手を焼いていますよ」

 側に行ったら駄目だって。

 トールの言葉を思い出した。カディージャというのは、確か目の前に居る宰相の名ではなかったか。もう不用意に彼らに近づかないと、言っておくべきだろうか。

「……そうだったんですか。わかりました、これからはお子様方には近付かない事にします」

「それは無理でしょうね。お子様方はあなたを気にいったようですから。これからなにかと纏わりつかれますよ。覚悟しておいた方がいいかもしれません」

 その言葉に首を傾げる。そもそも、彼は子どもたちがキリに近づく事を禁じていたのではなかったのか。

 宰相はどうかしましたかとキリに尋ねた。

「……宰相様は、わたしがお子様方に近づくのを、快く思ってないのでは?」

「何を言うかと思えば。その反対です。なにせお子様方はあの通り元気すぎて喧しいですからね。こちらに慣れないあなたの傍に居られると、あなたが疲れると思ったんですよ」

 キリが思わず宰相の顔を見つめると、彼は照れたように視線を逸らしてしまった。その気遣いを嬉しいと思いながら、キリは答えた。

「ありがとうございます。でも、わたしも一緒に居て楽しいので、大丈夫ですよ」

 それならいいのですがと宰相はいつも通りの怜悧な顔で答えたのだった。



「そもそも“客人”というのはね」

 ある日、お茶を飲みながら、リヒトが話し始めた。

 天気がいい日は外にテーブルを持ちだしてお茶を楽しんでいる。

 優雅な事だとついこの間まで忙しなく働いていたキリからすれば、そう零したくもなる。

 それにしても、リヒトは何かとキリを構うが、仕事をしなくてもいいんだろうか。キリがそんな気を回していることも知らず、リヒトは続けた。

「この世界を見守ってらっしゃる、神の客人のことなんだよ。キリは誰かに呼ばれた気がしたと言ってたろう?」

「はい、そんな気がして振り返ったら、ここに居ました」

「うん、神様が呼んだんだね」

「……なんでわたしを?」

 至極当然のように言われても、腑に落ちない。

 するとリヒトはひょいと肩を竦めて続きを話しだした。

「呼んだんだけど、それは今じゃなくて、そして“きみ”を呼んだわけじゃあ、ない。昔々の、お伽噺のようなお話だけど……」

 明るい日差しを受けて、彼の薄茶の髪は金色に透けて見える。茶色の目もきらきら光る石みたいだと、キリはぼんやり思っていた。


 昔々ね、この世界は一度滅びかけたんだって。

 たくさん居た神様がこの世界を見捨てて、去ってしまったから。

 でも、ある神様だけはこの世界に残ってくれた。そして世界を元通りに直すために、去った神様たちに呼びかけたんだって。力を貸して欲しいって。 呼びかけにこたえた神様たちがこの世界を直す手助けをしてくれた。

 ほとんど直ったところで、再び神様たちはこの世界を去ったんだけど、ある神様だけはやっぱりこの世界に残ってくれたそうだ。

 まだ全部を直し終わってないからってね。

 その神様はこの世界のどこかにいて、今でも世界についた傷を直しているって言われてるよ。


 神様は、この世界を救おうと、必死に呼びかけたんだろうね。

 この世界が救われたあとも、呼びかける声だけが残ってしまったらしい。

 呼ぶ声が、遠い所から“客人”を連れてくる。

 もう願いは叶ったのに、その頃の必死な思いだけが残ってる。


「だから“客人”は丁重に保護されるんだ。神様の客人であると同時に、いわば犠牲者だからね。“客人”も昔よりは少なくなって、もう現れないんじゃないかって言われてたんだけどね……」

「はあ……でも、丁重に保護されると言うなら、“客人”を騙る人が出るのでは?」

「それは大丈夫。神官や一部の人間なら“客人”とこちらの人間との区別がつくから。だからきみも神官に会ってもらったでしょ?」

 確かにとキリは頷いた。

 ここは“かみさま”と人との距離が近いんだなと思う。

 キリがここに来たのはいわば手違いみたいなものと言われて複雑な気分にもなったが、もう誰にもどうにも出来ない事だと理解しているからため息をつくにとどめた。

「ごめんね、きみが色々戸惑ってるのは知ってるけど、丁重に保護されててよ」

「保護、は有り難いですし色々教えて下さるのは嬉しいんですが、もっと雑でいいです。丁重すぎて落ち着きません」

「ごめんね」

 リヒトはにこりと笑った。どうあってもキリの待遇を変えるつもりはないらしい。

 仕方ない、眠る所があってちゃんと食べられるだけでもありがたいんだからとキリは自分に言い聞かせる。

 こちらに慣れて、ここから去る時までの我慢だと思う。非常に贅沢なことではあるが。このときは、そう思っていた。

 ふと疑問が浮かんだ。

「こちらに残られたという神様は、何という名前なんですか」

 リヒトは首を横に振ってこたえた。

「その神様に名前はないんだ。この世界を守ってくれたのは、名前も姿もない神様だって伝えられている」

 もともと、唯一無二ではなかった神様。多くの神様が居た頃は、それぞれに名前があったはずだろうに。

 

 ここに残った神様に名前がないとは……奇妙な事だとキリは思った。




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