●8 時間制限は誕生日まで
猛然と乗り込んできた潤美がキララとイシュタルの姿を発見し、その後、どうなったかというと。
まず一言で言うと――狂化した。
後頭部から伸びるポニーテールが生きている蛇のごとくうねり、その目からは殺人光線が放たれ、その口からは魔界の瘴気が吐き出され――というのは勿論、夏緒の勝手なイメージである。
実際には潤美はリビングに飛び込んできた途端、その場にいるキララとイシュタルを見て悲鳴をあげた。
「ま、まさかの洋物!? しかもサンピィ!?」という言葉の意味が夏緒には分からず、そのまま黙って見ていると、今度は意味不明なことを喚き始めた。
これはどういうことなのか。おじさんとおばさんがいない間にこんなことをしても良いと思っているのか。この浮気者。嘘つき。幼稚園の頃あたしと結婚してくれるって約束したじゃないか――まとめるとこのような内容になるのだが、実際に潤美の口から飛び出た言葉は支離滅裂もいいところで、実際のところ何語を喋っているかすらわからなかった。
ともかく、潤美に未来から来た二人を見られた。この際は、彼女が落ち着くのを待って素直に事情を話すの良いか。あるいは、どうにかこうにか誤魔化して帰ってもらうか。その二択しか選択肢はなかった。
最終的に夏緒は後者を選択した。
その結果――
リビングの床に、潤美が死んだカエルみたいな体勢でのびている。
「おい」
「えっ?」
夏緒が足元に転がっている幼馴染みを見つめながらぞんざいに声を掛けると、キララは素で聞き返してきた。
「えっ、じゃない。なんだこれは」
「なんだこれは、って言われても……夏緒さんが言ったんだよ? 『どうにかしろ』って」
「言ったな。それは確かに言った。だが、それで何故こうなる」
夏緒の指差す先には、さっきまでは生きている大蛇のごとく荒ぶっていたポニーテール。その脇に転がっている肉じゃがの入ったタッパーが微妙に物悲しい。
んー、とキララは空中に視線を泳がせた後、にぱ、と無理やりな感じで笑う。
「えっと……ほら、気絶させた方が楽でいいかなー、なんて思っちゃったりなんかしちゃったりして? てへっ」
夏緒はその笑顔を鷲掴みにする。
「お前に任せた俺がバカだった」
「ふにゃああああああっ!? ふみゅぅっ……」
絶叫してばたーんと倒れるキララを一顧だにせず、夏緒はイシュタルに向き直った。
「おい、アレをやれ」
「アレ? アレとは何ですの?」
「記憶操作だ。学校の奴らにもやっていただろ」
イシュタルは、広げた扇子に隠れていない顔の上半分だけで訝しげな表情を浮かべ、小首を傾げる。
「何の話ですの? 確かにあたくしなら、この小娘の記憶を操る程度は造作もない話ですけれども……あなたの仰る話には心当たりがありませんのよ?」
「そのあたりはもうどうでもいい。いいから、出来るなら早くしろ。こんなバカげたことに潤美を巻き込むな」
「聞きなさいな。あたくし、誤解されるのがなにより嫌いなんですの。つまり、あたくしはこの時代に来てからまだ誰の記憶も――」
「早くしろ。誰のせいでこうなったと思ってるんだ。それとも、お前も顔を掴まれたいのか」
やや怒気を強めて言いつけると、イシュタルは不承不承といった様子で気絶している潤美の側に屈み込み、その手を伸ばした。赤いマニキュアが綺麗に塗られた五本の指が、ぴと、と小さな額に触れる。
先程、キララが潤美にしたのと同じような動作だ。後で聞いた話によると、直接接触することで潤美の体内の〝SEAL〟にアクセスしているのだという。気絶させたのも、記憶の改竄も、全て〝SEAL〟を通じて行うらしい。無論、〝SEAL〟を持たない相手にも同様の処置は可能らしいが、そちらは少し面倒なのだそうだ。
イシュタルの肌の表面に、赤い輝きが幾何学模様を描いて浮かび上がる。その光が、私服姿で失神している潤美の顔を仄かに照らし出す。
その光景を見て、夏緒は思う。まだ実現されていないが、現行の〝SEAL〟にも直接的な肉体接触を『有線接続』として扱う案が出ている。例えば、相手と握手することによってその連絡先やメッセージの宛先を交換することが出来る、という風に。そう、まさに今、キララとイシュタルが潤美に対して行ったようなことである。
だとするなら、やはりキララとイシュタルの二人は未来人なのだろう。そしておそらく、未来の人類が今と全く違う存在になってしまう転機は、今なお彼女達が使用している〝SEAL〟にあるのかもしれない。
「……終わりましたわ」
肌の赤光を収めたイシュタルの報告が、思索の海に潜っていた夏緒を現実へと引き戻した。
「どういう風に変えたんだ?」
「とりあえず、不自然に思われないように改竄しておきましたわ。ここへ来て、あなたと話して、家に帰った――そのようにしておきましたけれど……それでよろしかったかしら?」
それなら問題はないだろう。そう判断して、夏緒は「いいだろう」と頷く。イシュタルはこちらをふて腐れたような目で一瞥すると、
「ふんっ……ですわ」
ぷいっ、とそっぽを向いた。
「まったく……光栄に思いなさいな。貴族クラスタのあたくしが他者の命令を聞くことなど、滅多にないんですのよ」
背を向けてぶつぶつと呟くイシュタルの耳とうなじが、何故だか赤く染まっている。怒っているのか、それとも――
「……でも悪くはありませんわね……これが支配される喜びというものですの……? あたくし、初体験ですわ……」
扇子で口元を押さえ、やけに嬉しげな小声で囁かれたその不穏な言葉を、夏緒は聞こえなかったことにした。
「――記憶操作が終ったなら、次は潤美を家に送り届けて来い。西浦の家族に気付かれないようにな」
我知らず固くなった声で指示すると、イシュタルは扇子で顔の下半分を隠したまま、ちら、と深紅の瞳だけで振り返り、
「……人使いの荒い男ですこと。けれども……わかりましたわ」
そう嘆息交じりに文句を言いながらも、結局は頷き、指示に従う。
イシュタルは間抜けな格好で床に伸びている潤美を横抱きに抱え上げると、ついぞ夏緒に背を向けたまま顔を見せることなく、
「それでは、行ってきますわ」
と告げた。瞬間、ボンテージファッションに包まれた肢体と、その腕に抱えられた小柄な身体が、水面に沈むように床の中へ【落ちて消えた】。学校でキララが見せた壁抜けと同じようなものなのだろう。マンホールの中から飛び出てきたイシュタルらしい姿の消し方だった。
四人――と言ってもいいものかどうか未だにわからない夏緒だが――がいた空間から二人が消えたことで、人口密度が薄くなったリビングはしんと静まり返る。
そんな中、ぽつりと、
「――あのね、夏緒さん」
足元に這いよってきた声の主は、先程〝ギンヌンガガップ〟に力を吸い取られて倒れたキララだった。どうやら回復してきたらしい。
「何だ」
振り返ると、キララは床に仰向けに転がったまま、瑠璃色の双眸をじっと夏緒に向けていた。どことなくこちらの内心を探るような視線と、もう一つの理由の為、夏緒はすぐに顔を逸らして視線をあらぬ方向へやる。
「ボク、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……聞いてもいい?」
「……何だ?」
「さっきの女の子……潤美ちゃんだっけ? あの子って確か、夏緒さんの幼馴染なんだよね?」
夏緒にとっては、何を今更、という質問だった。
「それがどうした」
「――夏緒さんは、あの子をボク達の問題に巻き込みたくないから、記憶を改竄して帰らせた……んだよね?」
これもまた、何を当たり前なことを、という質問。
「何か不都合でもあるのか?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど……ないんだけどね……ふーん……そっかぁ……そうなんだぁ……」
一人で勝手に納得しているキララを音声だけで聞いていた夏緒は、その様子が少し気に入らなかったので、
「――どうでもいいが、下着が丸見えだぞ」
先程顔を逸らした理由の一つを遠慮なく告げてやった。
「――!? ぅきゃあっ!?」
がばぁっ、と勢いよく跳ね起きて捲れていたワンピースの裾を両手で押さえるキララ。白皙の肌を【戦闘モード】時のイシュタルより真っ赤にして、涙目で叫ぶ。
「にゃ、にゃつをさんのばかっ! なんでそんな平然と女の子のパンツ見えてるとか言っちゃうのっ!? えっち! ばかっ! すけべっ! ばかぁっ!」
「チラっとしか見てない」
「そういう問題じゃないよぉっ! 夏緒さんのばかぁっ! 女の敵ぃっ! ばかぁっ! 無神経ぇっ!」
キララの言い分もわからないわけではないし、不可抗力とはいえ悪いことをしたとは思っているが、流石に立て続けの罵倒には少しイラッときた。
「……そもそも、その身体は受肉したものだって言っていただろ。それなのに恥ずかしいのか」
「次元と時空が違っても女の子は女の子だもんっ! しかも、ずっと憧れてた好きな人にパンツ見られて恥ずかしくない女の子なんて、並行宇宙の全時空を探したって見つかるもんかぁーっっ!!」
「…………」
とっさに反論する言葉が見つからなかった。夏緒は貝のごとく口を閉ざす。
すると、はっ、とキララは我に返ったように表情を変えた。そして悔しさと恥ずかしさが入り混じったような複雑な面持ちから、うるうるした瞳を上目遣いにして夏緒を睨み付ける。かと思ったらすぐに俯き、もじもじと落ち着き無く両手と両膝を擦り合わせ――再度、ちら、と上目遣いになって、朱に染まった顔を半笑いにして、
「……………………こ、こころみに問いますけど、あの、もしかして……………………ボクに欲情したりなんかしちゃったりして……?」
「するか馬鹿。脳が沸いてるのかお前は」
あまりにも阿呆な質問に思わず脊髄反射で即答したら、
「うっ……うわああああぁぁぁぁんっっ! なつおさんのちょおおばかぁ――――ッッ!!」
ガチ泣きの絶叫が迸った。
その後、ひどいよー、鬼だよー、疾風迅雷すぎるよー、なんで即答なんだよー、と泣き喚くキララが落ち着くまで、なんと十分以上もかかった。途中、流石に申し訳なく思った夏緒が「悪かった」とか「直視はしていない」などとフォローになっているのかよくわからない言葉をかけることで、その嘆きは徐々に収まり――しかし半ばで「こんな告白の仕方ってないよー」と嘆くキララに思わず「……何の話だ?」と言ってしまい、「認識されてないしー!」とさらなる慟哭を生んだりもしたが――何とか事態は収拾された。
二人分のコーヒーを入れ直し、互いにソファに座って一息を吐く。
「――タイムリミットがね、あるんだよ……」
ぽつん、とさっきまでの話に蓋をするように、キララが前振り無しでそう言った。
「タイムリミット……?」
そういえば雪女と名乗った割に熱いコーヒーを飲めるんだな、と彼女を観察していた夏緒は、思わぬ単語に少し驚いた。
「まさか……未来の人類滅亡までの、か?」
さっきまで泣いていたため、目元が少し赤くなっているキララは、落ち込んでいるようにも恥ずかしがっているようにも見える伏し目で、うん、と頷く。
「ごめんね、いきなりこんな話して……イシュタルさんがさっき言ってたでしょ? 未来というか、別に世界は一本道の時空間を移動しているわけじゃなくて……って、こんな話してもややこしいだけだよね」
あはは、と弱く申し訳なさそうに笑って、ず、と鼻を啜る。自らを落ち着けるためか、キララはコーヒーを一口だけ飲んで、
「……細かい理屈を抜きにして説明しちゃうと、ボク達の宇宙が〝ギンヌンガガップ〟によって〈正常化〉されるまで、あんまり時間がないんだ。こっちの世界の時間で言うところの、一ヶ月ぐらいかな?」
過去に来ているはずなのに未来の時間が動くのか、という疑問を持った夏緒だったが、恐らくはその点がキララの言うところの『細かい理屈』なのだろう。そう理解したが故に、少年は別の質問を口にした。
「もっと具体的にわからないのか? 何月何日だ?」
そう問うと、キララはコーヒーの黒い水面に視線を落としたまま、すぐには答えなかった。しばしの間、エアコンの稼働音だけが場を満たし、やがて、
「――えっと……本当はこういうのって、もうちょっと早く言わなくちゃいけないことだったよね……その、とっても言い難いんだけどね……」
よもや明日か明後日などではあるまいな、と夏緒は内心で身構える。彼女達の場合、それぐらいのことを平然と言ってのける可能性があるから注意が必要だった。
未来からやって来た金髪碧眼の少女は、夏緒と視線を合わさないまま、両手で持ったマグカップをぎゅっと握り、意を決したように、
「……はちがつ、にじゅうろく、にち……」
前置き通り、非常に言い難そうに【その日付】を口にした。
「…………」
夏緒は言葉もない。文字通り、何とも言えない気分に突き落とされていた。
八月二六日。今から約一ヶ月と二週間後。
その日は、夏緒の十七歳の誕生日だった。