●4 地面から火(娘)が飛び出した
ボンデージファッションの女が、ヨガの修行僧みたいな格好でひっくり返っている。
場所は神無学園の学生食堂。
時は昼休みである。
短く刈った頭を下に、黒のホットパンツに包まれた尻を上に。何者かにジャーマンスープレックスを喰らったかのごとき体勢で、女は固まっていた。
辺りに散乱しているのは、窓ガラスの破片。転倒したテーブルと椅子。
それらを取り囲むように、学生の人垣。
誰もが固唾を呑んで女の挙動を見守っている。その場は時が止まったかのように静まり返り、女の着ているやたらと露出度の高いエナメルレザーの服が、蛍光灯の光を反射して輝いている。
女はどうやら外国人のようだった。床を枕にしている頭から生えている髪が、銀色なのである。
だが彼女が外国人どころか、この時間の住人でさえないかもしれないということを、夏緒だけが知っていた。
何故このような状況になったのか――それを説明するには少し時間を遡らなければならない。
キララを放置して談話室を後にした夏緒は、行くと言った手前、律儀に保健室へ足を向けた。
各校舎に必ず一人は在駐している保険医に「気分が悪いので休みに来ました」と澄まし顔で嘘を吐き、授業が終わるまでベッドを借りた。
次の休み時間、念のため件の談話室へ戻ってみたら、そこにはもうキララの姿はなかった。無事に意識を取り戻してどこかへ行ったらしい。
その後も続く授業を、夏緒はいつ現れるかわからないキララを警戒しながらも真面目に受けた。だが、拍子抜けなことに彼女は一度も姿を見せなかった。
結局、昼休みになるまで何事も無く過ごしきってしまい、夏緒はどこか肩透かしを食らったような気分を引き摺りながら、一人で学生食堂へ向かった。
神無学園はやたらと広く、関係者も多いため、敷地内にいくつかの学生食堂が存在する。また、場合によってはバスに乗って移動する必要があるため、生徒の昼休み時間は七十分と長めにとられていた。
夏緒が拠点とする第五校舎からは徒歩で三分ほどの学食があるため、そこを利用するのが彼の常だった。
熱光線を三分間浴びてようやく到着した学食には、しかし冷房を全開にしても相殺しきれないほどの熱気が充満していた。厨房で熱を起こしている上、新陳代謝の激しい年頃の少年少女がわんさかいるのだ。外よりましとは言え、少々げんなりしてしまう。
室温もさることながら、気分的に冷たくあっさりした物が食べたかった夏緒は、冷やしうどんの食券を券売機で購入した。
釣りと共に吐き出された食券を手に取り、振り返った瞬間だった。
ズン、と建物全体が震動した。
「――!?」
一瞬にして学食全体の空気が凍り付いた。一拍の静寂の後、生徒達がざわめき始める。
「なに今の……地震?」「おお……ちょっと、いや結構ビックリしたな」「やだぁ怖い」「震度3ってとこかな?」
揺れた瞬間は総じて強張った顔をしていたくせに、喉元過ぎれば何とやらである。自然、生徒達は笑みを綻ばせながら地震について語ると、すぐに次の話題へと移っていく。
だが食券を手にしたまま立ち尽くす夏緒には、他の生徒達と違い、いやな予感がしていた。
ところで、この学食の入っている建物は学生寮でもあったりする。二階から以上が寮生達の生活スペースになっているのだ。当然、彼ら彼女らは昼食だけでなく、朝も晩もこの食堂で飯を食べる。飯を食べたら消化して排泄するのが人体の摂理だ。百人以上の排泄物を処理するため、この建物の地下には大きく太い下水道が通っている。また、建物の周辺には複数のマンホールが設置されている。
突然だが、その一つが爆発した。
『!?』
稲妻が身体を貫いたかと錯覚するような轟音と共に、マンホールの蓋が真上へぶっ飛んでいくのが学食の大きな窓からはよく見えた。
ただの爆発ではなかった。鉄製の重い蓋を空へと飛ばしたのは真っ赤な火柱だったのだ。
穴と同じ太さの火焔が、実体を持つかのように直線的に噴き出したのである。
やはり――と夏緒は思った。
先程の地震は、やはり予兆だったのだ。道理で先程覚えた胸騒ぎが、つい最近どこかで感じたものとよく似ていたはずだ。そうそれは、今朝キララが空から落ちてきた時に感じたものととてもよく似ていたのだ。
あまりにも非日常的な光景を目にした時、人は意外と騒がずにじっと見てしまうものである。この時もそうだった。学食に集まっていた人々は、そのド派手な光景にただ口を開けて呆然と見入るだけだった。
やがて、火柱の中央が【むくり】と丸く膨らんだ。かと思うと、そこを中心としてさらなる爆発が起こった。火焔が急激に球形に膨張する。
遂には、ぼんっ、と弾け、炎が竜巻の如く渦を巻いた。
次の瞬間、驚くべきことに、その中から人影らしいシルエットが飛び出した。
夏緒は思った。
――下からか? 次は地下からなのか? 空から落ちてきたのがウケなかったから今度は地面から飛び出したのか?
しかしキララは自称だが〝雪女〟だったはずだ。それがこのような猛火と共に現れるのには違和感があった。
燃え盛る鮮烈な赤から飛び出した黒い人影は、そのまま学食の窓にとりついた――かと思ったが、それは実際には跳び蹴りだったらしい。
目の前で起こる事象に集中していた夏緒の瞳には、その動きがスローモーションのように見えた。
窓ガラスに蜘蛛の巣状の罅が走った。
ガラスが砕け散った。
バラバラに割れ砕けるガラスの破片がキラキラと輝きながら飛び散っていく。
その中央を漆黒のエナメルレザー製ピンヒールブーツがぶち抜き、すらりとした足が姿を現していく。
そこから太股、同じくエナメルブラックのホットパンツに包まれた尻、剥き出しの背中、ほっそりとしたうなじ、短い銀髪が舞い散るガラスの欠片の中から飛び出してきた。
写真に撮って見本にしたいほど綺麗な跳び蹴りのフォームで学食の窓をぶち破った人物は、しかし空中での姿勢制御に失敗した。
格闘技経験者の夏緒にはわかる。あれは重心の位置が悪い。丹田にあるべき重心が、胸の辺りにある。あれではバランスが取れない。案の定、女は窓を突き破った足がそのまま天井へ向かい、上半身が重力に引かれる形でひっくり返った。空中で上下逆さまになる。
一体どれだけの勢いで飛び込んできたのか、女の身体はその体勢のまま学食の中央まで宙を滑空した。まるで投げ込まれた石の如く。
そして、落ちた。
墜落点にあったテーブルや椅子などを巻き込み、ばりんどんがらがらがっしゃぁぁぁん、と昼食時にあるまじき騒音を撒き散らしながら。
狙ったのか、偶然だったのか。ちょうどその辺りに誰もいなかったのが不幸中の幸いだった。
こうして時は現在に至る。
誰しもが得体の知れぬ闖入者に怯え、遠巻きに眺めていた。
窓ガラスの破片に周囲を彩られ、水着みたいな露出度の高いエナメルレザーの服を身につけたその姿は、蛍光灯の光を浴びて輝き、奇天烈な体勢も相まって、一種の芸術作品めいた雰囲気を醸し出していた。
『――――。』
ピンと張り詰めた空気の中、固まったかのように動かなかった女の身体が、ゆっくりと動き出した。
頭の両脇に突いていた膝を、徐々に天井に向けて伸ばしていく。下半身をぐぐぐと伸ばし、やがてブーツのヒールが真上を指す。そこで一瞬だけピタリと止まると、刹那、バネでも仕込んでいたかのような急激な動きで飛び上がった。
カツンッ、と漆黒のピンヒールブーツが食堂の床を鳴らし、その女は華麗に立ち上がったのだ。
そうして、その場の者達はようやく彼女の顔を目の当たりにする。
『おお……』
多くの者達の口から嘆息が漏れた。その大半は男子のものだっただろう。女の美貌はそれほどのものだった。
切れ長の目と長い睫毛という涼やかな目元に、ぷっくりとした赤くて瑞々しい唇。すっと通った鼻梁。凜とした顔立ち。卵形の顔を三方向から覆うシャギーカットの銀髪。
何より印象的なのは、ピジョンブラッド・ルビーと見紛うほど美しい深紅の瞳。
女――否、スタイルは抜群だが顔立ちからするとおそらくは少女――は、どこからともなく黒い扇子を取り出し、一振りして開いたそれで口元を隠した。そして己が周りを囲う人々を睥睨するように見回すと、開口一番こう言った。
「あらあら……皆様、どうなされまして?」
どうもこうもねぇよ、という空気が充満した。
皆が呆気にとられている中、夏緒は冷静に彼女を観察していた。
雰囲気がキララに似ている。あちらは白い服に青い瞳だったが、こちらは黒い格好に赤色の目だ。髪の毛だって金髪と銀髪。登場の仕方も表面上はともかく、根底の本質的な部分が似通っている気がする。
多分、いや間違いなく、この少女はキララと【同質の何か】だ。
声を掛けるべきか否か、どうすればいいのかわからず静かに混乱している衆目をよそに、銀髪の少女は突然、ばっ、と扇子を持った右腕を頭上へかざすと、張りのある声でこう名乗った。
「あたくしはイシュタル・ウィ・ゴルディオ・グラシアン。本来ならあなた方のような庶民クラスタとは縁もゆかりもないのですけれど、一時だけは特別にお見知りおきしなさいな」
ゆっくりと扇子を下ろし、再び口元を隠す。深紅の視線が周りを取り囲む生徒達の顔を一つ一つ撫で回していき――
夏緒と目が合った。
「――――」
嫌な予感というより、ほとんど未来予知のごとくこの後の展開が読めた。咄嗟に視線を逸らせば良かったかもしれない。だがそんな器用な真似が出来るほど夏緒は素直な人間ではなかった。反射的に彼女の視線を真っ向から受け止めてしまう。
途端、イシュタルと名乗った少女は扇子で顔の下半分を隠したまま、コツコツと悠然たる歩調で夏緒に近付いてきた。
至近で立ち止まり、真っ直ぐ視線を合わせ、彼女は問う。
「不躾を承知しながらお聞きしますわ。あなた、お名前はサワシロナツオかしら?」
「人違いです」
「あらそう?」
嘘で即答した夏緒に、意外にもイシュタルはあっさりと引き下がった。もしかすると、彼女は夏緒の顔を知らないのだろうか。
「ごめんあそばせ。それでは質問を変えますわ。あなた、サワシロナツオが何処にいらっしゃるかご存じかしら?」
「彼ならこの星の裏側にいますよ」
イシュタルが自分の顔を知らないことを確信した夏緒は、平然とそう答えた。なにせ宇宙スケールの話をする連中だ。これぐらい言ってやっても構わないと思ったのだ。
「まあっ」
少女は目を見開いて驚いたようだった。彼女はさっと視線を足元に落とし、
「何てことかしら……あたくし、座標を間違えて地球の裏側へ来てしまったのね。これではあの阿婆擦れに先んじられてしまうではありませんの……!」
悔しげな独り言を何故か夏緒にも聞こえる音量で呟く。
その時だった。学食の出入り口の方向からドタドタと大勢の足音が聞こえてきた。
視線をやると、これから戦争にでも行くのかと言いたくなるような重装備に身を固めた連中が学食へ飛び込んでくるところだった。
見覚えがある。潤美の兄、西浦敦が所属しているサバイバルゲーム部の奴らだ。リーダーと思しき男が小銃を構えて叫ぶ。
「不審者はどこだ!? ホールドアップッ! 銃に両手をあてて壁に地面を捨てろ!」
誰が聞いても焦りまくっているのがわかる間抜けな台詞だった。おそらく、銃を地面に捨てて壁に両手をあてろ、と言いたかったのだろう。
「あらあら、何の騒ぎですの?」
警告に振り返ったイシュタルがまるで他人事のように言う。お前のせいだろう、と夏緒は突っ込みたくなるが我慢する。
神無学園には一般的な学校と比べておかしなところが多々あるのだが、サバイバルゲーム部もその一つである。今朝もリミッター付きの手榴弾を使用していたことからもわかる通り、学生の部活動にあるまじき装備が彼らには与えられている。その予算はもちろん学園が出しているのだが、無論、無条件というわけではない。与えられた装備を有効活用するため、サバイバルゲーム部には治安維持活動が義務づけられているのだ。
つまり、この場にいる誰かの通報、あるいは爆発音から異変を察知した彼らは警察よろしく駆け付けたというわけである。
たった一人、制服を着用していないイシュタルに十本以上の筒先が一斉に向けられる。
「き、貴様か! 貴様が不審者か! おお……なんという惨状、なんというみだらな格好! あやしい奴! 両手の後ろで頭を組んでこちらを振り返ってゆっくりしろ!」
「あのぉ隊長、ちょっと落ち着いてください。テンパりすぎっす」
隊長の男――と言っても彼も高校生だが――の右隣の少年が半笑いで指摘する。と、その少年と夏緒の視線が合った。すると、彼はこちらに向かって陽気に片目を瞑ってみせる。彼が、潤美の兄、西浦敦である。
「…………もしかして、あたくしのことかしら?」
目をパチクリさせて言うイシュタルに、周りの者達から『他に誰がいるんだ』という視線が突き刺さる。
彼女はキョロキョロと辺りを見回すと、ようやく状況を把握したように、うん、と頷きを一つ。扇子に隠した口から、ふぅ、と息を吐く。
直後、ぶぅん、と空気の振動する音を夏緒は聞いた。
「――はんっ、羽虫共がゾロゾロと。群れで寄ってたかりゃあアタシに勝てるとでも思ったのか? ああ!?」
そして、目の前の少女が別人と化していた。
イシュタルの肌に赤い光が走っている。その輝きはキララのものとは微妙に違うパターンで幾何学的な模様を描き、少女の全身を覆っていた。キララと同じ【宇宙人モード】だ。
しかし何より顕著に変化したのは、表情だった。傲慢さを孕みながらもおしとやかだった雰囲気は完全に消え失せ、その顔に浮かんでいるのは、好戦的な肉食獣が如き形相。
キララもそうだった。このように全身に光の模様が浮かぶと、顔つきと言い喋り方といい、人格が入れ替わったかのように豹変してしまうのだ。確か、インターフェスの違いがどうたらと言っていただろうか。
ばっと音を立てる勢いで扇子が横に振られると、イシュタルの全身からいきなり火が噴き出した。揺らめく火焔がオーラのように痩身を包み込む。
「ッ!?」
わぁっ、と悲鳴をあげて生徒達が驚き逃げる中、夏緒も咄嗟に飛びずさって炎の塊と化した少女から離れた。
「セ、セイフティ解除ぉ――――――――ッッ!!」
隊長が緊迫した声で叫び、敦を含む彼の部下達はその命令に従った。全ての銃口が燃える少女に向けられ、発射命令を待つ。無論、銃に込められているのは実弾ではない。暴徒鎮圧用のゴム弾である。
「けっ、庶民クラスタが。なんだかわからねぇがヤル気まんまんじゃねぇか。いいぜ、かかってこいよ」
言動の変化に伴い、しゃなりとしていた身のこなしが一変、喧嘩慣れした不良少年のそれになっていた。イシュタルは扇子を持っていない方の手を前へ差し出し、クイクイッ、と挑発的に動かす。
それがきっかけになったわけでもなかろうが、既に一杯一杯だったサバイバルゲーム部の隊長は絶叫するが如く号令を下した。
「ッてぇ――――――――ッッッ!!」
乾いた銃声が連続し、ゴム弾の集中砲火がイシュタルへ浴びせられ――そのどれもが彼女の肌に噛み付くより早く、身に纏った炎に飲まれて消失した。
じゅっ、という音と共に焦げたゴムの匂いが辺りに充満する。
「なんとぉ――――――――ッ!?」
隊長が驚愕の声を上げるが、夏緒にとっては想定内の出来事である。キララとて談話室の中を宇宙空間に変えていたのだ。その【同類】なら、この程度は不思議でも何でもない。
「……どうしたよ? もう終わりか? なら、今度はこっちの番だよなぁ?」
めらめらと燃え盛る火焔に包まれたまま、獰猛な顔つきで笑うイシュタル。彼女は同じく火だるまになっているにも関わらず焦げ付きすらしていない扇子を持ち上げ、閉じ、その先端をサバイバルゲーム部の面々に向けた。その動作が一体どのような事象を巻き起こすのか、誰にもわからなかった。ただ、その動きが【何かしらの攻撃】であろうことは、誰にでも察せられた。
――ここらが潮時かもしれない、と夏緒は思う。
流石にこのまま見て見ぬ振りをするのはいかがなものだろうか。
先程までならともかく、今の彼女は見るからに好戦的だ。【同類】だとしても、その点についてはキララと随分違う。まぁ、夏緒の平穏を脅かしているという部分ではまるっきり同罪なのだが。
ともかく、このイシュタルと名乗った少女にこれ以上の狼藉を許すわけにはいかなかった。
「おい」
夏緒がぞんざいに声をかけると、己が身から噴出す炎で下方からライトアップされている風になっているイシュタルが、【じろり】と視線だけで振り返った。出刃包丁のようにギラついた目をしている。
「ぁんだよコラ? もうテメェから聞きてぇことは聞いた。邪魔だ、怪我したくなけりゃどいてろ」
イシュタルはこちらに興味がない様子だった。自分を一瞥してすぐ目を離す彼女に、夏緒は決定的な一言を放り投げる。
「お前が探している〝ギンヌンガガップ〟はこの俺だ」
「ああそうかよ、そいつは情報提供ありがとよ。わかったからさっさとあっちいっ――んだとコラァ!?」
イシュタルは言葉がすぐに理解できなかったのか、一拍遅れてから目を剥いて振り返った。丸くなったピジョンブラッド・ルビーに向かって、夏緒は冷たい声で告げる。
「わかったならさっさと消えろ。邪魔だ。怪我しないうちに元いた世界へ帰れ」
イシュタルが自分に投げつけた台詞をなぞるようにして返してやった。
「……。」
絶句。その一言だけでイシュタルの状態は説明できた。体と扇子はサバイバルゲーム部へ向けたまま、顔だけを夏緒に振り向かせたまま、口を開いて呆然としている。静寂の中、ゆらゆらと揺れる紅蓮だけが何だか間抜けだった。
はっ、と我に返ったらしい。皮膚に走る幾何学模様が激しく明滅する。
「テ、テメェ! アタシを騙したな!」
「それがどうした」
「それがどっ……!?」
オウム返しにしかけて再び言葉を失うイシュタル。夏緒の返答がよほど予想外だったらしい。陸に上がった魚のごとく口をパクパクさせる。
夏緒は悠然と腕を組み、身も心も斜に構え、
「あんな適当な嘘に騙される方が悪い。大体、人を探す上で顔も知らないなんてどういうことだ? 杜撰すぎるぞ。いいから家に帰って脳みそを取り出して綺麗に洗ってからおととい来てくれ」
要約すると『二度とそのバカ面を見せるな』という意味である。
予想の範囲内であったが、やはりイシュタルの反応は劇的だった。
「――テメェ許さねえぇぇぇぇぇぇッッ!!」
赫怒の雄叫びと共に体表の模様が激しく輝き、少女の身を包んでいた火炎がそれこそ油を注がれたように一気に膨れ上がった。
「ヤ・キ・コ・ロ・ス!」
炎はふいごで大量の空気を孕まされたかのごとく火勢を上げ、少女の姿すら飲み込み、渦を巻きながら膨張する。学食のど真ん中にイシュタルを中心とした紅蓮の竜巻が発生した。
「うわあああっ!? 何だ何だ!?」「か、火事っ!? 火事だよねこれ!? ねっ!? ねぇっ!?」「ちょまっ、おい消火器どこだ!?」「先生はっ!?」「救急車っ!? や、消防車っ!?」「きゃあああああっ!」「退避! 退避ぃ――――ッ! 身に頭を伏せて床を下げろ――――ッ!!」
大小無数の悲鳴が轟き、それこそ焼けた石を水槽に放り込んだみたいな騒ぎになった。
イシュタルの炎はきっと本物で、おそらく熱も発生しているのだろう――炎光スペクトルの光を真正面から浴びながら夏緒はそう推測する。何故なら、燃え盛る炎は高い天井にまで到達し、その周囲を黒く焦がしていたからだ。しかし、夏緖にはいまいち実感がわかない。というのも、夏緒自身は至近距離にいるというのにまるで火の熱さを感じていなかったのだ。
だから、多分、大丈夫だった。
確信に限りなく近い予想を胸に、夏緖は敢えて前へ一歩踏み出す。と同時に右手を前へと差し伸ばす。その指先を、燃え上がるイシュタルの火炎の端っこが刹那、ちろり、と舐めた。
瞬間だった。
いっそ間欠泉がごとき勢いで燃焼していた炎が、ぶわっ、という勢いで夏緖に殺到した。かと思うと、そのまま彼の身体に吸い込まれるようにして掻き消えた。
しん、と空気が静まり返る。
そこには、ただポツンと、まるで一瞬で身包みを剥がされたような感じで、イシュタルの姿だけが残っていた。
「――――」
銀髪赤目の少女は激昂した表情のまま、しかし驚愕に硬直していた。
不思議なことに、消えたのは彼女の火炎だけではなかった。それによって燃え焦げていた痕跡すら【元の状態】に戻っていたのだ。
夏緖は言った。
「聞こえなかったのか? 俺が〝ギンヌンガガップ〟だ、って。それとも言っている意味がわからなかったか?」
予想は行動により確信となり、確定した。やはり彼女もキララと【同類】で、その情報改変の力によって発現するものは全て、夏緖が触れるだけで無効化されるのだ。しかも、どうやらそれらによって及ぼされた影響ですら【無かったこと】に出来るようだった。
色々と気になるところはあるが、とりあえず今は余計なことは考えるまい。夏緒は内心で自分にそう言い聞かせた。
愕然としたままのイシュタルに、続けて告げる。
「もう一度だけ言うぞ。さっさと帰れ。怪我しないうちにな」
すると、さっ、とイシュタルが俯いた。両の拳を強く握り締め、全身をプルプルと震わせ始める。
「……んですのよ……!」
歯の隙間から熾火のごとく漏れる怨嗟の声。
がばっ、と顔が勢いよく上げられ、
「なんですのよなんですのよなんですのよぉぉぉぉっ! 卑怯ですわっ理不尽ですわっ有り得ないですわっ! あたくしここまでコケにされたのは生まれて始めてですわぁっ!」
バズーカ砲みたいに叫んだかと思ったら、機関銃のような勢いで文句をぶっ放し始めた。
談話室のキララと違いまだ直接触れてはおらず、体表の幾何学模様も消えていないのに、どういうわけかイシュタルの口調が変貌する前のものに戻っている。〝ギンヌンガガップ〟とやらの影響はどうやら触れる場所、時間などによって微妙に変わるようだった。
イシュタルは手に持った扇子を夏緖に向け、
「許しませんわっ! 絶対に許しませんわっ! 例え〝ギンヌンガガップ〟と言えど、このあたくしの矜持に傷をつけてタダで済むと思っていますのっ!? このイシュタル・ウィ・ゴルディオ・グラシアンの名にかけて必ずや――テメェをぶち殺してやるァッッ!」
よくもまぁ舌を噛まずに言い切ったかと思えば、その全身から再び猛烈な火焔が溢れ出した。口調も【宇宙人モード】――否、こうなると【戦闘モード】と呼ぶべきか――へと変化する。むくむくと盛り上がる炎が渦を巻いて、長大な龍を形作った。それは生きているかの如く、おとがいを禍々しく上下に開き、足元の夏緒を照準する。
「わからない奴だな」
小声で呟き、夏緒は燃え盛る火の龍に向かって歩き出した。途端、龍の獰猛な顎門が少年を飲み込まんと襲いかかり――その牙の先端からあっさり夏緒の体内へと吸い込まれていく。頭が飲み込まれたことで龍はもはや龍でなくなり、ただの火炎流となった。浴槽の水が排水溝から出ていくような勢いで、炎はただ夏緒の体に飲み込まれていく。
「クッソがぁ――――――――ッッ!」
己が放つ炎熱をものともせず近付いてくる夏緒に業を煮やしたイシュタルは、一転して攻撃の手を変える。扇子を開いて横一文字に振り払うと、砲弾のような火の玉が連続で撃ち放たれた。本来であれば地を穿ち人間など粉微塵に爆ぜさせるのであろうそれは、しかし火龍と同じく静かに消えるだけだ。夏緒の身に触れた途端、淡雪のようにふっと消失する。
そんなことを繰り返し、周囲の皆がひたすら唖然として見守る中、とうとう夏緒はイシュタルの眼前に立った。
「――許さない、って言ったな」
「……ッ!」
夏緒とイシュタルとでは頭一つ分の身長差がある。高みから見下ろす少年の視線に、銀髪の少女は悔しげに顔を歪めた。
次の瞬間、その顔がさらに歪んだ。夏緒が下からイシュタルの頬と顎を鷲掴みにしたのだ。
「――うぼっ……!?」
再び彼女が纏っていた劫火が雲散霧消する。と同時に、その皮膚に浮かんでいた幾何学模様の輝きも弾け飛んだ。
「それはこっちの台詞だ」
赤い赤い瞳に真っ正面から視線を射込み、夏緒は言った。
イシュタルにとってはこれ以上ない屈辱だっただろう。自らが見下している人間に下顎を掴まれ、奇妙な声を漏らすなど。見る見る間に柳眉が逆立ち、紅玉のごとき瞳に憤怒の輝きが満ちていく。
だがそんな目にたじろぐ夏緒ではない。彼女のそれを圧倒するほどの怒りを声に込め、唸る雷雲のような語調で、
「お前といいキララといい、いい加減にしろ。どれだけ他人に迷惑をかけたら気が済むんだ。こっちはただでさえストレスの溜まる生活をしているんだ。これ以上俺につきまとうつもりなら――」
「あひゅう」
夏緒が喋っている途中で、唐突にイシュタルが変な声を出した。
「……は?」
あまりにも場違いすぎる行為に、思わず夏緒が首を傾げた瞬間だった。
ぐりん、とイシュタルの両眼がひっくり返り、白目を剥いて気絶した。いきなり彼女の体から力が抜け、がくん、と崩れ落ちる。
何のことはない。談話室のキララと同じである。夏緒が長く触れすぎたせいで、キララが言う所の『力が抜けた』状態になってしまったのだ。
「……チッ……」
夏緒は小さく舌打ちすると、掴んでいたイシュタルの下顎をぞんざいに離した。意識を失った少女の体はタコみたいにぐんにょりと床に転がる。
夏緒は内心でほぞを噛む。せっかく文句を言ってやろうと思ったのに、言い尽くす前に気を失われてしまった。おかげで余計にストレスが溜まってしまった。
まぁいい、どうせこいつもキララと同じですぐに意識を取り戻すだろう。そうなったら、また近付いてくるかもしれない。今度は極力触れずに、もし触れるのだとしても十分文句を言ってから――
などと考えていて、ふと気付いた。
いつの間にやら――というのもおかしいが、気付いた時には夏緒は人垣のど真ん中にいて、周りの全員からドン引きされていた。
「――……。」
これはおかしいぞ、と夏緒は真っ先に思った。
自分はこういった人間ではなかったはずだ。どちらかというと目立たず、隅の方で好きなことをやっている事が多い人生だったように思う。それが何だ、今の状況は。まるで舞台の中央に立っているようではないか。こんなはずではなかったはずだ。今朝までは。
夏緒は床に俯せているイシュタルを見下ろした。そうだ。何もかもこいつらのせいだ。こいつらが、俺の日常をかき乱しているのだ。
「……な、夏緒……い、今の、あれ……な、なに? え、ギャグ?」
サバイバルゲーム部の面々の中から一人が歩み出て、そんな不明瞭なことを訊ねてきた。夏緒の幼馴染みの敦である。陽気で瀟洒が常の彼が、今だけは流石に顔を強張らせていた。
夏緒は睨み付けるように敦を見返して、考えた。
さて、どうやって誤魔化したものだろうか――と。