●3 深淵を覗き込めば宇宙空間 (★挿絵あり)
★挿絵があります。個人のイメージを大事にされたい方はご注意ください。
(描いてくださった方:不知火昴斗様)
その技術の略称は〝SEAL〟。
正式名称を『Skin Electronic Augment Living Integrated Circuit(スキン・エレクトロニック・オーグメント・リビング・インテクレテッド・サーキット)』という。
非常に平たく言うと、ある特殊なシールを皮膚に貼り付けることで、その成分が体内に浸透し、人体を一種のバイオコンピューターへと作り替えることが出来る技術である。
体内に入り込んだシールは、人体を構成するタンパク質やカルシウム、炭素、そして神経などを材料として自動的に回路を生成する。出来上がった回路は脳と直結し、その一部の領域を間借りして仮想的なCPUやメモリ――つまりマザーボードを構成する。そこからさらに内的なOSを解放して脳内に仮想デスクトップを焼き付ければ、導入プロセスは完了だ。
排熱は体温に変換されるし、動力は生体電流や静電気を源とするため、充電や電池交換などは必要ない。擬似的な半永久機関である。
この〝SEAL〟は現在、神無学園の関係者限定で実験運用されている新発明の技術である。とある一人を除く全生徒が、体内に〝SEAL〟を持っているため、普段の授業でも積極的に活用されている。
「えー、それでは、次は三章の四を開いてもらってだね――」
この日も数学教師の五十嵐雄作(五二)が、教室前面に浮かぶボードARDに指を走らせ、舌を動かしていた。それに応じて二年E組の生徒達が各々のARDを操作し、〝SEAL〟で増幅された五十嵐の声に耳を傾ける。
当然、【とある一人】である夏緒だけは違う行動を取らざるを得ない。木を原材料とする教科書をペラリとめくり、机に設置した場違いなノートPCの画面を一瞥し、耳にはめたイヤホンから漏れ出る声に耳を澄ます。
窓側最後尾に座っている夏緒からすれば、教室内の光景は異様の一言に尽きた。
何せ、全員が見えない敵と戦っているようにしか見えないのだから。
教師が使用している黒板代わりのボードARDも、その右半分に表示されているだろう教科書の写しも、左半分に書き込まれた板書も、夏緒はノートPCのディスプレイでしか確認できない。〝SEAL〟を持たぬ身では、五十嵐が黒板も何もない場所で腕を振るっているようにしか見えないし、不可視のキーボードを叩いている学友達も同様に空中で両手の指をワキワキしているだけに見える。
夏緒は浮いていた。こんなにも大勢の中にいるというのに、圧倒的な疎外感があった。それでも夏緒は机に肘を突き、周囲に聞こえないよう小さく溜息を吐き、こう思う。
平和だ――と。
つい二十分ほど前、突如として現れた謎の少女は予鈴が鳴ったのをきっかけに姿を消した。
キララにとっては青天の霹靂、それ以外の者にとっては天の助けのような予鈴に顔を上げ、ぬぐぐ、と悔しそうに唇を歪めた彼女は、夏緒をビシッと指差し、
『ボク顔を洗って出直してくるから! 夏緒さんは首を洗って待っててよね! っていうか待ってろ!』
そんな捨て台詞を残して、疾風のごとく教室を飛び出して行った。
あの少女は一体何者だったのか?
夏緒は今更ながらそんなことを考える。
結局、彼女がどのような手法で学園の敷地内に入ることが出来たのかは不明のままだ。どこからどう見ても神無学園の生徒とは思えなかったが、もしかして学園上層部の関係者なのだろうか。そうであれば確かに〝SEAL〟を持っていてもおかしくはない。おかしくはないが――しかし夏緒の勘が、その線はないと告げている。
彼女は空から落ちてきた。無傷だった。河に落ちたはずなのに、服も髪も濡れていなかった。生徒ではなさそうな格好で、しかし学園の敷地内にいた。それも夏緒の先回りをして。
――夏緒はこの言葉が大嫌いなのだが、それでも使わずにはいられない。
まるで【超常現象】だ――と。
いや、待て。それは早計に過ぎる。超常現象なんてものが実際にあるわけがない。上手く説明がつかないものを超常現象という名前のブラックボックスに放り込み、考えることを放棄しているだけだ。自分の両親が世界中を飛び回って追いかけているのは、そういう中身のない、ただの幻想なのだ。
だから、あれらは決して超常現象などではない。何かトリックがあるはずなのだ。共犯者だっているかもしれない。ともかく、超常現象なんてものを夏緒は絶対に認めない。
それはそれとして、その後の要求も相当におかしかった。あれは一体何だったのだろうか。自分を好きになってくれ――というのは。改めて考えてみても、さっぱり意味がわからない。何が目的だったというのか。
彼女の前振りから結論に至るまでの論理が、夏緒には全く理解できない。
――と、そこまで考えた所で唐突に、別にわからなくてもいいか、と夏緒は思索にオチを付け、脳内のシュレッダーへぶち込んだ。多分、考えても無駄なのだ。もしかしたら、あの娘は心の病気なのかもしれないのだし。
そう、いわゆる『中二病』という奴なのかもしれない。何の因果か、夏緒はたまたまそのターゲットにされてしまっただけで、そこには何の意味もないのだ。そうだ、高い所から落ちてきたように見えたのは錯覚で、河に落ちても髪が濡れていないのはウィッグを交換したからで、服も同じ見かけの別の服に着替えただけで、もちろんそれらを用意する共犯者がどこかにいて、夏緒が知らないだけで学園へ通じる近道がどこかにあって、学園の敷地内にいるということは要するに彼女はここの関係者なのだ。
そうだ、そうに違いない。
そして事実がどうであれ、また目的が何であれ、どうせ自分には彼女のお願いを叶えることは出来ない。彼女の行為は、その全てが無駄なのだ。多分、きっと――自分はもう、誰のことも好きにならない。それだけは、確定された事実なのだから。
もう一度溜息を吐き、首を傾げ、なんとなく窓の外へ目をやった瞬間――夏緒は絶句した。
「――――」
窓の向こうに金髪の少女がいた。
それも、窓から見下ろせる地上、ではなく、まさしくガラスのすぐ数センチ向こうに。
とびっきりの笑顔を浮かべて。
しかも夏緒が気付いたことを知ったのか、こちらに向かってひらひらと両手を振り始めた。その小さな唇がパクパクと動く。読唇するに、おそらく『やっほー夏緒さーん♪』と彼女は言っている。
その瞬間、夏緒の中で、何かが音を立てて壊れた。それは理性の崩壊だったのかもしれないし、もしくは彼の常識の瓦解だったのかもしれない。
あるいはその両方か。
「……!」
もう我慢ならなかった。夏緒は猛然と椅子を蹴って立ち上がった。
途端、窓の外のキララは『わっ』と慌てた風に窓枠の下へと潜り込む。長い金髪がその後を追って消えた。
ガタン、という椅子の音に授業が中断され、八二個の瞳が一斉に夏緒を見た。教壇に立つ八二個のうちの二つが、驚きを隠せない様子で恐る恐る言った。
「ど、どうしたんだね、澤城くん?」
それに対しナイフの如き鋭い動作で振り返った夏緒は、イヤホンを耳から引っ剥がし、張りのある声で即答した。
「気分が悪くなったので保健室へ行かせてください」
有無を言わせぬ口調だった。その眼光は野獣の牙のようにギラついて尖っていた。まるで親の仇でも見るような目だった。五十嵐雄作(五二)はその視線に貫かれて電撃に打たれたかのごとく身を震わせた。思わず一歩あとずさってしまった彼は、こくん、と頷き、呻くように応えた。
「あ、ああ……き、気をつけて……」
夏緒は軽く頭を下げると、とても気分が悪いように見えない、軍人が廊下を歩くような歩調で教室を後にした。
無人の廊下を足音を立てないよう、しかし最大限の速度で進む。
怒りが夏緒を支配していた。
一度は頭が可哀想な子だと思ったが、その同情が間違いだったと気付いた。あの女はこちらが大人しくしていればどこまでもつけあがるタイプだ。どうやら先程の対応はよほど生温かったらしい。今度こそ二度とこちらへ絡む気が無くなるほどガツンとやってやらなければならない。何となれば、例え女であろうとも一発ぶん殴ってやることだって――
そう考えながら階段にさしかかり、夏緒は手摺りに手をかけた。まずは一段目に足を降ろし、
不意にピタリと止まる。
「…………」
ムービーの一時停止ボタンを押したかのように急停止した夏緒の顔が、徐々に赤味を失っていく。
そう、【階段】だ。
二年E組の教室は、この第五校舎の【二階】にあるのだ。
なのに、キララは【窓の外で手を振っていた】。
外に出て、この校舎の外観を見ればわかるはずだ。外壁には人が立てるような場所もなければ、足を引っかける窪みも出っ張りもない。
窓枠に手をかければ、ぶら下がることは可能だろう。だが、キララは確かに、こちらに向かって【両手】を振っていた。それも、極上の笑顔で。腕だけでぶら下がって自重を支えている状態の人間に、果たしてあのような表情ができるものだろうか?
キララのふざけた行動に衝動的に教室を飛び出してきた夏緒だったが、よくよく考えるとあまりに不合理な状況であることに気付いてしまったのだ。
それこそ、雪女の手にひやりと心臓を撫でられたような気分だった。
だからだろうか。
「ねぇねぇ、どこに行くの?」
「――ッ!?」
何の前触れもなく背後からかかった声に、背筋が引き攣るぐらい驚いた。
振り返ると、そこに少女の形をした理不尽が立っていた。
「もしかして、ボクを探しにきてくれた……のかな?」
両手を後ろ手に組んだはにかむような仕種で、何故だか嬉しそうな白皙の少女が、コーンフラワーブルーの瞳で夏緒を見つめていた。
つい先刻までは、何とも思ってなかった。むしろ、ただの馬鹿だと思っていた。
けれど今では、その微笑すら夏緒には魔性のものとして感じられた。底知れぬ不気味さが目と口の隙間から滲み出ているようだった。
わざとらしいほど明るい振る舞いは、もしかすると、どうしようもないほどドス黒い【何か】を隠すためのカモフラージュだったのかもしれない。
「どうしたの、夏緒さん? 顔色悪いよ?」
クスクスと笑う彼女の立ち位置は、やはり物理的に有り得ない場所だった。
キララが窓の外にいるのを見て、夏緒はすぐに教室を出た。そのまま早歩きでここまで来たはずだ。例えば彼女が脚立なり何なりで窓の外に立っていたとしよう。それでも、どれだけ急いでも、この短時間で【階段を降りようとする夏緒の背後に回る】のは、絶対に無理だ。一応、それが可能なルートがあることにはあるが、それを成すためには相当な速度で移動しなければならない。しかし、眼前のキララには息を切らしているような様子は全くない。
「――お前、一体何なんだ」
胸の中に抱えきれなくなった疑念が、とうとう口を衝いて飛び出した。我知らず、腰が引ける。野生動物が敵と対峙する時のように、警戒し威嚇し、同時にいつでも逃走できる体勢をとる。
尖った声の質問に、キララは名前のごとく、ぱぁっ、と顔を輝かせた。両手をぱちんと叩き、
「――夏緒さん、もしかしてボクに興味持ってくれた!?」
「…………」
夏緒は否定も肯定もしない。無言のまま、油断なくキララの挙動を見守る。この少女が何者かわからない今、無用なアウトプットは危険だと本能が警鐘を鳴らしている。
キララは今にもスキップしながら夏緒の周囲を飛び回りそうな勢いで喜び、身体をくねらせ、
「やったぁ! うわぁ嬉しいなぁ、ようやくボクの気持ちが通じたんだね!……って、あれ? でも何で? どうして急に気が変わったの?」
不意にキョトンとした顔で小首を傾げ、逆に問い返してくる。騙されるものか、と夏緒は内心でさらに警戒を強めた。わざとらしい。わかっているくせに。自分のして見せたことがこちらにとってどれだけ衝撃的なことだったのか、わかっているくせに。こいつはそれが分かった上で、こちらをからかっているのだ。内心では悪魔のようにほくそ笑んでいるに違いないのだ。
だから切り込んだ。
「質問に答えろ。お前は【何なんだ】。一体何が目的だ。どういうつもりで俺に近付いてきた。どんなトリックを使ってるのかは知らないが、人をからかうのも大概にしろ。いい加減にしないと、本気で然るべき場所に通報するぞ」
「え? ……えっ? えええっ!?」
夏緒が早口で言い立てると、キララは目に見えて狼狽した。両手をバタバタと振って、
「ちょちょっ、ちょっと待ってよ夏緒さん、誤解だよ誤解! 別にボクはあやしいものじゃなくて、ええと、何て言えばいいのかな、その――」
ピタっと動きを止め、しばし沈思。挙げ句に出て来たのは、
「――通りすがりの雪女?」
聞いているのはこちらの方である。そして、しらを切らせるつもりは毛頭無い。故に夏緒は遠慮無くぶった切る。
「俺は何も誤解していない。お前はあやしい奴だ」
「うぐっ……」
言葉に詰まる金髪の少女に、さらに追い打ちをかける。
「それと、お前の仲間はどこにいる?」
「へ? 仲間? なにそれ?」
「とぼけるな。お前一人だけでこんな手の込んだことが出来るわけないだろ。手を貸している奴がいることぐらい猿にでもわかるぞ」
「えっ? えっ? で、でも、ボクは一人だし、それに手の込んだことって……何?」
演技の上手い奴だ、と夏緒はほぞを噛む。少し怯えた様子で、上目遣いにこちらを見つめるキララは、誰が見ても被害者にしか見えないだろう。意味不明なちょっかいをかけられているはずの夏緒の方が、何故か加害者のようになっている。
埒があきそうになかった。
「なら質問を変える。お前、どこからこの学園の敷地内に入った? ここは関係者以外立ち入り禁止のはずだ。それとも、お前はここの関係者なのか? まずはそれを答えろ」
何者だ、という曖昧なものから、ここの関係者なのか、という具体的かつ単純な質問に変えることで、夏緒のは舌鋒はさらに鋭くなった。
キララはわたわたと慌てふためく。
「えーとね、えーとえーとえーと……」
視線に空中遊泳をさせつつ光に百五十万キロほど旅をさせた後、ジト目で睨め付ける夏緒に向かい、彼女はこんな事を言い放った。
「じゃあ……それ全部話すから、ボクについてきてくれる……?」
捨てられた子犬のような顔だった。
「…………」
得体の知れない胸騒ぎがした。しかし、数瞬の逡巡の後、夏緒はほぼ反射的に頷きを返していた。
よしておけばよかったものを。
好奇心は猫をも殺すという。
この時、少年は気付くべきだったのだ。
彼女についていく理由など一つもなかったことに。
その正体を知る必要など一切なかったことに。
ただ一言、もう俺の周囲をうろちょろするな――そう言えば良かっただけのことに。
そもそも、少女の行動に腹を立てた時点で、既に罠に掛かっていたも同然だったのだ。人は知らなくてもいいことを知ろうとするから、深淵を覗き込む羽目になるのだ。
今、取り返しのつかない一歩が、踏み出されてしまった。
だから、よしておけばよかったものを、と言ったのだ。
己が重大な勘違いをしていたと夏緒が思い知ったのは、次の瞬間だった。
「じゃあ、ここの五階の談話室……えーと、三号室が空いてるかな? そこで待ってるね」
ARDを見ている者特有の虚ろな目線で言うと、キララはとてとてと小走りを始めた。
夏緒から見て右方向へ走っていく。が、その先にあるのは壁だ。
何だこいつ、本物のバカなのか? ぶつかるぞ――そう思いながらも無言で見守っていた夏緒の眼前で、信じられない事が起こった。
とぷん、と水面に沈むように、キララの全身が壁の中に消えたのだ。
「――!?」
息が止まる。頭のてっぺんから足の指先まで電気が走った。人は驚きすぎた時は肉体に物理的な衝撃を得るのだと、初めて知った。
「…………」
しん、と空気が静まり返っていた。会話する相手がいきなりいなくなったのだから、当然と言えば当然の話だった。
この目で確かに見たはずなのに、信じられなかった。しかし事実、キララの姿はもうどこにもない。
夏緒はどうしても我慢できず、キララを飲み込んだ壁へと歩み寄り、おずおずとその箇所に手を触れさせた。
コンクリートの固く冷たい感触だけしかなかった。思わず、自分の手のひらをまじまじと見つめてしまう。
今の現象にはトリックがあるようにも、ましてや共犯者がいるようにも見えなかった。そして、まともな現象でないことは言うまでもない。
はめられた――そう思った。自分は見事なまでに、彼女の策略に嵌ってしまったのだ、と。
キララは夏緒の興味を引こうとしていた。それは、大成功だと言う他ない。今の夏緒は、目の前で起きた現象を解き明かさずにはいられない。どうしようもなくキララに問い質さずにはいられない。
そう、彼女を追わずにはいられない。
「……っ」
夏緒は舌打ちを一つ。苦虫を噛み潰したような顔で壁に蹴り一つをくれると、忌々しげな動きで階段を昇り始めた。
神無学園の各校舎には必ず『談話室フロア』なるものが存在する。
二者面談、あるいは三者面談用の場所として用意されている狭い個室空間である。机二つと人間を四人ほど入れれば満員になる程度の広さしかない。普段は昼休みなどに生徒達が弁当を食べる空間として使用されていたりもする。
授業中の今は当然、使用している者は皆無である。いるとしたら、夏緒のように授業を抜け出してきた者か、最初からサボっている者かのどちらかであろう。
キララが指定したのは三号室だった。いつでも誰でも自由に使えるよう電子ロックのついてない扉の前に立ち、夏緒は軽く息を整えた。
意を決して、ドアノブに手をかける。
勢いよく談話室の扉を開くと、そこには宇宙人が待っていた。
「…………」
夏緒は扉を引き開いた体勢でピタリと静止する。
比喩ではない。どう見てもまともではなかった。狭い部屋の真ん中に突っ立っているのは、よく出来た人形でなければ宇宙人以外には有り得なかった。
少女の全身に、青く光る幾何学的な線が縦横無尽に走っている。金色の髪に隠れた額から、白のミュールサンダルに包まれた足の爪先まで、びっしりと。それも、おそらくは皮膚の下から発光する形で。
「お待ちしておりました」
部屋のど真ん中に置かれた机の向こう側に立つ、特撮用の人体模型にしか思えない【それ】が、キララの声で、しかし先程とは打って変わったやけにお淑やかな口調で喋った。
夏緒は我知らず生唾を嚥下し、談話室に足を踏み入れる。
後ろ手にドアノブを離し、扉が自動的に閉まった。
その瞬間だった。
周囲の状況が激変した。
「――!?」
最初は停電か何かだと思った。周囲が真っ暗になったからだ。しかし、それは思い違いだった。
気が付いたら宇宙空間にいた。
「なっ……!?」
とうとう喉から呻き声が洩れた。いきなり足元の床が消えてしまったのだ。落ちる――夏緒が咄嗟にそう思ってしまったのも無理はない。
だが、見えない床でもあるのか、いつまで経っても夏緒が浮遊感を覚えることはなかった。
足の真下に、小さな地球。頭上には火星や木星、土星などが見える。ビロードのような漆黒の空間、宝石箱をひっくり返したように散りばめられた色取り取りの光の粒。
「……幻覚……?」
だいぶ遅れてその可能性に気付いた。そういえば、呼吸も問題ない。ここが本当に宇宙空間であるならば、酸素はないだろうし、気圧や気温の関係で夏緒はとっくに死んでいるはずだった。
「いいえ、幻覚ではありません」
周辺の光景が変化してもその立ち位置が変わらない不可思議な少女が、抑揚の薄い口調で言い切った。
薄暗い宇宙空間に浮かび、身体に走った幾何学的な模様から青い光を放っているその姿は、一風変わった天使のようにも悪魔のようにも見える。
ここで待っている、と言ったのはキララだ。そして、そこに立つ少女は確かに見た目はキララだった。しかし、細かな差違がありすぎた。無表情に近い顔といい、静かな話し方といい、雰囲気がまるで違う。双子の姉妹だ、と言われた方がまだ納得できるかもしれない。
「ここは見ての通り、紛れもなく宇宙です。私がこの空間の情報を書き換えて配置転換をしました。ただ澤城夏緒さん……あなたがその影響を受けてないだけの話です」
「は……?」
恬淡と述べられる、その言葉の意味がわからない。否、言葉は理解できるのだが、その内容についていけない。
別人のようになってしまったキララは、夏緒の反応を一顧だにせず無感動に続ける。
「こうした方が話がわかりやすいだろうと判断しました。念のために言いますが、リアルな投影映像でもありません。タネも仕掛けもありません。ここは正真正銘、本物の宇宙空間です。繰り返します。【私達は今、実際に宇宙空間にいるのです】」
「……お前は、何を言っているんだ……?」
夏緒は右手でこめかみを押さえると、相手よりも自分の正気を疑うように呟いた。状況の異常さに意識が上手く追いつけていない。錯乱してしまいそうな心を制御するのが精一杯だった。
「それをこれから説明させていただきます。貴方もそのつもりでここへ来てくれたのでしょう?」
夏緒は軽く頭を横に振った。確かに話を聞くつもりでここへ来た。しかし、
「……話以前の問題だ。なんだここは。お前は誰だ?」
「ですから、ここは宇宙空間ですと説明させていただきましたし、私の名前はご存じのはずです」
「そういう意味じゃない」
たまらず夏緒は声に怒気を込めた。そうでもしなければ、こちらの言葉が宇宙空間に吸い込まれて消えていくような、言い難い不気味さがあった。
すると、キララと思しき少女は、ああ、と吐息を一つ。
「もしや私の態度が先程と異なることですか? 申し訳ありません。まず最初に説明するべきでした。私は、いえ、私のアーキタイプは〝SEAL〟を使用する際はこのようになる仕様なのです。中身が入れ替わっているわけではないので、ご安心ください。要はインターフェイスの違いです」
「〝SEAL〟……?」
聞き捨てならない単語がキララの口から発せられた。インターフェイスの違い云々はともかく、やはり彼女も体内に〝SEAL〟を有していたのだ。これで疑問が一つ氷解した。
と、ここでキララが片手の平を上げ、夏緒に対し制止のポーズをとった。
「申し訳ありませんが、これより色々と説明を行いますので、どうか合間に質問などを挟まずにご静聴いただけないでしょうか。おそらくですが、私の説明をお聞きいただければ夏緒さんの疑問も解消されると思いますので」
「…………」
業腹ではある。あちらが主導権を握ることを甘受するには、この状況はあまりに理不尽すぎた。
とはいえ、話を聞かなければ何も始まらないのも道理だ。ここは我慢するしかない、と夏緒は判断する。内心を表現するように腕を組み、
「いいだろう。とりあえずは聞いてやる。その代わり、後で俺の質問にはきちんと答えろ。それが条件だ」
せめて態度だけは傲然として言い放った。キララのやることなすこと全てに振り回されている状態に対する、ささやかな抵抗であった。
全身の模様から有機的な輝きを放つ少女は、そんな夏緒にぺこりと頭を下げた。
「ご了承ありがとうございます。それでは、どうか心を落ち着けて、聞いてください」
そんな前置きをしてから、面を上げたキララは人形のごとく感情の起伏に乏しい調子で、こう語り出した。
「実を言うと、私は【未来人】なのです」
「ちょっと待て」
「――いきなりルール違反ですか、夏緒さん。困った人ですね」
「お前に言われる筋合いはない。それより、いきなり何の話だ。お前が……【未来人】だと?」
「はい。さらに言うと【異世界人】でもありますが」
真面目くさった顔で告げるキララに、夏緒は深い溜息を吐いた。
「……こんな台詞がある。まさか自分の口からこれを言う日が来るとは思わなかったが、言わせてもらう。――お前、【漫画かアニメの見過ぎじゃないのか?】」
「落ち着いてください。言ったはずです、最後まで聞いてください、そうすれば夏緒さんの疑問も解消されるはず――と」
冷静に対応するキララに対して、夏緒は痛みを堪えるような顔をする。舌打ちするのを我慢し、
「……続けろ。ただし、わかりやすく、だ。いきなりわけの分からないこと言い出すな。わかったな?」
キララは、こくり、と頷く。
「わかりました。それでは、時系列順で説明しましょう」
少女は吹雪吹き荒れる雪原のようにマットな瞳を、頭上の宇宙空間へ向け、厳かにこう告げた。
「まず、宇宙の始まりにビッグバンがありました」
「おい」
「はい? 何でしょうか? ちゃんと時系列順で説明を」
手元に何かを持っていたら間違いなくそれを投げつけていただろうな、と夏緒は思う。肋骨を内側から焦がすような怒りを拳を握り込んで抑えつつ、
「そこまで遡らなくていい。というか、喧嘩を売っているのかお前は」
もしそうなら遠慮無く買ってやる、と夏緒は心に決める。しかし、キララはフルフルと首を横に振った。
「いいえ、とんでもありません。しかしこれは、澤城夏緒さん、あなたが【ギンヌンガガップ】であることを説明するためには必要な遡源なのです」
「……ギンヌン、ガガップ……?」
聞き慣れない単語を、軽く舌に載せて呟いてみる。妙な舌触りのする名前だった。
「はい。北欧神話で言う所の『虚無の穴』あるいは『虚空の裂け目』。世界に天も地もない時代に存在していた唯一の空間。それが〝ギンヌンガガップ〟――宇宙の中心。原初の穴。虚無の無。ビッグバンの起きる前の状態。つまり、貴方のことです。澤城夏緒さん」
そこでキララは一度口を噤み、夏緒を見た。この部屋に来るまでの彼女なら、間違いなくドヤ顔をしていたであろうタイミングである。何かしらのリアクションを期待しているであろうキララの視線に、しかし夏緒は、
「……で?」
一切頓着することなく冷然と、溜息混じりで続きを促した。
流石に冷めたのである。
正直な所、理解は出来ていない。スケールが大きすぎる上、宇宙の始まりと自分とが同一視されている意味もわからない。さっき階段の踊り場で見た不可思議な光景さえなければ、自分はこの少女を頭の病気か何かだと決めつけて、すぐにでも立ち去っていたことだろう。それぐらい話がぶっ飛んでいることだけはわかる。
とはいえ、キララの言うこと一つ一つにツッコミを入れるのにももう飽きた。きりがない。もはや毒を食らわば皿までである。こうなったらとにかく最後まで聞いて、その後で沙汰するしかあるまい。
諦めにも似た境地に夏緒は達していた。そもそも、こんな上も下もわからないおかしな空間へ連れてこられているのだ。逃げようもなかった。
「…………」
それでも未練がましく夏緒の反応を待っていたらしいキララは、しばしの沈黙の後、何事も無かったかのごとく話の続きに入った。
「ご存じとは思いますが、ビッグバンというのは宇宙の始まりとされる巨大な爆発を指します。かつて宇宙は非常に圧縮された状態にあり、例えば私達の足元にある地球などは針の先端ほどしかなかった――と言われています。この時代では」
思い出したように未来人アピールが出たが、夏緒は無視する。が、反射的に、ちら、と足元のさらに下方にある蒼い水の星を一瞥してしまう。
「ですが、それは誤りでした。私がいた未来の世界では九つある宇宙の真理の内四つが解明されているのですが、現在調査中の五つめがその『宇宙の始まり』なのです。宇宙は確かに、最初は圧縮されていました。ですが、その圧縮率は地球が針の先端になるほど甘い物ではなかったのです」
「マイクロ単位かナノ単位まで圧縮されていたとでも言いたいのか」
その程度の新説なら中学生にだって思い付くぞ、という意味で夏緒は言ってやった。
キララは首を横に振る。
「いいえ、違います。それはもはや【圧縮】とは呼べない事象でした。つまり――『1』が『0』になるのです。それも、可逆的に」
何を言っているのだ、こいつは。夏緒は白けた気分で少女の能面のような顔を見やる。
「馬鹿を言うな。『1』が『0』になるなら、それは消滅だろ。元に戻るわけがない。データの圧縮にしても一定のルールがあるし、復元キーが必要なこともある。何かを可逆的に圧縮するなら、それは必ず『0』にはならない。なるわけがない」
これは単純に知的好奇心から生じた疑問である。夏緒は元より、情報技術に強い興味を持つ少年だった。それが故に優先的に〝SEAL〟に触れられる神無学園へ入学したほどだ。その夏緒の知識をして、例えデータであろうとサイズを0にする可逆圧縮など聞いたことがない。むしろ論理的に言えば夢物語の領域だ。
電子データですらそうなのだ。いわんや物質となれば、空想以上の妄想である。
夏緒の言葉に、キララは我が意を得たりとばかりに首肯する。
「その通りです。夏緒さんのおっしゃることはよくわかります。ですが、その不条理こそが〝ギンヌンガガップ〟なのです」
彼女は言う。不条理こそ真理なのだ、と。
「宇宙の始まりは虚無の無でした。今ある宇宙の全てを〝ギンヌンガガップ〟が呑み込み、『0』へと収束させていました。それがあるべき宇宙の本来の姿でした。ですがビッグバンが起こり、今もなお現在進行形で宇宙は膨張を続けています。そう、〝ギンヌンガガップ〟を中心として」
そして、その〝ギンヌンガガップ〟は貴方です、とキララの青い瞳が言外にそう言っていた。
あまりにも、あまりにも途方もない話である。だが、
「……五十歩譲って、『1』を『0』に出来る現象があるとしよう。百歩譲って、それが宇宙の始まりの原理だとしよう」
夏緒はそう前置きしてから、決定的な疑問を放った。
「だが、それが俺と何の関係がある? 俺がその〝ギンヌンガガップ〟なら、俺は『虚無の無』で、そもそも存在できないんじゃないのか?」
キララは頷く。
「良い質問をありがとうございます、夏緒さん。私の話を積極的に聞いてくれる気になってくれたようで嬉しいですね」
「早く話を終わらせて帰りたいだけだ。さっさと答えろ」
台詞の割りには全く嬉しそうに見えないキララを、夏緒は傲然と突っぱねる。
キララの答えは至極簡潔だった。
「わかりません」
「……は?」
平淡な口調で言われたため、短い言葉でありながらすぐに脳で処理できなかった。
キララは機械的に繰り返す。
「わかりません」
「……お前な」
文句を付けようとした夏緒を、キララはさっと掌で制した。
「先程も言ったとおり、私達は宇宙の真理の五つめを調査中なのです。おわかりになりますか? 【調査中】なのです」
念を押すように二度繰り返す。
「……つまり、それを調査するために俺に近付いてきた、とでも?」
「ご明察ですね」
表情筋はピクリともしないが、代わりというように全身の幾何学的な紋様が感心するように瞬く。
「最初に説明させていただきましたが、私は未来から来ました。と言っても、おそらく夏緒さんが想像されている『未来』ではありません」
未来人うんぬんに関してはまだ信じていないのだが、一応聞くだけは聞くことにした。
「……お前の言う未来っていうのは大体何年後の未来だ?」
「それは言えません。ですが、洒落にならないぐらい未来、とだけ。なにせ、私の時代では人類は人の形を捨てていますから」
「……? どういう意味だ?」
不可解すぎる言葉に、思わず素で問い返してしまった。
「文字通りの意味です。この時代より遠い遠い未来、人間は肉体を捨て、情報存在になります。私はそういう時代から来ました。まぁ、そうは言いましても、あちらの世界ではそもそも『時代』や『時間』という概念が化石のようになっているのですが」
もしそれが本当ならば、看過し得ないことが一つある。夏緒はそれを問うた。
「肉体を捨てた……なら、今のお前の身体はなんなんだ」
そう、仮にキララの言うことが真実ならば、未来の住人である彼女には肉体がないはずだ。だが、彼女は厳然と目の前に存在している。幻ではないはずだ。クラスメイト達だって彼女の事を認識していた。
すると、想像だにしてなかった単語が出た。
「受肉したのです」
受肉――それは一般的には、神や天使が人間としてこの世に現れることを指す。霊的存在が肉と結合し、物理的存在となるのだ。
「――神様気取りか」
「ああ、それは宇宙二つめの真理ですね。それはもう解明されています。もちろん教えることはできませんが――私達は神仏と同列になりました、とだけは言えます」
「…………」
「非常に胡乱げな顔ですね、夏緒さん。無理もない話だとは思いますが――思い出してください。貴方は私に問いました。お前は何なのか、と」
確かに聞いた。キララと出会ってから、あまりにも不合理なことが起こりすぎている。今だってそうだ。こんな変な空間にいるのは彼女の仕業ではないか。
「情報存在である私達は、物理世界の裏側にある情報を操作することによって、現実を改変させることが出来るのです。この時代で即した言葉を使うのなら――魔法、超能力でしょうか。私のような存在を、こちらでは妖怪などと言うのですよね?」
己を未来人とも異世界人とも称し、神と同列になったと主張し、宇宙人のような見た目をしている少女である。なるほど、妖怪という呼称は確かに言い得て妙であった。
「私が来た未来――正確には未来という名前の時空間ですが――では、宇宙の始まりにはまず〝ギンヌンガガップ〟があった、という説が特に有力になっています。〝ギンヌンガガップ〟とは宇宙の始まりであり、終わりです。つまり宇宙そのもの。宇宙の本質です。それを調査するには、当然〝ギンヌンガガップ〟そのものに接触するのが一番手っ取り早い、という結論が出ました。私は、そのために派遣されたのです」
もし仮に、である。もし仮に、キララの言っている全てが嘘ではないとしよう。
彼女は今から遙か遠い未来の人類。その未来では、人類は肉体を捨て、情報だけの存在と化している。宇宙の始まりには〝ギンヌンガガップ〟という『虚無の無』があり、それについて調査するためにキララはこの時代へ来て、澤城夏緒に接触しようとしている。
夏緒は押し黙り、考えた。考えに考えた。考え尽くした。しかし、それでもわからなかった。
「――どうして俺なんだ?」
「はい?」
「どう考えても腑に落ちない。お前は俺のことを〝ギンヌンガガップ〟だと呼んでいるが、何を以てそう認識してるんだ?」
そう。キララの話の中で、唯一『澤城夏緒』という存在だけが異彩を放っている。少なくとも夏緒にはそう感じられてならない。
「俺はただの人間だ。宇宙の真理なんてものとは一切関係がない。宇宙の始まりだの終わりだの、そんな大層なものじゃない」
そう主張する夏緒に、キララはやはり首を横に振る。
「いいえ、貴方は〝ギンヌンガガップ〟です。実際、夏緒さんの周囲には私の施した情報改変が適用されていません。宇宙の本質そのものである〝ギンヌンガガップ〟には、人類の起こす改変が通用しません。真なる宇宙の法則に私達の能力は及ばないのです」
キララは一度、周囲をぐるりと見回す。それから改めて口を開いた。
「私は談話室の空間を情報的に切り取り、宇宙空間と入れ替えました。ですから、夏緒さん以外の人間であれば、ここへ来た途端に死亡しているはずです。ですが、夏緒さんはそうなっていない――つまり、私の施した情報改変の影響を受けていないのです。宇宙に身を移しながら、しかし夏緒さんの足は談話室の床を踏み、大気を呼吸しています。周囲の光景は違って見えているかもしれませんが、夏緒さんの肉体は本質的には今も地上の談話室にあるのです。それこそが、貴方が〝ギンヌンガガップ〟である何よりの証拠です」
「…………」
夏緒は同じように周囲を見回し、それから自分の身体を見下ろした。
そう言われても、実感など全くない。むしろ、今でも自分はよく出来た合成映像のセットにいるのではないかと疑っているぐらいだ。
「夏緒さんの周囲では、情報改変や情報世界で起きたバグなどの影響が出ません。それどころか、夏緒さんが近付くことでそれらは〈正常化〉されてしまうのです。故に、貴方の付近ではいわゆる超常現象は起こりません。ましてや未来の情報改変技術の発祥となる〝SEAL〟を体内に得ることも、また出来ません」
「――!?」
心臓が止まるかと思うぐらい驚いた。
「お前……なんで」
知っているんだ、と言い掛けて、止めた。図星を指されたことを察されたくなかったのだ。しかし、それは遅きに失した。
キララはしれっと言う。
「私は未来の人間ですよ? 当然、その程度の調査はしています」
「…………」
苦虫を噛み潰したような顔で、夏緒は口を閉ざした。知らぬ間に、他人が自分の情報を握っているというのはひどく不愉快なものだった。
とはいえ、キララが夏緒を〝ギンヌンガガップ〟と断ずる理由はわかった。それが真実かどうかを確かめるには、実践あるのみだということも。
そう、実際に試してみればいい。
「――なんですか?」
不意に組んでいた腕を解いた夏緒に、キララが不思議そうに小首を傾げた。
「お前の言っていることが本当なら、俺が近付けばお前はどうなるんだろうな」
夏緒は前へ一歩踏み出した。
「いけません、来ないでください」
すると夏緒が踏み出した分、キララは後ろへ下がった。無表情だった顔が、気のせいか焦燥しているように見える。
「それは今朝も見たはずです。土手で、貴方と触れあった私は一時的に活動レベルが低下し、挙げ句には河川へ転がり落ちました。あれが〝ギンヌンガガップ〟の力です」
口調も心なしか早口になっている。
「そうか。なら、同じ事をすれば俺は元の部屋に戻れるんだな?」
「それは……」
冷静沈着に見えていた【宇宙人モード】のキララが口ごもる。
夏緒はさらに一歩を踏み出した。
「待ってください、私の話はまだ終わっていません。私の使命は――」
「もういい。まずは確認を取ってからだ」
夏緒はすがるようなキララの台詞を問答無用で切り捨て、無情にも一気に距離を詰めた。
「待っ」
すかさず何かを言い掛けたキララの右肩を、ポン、と軽く叩いた。
たったそれだけだ。
たったそれだけで、ぱっ、と周囲の宇宙空間が消え失せた。地球が見えていた足元はリノリウムの床となり、太陽系の惑星が見えていた頭上はただの天井と化した。
「ふみゃぁぁぁ……」
電源を落としたように体表の青い輝きが消え失せたキララは、眠そうな猫みたいな声を漏らしてその場に崩れ落ちた。
糸の切れた操り人形のごとく、どたっ、と仰向けに倒れる。最後に、ごん、と後頭部が床にぶつかる鈍い音が響いた。
夏緒は自分の掌をまじまじと見つめる。キララの方に触れた手である。
こうなっても未だに信じられない。キララのリアクションはただの演技ではないのか。今まで見ていた映像はこの部屋に仕掛けられたトリックで、どこかにいる共犯者がタイミングを合わせて切ったのではないのか。しかし、もしそうだとしたら、ここまで緻密な準備までして夏緒を騙す理由が全く思い付かない。
「ううっ……ひどい、ひどいよぉ……ボクちゃんと待ってって言ったのにぃ……」
足元にぐずぐずした声が絡みついてきた。見ると、下半身だけ膝を曲げて折り畳んだまま仰向けになっていたキララが、べそをかいていた。どうやら動けない様子だ。
夏緒は彼女の枕元に立ち、屈み込む。
「話をまとめるぞ。お前の主張はこうだ。お前は未来から来た人間で、目的は俺――いや〝ギンヌンガガップ〟とかいう宇宙の真理を調べること。それで、空から落ちてきても河に落ちても大丈夫だったり、窓の外から手を振ったり壁をすり抜けたりしていたのは、『情報改変』とかいう未来の技術。で、その『情報改変』は〝ギンヌンガガップ〟の近くだと〈正常化〉されるから、俺に触られたお前は今みたいに動けなくなってしまう――と。そうだな?」
「ひどいよぉ……ひどすぎるよぉ……ううっ……ぐすんっ……」
「話を聞け」
つん、と人差し指でキララのおでこを突っつく。途端、
「みぎゃぁぁ! やだやだっやめてやめてっ抜けちゃう抜けちゃうっ力が抜けちゃうからぁぁぁぁ!」
びっくーん、と劇的な反応を示した後、周章狼狽して喚き出すキララ。
「なら人の話を聞け」
つん、つん。
「ふぎゃぁっ! ふみゃぁっ! ら、らめぅ、とんらうっ! とんらふぅぅぅ!」
「…………」
段々ろれつが回らなくなってきたキララを見て、そういえば土手での時もこんな風だったな、と思い出す。もしかして本当に、これは演技ではないのかもしれない。
試しに、もう二度ほど突いてみることにした。つん、つん。
「ふみっ!? みぅっ!? ……はきゅぅぅ……」
すると、餓死寸前の子猫みたいな鳴き声を最後に、目を回して動かなくなってしまった。
気絶してしまったらしい。
「…………」
しばらく待ってみたが、意識が回復する兆しはなかった。しまった、話の途中だったというのに。やりすぎてしまったか。とはいえ、ここで肩を掴んで揺すったりするとむしろ逆効果になるかもしれない。
十秒ほど考えてから、夏緒は決断した。
よし、放置しよう――と。
まだ言い足りないことは残っているが、それはきっとキララも同じだろう。必要があれば意識を取り戻した後、再び接触してくるはずだ。その時にでも改めてこちらの意志を伝えればいい。
そう結論づけ、夏緒は立ち上がって踵を返した。その背中に迷いは無く、足取りに躊躇は無かった。
――つまり、この時点において夏緒は事の重大性を全く理解していなかったことになる。もう少し深く考えればわかったはずである。まだいくらでもキララに確認するべき事柄があったことに。
キララは言った。澤城夏緒こと〝ギンヌンガガップ〟を調査するためにこの時代へ来た、と。そして、こうも言った。仲間はいない、と。
しかし、【ライバル】がいないとは、一言も言っていないのだ。