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●2 夏(緒)は笑わない




 神無学園の校門が間近に迫ると、夏緒は肩に提げたバッグのポケットに手を突っ込み、中から一枚のシールを取りだした。神無学園の校章がプリントされたものだ。


 が、夏緒はそれを貼るための動作は見せず、ただ掌に載せたまま、アーチ状に口を開けた校門をくぐる。


 ただの校門ではない。


 見た目の頑強さで言えば、刑務所のそれを遥かに超えている。


 学園の敷地を囲う特許申請中の特殊合金と同じ素材で作られており、厚さ三メートルにもなる内部に秘められたセキュリティ機構は、不法侵入者を絶対に許さない。許可なく通過しようとした不埒な輩は、電撃、ガス、その他諸々にて必ず無力化される。


 この門を無事にくぐり抜けることができるのは、夏緒のように認証情報が込められた校章シールを手に持っている者か、あるいは体内の〝SEALシール〟にエンクリプション・コードを刻んでいる者だけだ。


 全速で突っ込んでくる戦車ですら通さない、という噂の校門を無事に通り抜け、夏緒は手に載せていたシールを再びバッグに仕舞う。この校章シールは手に持ち、人体の生体電流の供給を受けなければ作動しないのだ。


 幅六メートル、高さ五メートル、奥行き三メートルのトンネルがごとき校門を通り抜けるのは、もちろん夏緒だけではない。外部通学の他の生徒達がわらわらと、夏緒と同じように学内と外界とを隔てる門をくぐり、それぞれの校舎へと向かっていく。彼ら彼女らのほとんど――というより全員――が、夏緒と違って校章シールを手にしていない。


 それもそのはず。この神無学園の関係者で〝SEAL〟を体内に宿していないのは、澤城夏緒ただ一人だけなのだから。


「――――」


 その光景を冷めた目で一瞥し、夏緒は自らの所属する二年E組が入っている校舎へと足を向ける。といっても、ここからさらに五分ほど歩かなければいけないのだが。


 進路を変更して数歩進んだ時だった。


「あ! なつにぃ、おはよー!」


 と、背後から聞き覚えのある元気な声が掛かった。振り返らなくても声の主はわかる。近所に住む幼馴染み、西浦兄妹の下、潤美うるみだ。だから夏緒は振り返ることもせず、


「おはよう」


 と返した。すると、とととっ、と潤美が駆け寄ってくる気配がして、


「今日もあっついねー」


 夏緒の無愛想に文句を付けることなく、横に並んで歩き始めた。かと思えばいきなり、


「――あれ? なつにぃ、今日はいつもより不機嫌だね? どうしたの?」


 腰まで届くポニーテールを、ぴょこん、と揺らして下から顔を覗き込んでくる。小柄な潤美によるその所作は、どことなく子ウサギを連想させた。


 潤美の指摘は概ね正しい。この付き合いの長い幼馴染みは、余人が見ればただの仏頂面にしか見えない夏緒の表情の変化を、何故か的確に読み取る。くりんと大きくて丸い瞳から放たれる視線は、夏緒が顔にかけた感情のカーテンを容易く突き破るのだ。


 つい先刻の、自称〝雪女〟の少女との顛末を説明するのは面倒くさい。そう思った夏緒は、潤美から視線を外してぶっきらぼうに答えた。


「……別に」


「ふーん……? まぁ、言いたくないならいいけど。あ、そうだ。お兄ちゃんからメッセージ来てなかった? あたし昨日、肉じゃが作り過ぎちゃって。今晩、お裾分けで持って行くね」


 お兄ちゃん、というのは西浦兄ことあつしの事である。が、夏緒の数少ない男友達と呼べる彼から、携帯端末に連絡がきた記憶はない。夏緒は首を振り、


「聞いてない。それに、俺に気を遣うなって前から言ってるだろ。裾分けなくてもいい」


 この言い様に潤美は、ぶー、と唇を尖らし、


「いいじゃない、別に。なつにぃ一人暮らしなんだから、幼馴染みとして少しは世話を焼かせてよね。それに、澤城のおじさんおばさんからもお願いされてるんだし」


 最後の一言で、にこ、と笑う。両親のことを持ち出されて、ただでさえ悪かった夏緒の機嫌はさらに悪化した。


「……お願いも何も、自分たちが好き勝手にやりたいだけだろ、あいつらは」


 超常現象専門の学者として世界中を飛び回っている夏緒の両親は、年に数えるほどしか日本に帰ってこない。そのため、夏緒は幼い頃から近所の西浦の家によく厄介になっていた。


「んー……あたしよくわかんないけど、大変なお仕事なんでしょ? この学校の設立にも関係しているって聞いてるし。自分の親を『あいつら』なんて言っちゃダメだよ、なつにぃ」


 諫めようとする潤美に、夏緒は、はっ、と吐き捨て、


「肩書きだけなら立派かもしれないが、親としては最低だろ。実の息子を親戚やそっちの家に預けっぱなしで、ろくに面倒を見てないんだからな。しかも置いてけぼりの理由が『お前がいると何故か超常現象が起こらないから』だぞ」


 憤懣やるかたない様子の夏緒に、潤美はこれ以上何を言っても無駄だと悟ったのか、ふぅ、と息を吐いて肩を竦める。


「まぁ、なつにぃって特異体質だもんね。なんでか〝SEAL〟も体に貼れないし、ろくに稽古もしてないのにうちの道場じゃ上位にいるし――ってこれはあんまり関係ないか。でも、他にも色々……ちっちゃい頃からずっと一緒にいるあたしでも、何か変だなーって思うことたまにあるし。なんかわかるような気がするよ?」


「ただの言い訳に決まってるだろ、あんなの。俺一人で超常現象が左右されてたまるか。……ところでお前、さっきからなんでついてくるんだ? 一年の校舎はこっちじゃないだろ」


 不意に違和感を覚えて問うた夏緒に、潤美はくすっと笑う。


「気付くの遅いよ、なつにぃ。今日は一時間目から移動教室だから、こっちでいいの。えーと、確か……」


 言いながら潤美は左腕を胸の前まで持ち上げ、剥き出しの素肌を右の人差し指で、ちょん、と突いた。そうすることによって、腕の表面にオーグメンテッド・リアリティ・ディスプレイ(ARD)が浮かび上がる――はずなのだが、もちろん夏緒には見えない。潤美と同じく体内に〝SEAL〟を持つ者なら、その拡張現実を共有できるのだろうが、そうでない夏緒には彼女がただ妙な動きをしているようにしか見えなかった。


 目の前に現れているであろうARDを何度も指でタップする仕種をした潤美は、やがて、うん、と頷き、


「ちょうど、なつにぃのクラスがある第五校舎前からバスが出てて、それに乗ったら余裕で間に合うみたい。あ、ちなみにどうでもいいことだけど、うちのお兄ちゃん、今あっちの第二グラウンドにいるみたい……部活の朝練なのかな?」


「わかるのか?」


 潤美はまるで夢遊病患者のごとく何もない空間に視線を泳がせる。そのまま右手の人差し指で第二グラウンドの方を指し示し、


「うん、今マップ関係のアプリ開いてるんだけど、お兄ちゃんのマーカーがそこにあるから――」


 と、潤美がそこまで言った時だった。


 ずどん、という爆発音が指差した方向から響き、立ち並ぶ校舎の向こうに赤い炎のようなものが瞬いた。やがて、ゆらゆらと黒い煙が夏の空へ上っていく。


「――どうやら、本当に【早朝訓練】みたいだな」


 思わず立ち止まった夏緒が呆れ声で呟くと、同じく足を止めた潤美も、色々と諦め悟ったような顔をする。


「うん……うちって本当に変な学校だよね。やたらと広いし、部活動は数も中身も半端無いし……リミッター有りとはいえ、サバイバルゲーム部で本物の手榴弾を使っているってお兄ちゃんから聞いた時は、質の悪い冗談だと思ったものだけど……っていうか、なつにぃ知ってた? ここ、北の大学より広いらしいよ?」


「ああ。一応、日本に一つだけの【実験学園】だからな。お前らの使ってる〝SEAL〟も、まだここの関係者しか使えないし、それ以外でも最先端のものだけ集めて、俺達の世代に直接受け継がせるのがここの基本方針だ。だからそれにかこつけて色んな機関の研究所が入ってるし、特殊学科も多いんだよ」


 話しながら、何事もなかったかのように二人は歩みを再開する。神無学園においては、爆発音など日常茶飯事なのだ。


「あたし、お兄ちゃんとなつにぃがいるから入学したんだけど……どうせ普通科に通うなら、別の高校にしておけば良かったかも、って時々思っちゃうなぁ。まぁ、【コレ】は確かに便利なんだけど」


 と言って、潤美は空中や左腕を次々とタップしていく。彼女の網膜には、各種ARD――例えば今日の時間割であったり、校舎までの道順であったり、現在時刻であったりが見えているはずだ。それらは全て、彼女の体内に入り込んだ〝SEAL〟の恩恵である。さらに言えば、〝SEAL〟を介して音声通信も文字通信だって可能だ。


 実際、夏緒が重量感のあるバッグを担いでいるのに対し、潤美は手ぶらだ。必要ないのだ。〝SEAL〟があれば、教科書も文房具もいらない。携帯端末すら持たなくていい。逆に言えば、夏緒はそれら全てを持たなければならないのだが。


「でも、【外】でコレ使ってると変な人に見られちゃうから、おおっぴらに使えないのが難点かなぁ。恥ずかしいから、早く一般に普及して欲しいよね」


「計画は進んでるらしいぞ、一応。まだテスト段階らしいがな。……俺みたいな奴が他にもいることを想定して、対策探している最中なんだろ」


「ほんと不思議だよね、なつにぃのそれ。体には何の異常もないって診断されてるのに、中に入った〝SEAL〟がすぐに排出されちゃうなんて。まだ原因不明なの?」


 心配しているというより好奇心旺盛なだけの潤美に、夏緒は前を向いたまま無感情に答える。


「新作が出来上がる度に呼び出されてるが、一度も成功してない。理由も理屈もわからないままだ。まぁ、原因が俺の側にあるってことだけははっきりしているけどな」


「早くわかるといいね、原因」


 にこ、と笑う潤美。その声音には、夏緒の今の状態があくまで一時的なもので、いずれは自分と同じように〝SEAL〟を身に宿すだろうことを信じて疑わない楽観さがあった。


 だから夏緒は、そんな潤美の慰めの言葉にも、視線を逸らしたまま投げ遣りな返答をする。


「どうでもいい」


 どうせお前にはわかるまい。そんな思いを込めて。


 恬淡を装った声に内包された思念に少女が気付くはずもなく、やがて二人は神無学園第五校舎の前に行き着いた。


「――あ、もうすぐバス来ちゃう。じゃあまた夜にね、なつにぃ!」


 宙の一点――おそらくはそこに浮かぶARD――を見て慌てた潤美は、夏緒に手を振りながらバス停へ駆け出す。


「肉じゃが持って行くからねー! 拒否したらまたそっちに【籠城】に行ってやるんだからねー!」


 籠城、という単語に夏緒の記憶野がピクリと刺激される。


 昔、とある些細な事が理由で、潤美が夏緒の家に押し掛けて【籠城】したことがあるのだ。どれだけ帰れと言っても潤美は頑として聞かず、終いには西浦の家から武闘派で知られる彼女の祖父までもが出張ってきて大騒ぎになった。


 思い出しただけで背筋がぞっとする。あんなのは二度とごめんだ。


「ああ、わかったから。転ばないよう気をつけろよ」


 溜息と共に折れた夏緒は、走り去って行く制服の後ろ姿と、それについていく長いポニーテールとを見送った。


 潤美がバスに乗り込むのを見届けると、そのまま辿り着いた第五校舎――ではなく、そこから少し離れた学食棟へと足を向ける。


 当初の目論見通り、キンキンに冷えたサイダーを飲むためであった。勿論、その前に手洗いに寄って口をしっかり濯ぐことを忘れはしない。


 ついに飲むことが出来たサイダーは思った通りの爽快さで、夏の暑さを一時忘れさせてくれたが、胸の奥にわだかまる苛立ちだけは、やはり消し去ってはくれなかった。






 澤城夏緒はクラスで浮いている。


 それもそのはず。彼はひねくれ者で、無愛想で、何故か〝SEAL〟が身につけられない異端者で、つまり本来ならば真っ先にいじめの対象とされるような人物で、なのに実際にいじめの対象になった時にはそれらを全て【実力】で撃退・排除したという、生粋のアウトローだったのだから。


 喧嘩が強くて、人を寄せ付けないオーラを発していたら、友人が出来ないのも道理である。


 そんな夏緒が二年E組の教室へ顔を出すと、毎度のごとくクラスメイト達は先程までの喧噪を忘れて静まり返り、己がテリトリーを侵略された犬のような目で、しかし決してこちらを見ようとはしない。


 異物として扱われる疎外感。


 それを想定した上で、夏緒はいつものごとく校章シールを備え付けのスキャナーに押し当て、教室の扉を開いた。


 その途端だった。


 クラスメイト全員の視線が、出入り口に立った夏緒に集中した。


 ぎょっとした。


「――!?」


 いつもと真逆の反応にたまらず動揺し、視線を泳がせてしまった。その拍子に窓側最後尾にある自分の席が視界に入り、さらにぎょっとした。


 誰か座っている。


 それも、絶対ここにいてはいけない人物が。


「…………」


 雪いだはずの唇がじんと疼き、冷たい炭酸の爽快さが全て吹き飛んでしまった。


 そう、そこにいたのは――つい先刻、土手から河へ転げ落ちたはずの少女だったのだ。


 クラスメイト達の目が、夏緒のそれを追って今度は少女――キララへと集中する。


 押し寄せる視線の波に反応してか、キララがこちらに気付く。


「あ、夏緒さん! 待ってたよ!」


 満面の笑みで両手を振る。何故かその身体は、河に落ちたことなどなかったかのように乾ききっていた。


 ――馬鹿な、有り得ない。


 真っ先に浮かぶその思考。距離的にも時間的にもそうだが、それ以上に、この学園の関係者でない彼女がここにいられるわけがないのだ。


 先述したとおり、学園の敷地内に入るためには【校門】を通らなければならない。そして、あのセキュリティ堅固な門を通過するためには――


 再び、クラスメイトの注目が夏緒へ殺到した。まるで寄せては返す波のようだ。その全ての瞳が、言外にこう聞いていた。


『あの子、誰?』


 知るかそんなこと。そう言えたらどれだけ楽だったことか。


 どうしたらいいのかさっぱりだった。かつて夏緒をイジメようとしてきた連中までもが、目を丸くしてこちらを見つめている。こんな状況で上手く立ち回れるほど器用ではない。普段から孤高を貫いてきただけに、変なことを言って自分のイメージが崩れるのが怖かった。


 だから、強硬手段に出た。


 周囲の視線を振り払うように歩き出す。強い歩調だ。有無を言わせない速度で机と机の間を縫い、最短距離で自分の席へ。


 机の上に重いバッグをどさりと載せ、キララの真横に立つ。


 金髪で白いワンピースの女の子が、すぐ傍まで来た夏緒を見上げ、唇を尖らせる。


「もーひどいよ夏緒さん、河に落ちたボクを放っていくなんて。いくらボクが雪お」


「どいてくれ」


 問答無用でキララが座っている椅子を後ろへ引いた。


「――ひょあっ!?」


 尻の置き場をすっぽ抜かれ、支えを失った腰が重力に引かれ床に落ちる。


 どっ、と鈍い音がした。


「はぅあっ!? きゅっ、きゅぅぅぅぅ……で、臀部打っちゃったぁ……」


 それは痛かろう。しかし腰の辺りを押さえてうずくまるキララに対し、それを見下ろす夏緒の言葉は冷たく素っ気なかった。


「邪魔だ、どいてくれ。そこは俺の席だ」


 冷然と浴びせ掛けられる声と、氷柱のような視線。流石にまずいものを感じ取ったのだろう。キララは、はっ、と顔を上げると、


「あっ、あわわ……ごめんね、ごめんねっ」


 慌てて立ち上がり、場所を譲った。夏緒はそれを確認すると、入れ替わるように椅子に腰を下ろし、音を立てて机との距離を詰める。


 しん、と教室内が静まり返った。


 夏緒は、ぷい、と顔を窓に向け、無言。キララを完全に放置する体勢だ。一方のキララは、おそらく予想だにしていなかったであろう夏緒の冷たい仕打ちに戸惑い、まごついている。そんな二人の挙動に注目せざるを得ず、身動き出来ない状態のクラスメイト達。何とも刺々しい空気の漂う空間であった。


 やがて我慢しきれなくなったのだろう、クラスの数名が教室の隅でヒソヒソと声を交わし始める。


「おい、澤城の奴どうしたんだ?」


「な、なに怒ってんだ? いつも不機嫌だけど、あれは怖すぎだろ……」


「っていうかさ、澤城って彼女いたっけ? 誰よあの女の子? 外人? 可愛いじゃん。つか、可愛すぎて感じ悪いんだけど」


「うちの生徒なの? でも知らない顔だし、制服も着てないよね……ちょっとヤバくない?」


 三人寄れば文殊の知恵と言うが、この件に関しては何人寄ろうとわかるはずもない。


 とっかかりのまるで見えない状況の中、最初に動いたのは、やはりキララだった。おずおずと夏緒の横顔を覗き込み、


「あ、あのー……なつお、さん……? えっと……もしかして、怒ってる……かな……?」


 自信のなさそうな声で、自覚の無いことを言う。


 当然、夏緒は何も答えない。キララの顔を見ようともしない。窓に顔を向けたままだ。


 空気が重い。


「えっとね……ボクの名前はキララなんだけど、覚えてくれてる、かな……? その……ご、ごめんね。まさかそんなに怒るなんて、思わなくてさ……えと……悪気は、なかったんだけど……うぅ……」


 怒られた犬みたいにしゅんとして、ワンピースの前で両手の指を搦めてもじもじしながら、キララは謝罪を口にする。


「……その……や、やっぱり……【いきなりキスしちゃったこと】、怒ってるのかな……?」


『――ッ!?』


 ガタガタガタガタッ、と派手な音が立った。


 密かに息を殺して耳を澄ませていたクラスメイト達が、一斉に立ち上がった音であった。


 無論、夏緒だって驚愕している。表情こそ変えてはいないが、内心では相当だ。何てことを口走ってくれるのだ、この女は――と。


「で、でもね、あれには理由があるんだ。実はね――」


「何の用だ」


 夏緒の声がキララの台詞を切り裂いた。


「――へっ?」


 いきなりの奇襲に、キララの口から素っ頓狂な声がこぼれる。


 夏緒は窓から視線を剥がし、キララへ向けた。高低差から自然と彼女を見上げる形になる。夏緒のやや吊り上がった鋭い目と、キララの丸い活発そうな瞳が真っ向から向かい合う。


「だから、何の用だ、と言っている。用件があるならさっさとしろ。ないならとっと帰れ。お前、少なくともこのクラスの人間じゃないだろ」


 この学園の生徒なのかどうか――までは踏み込まなかった。それを問うて、答えを聞いてはいけない気がしたのだ。


 完全に突き放す語調で言われた夏緒の言葉に、しかしキララは、ぱぁっ、と顔を輝かせた。両手を胸の前でパンと合わせて、


「ボクの話聞いてくれるの!? マジで!?」


 少し腰が引けてしまうほど嬉しそうな笑みだった。箱の底に希望を見つけたパンドラのような――というのは過剰表現になるだろう。どちらかというと、金塊を目の当たりにした強突張りがごとき表情だった、と言った方が的確かもしれない。


「……ああ、手短にな」


 思わず仰け反ってしまいそうなのを必死に我慢した夏緒は、聞くだけは聞いてやる、そういう態度で頷いた。勿論、キララが用件を口にしたら、適当にあしらって追い返してやるつもりだった。


 だったのだが。


「じゃあ、単刀直入に言うねっ」


 宣言し、すー、はー、と深呼吸したキララは、ずい、と身を乗り出してこう言った。




「ボクを好きになってください」




 音と光のない雷が落ちた。


 教室内の空気が完全に凝固した。


 神ですら両手で顔を覆って天を仰ぎたくなるような瞬間だったであろう。


 夏緒はあまりの衝撃に頭の中が真っ白になった。


 いきなり拳銃で脳天をぶち抜かれたような気分だった。


 キララの台詞から一拍の間を置き、夏緒の心を代弁するようにクラスメイト達が口を揃えて声を上げた。


『……はぁいぃぃぃ?』


 貴方が好きです付き合ってください、ならまだしも、自分を好きになってください、とはどういう意味なのか?


 しかしながら、クラスメイト達のその声は夏緒の胸中を完全には代弁していなかった。


 キララの言い放った言葉は、夏緒の脳内でゲシュタルト崩壊を起こしていたのだ。


 ――今、目の前にいる女の子はナニを言ったのだろうか?


 ボクヲスキニナッテクダサイ?


 ボクを、好きに、


 なるわけがあるか。


 フリーズしていた夏緒の意識が猛然と再起動する。


「消えろ」


 一言だった。


『ちょ!?』


 容赦のない夏緒の返答にクラスメイト一同がまたも驚愕の声をハモらせる。


 ばんっ、とキララが机を叩いて食い下がった。


「なんでさ!?」


『ええぇぇぇっ!?』


 なんでもくそも、とクラスメイト達は三度声を重ねて愕然とする。何十本もの視線が夏緒とキララの間を何度も何度も往復する。


 椅子に座った無愛想な少年が、傲然と胸を反らし、冷ややかな視線と共に言う。


「話は聞いてやっただろ。俺は要求を呑むとまでは言っていないぞ」


 対面に立つ自称雪女の少女が、怒れる猫のごとく肩をいからせ、燃えるような瞳で反論する。


「それはそうだけど! にべもしゃしゃりも無さ過ぎない!? 少しぐらい考えてくれたっていいじゃないか! っていうか色々すっ飛ばしすぎてない!? こっちのお願いの返事がいきなり『消えろ』とか! ひどい! ひどすぎるよ!」


 ああ、うん、それはね――という感じでクラスメイト達がキララの言い分に無言で何度も頷く。


 夏緒は冷徹に遮断する。


「わからないようだから言ってやる。俺はおふざけの類が大嫌いだ」


 これにキララが、ぷくー、と頬を膨らませる。


「ふざけてないもん本気だもん!」


「……まさかお前、さっきの台詞、真剣に言っていたのか?」


「そうだよ! 冗談であんな恥ずかしいこと普通言わないよ!」


 あ、そういう感覚はちゃんと持ってるんだ――と一同、少し意外に思う。


 夏緒はどこまでも冷徹に、毒をまぶした言葉を吐く。


「そうか、本気だったのか。悪かった。お前がそんなに純粋な心の持ち主だとは思わなかったんだ。脳みそも鏡みたいにツルツルで綺麗なんだろうな、きっと」


「えっ……?」


 この痛烈な皮肉に、キララは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。途端、恥ずかしそうに身体をくねらせながら、


「――え、えへへ……そんな、いきなり……て、照れちゃうよ……」


『褒めてねぇから!』


 顔を赤らめ嬉しそうにはにかむキララに、我慢できなかった者達が一斉に突っ込んだ。


「――――」


 予想外すぎた反応に夏緒は内心でやや鼻白んでいた。どうやらキララには婉曲な言い回しは通じないらしい。というか、完全に馬鹿だ。阿呆だ。まるで犬から生まれたエイリアンでも相手にしているようだ、と夏緒は思う。


 ならば、


「――考えればいいんだな?」


「えっ?」


 出し抜けに一歩引いた夏緒に、キララがキョトンとする。夏緒はその間抜け面を強く睨み付けながら続ける。


「俺がお前を好きになること……アリかナシか、その可能性を考えればいいんだな? その上で答えを出せば、お前は満足して帰るんだな?」


「え、えっと……う、うん……そう、なるの、かな……?」


 急に協力的になった夏緒の態度に面食らったのか、キララの目が泳ぐ。その頬が少し紅潮して見えるのは錯覚ではないだろう。どうやら非常に楽観的な期待をしているらしい、と夏緒は推察した。


 この馬鹿、どうやら本物である。


「…………」


 夏緒は視線を落とし、沈思する。一応は考える。自分が彼女を、ひいては誰か他人を好きになることが出来るのかどうか。恋することができるのかどうか、を。


 五秒ほどの、間。


「……無理だな」


 ぽつり。思わず結論が声に出た。


「むりっ!?」


 無慈悲な答えにキララが目を剥いて驚く。夏緒は顔を上げ、改めてキララと視線を合わせた。嵐が収まった朝凪のごとき素の表情で、夏緒は言う。


「ああ、無理だ。不可能だ。俺は君を好きにならない。というより、俺は誰も好きにならない。だから君の希望にはそえられない。本当にすまないんだが、諦めてくれ」


 あまりにも無慈悲な言い様に、堪らずキララの目に涙が浮かぶ。


「そ、そういうこと素の顔で言っちゃうのっ!? しかも『お前』から『君』になってるし! すごい冷静だし! そして丁寧にひどいし!」


 愕然とするキララにクラスメイト達が『うんうん』と同意する中、夏緒の落ち着いた声は、クーラーの効いた教室内にとても冷酷に響いた。


「――わかったら、もう帰ってくれないか?」


 夏緒は笑いもしない。




 

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