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●13 最後のキス 愛の力?






 お前などただの付着物でしかない。だからいらない。


 お前がいると超常現象が起きない。だからいらない。


 自分は誰にも必要とされていない。だからいらない。


 ずっとそう思ってきた。だからこそ強くあらねばならない。そう思って生きてきた。


 他人に左右されたくない。他人など関係なく、自分はここにいるのだ。ここで生きているのだ。そう言ってやるために。


 ――そう言ってやる?


 誰に?




 一体どれほどの時間、気を失っていたのだろうか。気が付くと、夏緒は何もない宇宙空間に倒れ伏していた。


「……――ッ!」


 三半規管のおかげで、仰向けに倒れていることがわかった。体を起こそうとして、全身に走る激痛にそれを阻止された。


 冷静に、身体の状態について把握するよう努める。左腕、それと右足が、おそらく骨折している。それ以外の部分も、打撲に捻挫――もはや怪我をしていない部分の方が少ないだろう。交通事故レベルの負傷だ。目もろくに開けられやしなかった。


 だが、ここまで満身創痍となっては、アディも手を出せなくなったのだろう。身に降り懸かる暴力の嵐は、ひとまず落ち着いたようだった。


 だけど、何だろうか。遠くから声が聞こえる気がする。明確な話し声ではなく、これは――そう、泣き声だ。


 ふと気付けば、顔に雨が当たっている感触。痛む身体に鞭打って、夏緒はうっすらと目を開けた。


 声の源は、思いがけず近くにあった。


 キララの泣き顔が、こちらを見下ろしていた。


「……ぇぐっ……ぐすっ……ひっ……ぐっ……ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめっ……さいっ……」


 ボロボロと、コーンフラワーブルーの瞳から大粒の涙をこぼして、泣いている。ひどい顔だ。彼女は夏緒の顔を見ながら、涙を流し、何度も謝っていた。


 おかしいな、と夏緒は思う。キララは確か、アディの竜巻によって消えたはずなのに、と。


 よく見れば、キララの顔は傷だらけだった。血が出ていないのが不思議だったが、そこはおそらく彼女の肉体が『本物の生身』ではなく、情報改変によって受肉した仮想体だからだろう。


 夏緒の右脇に座っている座っている――浮いている、のかもしれない――彼女は、こちらに触れる事も出来ず、ただひたすら謝罪を口にして泣いていた。涙が零れるたび、その雫が夏緒の顔に落ちる。


「ごめんなさい……ボクのせいで……ごめんなさい……何もっ……何も出来なくてっ……傷を治してあげるどころか、膝枕もできないなんてっ……!」


 そうだ。自分と彼女は、触れ合いたくとも触れ合えない関係なのだ。なのに、両親と、西浦の家族を除けば、間違いなく一番多くの時間を共有している。友達でもなければ、恋人でもない。なのに、気が付いたら一ヶ月以上も一緒に暮らしている。だというのに、お互いの肌がまともに触れあったことなど、ほとんどない。


 不思議な関係だった。


 この娘は、どうして泣いているのだろうか。自分など、所詮は〝ギンヌンガガップ〟の付属物だ。彼女の目的は、自分の中にある〝ギンヌンガガップ〟の属性を変えて、未来の人類を滅亡の危機から救うことだ。だから、キララが自分のために泣くのはおかしいと――


 いや、違う。


 目を逸らしてはいけない。あの夜、キララは言ったではないか。


 人類滅亡の危機を救うというのは、建前に過ぎない。本当は、夏緒に会いたくてこの世界にやって来た――と。


 夏緒は朦朧とする頭で思う。もしかしたら、この女の子は、自分を何かの付属品として見ていないのだろうか。本当に、〝ギンヌンガガップ〟ではない、澤城夏緒個人を求めてくれているのだろうか。


 親にさえ見捨てられた、こんな自分を。


「……ぁ……」


 ほんの一息、声を出すだけでも胸から腹にかけて激痛が駆け巡った。肋骨が何本もイカれているのだろう。


「――!? 夏緒さんっ? 夏緒さんっ? 気が付いたのっ?」


 そんな僅かな動きでさえ、キララは目敏く見つけて精一杯声をかけてくる。


「大丈夫っ? 痛くない? ……わけないよね……ごめんなさい……」


 また、じわっ、と泣きが深くなる。その間抜けな言動に思わず笑いの衝動が湧き上がりかけたが、そうしたら身体が痛むので、我慢して押さえ込んだ。


 夏緒は質問を口にしようとした。自分はどれだけの時間、気を失っていたのか。キララ自身の傷は大丈夫なのか。アディは今、どこで何をしているのか。


 しかし体中を苛む苦痛が、それを許してくれなかった。呼吸をするのが精一杯で、何も喋れなかった。だがそれでも、夏緒の視線からキララはその意図を汲んでくれたらしい。


「……うん、大丈夫だよ。夏緒さんは、ボクが絶対に守るから。安心してね。あ、イシュタルさんもいるよ。今、あっちで戦ってくれてるんだ」


 そう言って顔を上げ、ある方向に目を向ける。夏緒もひどく難儀しながら、同じ方向に視線を向けた。


 視線の先、何光年離れているのか見当もつかない距離の向こうで、ブラックホールと太陽がぶつかり合い、せめぎ合っていた。きっと太陽がイシュタルで、ブラックホールがアディだろう。


「夏緒さんが気を失った後ぐらいにね、ボクのエマージェンシーシグナルを受け取ってくれたイシュタルさんが助けに来てくれてね……ボクにちょこっと力を分けてくれた後、アデライーデさんを引き離してくれたんだよ。なんだかよくわからないんだけど、これで合点がいきましたわ、って言いながら……あの人、こういう時は妙に優しかったりするんだよね。貴族クラスタって変な人多いよね」


 キララが説明してくれている間も、夏緒は遠くで繰り広げられている戦いを注視していた。夏緒には、早くも戦いの帰趨が見えていたのだ。キララがアディに勝てなかった以上、イシュタルとて彼女に勝てる道理はないはずだった。


 案の定、イシュタルは五分も保たなかった。遠く、深紅に燃える太陽がブラックホールに飲み込まれていく光景を、夏緒とキララは黙って見届けるしか出来なかった。




「全くもって度し難い。貴殿らは、未来を救う気がないのか?」


 やがて、宇宙の闇から染み出してくるように、アディが姿を現した。その身体を覆う〈輝紋〉の輝きはいささかも衰えず、肌にはかすり傷一つ見つからない。ただ、イシュタルが一矢報いたのだろうか、顔にかけていた赤縁眼鏡が無くなっていた。


 彼女の立ち位置は夏緒達よりも高く、まるで壇上に立っているかのようだ。


「大丈夫だよ、夏緒さん……ボクが必ず守ってあげるからね……」


 キララはそっと夏緒の耳元で囁くと、立ち上がり、アディの前に立ちはだかった。両手を広げて、背後の夏緒を守る体勢をとる。その体表に青い〈輝紋〉が浮かび上がるが、光は弱く、時折明滅を繰り返していた。


「これ以上、夏緒さんを傷つけることは許しません」


「貴殿の許しを得る必要などない」


「こんなやり方、間違っています! 人としての尊厳を忘れたのですか、あなたは!」


「貴殿こそ種として生きる本能を忘れたか。そこの〝ギンヌンガガップ〟の付着物に、己が立場を思い出させ、傲慢にも人類の命運を握っている愚かしさを思い知らせてやるのだ。それしか小生らが生き残る道はない」


「そんなことはありません。それはあなたの思い込みです。夏緒さんは――」


「黙れ。この上、問答は無用だ。先のイシュタル殿と同じく、貴殿にはここで舞台を下りてもらう!」


 力尽くによる強行突破。アディの選択は戦意に充ち満ちていた。


 アディの周辺に、先程は遠くで見たブラックホールが出現した。先刻のよりは随分と小さく見える。だが、それがすぐに宇宙規模にまで成長するだろうことは、予想ではなくただの知識だった。


 迎え撃つキララの背に、空間を軋らせながらドライアイスの翼が生える。現在進行形で情報改変の演算を全力で行っているのだろう。しかし、やはり既に演算し終えた力を蓄えているアディに、真っ正面からの勝負で勝てる見込みがあるとは思えなかった。


 身動きの取れない夏緒は、倒れたまま、自身を守る盾となったキララの背中を見つめた。もしかすると、彼女には何か秘策が――




 あるわけなどなかった。


 キララが行ったのは、ただひたすら夏緒の盾となること。


 情報改変によって氷の壁を作り、イシュタルとの戦いの時と同じように三日月斧を構え、いくつもの氷弾を掃射し弾幕を張った。


 それらを用いて、連続で撃ち出されるブラックホールや宇宙トルネードを相殺できたのは最初の内だけだった。すぐに均衡が崩れ、キララはその身を挺することで夏緒の盾となった。


 やめろ。夏緒はそう叫んだつもりだった。しかし、ボロ雑巾のような身体はその意志には従ってくれなかった。


 防御の力を集中させ、肝心な部分だけを守っているのだろう。顔の前で両手を交差させたキララは、アディの攻撃に何度も耐えた。直撃ではないものが太股をかすった時、その部分の肉がごっそり消えた。


 悲鳴は上がらなかった。しかし、夏緒は知っている。彼女には確か痛覚があったはずだ。痛いはずなのだ。怖いはずなのだ。なのに。


 やめてくれ。夏緒はそう叫びたかった。こんなことをされる価値など、自分にはないはずだ。キララがそこまでする理由は、ないはずだ。


 アディの攻撃は止まない。雨あられと降り注ぐ。無慈悲な行為を繰り返す当人は、しかし終始つまらなさそうな顔をしていた。実力差を正しく把握しているのだろう。いっそ、ぞんざいな手付きだった。それでも攻撃の度に、キララの身は少しずつ削れていく。


 もういい、どいてくれ。今、お前が耐えている攻撃は、俺には何のダメージも与えないはずだ。あいつは、【お前をどけるためだけに】その攻撃を繰り返しているのだ。だからもういい、そこをどいてくれ。


 夏緒は〝SEAL〟を持たず、故にキララに声ならぬメッセージを送ることが出来ない。声も出せず、身体も動かせないなら、意志を伝えることが出来ないのだ。


 声を出せ。こうしている間にも、あのアホ娘は俺を守り続けている。俺がやめろと言わなければ、アディも止まらない。


 声を出すんだ。今もなおキララの身体は削れていっている。俺のために。俺なんかのために。息を吸って肺に空気を溜めろ。


 叫べ。これは俺の戦いだ。俺以外の誰かが傷つくのは許されない。許されてはならない。もっとだ、もっともっと空気を溜めろ。


 吼えろ。こんな事を許すな。絶対に許すな。何もかもが許し難い。どうしてこうなった。何故こんなことになった。誰が悪い。何が悪い。怒れ。もっと怒りを燃やせ。痛みなんて無視できるほど。後先なんて考えられないほど。


 怒鳴れ!




「や め ろ お お お お お おおおおおおおおおおおおお――――ッッ!!!!」




 肉体の限界を超えて、そら恐ろしいほどの声量が出た。


「――かっ、はっ……!」


 反動はすぐに来た。血の混じった咳を吐き、夏緒は激しくむせた。


 そして――何もかもが、手遅れだった。


 夏緒の叫びが轟くと同時、確かにアディの攻撃の手は止んだ。


 しかし、キララに限界が訪れるのも、また同時だったのだ。


 夏緒の見ている前で、がくり、とキララの膝が折れた。重力などないはずの宇宙空間で、彼女は崩れ落ちた。背中のドライアイスの翼は粉々に砕け、その肌に走っていた〈輝紋〉の光は、蒼い桜の花びらのように儚く宙に散った。




「あ……ああ……」


 どさり、と仰向けに倒れたキララに、夏緒は自分でも何を言っているのかよくわからない声を洩らしながら、右手を伸ばした。彼我の距離は、腕を伸ばした程度で届くほど短くはない。


 衝動的に夏緒は痛覚を無視して、うつ伏せにひっくり返った。そのまま骨折していない右腕だけで這いずって、芋虫のように、倒れたキララへと近付いていく。荒い呼吸を繰り返しながら、何とかキララの頭のすぐ傍まで這い寄ると、夏緒は彼女の身に手を伸ばしかけて――止めた。


 キララの身体が、薄く透き通っていた。まるでよく出来た立体映像のように、所々にノイズが走っては輪郭が歪む。夏緒でなくとも、触れたらそれだけで消えてしまいそうだった。


「おいっ……おいっ……」


 触ることの出来ない夏緒には、こうして声をかけるが唯一のコミュニケーション手段だった。それでさえ、肺が痛くてまともな音量も搾り出せていなかった。


 人間だったらとっくに死んでいる。キララの状態は、それほどまでに深刻だった。身体のあちこちに裂傷。純白のワンピースはいまやボロキレ。右腕は肘から先が欠損し、左わき腹には夏緒の頭が入りそうなぐらいの風穴が開いていた。血も内蔵も出ていないのが、逆にグロテスクだった。


「このっ……バカがっ……」


 怨嗟にも似た声が喉からこみ上げる。


「なんでだっ……どうして、こんなバカなことをっ……くそっ」


 右拳を握り締め、見えない地面を叩く。上手く力が入らない。こんなものじゃ全然物足りない。怒りがおさまらない。


『――ごめん、ね……』


 掠れた、微かな声。まるでスピーカーの奥からようやっと聞こえてきたようなキララの声に、夏緒はぎくりとする。


 キララがほのかに目を開けて、こちらを見ていた。許しを請うように。守れなくてごめんなさい、と淡い唇が動いていた。


「違う……!」


 謝るな。悪いのはお前じゃない。悪いのは俺の方だ――そう言いたかった。なのに、上手く言えない。言葉が出てこない。夏緒は自分の不器用さが、今日ほど憎く思えた日はなかった。


 体内で荒れ狂う感情を表現する方法を夏緒は知らなかった。涙の一つでも流せればよかっただろうか。しかし、夏緒の涙の泉はとうに涸れ果てていたし、彼自身、自分が悲しんでいるのか悔しがっているのか、よくわからなかった。


 ただ昂ぶる感情は、喉から胸を締め付ける。何も言えないまま、夏緒はキララの目を見つめ返し、えも言われぬ情動に顔を歪ませるしかなかった。すると、


『夏緒さん、泣かないで……』


 キララが無事な左手を伸ばし、そっと夏緒の頬に触れた。


 触れた。


「なっ……!?」


 夏緒は愕然とする。自分には〝ギンヌンガガップ〟の力がある。今のキララのような状態で、夏緒に直接接触するというのは自殺行為に等しい。それがわからないキララではないはずだ。


「バカ、やめろ……触るなっ……」


 夏緒は頭を振ってその手から離れようとした。だが傷だらけの身体は言うことを聞いてくれず、キララの手も追いすがるように動くから上手く離れられなかった。


「……ふふ、うふふっ……」


 何がおかしいのか、キララが弱々しく笑う。その身を構成する情報が吸収されているのか、頬に触れている掌から光の粒子が立ち昇り、夏緒の中へと吸い込まれていく。キララの存在感がさらに薄くなっていくのを夏緒は感じた。


 思わずキララと目を合わした。夏緒はその瞳の奥に、覚悟の光を見た。


 そこで気付いた。わざとなのだ、と。キララは敢えて、夏緒に触れようとしているのだ。その理由はわからなかったが、聞くのは野暮のように思えた。だから、夏緒は別のことを口にした。


「……悪かった……全部、俺のせいだ……」


 そう言うと、もう応える力も無いのか、キララは黙って首を横に振った。


 今のが、夏緒に出来る精一杯の謝罪だった。故に、迷った挙句、次に出てきた言葉は、


「……別に、俺は泣いてないぞ……」


 キララは何も言わず、冬の木漏れ日のようにうっすらと微笑んだ。


 自分の頬に触れるキララの左手。雪女と名乗っていたわりには、言うほど冷たくはない。触れ合った箇所から、自分の中にある〝ギンヌンガガップ〟は容赦なく彼女から力を奪っていく。


 この時初めて、夏緒は自身の中にある〝ギンヌンガガップ〟に怒りを覚えた。


 ――何を勝手なことをしている。俺の意志を無視するな。俺が、よりにもよって今の俺が、こいつを否定するわけがない。お前は俺の意志を汲んでその力を発揮するんだろうが。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!


 俺がキララを好きかどうかはこの際関係ない。こいつは俺を庇ってくれた。こんなにボロボロになるまで守ってくれようとした。そんな奴から力を奪い、消滅に追い込むのが俺の意志なわけがない!


 歯軋りする。どれだけ心の中で否定しようとも、〝ギンヌンガガップ〟はキララから力を吸収することをやめない。制御が出来ない。触れている面積が少ないおかげか、その効率は緩やかなようだったが、それも時間の問題だった。


 ふと視線を上げると、少し離れた位置に立つアディが視界に入った。腕を組み、ゴキブリの交尾でも見るような目でこちらを眺めている。キララが消えるのを待っているのかもしれない。


『夏緒、さん……お願いが、あるん、だけど……』


 この宇宙空間のように静かな場所でなければ、聞き逃していたかもしれない。微かすぎるキララの声に、夏緒は視線を戻す。


『――変なお願い、だけど……い、い……?』


 立体映像のようになってしまったキララの姿が、何度もブレる。今にも分解されて散ってしまいそうだった。


 ここまで来て是非もない。夏緒は小さく頷き、


「……わかった」


 応じると、キララは嬉しそうに笑った。そして、はにかむような間を置いてから、目を閉じ、とても恥ずかしそうに『お願い』を口にした。


『……最後に……キス、して……欲しい……な……』


「――――」


 後に、夏緒はこう弁解する。曰く――あの時、自分は何度も頭を殴られたせいで意識が朦朧としていた。だから、あれはちょっとした気の迷いであり、つまり何かの間違いなのだ――と。


 実際の所、夏緒はかなりの朴念仁かつ人の心の機微に疎い石部金吉ではあったが、ここでキララの真意に気付けないほど鈍感な男ではなかった。キララの気持ちは知っていたし、この場合、一人の男として取るべき行動とは何かをきちんと弁えていたのだ。


 なにより、夏緒は恩知らずではない。ここまでしてくれた彼女に報いるためには、その願いを聞き届けるのが一番だと思ったのだ。


 本当にいいのか、などと無粋な聞き返しはしなかった。小さな声で、わかった、とだけ囁くと、夏緒は自分の頬に触れているキララの左手を己が左手で握り――




 少女の唇に、そっと自分のそれを重ねた。




 音は一切なかった。


 接吻をした直後、キララは燃え尽きる流星のごとく、弾けて消えた。




「重畳、重畳。これで小生の手間が省けたというもの」


 パン、パン、パン、とおざなりな拍手と共に、潤美の身体を乗っ取っている未来人は、やる気のない俳優のような口調でそう言った。それから、こちらに汚物でも見るような視線を寄越し、


「さて、質問をしよう、澤城夏緒殿。下手な答えを返せば、いらぬ苦しみが長引くぞ。――貴殿のご主人様は、誰だ?」


 予想通り、愚にもつかない質問だった。夏緒は痛む身体と相談しながら体を起こし、その場に胡座をかく。それから、たった一つしかない答えをアディに突き付けた。




「「知ったことか」って言うよね、夏緒さんなら」




「「――!?」」


 夏緒とアディの驚愕は同調した。


 聞こえるはずのない声が聞こえたからだ。


「――キララ……?」


 夏緒は半ば呆然と、その名を呟いた。すると、眼前、今さっき少女が弾けて消えた空間に、ぽっ、と蒼い光が生まれた。その光は瞬く間に膨張し、閃光となった。


 スタングレネードのような光が宇宙空間に満ち、すぐに消える。


 咄嗟に目を閉じた夏緒が再び瞼を開いた時、果たしてそこには――


「お前――」


「えっへへへー♪ キララちゃん、大・復・活!」


 何事も無かったかのように、純白のワンピースを来た金髪碧眼の少女が立っていた。なにやらポーズを決めて、ものすごい勢いでドヤ顔をしていた。


 これを素直に受け止めろというのは、無理のある話だった。


 有り得ない。彼女はついさっき、確かに消えたはずだ。夢でも見ているのか? 頭を殴られすぎたせいか? それとも、これから待ち受ける地獄を前に、絶望した脳が幻を見せてくれているのか?


 そうやって夏緒が自身の正気を疑っていると、


「夏緒さん、ありがとね」


 とキララが言った。はっとなって、そちらへ顔を向けると――


 キララは満面の笑みを浮かべていた。さっきまでの弱々しいものとは全く違っていた。まるで真夏の向日葵のような、煌めくような笑顔だった。


 どくん、と胸の奥が奇妙な鼓動を打った。自分の身体が何故そのような反応をしたのか、夏緒には理由がわからなかった。


「――貴殿、一体何をした!?」


 鋭い声が飛んだ。誰何などするまでもない、アディである。彼女はこれまでにない険しい顔でキララを睨み付け、


「その――【それ】は、一体何なのだ!?」


 彼女の言う【それ】というのが、夏緒にはわからなかった。しかし、【それ】はどうやらキララと共通の認識だったらしい。


 不可思議な復活を果たした雪女は、ふ、と口元に余裕の笑みを刻み、


「それはね――」


 全身の〈輝紋〉を激しく励起させ、笑顔を消し、【宇宙人モード】へ移行。


 アディに向けて、さっと手を振った。


「――こういうことですよ」


 次の瞬間に起こった事は、人間のスケールでは理解できない現象だった。




 宇宙に、花が咲いた。




 巨大な――否、巨大すぎる氷の花。


 キララを核とした流麗な花冠を持つその花は、銀河を飲み込んでなお余りあるほど大きかった。


 宇宙空間に忽然と現れた蒼白き花。その中心部では、時が止まっていた。


 比喩ではない。言葉通りの意味である。キララを中心とした半径約三万光年の範囲の時間が、完全に停止していた。


 そんなとんでもない事態ではあったが、夏緒の目線から見ると、状況はひどく単純なものだった。


 キララが手を振ったら、アディが凍り付いたように動かなくなった。それだけだ。


 一時停止ボタンを押されたように硬直したアディに対して、キララが独り言のように話す。


「見ての通り、私は〝ギンヌンガガップ〟との接続に成功しました。共有プロトコルを手に入れた今の私は、いまや逆に〝ギンヌンガガップ〟から無限に力を引き出すことができます」


 返事はない。反応もない。アディは愕然としたまま、固まっている。


「――残念ながら、あなたの操る重力、イシュタルさんのカロリーと違い、私のアーキタイプは〝停止〟です。停止した時間の檻に囚われた以上、もうあなたに為す術はありませんよ、アデライーデさん。大人しく元の時代に帰ってください。事の沙汰は、追って決着をつけましょう」


 キララの言葉はアディにちゃんと届いているのだろうか。時間が停まっているのでは、意思の疎通は無理なのではなかろうか。夏緒はそんなことを心配してしまう。


 だが、その一方的な通告で二人の会話は終わってしまったらしい。


 くるりと振り返ったキララは、体中に走る幾何学模様の光を消して、夏緒に駆け寄ってきた。


 否、飛びついてきた。


「夏緒さぁぁぁぁぁんっ!」


「ッ!?」


 いきなりヘディングでもするかのように抱き付いてきたので、避ける暇などなかった。あったとしても、身体が動かなかっただろうが。


 二人でもつれ合って倒れ込む。


「夏緒さんっ! 夏緒さんっ! 夏緒さぁぁぁぁんっ!」


 しっかと夏緒に抱き付いたキララは何度も少年の名を呼び、その身をクネクネとうねらせた。


「ありがとう! 本当にありがとう! 夏緒さんのキスのおかげで条件達成だよ! 〝ギンヌンガガップ〟のベクトルが逆流して、今までボクから吸い取ってた力を返してくれたんだよ!」


 きゃっはー! と全身で嬉しさを表現したキララはさらに続ける。


「いやー、ボク達の喧嘩ってお互い基本は情報存在だからさー、物理的には殺せないし、要はどうやって相手を封じるかっていうのがミソなんだよねー。一番良いのは相手よりも演算量を増やして情報改変で優位に立つことなんだけど、これがもうさー、こっちの世界に来た時に溜め込んでいた奴ぜぇぇんぶ夏緒さんに持って行かれちゃってたからさー、ほんと危なかったんだーあはははは。あーでも、もう大丈夫だよ! ボクの愛が夏緒さんに通じたんだもんね! 夏緒さんがボクのことを認めてくれたもんね! 二人の愛は無敵だよね!」


 夏緒は何も言わない。


 はた、と流石にキララも気付き、夏緒の肩に埋めていた顔を上げた。すぐさま身体を離し、夏緒の状態を確認する。


 喜びの余り、完全に失念していたらしい。


 夏緒は本来なら、すぐにでも病院に担ぎ込まなければならないほどの重傷を負っていたのだ。そんな人間に対して、一体何をしてしまったのか、キララはようやく理解する。顔が真っ青に染まった。


 夏緒は、ヤバイ感じに気絶していた。






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