●12 風(精)が突然吹き荒れた
世界は眩しい。
最近、夏緒はそう感じるようになった。
己の死期を知ってしまったからだろうか。絶望というのは目の前を真っ黒に染め上げるものだとばかり思っていたが、その大きさも極まると、逆に世界を美しく見せてくれるようであった。
あの衝撃の告白――こちらが聞いてないと思ってこぼしたキララの懺悔から、一週間が過ぎていた。八月十二日。夏緒の命が消えるタイムリミットまで、あと二週間。
あれから、事の真相をキララに問い質すことも、かといって心を入れ替えて彼女達に好意を抱けるよう本腰を入れることも、夏緒はしてこなかった。
理由は、自分でもよくわからない。冷静に考えるなら、具体的に何時何分、どのようにして自分が死ぬのかを確認し、その運命を回避するべきだろうとは思う。だが夏緒は、そうしようとは思わなかった。
初めて知った時はひどく動揺していたのに、今ではすっかり気持ちが凪いでしまっている。
自分は死ぬ。それはおそらく事実だろう。あの時、キララも言っていたではないか。存在するものはいつか滅するのが定めであると。ならば、澤城夏緒の死は運命なのだ。
夏緒の心のどこかが、自然とその事を受け入れていた。死を受け入れるにはまだ早すぎる若さだというのに。
ところで、あの日以来、キララが時折こちらに奇妙な視線を向けてくるようになった。夏緒としては極端に態度を変えたつもりはないのだが、無意識に端々から本心が洩れているのかもしれない。
今日もリビングでコーヒーを飲みながらタブレットPCを触っていると、妙に心配そうな目で見てくるので、
「……何か用か?」
「――ううん、何でもないんだけど……夏緒さん、疲れてる?」
「……別に。大体、お前の話によれば俺は基本的に疲れない体質なんじゃなかったのか?」
「う、うん……それはそうなんだけど……」
以前、キララが説明してくれたことがある。夏緒自身も昔から不思議に思っていた、肉体の頑強さについて。
『ボク達の時代の人じゃなくても、〝SEAL〟がなくても、人間っていうのは基本的に情報改変が出来る生き物なんだよ。ほら、昔から言うでしょ。思いが強ければその願いは叶う――って。それって人が無意識に情報改変を行って、現実を変えているってことだったんだよ。無意識だから非効率だけどね。でも、そういうことが出来るって事を本能で知ってるから、人間は無意識に自分の能力に制限をかけて、全力を出さないようにしているんだよ。全力を出す必要がないから。だけど、夏緒さんはそうじゃない。夏緒さんは〝ギンヌンガガップ〟だから、情報改変の力は全く使えない。だから逆に、その肉体には【人間という生物が本来持つべき力】がちゃんと備わっていて……これ以上説明するとややこしいから簡単に一言で言っちゃうけど――物理的な限界まで力が出せちゃうんだよ。多分、熊と一騎打ちしても勝てちゃうってぐらい』
それだけ屈強な肉体でも、死ぬ時は死ぬらしい。まぁ人間とはかくも儚いものだ、などと知った風なことを考えてしまう。
「――あれ? 夏緒さん、どこかに出かけるの?」
キララがそう聞いてきたのは、夏緒の服装が部屋着ではなかったからだろう。白のプリント入りTシャツとブルージーンズ、その上に黒の半袖ジャケットという出で立ちは、確かに外出のための格好だった。
「ああ、潤美に呼び出された」
そう言って、夏緒はタブレットの画面を指で弾く。そこに表示されているメーラーには、潤美の〝SEAL〟から送られてきたメッセージが表示されていた。
『やっほ、宿題終わった? 終わってなくてもちょっと買い物に付き合って欲しいんだけどいいよね? じゃあ明日の十一時にそっちに迎えに行くからよろしくね!』
疑問符を使用している割には、会話にもなっていない一方的な通告である。幼馴染みの特権とでも思っているのか、潤美はたまにこんな風に甘えてくることがある。ほとんどが家事のストレスが溜まっている時だ。今回もそれだろうと夏緒は推測できたため、了解という旨の返事を送ってあった。おそらく、夏休みのせいで敦が家でだらだらと過ごしていて、それが潤美のストレスになっているのだろう。
「ふーん……」
微妙な顔つきで呟く金髪の少女に、そういえば、と夏緒は今朝から見てない顔について尋ねた。
「そういえばイシュタルはどうした。朝から見てないが」
「あ、イシュタルさんなら、水着を買いに出かけたよ?」
「……意味が分からないんだが」
「なんか『今度はセクシー路線ですわっ!』とか言ってたけど……」
「やめさせろ。即刻だ」
「あははは……だよねー。夏緒さん、そういうの興味ないもんね……ボクとしても非常に残念なんだけど……」
愛想笑いで同意した後、後半は小声でぼそっと呟くキララ。その後も「まさかホモ? ううん、でもそんな情報どこにもなかったし……」とブツブツ続ける。致命的な勘違いが宇宙に誕生するのを阻止するため、夏緒が口を開きかけた瞬間、
インタホンの音。
反射的にタブレットの時刻を確認すると、十時四十五分だった。約束の時間より少し早いが、おそらく潤美だろう。
夏緒はソファから立ち上がり、傍らに置いてあったボディバッグにタブレットを突っ込むと、
「――行ってくる」
キララに対してそう言った。すると、キララはやや目を見張って、驚いたような表情を浮かべ、
「……うん。いってらっしゃい」
一転して、にっこり、とひどく嬉しそうな微笑みを見せた。夏緒は気付いていない。自分がこれまで、家を出る際に「行ってきます」に類する言葉を発したことが無かったことに。
以前、潤美に蹴破られた玄関の扉はすぐに業者を呼んで、新しい物を取り付けてもらっている。そこだけはやけに真新しい感じのするドアを押し開きながら、
「早かったな、で、今日はどこに買いも」
のに行くんだ、と続けるはずが、夏緒の舌は中途で凍り付く。
開いたドアの向こうにいたのは、確かに潤美だった。
けれど、決定的に違う部分がいくつもあった。
まず髪型。潤美のチャームポイントはポニーテールだ。それが今日は何故か、ツインテールになっている。次に、赤縁の眼鏡。潤美の視力が悪いなどという話は一切聞いたことがないし、そも〝SEAL〟を持っている人間は視力矯正機能を持つので、眼鏡が必要になるはずがない。
それだけならば、イメージチェンジの一言だけで済んだ。夏緒とて「ちょっと感じ変わったな」ぐらいのコメントは出来たかもしれない。しかし――
極めつけは、その肌だった。水色のノースリーブブラウスとクロップドジーンズの裾から見える、うっすらと小麦色に焼けた肌。
その表面を走る、【深緑に輝く幾何学模様】。
「――ッ!?」
ここ最近は目にしてなかった、どうしようもないほど確実に【この世の物ではない光景】が、夏緒の背中に戦慄を走らせる。
無表情――というよりは無愛想な顔をした【そいつ】は、驚愕のあまり石像と化した夏緒をじっと睨め付けると、
「【はじめまして】、澤城夏緒殿」
淡々とした口調でそう言った。この発言により、まさかという思いは確信へと変わってしまった。
潤美の顔と声を持つ、間違いなく未来から来たであろう【そいつ】は、生真面目にもこう名乗った。
「小生、こちらで言うところの〈風精〉。名をアデライーデ・ラインリヒャルトと申す者。アディと呼んでいただきたい。どうぞお見知りおきを」
言いながら、アディと名乗った少女は顔にかけた赤縁眼鏡を取り外した。レンズで光が屈折していたせいか、外すまでわからなかった。
本来の潤美は、黒髪黒目である。だが露わになったその双眸は、フッカー・エメラルドのように澄んだ緑色をしていたのだ。
「突然で申し訳ないのだが――」
キララのカシミール・サファイアや、イシュタルのピジョンブラッド・ルビーにも負けず劣らず美しい瞳が、妖しく輝く。
その先など聞くまでもなかった。こいつらの主張など、どうせ決まり切っているのだから。
「――貴殿には、速やかに小生を愛していただく所存である」
ほら見たことか。
夏の太陽が熱く煌めく。不快指数を上昇させる陽光の中、招かれざる客人を前にした夏緒は、生唾を飲み込んだ。暑いはずなのに、背筋に悪寒が走って仕方がない。
「……お前の目的も、キララとイシュタルと同じなのか」
とうとう三人目だ。死期が近くなってくると面倒も増えてくるものなのか。それとも、このアディという奴こそが、自分の死因となるのだろうか。そんなことを頭の隅で考える。
「そうではない。貴殿は早速、勘違いをされているようだ」
やれやれ、と言わんばかりに首を横に振るアディ。その顔は、やはりどう見ても幼馴染みの潤美だった。化けているのか、それとも――
「あの二人の目的は、貴殿に愛されることだ」
「……どこが違う。お前もそう言っただろ」
「違う。小生の目的は――貴殿に【愛させることだ】」
「ッ!?」
身長差が作る遙か下方から、アディの手が蛇のように伸びて夏緒の胸倉を掴んだ。思いがけない強い力に引かれ、夏緒はアディに顔を近づけさせられる。
清澄なエメラルドグリーンの瞳と真っ正面から目が合った。だが透き通った眼の奥に、夏緒は一つの光を見てしまった。それは、
「もう一度言うぞ、澤城夏緒殿。貴殿には、速やかに小生を愛していただく。これは嘆願ではない。【命令】である。もしこれに従わないのであれば――」
そのいっそ純粋すぎるほどの輝きは、
「――この体の持ち主、西浦潤美の命はないものと知れ」
――狂気の光だった。
「何をはっちゃけているんですか」
聞き覚えのある涼やかな声音が耳朶を打った。と思った瞬間には、目の前が真っ白に染まった。
視界が塞がる中、胸倉を掴んでいたアディの手が離れたことがわかる。次いで、周囲を覆った白い煙のようなものが自身の体内に吸い込まれるようにして消えた時、夏緒はそれがキララの放った冷気だった事を悟った。
靄が晴れ、視界が回復する。いつの間に移動したのか、家の中にいたはずのキララが玄関前のアスファルトに立っていた。声から察したとおり、すでに【宇宙人モード】が発動しており、素肌に青く輝く幾何学模様――〈輝紋〉というらしい――が浮かんでいる。
先程まで夏緒の胸倉を掴んでいたはずのアディは、どれほどの素早さを発揮したのか、同じく夏緒から数メートル離れたアスファルトに立ち、キララと対峙していた。
アディは避けきれず端々が白く凍り付いた自身の身体を見回し、無機質な緑の目をキララに向ける。
「これはこれは、キララ殿。いきなりご挨拶な。どういうおつもりか、聞いてもよろしいか?」
「それはこちらの台詞です。どこのどなたかは知りませんが、いきなり何をしてくれているんですか? 話の途中からでしたが、夏緒さんを脅迫していたようですけれど。それに何故、私の名前を?」
一部始終を聞いていたわけではないらしいキララがそう問い質すと、アディは手にしていた眼鏡を改めてかけ直し、
「失礼、申し遅れた。小生、名をアデライーデ・ラインリヒャルトと申す者。アディと呼んでいただきたい」
先程、夏緒に名乗った時とほとんど同じ口上を述べ、しかし丁寧な言い回しの割にはそれに伴う身振りは一切無い。
「アデライーデ――まさか、管理局クラスタの……?」
どうやらキララには聞き覚えのある名前だったらしい。アディは指先で赤縁眼鏡の位置を軽く修正すると、
「お察しの通り。貴殿とイシュタル殿の腰があまりに重く、期日の二週間前になっても結果が出ていないため、こちらから実力行使させていただくことになった。そのことをここに報告させていただこう」
言うと同時に深緑の〈輝紋〉がその輝きを強める。それに対し、キララは声を低め、
「待ちなさい。どういう事ですか。この件については私が全権を持つことはそちらも合意したはず。それを何ですか、現地人の肉体まで奪った上、こちらの邪魔をするとは。いつから管理局クラスタは野蛮人の巣窟になったのですか」
弾劾するキララに、アディは表情だけは変えず、動作だけはさも心外そうに肩を竦めて見せた。夏緒にとっては潤美がそのような仕種をしているように見えるので、強烈な違和感があった。
「これは異な事を。邪魔どころか、これまでずっと補佐していたではないか。貴殿らの傍若無人な振る舞いの後始末を、誰がしてきたと思っているのだ?」
「……?」
何を言っているのかわからない様子のキララに、アディはつまらなさそうにそっと息を吐いた。
「よもや、気付いていなかったと? 周囲の人間の、あなた方に関する記憶を消して回っていたのはこの小生なのだぞ?」
信じがたい愚か者だ。言外にそう言っているのが伝わってくるほど、毒のある語調だった。
ここにイシュタルがいれば「合点がいきましたわ!」などと叫んだかもしれない。だが残念なことに、夏緒もキララも事実を整合させるに足るだけの材料を持ち合わせていなかった。
「――まぁ、致し方あるまい。なにせ一ヶ月以上をかけても、未だ〝ギンヌンガガップ〟からの好意を得られていないどころか、【問題の本質】にすら気付いていないのだからな。しかしこれでより一層、小生が介入する口実が出来たというもの」
この時、アディの感情の起伏を感じさせない口調に、心なしか嬉しげな響きが混じったように夏緒には感じられた。
「重畳、重畳。なにせ小生、この西浦潤美の肉体に【十五年も潜んでいたのだ】。長年の労苦がついに報われようというものである」
「「なっ……!?」」
珍しいことに、夏緒とキララの驚愕の声が重なった。
容易には信じがたい発言だった。彼女の言葉が真実なら、夏緒の物心がついた頃には、既にアディは潤美の中にいたことになる。
キララが、はっ、と顔を強張らせ、
「――あなたまさか、先回りを……!? ということは、管理局クラスタは最初から私を信用していなかったと――!?」
然り、とでも言うように、アディは口の端を少しだけ釣り上げた。
「直接の観察に勝る情報収集は有るまい。小生はいわば保険。貴殿の首尾が上々でない場合は、それまでに蓄積した情報を元に、人類滅亡の危機を救うため動くよう使命を帯びている。これまでも幾度か、行動を起こさせてもらってはいたが」
ちらり、とアディはここで夏緒に視線を向ける。その時、夏緒の中で散らばっていたパズルのピースがぴたりと填った。
ここ最近の潤美の行動。どこかおかしいとは思っていたのだ。何かにつけて家に来ようとしたり、いきなり弁当を作ってきたり。おそらく潤美自身には特別な意図は何もなかったはずだ。アディの言葉から、彼女こそが潤美の無意識に働きかけ、その行動を制御していただろうことは容易に察することが出来る。
その結論に至った瞬間、腹の底に焼け付くような怒りが生まれた。
潤美との間にあった何もかもを台無しにされてしまったような。大切なものに汚れた手で泥を塗られたような、ひどい不快感。咄嗟に言葉に出来ないほど、それは深い衝動だった。
そんな夏緒の激情を知ってか知らずか、アディはキララに視線を戻し、
「しかし、もう待てない。貴殿のやり方はぬるすぎる。時間がないのだ。ここからは全て、小生に任せてもらおう」
「いいえ」
傲慢な申し出を、キララは断固として拒絶する。
「期限まであと二週間あります。例えあなたの言うことが管理者クラスタの総意だったとしても、私はその介入を全身全霊で拒みます。夏緒さんと結ばれるのは、この私なのですから」
平時であれば「何の話だ」と口を挟むところだったが、そんな空気ではなかったし、気分でもなかった。
「そう言うものと思っていた。故に、小生は実力行使に出る」
潤美の姿を持った、しかし潤美ではないその少女は、その身に走る〈輝紋〉の光をさらに強めた。応じるように、小柄な体の白く凍結していた部分が瞬く間に元通りになっていく。次いでその全身から、手で触れそうなほど明確な戦意が迸った。実力行使という言葉に嘘はなく、彼女は言葉通りのことを実行するつもりなのがよくわかった。
もはや我慢の限界だった。
「――いい加減にしろ」
ようやく驚愕から立ち直った夏緒は、遠雷を思わせる声で言い放ち、アディを睨み付けた。その声に振り向き、無感動にこちらの視線を受け止めるアディは、ひどく退屈そうに、
「今は引っ込んでいただきたい、澤城夏緒殿。貴殿の相手は、キララ殿の後なのだ」
「言ってろ」
アディの放言をぴしゃりと叩き落とし、夏緒は有無を言わせぬ歩調で少女に近付いた。
無防備に晒されている小さな肩を、右手で掴む。
それで終わるはずだった。なのに、
「……何か?」
「――。」
何も起こらなかった。〝ギンヌンガガップ〟の力によって、アディという存在を確立させている情報改変の力が消失するものと思っていた。そうして、潤美の中のアディを締め上げ、このふざけた話を終わらせる――そのつもりだった。
しかし、未だ潤美の全身に刻まれた〈輝紋〉は、その輝きを微塵も衰えさせてはいなかった。
「――ああ、もしや、小生の演算力を奪おうとしたのか? 残念であったな。それは小生には通用しない」
夏緒の稚拙とも言うべき思惑をあっさり看破したアディは、ゴミでも落とすように肩に載せられた手を払いのけ――
出し抜けに夏緒の腹に拳をめり込ませた。
「――ぐぇっ……!?」
完全に油断していた。鳩尾に決まったボディブローは否応なく少年に無様な声を漏らさせた。予期していなかった衝撃に、夏緒の膝はあっさり折れた。その場に跪く。
「夏緒さんっ!?」
背後から聞こえるキララの絶叫。〈輝紋〉を発動させている彼女がここまで声を荒げるのも珍しいが、それを気にする余裕などない。込み上げる吐き気を堪えるので精一杯だった。
頭上からアディの声が降ってくる。
「この肉体は、この時代を生きる西浦潤美のもの。小生はその体を通じて〝SEAL〟を行使している故、キララ殿達と違い〝ギンヌンガガップ〟の影響をほとんど受けることはない。無論、完全にというわけではないが。そうでもなければ、この十五年のどこかで貴殿に触れて消滅していたであろうよ。これがどういうことか、おわかりだろうか? つまり――」
アディがゆっくりと右足を後ろに引いた。見え見えの予備動作だ。蹴りが来る。そう分かっていても、夏緒は腹の痛みで動くことが出来なかった。
「小生は物理的に貴殿を攻撃できる、ということだ」
大振りで適当な蹴りだった。側頭部を狙ったものだということはわかっていたので、何とか両腕を上げて防御しようとした。が、潤美の放つ蹴りの威力は並大抵ではない。中身こそ違えど、その肉体が持つ攻撃力は遺憾なく発揮された。
ガードしたはずの両腕が爆発したかと思った。
刹那、信じがたいことに、夏緒は自分の体が宙に浮いていることを知った。上下の区別がつかなくなり、気が付いたらアスファルトの上を滑りながら転がっていた。
「――ぐっ……はっ……!」
なんだこれは。さっきから一撃一撃が重すぎる。〝SEAL〟で潤美の体に働きかけ、筋力を増幅したとでも言うのか。
「夏緒さんッッ!! ――っ、よくもっ……!」
キララが激高する気配。彼女の〈輝紋〉が放つ蒼い光が視界の端に映る。駄目だ、やめろ。咄嗟にそう言おうとしたが、未だに腹にわだかまる苦痛に邪魔されて声が出なかった。
「ほう、いいのかキララ殿? 小生を潰すと、この娘の命も失われるが?」
そうだ。中身は未来人のアデライーデだが、その肉体は他でもない潤美のものなのだ。
「――っ!?」
キララが息を呑む。躊躇が動きに出た。その隙を縫うように、
「とはいえ、今のキララ殿が小生に勝てるわけもないが」
風が吹いた――ような気がした。
気がした、というのは、夏緒が肌で感じたわけではないからである。その情報は視覚と聴覚から来たのだ。
空が急激に曇り、辺りがうっすらと暗くなった。近所の家の周辺に生えている木々が揺れ、ざわめきだした。夏緒は体を起こし、頭を巡らせる。アディと向かい合っているキララのふわふわした金髪と、トレードマークの純白のワンピースが強い風に吹かれているように乱れていた。
アディの起こした風なのだとわかった。情報改変による気象変化だっため、夏緒の触覚では捉えられないのだ。
夏緒の脳裏に、いつかのキララとイシュタルの戦いの光景がよぎった。アディも彼女らと同じ未来の人間だ。戦うとなれば、同スケールのものが再現されるだろう。あんな戦いを地球上で行ったらとんでもない事になる。夏緒は言うことを聞いてくれない肺に渇を入れ、声を絞り出す。
「キッ……ラッ……! ここ……ダメ……だッ……!」
「――はい!」
途切れ途切れの言葉は、幸いなことにその意図を汲み取ってもらえた。
ブレーカーが落ちたかのごとく、周囲の風景が切り替わった。
突然の闇――否、夏緒にとってはもはや三度目の宇宙空間である。いかなる理屈によるものか知らないが、キララが空間をねじ曲げ、アディごと地球から遠く離れた場所へと移動したのだ。
「無駄なことを」
だが、それを歯牙にもかけないアディの呟きが聞こえた刹那。
夏緒は宇宙空間に、巨大な竜巻を見た。
最初、アディのすぐ側に灰色の高層ビルが現れたのかと思った。それほど鴻大な竜巻だった。
夏緒には知る由もないが、それは回転するブラックホールを核とした、プラズマ化した高エネルギー粒子の双極ジェットだった。
アディは最初に自身を〈風精〉と名乗った。彼女がキララの冷気やイシュタルの炎のように、風を扱うというのは考えるまでもない話だった。しかし、アディがいきなり顕現させたこの宇宙トルネードは、【風を操る】などというレベルの物ではなかった。
「言ったはず。キララ殿が小生に勝つ道理はない。それをこれから証明してみせよう」
アディのツインテールが、太陽風ではない【宇宙空間に吹く風】に吹かれて激しく躍っている。猛烈に輝く深緑の〈輝紋〉は、もはや肉体が主なのか、輝きそのものが主なのかわからないほどだ。
アディが無造作に腕を振った。主砲を発射せよと命令を下す艦長のごとく。それでいて、ゴミ捨て場の場所を指差し確認するかのごときぞんざいさで。
それだけで終わった。
キララは最後まで抵抗しようとしていた。蒼い〈輝紋〉はアディのそれに負けないほど輝いていたし、その背中からはいつぞやと同じくドライアイスの翼が生えていた。だが、間に合わなかった。
キララの姿は膨大なエネルギーの奔流に飲み込まれて消えた。
「小生の勝因はわかりきっている。澤城夏緒殿、貴殿のおかげだ」
宇宙空間を滑るように近付いてきたアディは、腹を押さえて踞っている夏緒に、皮肉な内容とは裏腹に恬淡とした調子で言った。
「……なんだと……?」
「小生らは〝SEAL〟によって演算し、現実に情報改変を行っている。その演算力はストックしておけるものだ。しかし、キララ殿の力の残量は、貴殿のおかげでほとんど空だった。貴殿が定期的にキララ殿の力を吸い取ってくれていたおかげで、小生は難無く勝つことが出来た。礼を言おう」
「…………」
返す言葉が無かった。アディの言うとおりだ。夏緒は普段から、何かあるとキララとイシュタルの顔を掴んで、仕置き代わりに力を吸い取ってきた。それがよもや、こんなことになろうとは夢にも思わず。
「さて、本題に戻ろう」
アディの手が伸びて、夏緒は再び胸倉を掴まれた。そのまま引き上げられ、無理矢理に立たされる。女の細腕だというのに、信じられない膂力だった。
「ぐっ……!」
「これでわかっただろう。小生には〝ギンヌンガガップ〟の力は通用せず、またキララ殿も、ここにはいないイシュタル殿も演算力において勝つことは叶わない。つまり、貴殿らにはもう打つ手はない」
「何が言いたい……」
首を締め付ける力に抗いながら夏緒がそう絞り出すと、狂気に彩られた瞳と眼鏡のレンズが、星々の光を反射して絢爛と輝いた。
「従え、と言っているのだよ、〝ギンヌンガガップ〟。先程も言ったであろう。貴殿には、小生を愛していただく。この西浦潤美の肉体共々な」
「断る、と言ったら……?」
悪あがきのつもりで言ったら、腹に膝蹴りが入った。
「うぐっ――!?」
「貴殿は物忘れが激しいのか? 言ったはずである。さもなくば、この娘の命はない、と」
立て続けの腹部への衝撃に、夏緒は激しく咳き込んだ。怒りのあまり思わず拳を握る――が、アディの肉体は潤美のものだ。殴るわけにはいかず、ただ顔を上げて睨み付けるのが関の山だった。
憎悪すら籠もった夏緒の視線を、アディは無感動に見つめ返し、囁くように言う。
「殴れまい。貴殿はそういう男だ。小生は幼き頃よりずっと貴殿を見てきた。貴殿は、言うなれば狼だ。誇り高い、孤高の狼だ。群れることを好まぬが、一度家族と認めた者に対しては決して手を下せない――そういう生き物だ。小生はそれがわかっているからこそ、この娘の中に潜んでいたのだ」
いっそ優しげに言いながら、アディは胸倉を掴んでいた手を離し、夏緒を殴りつけた。
「ぐぁっ……!?」
少年がもんどり打って倒れるのを見ながら、アディは何事も無かったかのように話を続ける。
「だが、その優しさが貴殿の最大の弱点でもある。貴殿には西浦潤美を見捨てるという選択肢は選べない。故に、貴殿は小生をも愛さなければならないのだ」
「――勝手なことを、言うな」
血の滲む口元を押さえながら、夏緒は唸るように言い返した。尻餅をついたまま上体だけを起こし、アディを真っ向から睨み付け、
「さっきから聞いていれば、好き勝手なことばかり。お前が俺の何を見てきたかは知らないが、そんなやり方で俺が言いなりになると本気で思っているのか」
ほう、とアディの唇から息が漏れた。どうやら感心したらしい。それほど、夏緒の眼差しには強い意志が込められていた。
「それでは致し方ない。本来なら極秘事項であるが、貴殿に大切大な事を教えてしんぜよう。澤城夏緒殿――残念ながら、貴殿はこれより二週間後に死ぬ運命にあるのだ」
「それがどうした」
「……なに?」
間髪入れず言い返した夏緒に、流石のアディも驚きを禁じ得なかったようだ。眉根を寄せ、聞き返す声に険が混じった。
「それがどうした。そんなことはとっくに知っている。だからお前は焦って俺の所に来たんだろ?」
想定外のことに動揺したはずである。しかしアディはそれをおくびにも出さず、
「……なるほど、知っていたのか。ならば、ますます理解に苦しむ。貴殿の協力あらば、その運命も変わるのだぞ?」
その台詞に夏緒は俯き、はぁぁぁぁ、と深い深い溜息を吐いた。
本当に、どいつもこいつも。わかっていない。全然わかっていない。まったくもって、これっぽっちも、わかっていない。そういうことではない。そういうことではないのだ。
夏緒は顔を上げ、それこそ牙を剥く狼がごとき獰猛な表情をアディに向けた。
「【嫌なものは嫌だと言っているんだ】」
「――ッ!?」
迫力に押され息を呑んだアディに、夏緒はなおも続ける。
「死ぬからどうした。運命が変わるからどうした。お前ごときが俺を語るな。お前ごときが俺を決めるな。俺の心を決めるのは、他でもない俺自身だ。俺を支配していいのは、誰でもない俺だけだ。お前みたいな奴に屈して、無理矢理に心を変えられるぐらいなら、【死んだ方がまだマシだ】!」
今のアディは、あの時のキララやイシュタルと同じだ。人の心が、簡単に変わるものと思い込んでいる。しかし、そうではない。そうではないのだ。
人は自分の心にだけは嘘をつけない。
強制された愛情など存在し得ない。口先だけで愛を囁いても、それは虚構の殻だ。中身など一ミリグラムもありはしない。
それでもなお、他人の心を力尽くで変えようとするのなら――その行為を人は〝蹂躙〟と呼ぶのだ。
それこそは、人の心に対する最大級の侮辱なのだ。
だから夏緒は折れない。折れてやるわけにはいかない。命が掛かっているのならなおさらだ。
死ぬことが分かっているからこそ、自分の生き様は曲げられないのだ――
星々が煌めく宇宙空間。その中で、夏緒は不可視の地面に手を突いてゆっくりと立ち上がる。
「もう一度言ってやる――」
そして威風堂々、胸を張ってこう宣言した。
「嫌なものは嫌だ! 例え死んでも、俺は俺を曲げない!」
その叫びに、アディの目がわずかに見開かれた。やがて、赤縁に囲まれたエメラルドグリーンの双眸が細められ、花の蕾のような唇から低く押し殺した声が漏れ出す。
「……ならば、この娘の命はいらぬと?」
「殺せるものなら殺してみろ」
「なっ――」
あまりの物言いに、流石のアディも言葉を無くした。絶句するツインテールの少女に、夏緒は鋭い動作で右の人差し指を突き付ける。
「ただし、潤美を殺した時、お前は俺と和解する機会を永遠に喪失するがな」
アディの目的は、あくまで未来における人類滅亡の危機を救うこと。このまま潤美の肉体を滅ぼし、夏緒から『人類憎し』という感情を呼び起こさせてしまうのは、本意ではないはずだ。
つまり、打つ手がないのはあちらも同様なのだ。だからこそ自らの優位性を殊更に強調し、交渉してきていたのだ。
「…………」
沈黙。アディは無言のまま、暗い目で夏緒を見つめている。やおら、潤美の顔を持つ少女は、深く重い溜息を吐いた。
「……貴殿は一つ、勘違いをしているようだ。正確を期すならば、小生らが〝ギンヌンガガップ〟から得る感情は、別段『愛』でなくともかまわないのだ。要は〝ギンヌンガガップ〟が情報存在である人類の存在を認めると――そう心から思えば、それでいいのだ。それはつまり――」
アディは両手を旨の前に上げ、左の掌で右拳を包み込むようにして握り込むと、ゴキゴキと関節を鳴らした。
「――【主従関係】でも別に構わない、ということだ。なに、殺しはしない。貴殿に死なれては元も子もないのでな。ただ、その生意気な口を利いたことを血反吐を吐きながら後悔し、小生に生涯の忠誠を誓うまで痛めつけるだけのこと。覚悟はよいか、澤城夏緒殿……いや、たまさか〝ギンヌンガガップ〟が宿っただけのクソ虫が!」
最後の最後に感情を爆発させ、鉄面皮を貫いていた顔が醜く歪んだ。潤美の顔でそんな汚い面をするな、と言いたかったが、それよりも早く、
瞬間移動したかのごとく、突然アディが目の前に現れた。
「!?」
鳩尾に拳。その一撃だけで肺の空気を全て持って行かれた。声すら出せない。
「……!」
「何を勘違いしたのかは知らんが、貴様こそ〝ギンヌンガガップ〟さえ宿っていなければ今すぐ殺してやるものを。貴様に価値など一片もない。貴様は〝ギンヌンガガップ〟の付着物だ。そのただの付着物風情が、賢しげに口を利くな!」
そして滅多打ちが始まった。夏緒には最初から反撃の意志はなく、彼はサンドバッグになるしかなかった。
激情に駆られたアディが、夏緒を右に左に打ちのめす。最低限の防御行動をとるが、もはや人とは思えぬアディの膂力の前では紙切れ同然だった。
――折れてやるものか。負けてやるものか。絶対に忠誠など誓うものか。お前なんかクソ喰らえだ。
その思いだけが夏緒の支えだった。しかし、人の身には限界があった。
やがて、夏緒は暴力の嵐の中で意識を失った。