●10 日常のアレコレ
というわけで、奇妙な生活が始まった。
夏緒以外の年頃の少年であれば、天国だったかもしれない。
なにせ中身はともかく、キララもイシュタルも絶世の美女と言っても過言ではない容姿をしている。それについては、流石の夏緒も認めざるを得ない。
見た目はいいのだ。見た目は。だが肝心の中身がいかんともしがたいのだ、と夏緒は思う。
彼女らと暮らし始めて、早一週間が経過した。
何とも言えぬ、思ったよりギクシャクした一週間だったように思う。未だに夏緒は『家に帰ったら誰かがいる』という状況に慣れないでいた。
「あ、夏緒さん、おかえりー!」
「……ああ」
学校から帰ってくると、決まってキララが笑顔で出迎えてくれる。いつまで経っても素直に『ただいま』と返すことが出来ない夏緒だったが、キララは気にしていないようだった。
この一週間は、互いを探るような七日間であった。
これといった強い繋がりがあったわけでもなく、突然始まった共同生活だったのだ。仕方ないと言えば仕方がない。
片や夏緒は現代の人間で、宇宙の真理〝ギンヌンガガップ〟を内包する、性格に難のある少年。
片やキララとイシュタルは未来から来た人間で、元来は情報存在として暮らしており、肉体を持った生活をほとんど知らず、何をするにも〝ギンヌンガガップ〟のせいで触れる事は叶わない、近くて遠い生き物。
何が違うかというと、もう何もかもが違いすぎて話にならなかった。
まさか風呂に入る習慣を持っていないとは思わなかった。
「……これはテルマエですわね。も、勿論知っておりますわ。あたくし達の時代には骨董品扱いだったものですけれど、古代においてよく愛されていたと聞いておりますわ。大丈夫ですわ、任せなさいな」
自信満々を装っているのが丸分かりの様子でそう言って、イシュタルは浴槽に身を沈めた。
【服を着たまま】。
「違う。間違っているぞ」
そう指摘すると、隣にいたキララまでもが愕然とした表情をしたので、驚いたのはこっちの方だと言いたくなった。
早々に、互いの常識に冗談では済まされないレベルのズレがあることが判明した。まずはそのズレの修正から始めなければならなかった。
少し考えればわかることだった。そも、二人と暮らすことが決まる前からして、彼女らの行動は常識外れもいいところだったではないか。イシュタルはからっきしだったが、キララは事前にこの世界のことをそれなりに勉強して来たらしい。だが、それとて所詮は付け焼き刃だ。
夏緒は二人に、今を生きている人間であれば当たり前に出来ること、知っていることを入念に教えていった。ただでさえ【未来仕様の〝SEAL〟】というとんでもないものを所有しているのだ。この世界の常識を教えなければ、どんな愚行をしでかすかわかったものではなかった。
風呂の次は買い物だった。
「じゃあ夏緒さん。不肖キララ、買い出しに行って参ります!」
びしっ、と下手くそな敬礼をして、キララはコンビニで夕飯を買うために出て行った。その背中はやる気に満ちあふれていた。
二十分後、項垂れたキララが手ぶらで帰ってきた。
「……ボクのウノマネー、使えないって言われた……」
どうやら自身の〝SEAL〟に登録された電子マネー的なものが使用できると思っていたらしい。金について何も言わずに出て行くものだから、おかしいとは思っていたのだ。
「こうなる気はどこかでしていたが……」
「ううっ……なつおさぁん……はづかしかったよぉぉ……」
涙目で悔しがるキララに、夏緒はサイフを渡した。紙幣と硬貨の違いを教え、買い物の仕方を説明した。
「不肖キララ、りべんじまっちに行って参ります!」
びしびしっ、と両手で敬礼をするキララ。それはもはや敬礼ではなくおもしろポーズだったが、もう夏緒は何も言わずに見送った。
三十分後、満面の笑みで帰ってきたキララが両手に抱えていたのは、ミネラルウォーターやビール、ガムテープやボールペン、トイレットペーパーやルーズリーフなど、見事に食料ではないものばかりだった。
直後、夏緒の指摘によってひまわりのような笑顔が、雨に濡れた犬みたいな悲しみに曇ったのは言うまでもない。
そんな二人の非常識っぷりも、さらに一週間も経れば多少はマシになる。幸い、キララもイシュタルも根っからのバカというわけではない。まるで文化の違う外国に来た旅行者のようなものだ。逆の立場になれば、夏緒だって戸惑いの連続だっただろう。その点、彼女達は順応力の高い方だと言えた。
二人が澤城邸に住み着いて三週目に入った頃、イシュタルが突然、料理をすると言い出した。
「あたくし、思いますのよ。毎日毎日、コンビニのお弁当では栄養が偏りますわ」
夏緒が学校に行っている間、家で何をしているのかと思ったら、そんな事を勉強していたらしい。これには珍しくキララも同意して、
「確かにねぇ……頼みの綱が時々潤美ちゃんが差し入れしてくれるおかずってんじゃねぇ……」
あれ以来、潤美との関係は良好だ。記憶を操作したおかげで、未だにキララとイシュタルのことは彼女にはバレていない。とはいえ、潤美にも女の勘と呼ぶべきものがあるのか、あの日を境に何故か食事の裾分けの頻度が上がった。これまでは一週間に一度あるかないかだったものが、今では二日に一度になっている。潤美が澤城邸に来る度に、キララとイシュタルには別空間へ隠れてもらっていた。
そんな話が出た翌日、夏緒が夏の日差しで汗だくになりながら帰ってくると、何故かキララが玄関の前で待ち構えていた。
「おかえり、夏緒さん」
笑顔で出迎えてくれたキララに、しかし夏緒は硬い声で言う。
「何をしているんだ、お前は。早く家に入れ」
金髪の女の子と一緒に暮らしていることが近所に知られたら、それはそれで事である。だがキララはそんな無愛想な対応にへこたれることなく、むしろ嬉しそうに、えへへ、と笑って、
「あのね、お掃除したんだよ。家の中ぜぇぇんぶピカピカにして、お料理もいっぱい美味しそうなの作ったんだよ!」
どうやら、きちんと前置きをしてからお披露目したかったらしい。どれどれ、と思ってドアノブに手を掛けた、その瞬間だった。
ぱっ、と家がまるごと消えて、目の前に焼け野原が現れた。
「――。」
言葉を失った。あまりのことに呆然としていたら、その焼け野原に時間を巻き戻す魔法がかかったかのように、家が再生を始めた。その速度はとても速く、あっという間に元の澤城邸が蘇る。
「……どういうことだ、これは」
目を向けると、キララは両手で顔を覆っていた。
「おい」
じっと夏緒が見つめていると、彼女はやがてその場に崩れ落ち、よよと泣き伏す。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝るな。どういうことだと聞いているんだ」
問い詰めると、えぐえぐと泣きじゃくりながらキララは事の顛末を話した。
今日は料理を作るということで、キララとイシュタルはスーパーへ買い物に行った。二人とも夏緒からそれなりに金を預かっていたので、それぞれが思い思いの材料を購入し、帰宅した。そしていざ料理を作る段になって、口喧嘩が始まってしまった。
「中華ですわ! 圧倒的な火力で! 当然じゃありませんの! 満漢全席ですわ!」
「和食だよ! ここは日本なんだよ!? 和食が一番! 夏緒さんだって日本人なんだから! お米万歳!」
要は作る料理の方向性の違いで揉めてしまったのだ。
言い合いは時を経るごとに激化していき、最後には力尽くの勝負にまで発展してしまった。その結果、澤城邸は焦土と化してしまったという。幸か不幸か、澤城邸一つが消えた時点で二人は冷静になり、家の修理と近所の住人の記憶操作に奔走したおかげで、騒ぎにはならなかったという。
だが修理したと言っても、それはあくまで情報改変によるものだったため、夏緒が触れた瞬間にキャンセルされてしまった。さらにその後、破壊されたこともキャンセルされて元に戻った、というわけである。
夏緒は頭痛を堪えるような顔で、
「本物のバカか、お前らは」
「ご、ごめんなさいぃぃ……」
「イシュタルはどこだ」
「……わかんない……」
逃げたな。夏緒はそう直感した。
家に入ると、キッチンのテーブルには二人が買ってきたであろう肉やら野菜やら魚やらが、パックされたまま転がっていた。先程の「お料理もいっぱい美味しそうなの作ったんだよ」というのも、情報改変で作ったものだったらしい。
少し考えれば気付けただろうに。まぁ、恐らくはそんなことも思いつけないほどテンパっていたのだろう、と夏緒は推測する。そう推測できる程度には、キララとイシュタルのことがわかってきていた。
ちなみに、掃除についても言わずもがなだった。吹っ飛んで修繕された家の中が綺麗なのは当たり前だ。
とりあえず、一人だけ逃げずに残っていたことは評価できる。キララには口頭で厳重注意をし、イシュタルはこっそり戻ってきたところを捕まえてアイアンクローの刑に処した。
その晩、キララが卵焼き、味噌汁、サバの塩焼き、ホウレン草のおひたしという和食を作ったのだが、その味については「初めてにしてはまぁまぁだな」というのが夏緒の評だった。味よりもむしろ、金髪碧眼の少女が純和食を作ったということがやけにシュールだと思った。
すると、その翌日である。
朝、いつも通りバッグから校章シールを取り出して校門を潜り抜けると、横合いから人の気配。視線を向けた瞬間、見覚えのある長いポニーテールがぴょこんと跳ね、
「おはよう、なつにぃ。はい、これ」
と潤美が両手で弁当箱を差し出してきた。はにかむような笑顔を添えて。
「――は……?」
完全に虚を突かれた。さっぱり訳がわからなかった。夏緒はまるで銃口でも突きつけられたかのように硬直する。
「ん」
受け取ろうとしない夏緒に業を煮やしたのか、潤美が、ずい、と弁当箱を突き出す。
「……ちょっとなつにぃ、早く受け取ってよ……みんな見てるじゃない……」
段々恥ずかしくなってきたのだろう。潤美の頬が赤く染まり、笑顔の成分が蒸発して、囁く小声も怒っているような響きになる。
みんな見てるじゃない、ではない。こんな所でそんな危険なものを取り出したのはお前の方だろう――そうは思ったが夏緒は口に出さず、
「……ああ、うん」
生返事と共に手を出し、慎重にその劇物を受け取る。
やはり、どこからどう見ても、弁当箱である。こんな凶器を受け取って、自分にどうしろと言うのだ。安全ピンを抜いた手榴弾でも渡された方がまだマシだったかもしれない。
銀色のバッグに包まれた弁当箱を手に、夏緒が密かに慄いていると、
「ほ、ほら、なつにぃって一人暮らしでしょ? あたしたまに差し入れしているけど、それじゃやっぱり栄養偏っちゃうかなって思っちゃって――あ、大丈夫大丈夫、いつもお爺ちゃんとお父さんとお兄ちゃんのお弁当作ってるし、一人分増えたって別になんて事ないしっ。ほら、なつにぃってうちの家族みたいなものだしっ別に変なことじゃないでしょ? あっごめんあたし日直だからもう行かなくちゃそれじゃまたね!」
パタパタと忙しなく両手を動かして早口でまくし立てるや否や、長いポニーテールを置いて行くほどの勢いで潤美は走り去って行った。
疾風のごとく遠ざかっていく背中を見送りながら、夏緒は一つの懸念を抱く。
――あいつまさか、あの時のこと憶えているんじゃないだろうな……?
潤美がこの様な行動を取り始めたのは、明らかにあの邂逅からだ。夏緒の気のせいでなければ、潤美の動きはまるでキララやイシュタル達に対抗しているようにも見える。ここ最近のエスカレートぶりを思えば、そうとしか考えられなかった。
しかし、そんなはずはない。そんなはずがないのだ。未来から来た彼女達の記憶操作が確かなのは、今日に至るまで二人の存在が世間に露見していないことからも明らかだ。
そもそも、もし潤美にあの時の記憶が残っているならば『こんなもの』では済まされないはずなのだ。あの時の乱心っぷりといったら、鬼が金棒を捨てて裸足で逃げ出すレベルだったのだから。
――気のせい、だな……
少し葛藤したが、夏緒は己の理性的な判断を支持した。きっと、たまたま絶妙に歯車が噛み合ってしまっただけで、大した意味はないだろう、と。そうして、その疑問を心のホーム上のトラッシュボックスへ放り込んでしまった。
もし本当に潤美の行動が偶然のものだったとしたら、それはそれで、非常に問題のあることだということには気付かずに。
そうこうしている内に夏休みに入った。
結局、終業式の日まで潤美の弁当の差し入れは続き、挙げ句には、
「よかったら、夏休みの間もあたしお弁当作って持っていくよ?」
という非常にありがたい申し出をいただいたのだが、夏緒はそれを丁重に断った。
夏緒とて年頃の高校生だ。毎日、校門の近くで後輩の女生徒から弁当を受け取る場面を他の生徒達に見られるのは、恥ずかしいしストレスが溜まる。また、その事を潤美の兄の敦にからかわれるのは腹が立つし、クラスメイトからの奇妙な視線だって気になる。
ずっと我慢していたのだ。流石に夏休みぐらいは解放されたい。
それに、家に帰って弁当の空箱を洗っている時だけ、キララとイシュタルの目が、妙に冷たいような気がするのだ。
ましてや、潤美が家に来る回数が増えると、それだけあの二人のことに気付かれる確率が上がってしまう。故に、
「潤美。俺も高校生だ。自分のことは自分で出来る。あまり俺に気を遣うな。一人で生活ぐらい出来る」
「ええー? んー……でも、やっぱり心配だし……」
「それは、俺が信用できないってことか?」
「えっ? ち、違うって、そんなことないって! ……うん、わかった。なつにぃのこと、信じる」
「そうしてもらえると俺も助かる」
「あ、でも、何かあったらすぐ言ってね? あたしに出来ることなら、お手伝いしに行くからね?」
「ああ、わかってる」
という会話を以て、どうにか夏休みの間中は潤美の干渉がないよう状況を整えることが出来た。多少、話の持って行き方が卑怯だったことは自覚している。
そんなこんなで、奇妙な共同生活が始まって早くも三週間が過ぎてしまったわけなのだが。
ふと振り返ってみると、驚くほど何も進展していなかった。
「……これは予想外だったなぁ……」
「そう、ですわね……」
キララとイシュタルの声も心なしか暗い。二人の前には湯気を立てるコーヒーカップが二つ。キララのはミルクと砂糖がたっぷり入ったやや温いもの。イシュタルのは一度淹れたものをさらに電子レンジで熱々にしたブラックだ。この二人、見た目もそうだが、趣味嗜好もまるで正反対なのである。
テンションの低い二人とテーブルを挟んで向かい合っている夏緒もまた、ソファに腰を沈めて手ずからのコーヒーを飲んでいた。こちらは少し砂糖を入れた微糖ブラックである。Tシャツとジーンズというラフな格好の少年は、ず、とコーヒーを一口啜り、他人事よろしく、
「……どうにかならないのか」
「それってボク達の台詞だよねっ!?」
当然だが間髪入れずキララが、バン、とテーブルを叩いて抗議の声を上げた。
「なんでかな!? どうしてかな!? もう三週間なんだよ!? 夏緒さんは【どうしてこれっぽっちもボク達のこと好きになってくれてないのかな】!?」
そう真っ正面から問われると、流石の夏緒も返す言葉がない。
別に悪気があってやっているわけではないのだ。
だがキララによると、未だ未来における人類滅亡の危機は去っておらず、ということは今なお夏緒は彼女達に好意を抱いていない――という結論が出るらしい。
「……正直、自分ではよくわからないんだが……そういうことなら、そうなんだろうな」
夏緒としてはそう言う他ない。
言い遅れたが、今は反省会の時間である。
一学期の終業式が終わり、明日から夏休みが始まる。一週間も経てばもう八月だ。それ故、ここらで一度、三人でこれまでの事を振り返ってみよう、という話になったのだが――
「……これだけの期間、同じ屋根の下で暮らしていますのに、全く何の進展もないなんて……思いも寄りませんでしたわ……」
熱くなるキララとは対照的に、ソファの肘掛けにだらっとしなだれかかるイシュタルは、もはや投げ遣りな雰囲気を全身にまとわりつかせていた。深紅の瞳は、ここではない別の時空へ向けられているようである。その態度は、諦めた、というよりは、呆れている、と称した方が正確かもしれない。
夏緒は再び、ず、とコーヒーを飲んでから、
「そうは言うが、それはお前達の責任なんじゃないのか? 肝心のお前達二人が、俺が好意を持たざるを得ない行動をしていないんだろ。もしくは、俺の不評を買うことが多すぎるかのどっちかだ」
するとキララは、はぁぁぁぁ、と重い溜息を吐きながらソファに身を戻し、寂しげな声音で、
「ボク、これでも頑張ってるんだけどなぁ……お料理とかお洗濯とか……」
しかし、その弁には夏緒も言いたいことがあった。
「それなんだがな。確かにお前の料理は最初の頃は悪くなかった。最初の頃は。だがな、最近は調理に慣れてきたのか妙なアレンジを加えるようになっただろ。なんだ、この間の卵焼きは。中にチョコレートを入れる奴があるか」
「そっ、それはっ……! だって甘いものって美味しいでしょ!? 最初はマシュマロにしようかとも思ったんだよ!?」
「それと卵焼きを合わせようという神経が俺には理解できない」
「やってみたら美味しいかもって思ったんだもん! 美味しさへの飽くなき探求の現れなんだもん! ボク悪くないもん!」
「ふふん、所詮は庶民クラスタ出身ですわね、キララさん。貴女の料理は、あたくしの超絶火力中華と比べて今ひとつ――いいえ、今【いつつ】ぐらいもの足りないようですわよ、オーッホッホッ」
「お前のはそれ以前の問題だ」
キララを叩く絶好の機会と見たイシュタルの高笑いを、夏緒の無遠慮な一言が断ち切った。ピタリ、と液体窒素でもぶっかけられたかのようにイシュタルの笑顔が凍り付く。次の瞬間、
「――どっ、どういうことですのっ!? あたくしの料理が不味いとでも!?」
猛然と立ち上がり、今にも口から火を吐かんばかりの勢いで夏緒に食って掛かった。
「だからそれ以前の問題だ。味付けが辛すぎる上に、火力が強すぎて焦げていることも多い。正直、一口食べただけで茶碗一杯の飯が食べられるレベルだぞ、あれは」
「そっ……そんなこと言って貴方、いつも全部食べてくれていたじゃありませんのっ!」
「残したらもったいないだろ」
悪びれもせずに夏緒はそう言った。
合理性。その一言しかない夏緒の台詞に、場の空気が木星の重力のごとく重くなる。
ソファに深く体を沈めたキララが半泣きで、
「ううっ……イシュタルさん、失敗だよ……ボク達のお料理大作戦、盛大に大失敗だよぉぉ……」
たまらずその場にへたり込んだイシュタルは愕然と、
「何てことですの……雑誌に載っていた『男心を掴みたいなら胃袋を掴め!』という記事は嘘だったということですの……!?」
そういえばコイツは暇があれば女性向け雑誌ばかり読んでいたな、と夏緒は思い出す。なにやら受肉した上で、紙というアナログ媒体で写真を見たり文書を読むのが「実に雅やかですわ」らしい。所構わず、ふよふよと空中を浮遊しながら読むのを見かけて、何度か注意したことがあった。
「――というか、作戦だったのか、あれは」
遅れて気付いた。その発想はなかった、と素直に感心してしまう。
「はっ――これですよ、これ。これぞ夏緒さんですよ。あははは」
キララが少しやさぐれている。やけっぱちな笑顔を浮かべ、わざとらしく肩を竦めて――すぐに萎える。
「はぁ……おっかしいなぁ……どうしてこうなるんだろうなぁ……ボク、人と人って一緒の空間にいて、同じ時間を共有したら自然と親愛の情が湧いてくるものだと思ってたんだけど……」
普通なら、そうなのだろう。だが澤城夏緒という人間は、そうではないのだ。
夏緒はあくまでも冷静に、ず、とコーヒーを啜る。
「安易すぎるぞ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるじゃないんだ。もう少しよく考えたらどうだ」
「も、ものすごい勢いで他人事だねぇ、夏緒さん」
ヒクヒクと左目と唇の端を引き攣らせながら、キララが恨めしげに夏緒を睨め付ける。
「ある意味、他人事だからな」
しれっと言い放つと、夏緒は飲み干したマグカップをテーブルに置いて立ち上がった。
「あれ? どこ行くの?」
「部屋に戻る。反省会の続きは二人でやればいい」
「むーっ……夏緒さん、下手の考え休むに似たりって言葉知ってる?」
「自分で言うな。それより、今日の洗い物当番はキララ、お前だったろ。任せたぞ」
「……! うん、任せて!」
言った途端、にこー、と嬉しそうに笑って夏緒を見送るキララ。今の今まで凹んでいたはずなのに、何が彼女を笑顔にさせたのか、夏緒にはわからない。
名前を呼んでもらえて嬉しい、という初歩的な感情の機微すら、少年はまだ理解できなかった。
二階の自室に入った夏緒は、机の上に置いてあった【ソレ】に手を伸ばした。
〝SEAL〟ステッカー。〝SEAL〟の元となる物である。
本の栞サイズの半透明のステッカーを手に取った夏緒は、それをおもむろに剥き出しの左腕に貼り付けた。
皮膚と接触したことを認識した〝SEAL〟ステッカーは、そのまま染みこむように腕の中へ沈み込んでいく。
これは、夏緒のためだけに新開発された新種のステッカーである。終業式の後、学園の研究開発課から受け取った物だ。
通常の〝SEAL〟ステッカーでは、夏緒の体内に〝SEAL〟を定着させる事が出来ない。この新作は、その点に特化して改良を加えた物だったはずなのだが――
「……駄目か」
失意の声がぽつりと漏れる。〝SEAL〟ステッカーが染みこんでいった箇所から、五秒と待たず白い粉が吹き出た。夏緒の体内の細胞と融合し損なった〝SEAL〟ステッカーのなれの果てである。
夏緒はゴミ箱の上で左腕の粉を払い落とし、ウェットティッシュで綺麗に拭った。
やはり、今回も駄目だった。
当然と言えば当然だった。理由はもうわかっている。技術的な問題ではない。キララの言葉を信じるなら、〝ギンヌンガガップ〟である夏緒と〝SEAL〟は、相容れない水と油の関係にあるのだ。
〝SEAL〟は未来の人類が情報存在へ進化するための転換点となる発明。未来の〝ギンヌンガガップ〟は、情報存在である人類を【イレギュラー】と判断して〈正常化〉しようとしている。故に、夏緒の〝ギンヌンガガップ〟は〝SEAL〟を決して受け入れないのだ。
因果関係としては時系列がおかしい気がするのだが、実際にこうして〝SEAL〟が拒絶されてしまうのだから仕方ない。
悔しくないと言えば、自分は大嘘つきになるだろう。夏緒はそう思う。
幼い頃から両親と離れて育った夏緒には、友達と呼べる人間は幼馴染みの敦と潤美しかおらず、生まれついての性格が内向的だったためか、その二人とすら進んで交流しようとはしてこなかった。そんな夏緒の時間の使い道と言えば、もっぱらがコンピュータゲームで、それが長じて情報技術に強い興味を持つようになったのだ。
この自室を見れば一目瞭然であろう。十畳の部屋には所狭しと十枚のディスプレイと八台のPCが詰め込まれており、それらの隙間には三インチから十二インチまでのデジタルガジェットがゴロゴロといくつも転がっている。
だから夏緒は神無学園へ進学したのだ。最先端の技術、〝SEAL〟に触れる事が出来ると思って。
なのに、この様だ。運命を司る女神には皮肉的な表情がよく似合うと聞くが、出来ることならその面を殴ってやりたかった。
だが、残念に思うのと同時に、心のどこかで安堵している自分がいるのを夏緒は感じていた。
実は〝SEAL〟の開発には、夏緒の両親も深く関わっているのだ。彼らの研究する超常現象の一部と、〝SEAL〟に使用されている技術の間にいくつか共通点があるらしい。あらゆる超常について研究をしていた夏緒の両親は、超能力についても調べていたらしく、それ故に人体の脳や細胞についても詳しかった。
――【あいつら】の研究成果が、息子の俺に拒絶される……出来すぎた話だな。
自嘲の影が夏緒の顔を斜めに滑り落ちる。やはり、自分はあの両親とは相容れないのだ。一緒に暮らすべき運命ではなかったのだ――そんな想いが胸によぎった。
だから、これで良かったのだ――とも。
夏緒は自分の右手を見つめた。この手には〝ギンヌンガガップ〟という、未来の〝SEAL〟による情報改変を消してしまう力がある。
どうせなら、〝SEAL〟と共に両親と、自分が二人から産まれてきたという事実さえも消し去ってしまえればよかったのに。
そんな馬鹿な事を考えた。