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●1 空から雪(女)が落ちてきた (★挿絵あり)

★挿絵があります。個人のイメージを大事にされたい方はご注意ください。

(描いてくださった方:不知火昴斗様)

挿絵(By みてみん) 




 夏、真っ盛りである。


 熱線のような日差しが降り注ぎ、蝉の群れが生き急ぐかのごとく一生懸命鳴いている、そんな朝のことだった。


 陽炎の揺らめき立つ土手のアスファルトを歩きながら、澤城夏緒は気怠げに溜息を吐いた。


 暑い。


 とにかく、暑い。


 夏至を迎えてはや二週間。今朝のニュースでも、エアコンの効いたテレビスタジオにいるお天気お姉さんが『今日も昨日に引き続き猛暑日になるでしょう』と素敵な笑顔で言っていた。


 笑い事ではない。


 七月の頭からこんなに暑いのは、例年と比べてもちょっと異常だ。いくら自分が夏生まれで、名前にその一文字が入っているとは言え、熱中症で人がバタバタ倒れていくような季節はやはり歓迎しかねるものだと夏緒は思う。


 網膜が灼けてしまいそうな陽光に顔を顰めて、右肩に食い込む学校指定のバッグを担ぎなおしながら、夏緒は河沿いの土手を足取り重く進む。今にもスニーカーのゴム底が熱で溶け出し、アスファルトにへばりついてしまうような気がした。


 今朝の夏緒はいつもよりも遠回りをしていた。財布の中身が軽くなってきたため、通学路から少し離れたコンビニへ金を下ろしに行っていたのだ。


 両親と離れて暮らしている夏緒には、毎朝弁当を作ってくれる人もいなければ、そんな技能もない。手持ちの金がなければ昼食だって食べられない。それは育ち盛りの高校生にとっては、わりと死活問題なのである。


 この土手を進んだ先にある橋を渡れば、夏緒の通う神無学園がある。二年E組の教室に入れば、そこは冷房の効いた地上の楽園だ。


 そうと知りつつ、しかし急いで走れば余計に暑くなる。無駄に汗を掻くのは好ましくない。左隣を流れる河面の反射光に目を細めながら、速度と消費カロリーの妥協点を探りつつ、学校に着いたら教室へ行く前に下足室横の自販機でジュースでも買おう――と夏緒は心に決める。


 目に映る世界がうっすらと白く染まるほど明るいこんな日には、キンキンに冷えたサイダーなんかが打って付けだろうか。


 その味と喉越しを想像して、思わず生唾を飲み込む。急がないようにと思っているのに、我知らず夏緒の歩調が速まる。


 そんな時だった。


 いきなり、周囲の空気がガラリと変わったような、ひどい違和感を覚えた。


「――――」


 直後、ものすごく嫌な予感が胸でぎゅるぎゅると渦を巻いた。


 何の前触れもない、しかし強すぎる胸騒ぎに、夏緒は思わず足を止めた。たまらず立ち止まってしまうほど、その感覚は確信的なものだった。


「……?」


 けれど、理由が分からない。とんでもなく嫌な感じがするのに、その原因が判然としないのだ。


 夏緒は辺りを見回した。右手側には住宅街。色取り取りの屋根が見えるが、おかしな物は何もない。左手側には、この街を西と東に分断する幅十数メートルの河川。別段、不審な点は見られない。今、夏緒が歩いている土手は、それら住宅街や河よりも高い位置にある。前方はもちろん、振り返って後方も確認するが、アスファルト上には妙な物は見つからない。


 気のせいだったのだろうか。


 そう思った瞬間だった。


「――ぁぁぁぁ――」


 そんな声が蝉の鳴き声に混ざって、微かに耳に届いている事に気付いた。遠い声だ。悲鳴のようにも聞こえるその響きに、夏緒はぎくりとする。改めて周囲を見回すが、声の発生源は見当たらない。


「――ぁぁぁぁぁぁ――!」


 声が近付いてきている。ゆっくりではなく、確かな速度で。それはわかるが、しかし、どの方向からなのかがわからない。訳も分からず、焦る。


「――ぁぁぁあああああ――!」


 声がさらに近付いてきた。もうかなり近い。そこでようやくわかったのは、声が頭上から落ちてきているということ。


 弾かれたように空を見上げた。そして、見た。夏緒は信じられないものを目にしてしまった。


「!?」


 人だ。


 雲一つ無い抜けるような青空を背景に、飛行機に乗っているわけでも宙に吊られているわけでもなく、人影が空中を舞っていた。否、金色の髪を持ち白い服を着ているらしきその人影は、空中で体を大の字に開き、なんとこちらへ向かって落ちてきていたのだ。一瞬スカイダイビングかと思ったが、恐るべき事にパラシュートらしき輪郭は見当たらなかった。


「。」


 意味が分からなかった。問答無用すぎる出来事に夏緒は口を開いて唖然とする。


 夏緒の思考回路が空白になった刹那――


「――ああああああああ!」


 ずどん、とものすごい音を立てて、【それ】は夏緒の眼前に落下した。足元が震え、ビシッ、とアスファルトに卵の殻のような罅が走る。激突の衝撃で、埃や細かな砂がぶわっと一瞬だけ浮き上がった。


 そして――唐突に静寂が訪れた。


 周囲の蝉たちまでもが黙りこくり、空気が、しん、と静まり返った。ただ、太陽の白い光だけが夏緒の髪や肌をちりちりと焼いていた。


 夏緒は、まだ空を見上げていた。落ちてきた【それ】を直視するには、少なくない量の勇気と覚悟が必要だった。勇気を溜めるようにゆっくり深く息を吸い、諦めを追い出すかのごとく夏空に向かって大きく吐く。ふぅぅぅ、という呼気と共に、じっくり覚悟を決める。


 夏緒は慎重に視線を下げ、やがて前方三メートルほどの位置に落ちてきた【それ】を凝視した。


 ごくり、と我知らず喉を鳴らす。


 ひび割れた土手のアスファルトに、真っ白なワンピースを着た金髪の少女が、大の字に倒れていた。どうやら外国人らしく、癖のある長い髪が陽光を受け、目にも鮮やかな黄金色に輝いている。ワンピースの袖や裾からのぞく素肌は、まるで雪のように白い。うつ伏せになっているため、顔は確認できない。


 色合いとしては、それだけ。予想に反して、鮮血の赤はそこにはなかった。


「ぅぅ……ん……」


 くぐもった呻き声。驚くべきことに、彼女は生きているようだった。夏緒の感覚が狂っていなければ、かなりの高さから落ちてきたはずなのに。普通なら、五体がバラバラになって赤黒いグロテスクなモノが飛び散っていていてもおかしくないのに。


 わけがわからない。


「…………」


 異常事態。夏緒はそう表現するしかないモノから目を逸らすように、再び空を仰いだ。


 夏の太陽は変わらず燦々と輝いている。その陽光がどこか白々しく感じるのは、単に夏緒の気分の問題だけだろうか。


 ところで、夏緒はよく周囲から『ひねくれ者』といわれる。主にそういった評価をよこすのはクラスメイトや担任の教師、幼馴染みのあつし潤美うるみだったりするのだが、当の夏緒にも一応の自覚はあったりする。


 こんな時、他の奴ならもっと別の対応をするんだろうな――夏緒はそう思う。


 普通なら、今すぐにでも駆け寄って『大丈夫ですか!?』なんて声をかけるのだろう。あるいは、警察や救急車を呼んだりするのかもしれない。


 けれども、夏緒はそうしようとは思わない。そうしたいとも思わない。


 警戒心のない人間は、ある日突然、何者かに背中を刺されて死んでも仕方ない――と夏緒は考えるのである。


「――――」


 再度、目線を下げて少女の様子を観察する。


 なんだかよくわからないが、とりあえず生きてはいるらしい。見たところ、怪我もしていないようだ。えらく高い所から落ちてきたような気もするが、きっと目の錯覚だったのだろう。それもそうだ。あんな高い所から落ちたら、普通は死ぬ。けど、彼女は死んでいない。ということは、彼女は高い位置から落下してきたわけではない、ということになる。実に簡単な理屈だ。


 不意に金髪頭が、もぞり、と動いた。


「……ぅうぅん……もう食べられない……むにゃむにゃ……」


 どうやら寝言を言う元気まであるらしい。


 よし、無視しよう。


 夏緒はあっさり決意した。


 介護しなくても大丈夫そうだから、という以外にも決断の理由はある。なにやら夏緒の直感が告げているのだ。


〝こいつはヤバイ〟と。


 お近づきになった日には間違いなく面倒なことになる。関わったら最後、こいつは背後霊のごとく自分につきまとい、自分の魂をあの世に持って行こうとするかもしれない。


 ――そもそもこの娘、なんで空から落ちてきたんだ?


 あやしい、と評するレベルを遥かに超えていた。


「…………」


 夏緒は無言のまま右肩のバッグを担ぎ直し、歩き出した。倒れている少女を遠巻きに避け、その左横を素通りする。


 視線の先に河を渡る橋が見える。あの橋を越えて学校についたら、指先が痛くなるほど冷えたサイダーを飲むことにしよう。もしかしたら今さっき見たのは幻かもしれない。夏の暑さで頭がやられたのかもしれない。下足室の近くの自販機はぬるいからダメだ。少し遠いが学食の近くの自販機の方がよく冷えている。そっちのを飲めば、きっと頭だって冷えるだろう――


 背後から、がばっ、と音が聞こえ、同時に大きな声が夏緒の背中に叩き付けられた。


「――ちょっ、ちょっとちょっとちょっとぉっ!? 無視なの!? ねぇ!? 無視なの!?」


 夏緒は振り返らずに即答した。


「俺は何も見ていない」


 抑揚のない口調で言い放ち、決して立ち止まらない。歩き続ける。


「いやおかしいよね!? それおかしいよね!? 今の見たよねボク空から落ちてきたよね!? これ以上ないってぐらいド派手にさ! それ無視するかな普通!?」


 夏緒は決して足を止めない。


「俺は何も聞いてない」


「ひ、ひどいっ! ひどすぎるっ! せっかくここまで体張ったのに! っていうか普通あの高さから人が落ちてきたら『大丈夫ですか!?』とか聞かない!? 救急車呼んだりしない!? 無視するなんて冷た過ぎないっ!?」


「俺は何も知らない」


 夏緒は徹底的に声を遮断した。


 第一、それだけ大声で叫べるのだから大丈夫もクソもないだろう。


 歩調を上げ、足早に土手を行く。背後で少女がさらに声を上げているが、絶対に振り向くまいと心に決める。振り返ったら負けだ。振り返ったらその瞬間、自分がこれまで信じてきた世界が崩壊してしまう。自身でも根拠がよくわからないままそう思い、焦りにも似た感情が胸骨の内側をジリジリと焼き焦がす。


 だって――そうだ。あの高さから落ちてピンピンしている。いや、その姿は目にしていないから実際にピンピンしているかどうかはわからない。わからないが、とりあえず声は無駄に元気だ。


 突然の出来事。有り得ない結果。いっそ少女が地面に落ちた瞬間、真っ赤に弾け飛んでくれていれば、この事は日常ではなかったにせよ異常ではなかっただろう。せいぜいその場で胃液を嘔吐し、一生忘れられず、時々思い出しては吐き気を催す程度で済んだはずだ。


 ――なのに、何でだ。何で、あんなに元気なんだ。


 自分で自分を騙すのにも限界があった。そうだ。彼女の言ったとおりだ。夏緒の理性は、それを認めざるを得ない。


 あんな高さから落ちてきたら普通、死ぬ。


 ――有り得ない。何で生きてるんだ。


 信じられなかった。伝説のツチノコを見たってこんな気持ちにはならなかっただろう。今なら幸せのツボを売りつける怪しい宗教家の言葉の方がまだ信じられた。


 夏緒に足を止める気は一切無かった。しかし、次なる少女の言葉はその意志を覆すほどの威力を秘めていた。


「んもおおーっ! いい加減ちょっとぐらい待ってくれたっていいんじゃないかなっ!? 【澤城夏緒さん】ってばっ!」


 彼女は、夏緒の名前を呼んだのだ。


「――!」


 たまらず立ち止まって勢いよく振り返ってしまった。


 思い返せばこの瞬間、夏緒の日常は音を立てて崩れてしまったのだろう。


 こよないほど、完全に。


 絶対的に。


 完膚無きまでに。


 焼けつく日差しの中、とうとう夏緒は少女と真っ正面から対峙した。


 陽光を照り返し、まるでそれ自体が輝いているようにも見える、ふわりとした純白のワンピース。腰まで届く癖のある金髪は、よく熟れたオレンジみたく瑞々しい。どこか少年っぽさを残す四肢はすらりとしていて、素肌は陶器のごとく真白い。


 そして、夏緒を視線で真っ直ぐ射貫くその瞳は、カシミール・サファイアにも似たコーンフラワーブルーだった。


 名も知らぬ少女は背筋を伸ばし、何故か夏緒に向けて右の人差し指を突き出していた。『ビシッ』と音が聞こえてきそうな体勢でしかし、はぁはぁ、と肩で息をしている。大きな声を張り上げ過ぎたせいか、若干頬が朱に染まっていた。


「…………」


 夏緒は訝しげに眉を寄せた。確かめなければならない疑問があった。


 ――どうして俺の名前を知ってるんだ。


 初対面のはずだ。こちらは彼女の名前どころか、顔を見た記憶すらない。一度でも面識があるのなら、こんなに派手な女の子を忘れるはずないのに。


 夏緒がその疑念を口にしようとした瞬間、金髪碧眼の少女が安堵したように、にぱっ、と笑った。いきなりの表情の変化に面食らって、夏緒は唇を開くタイミングを逸す。その隙を突くように、少女が調子よく喋り出した。


「あーよかったぁぁぁ、やっと振り向いてくれた! まったくもう、話に聞いてたとおり本当に冷淡な人なんだねキミは。ビックリしちゃったよボク――あ、違うね、それどころじゃないね。うん、初めまして! ボク、キララです。名前、キララって言います。よろしくお願い――あっそうだ、名刺あったんだっけ」


 気安く、にへっ、と笑いながら適当な敬礼をして自己紹介した少女は、わたわたとワンピースのポケットを探る。そうしながら、立ち止まっている夏緒の近くへ小走りで駆け寄ってくる。


 ポケットから一枚の紙切れを取り出した頃には、もう彼我の距離は彼女の長い睫毛が見て取れるほどになっていた。


 キララと名乗った少女はその紙切れを両手で持ち、夏緒に向かって差し出した。にっこりと笑って、


「はい、これ。ボクの名刺だよ♪」


「…………」


 夏緒は無言のまま、怪訝そうな目付きでその名刺を受け取り、さっと一瞥する。


 白地に水色の文字がプリントされたすっきりしたデザインのそれには、住所や電話番号などは記されておらず、ただ『煌羅』という彼女の名前らしき文字列と、その肩書きが書いてあった。


 夏緒は肩書きの部分を二度見した。そこには、こう書いてあったのだ。


〝雪女〟


 夏緒は名刺に向けていた視線を上げ、少女の顔を見つめた。


 再び夏緒と目が合うと、少女はとても嬉しそうに、向日葵のような極上の笑顔を浮かべた。


挿絵(By みてみん)


「改めまして、ボクの名前はキララ。こっちで言う所の〝雪女〟だよっ」


 ものすごいドヤ顔で右手を胸に当て、エヘンと体を反らす。


 その頭上では、真夏の太陽が熱線のごとき陽光を地上に降り注いでいた。


「――。」


 この真夏の炎天下に、よりにもよって〝雪女〟である。


 もはや夏緒に迷う理由はなかった。少年は思ったとおりに行動した。


「さようなら」


 氷塊を擦れ合わせたような声で言い放ち、迷い無く右手で風を切り、名刺を河に向かって投げ捨てた。


 キララはドヤ顔のまま名刺の行く末を視線で追った。


 ナイフのように空を切って飛んだ名刺は、真っ直ぐ河面に突き刺さった。ぴちゃりと水が跳ね、一度は沈んだ名刺がぷかりと浮かび上がると、そのまま流れに乗って河下の方へと流れていく。


 二秒ほどの空白。じーわじわじわじわじわぁぁぁ、とどこかのセミが遠慮がちに鳴くのを再開した。


「…………うわあああぁぁーっ!? な、なんてことを!? アレでも一生懸命つくったのにぃぃぃぃ!」


 一瞬どころか二秒以上も遅れて驚愕の声を上げるキララ。夏緒はそんな少女に北極の風のごとき一瞥をくれると、全てを断ち切るように背を向けた。


「もうついてくるなよ」


 それだけ言い残して夏緒は歩き去る。


 気持ち足早に歩きつつ数秒ほど様子を見たが、自称〝雪女〟が追いすがってくる気配はない。流石に懲りたのであろう。他の人間ならともかく、澤城夏緒にはああいう類の冗談が通じないことがようやくわかったらしい。


 少し安堵し、それにしても変な女の子だったな、と思ったその時だった。


「なんでさぁ――――――――ッッッ!!!」


 いきなり凄まじい絶叫が背中をぶち抜いた。


「ッ!?」


 後頭部から両手の指先までビリビリくるような大音声に思わず硬直した。その瞬間、


「んもおおぉぉこうなったらっ!」


「!?」


 突如、背後から両肩を掴まれて強制的に振り返らされた。勢いよく一八〇度回転させられて白黒した視界が、不意に真っ黄色に染まる。そしてそのまま猛然と胸倉を掴まれ、




 唇に、柔らかい感触。




 次いで、ガチッ、と歯に硬いモノがぶつかった。


「――つッ!」


 痛みに顔を顰めて身を仰け反らす。


 そうしてから、ようやく気付いた。


 目を見開き、慌てて右手で口元を抑える。


 ――なんだ今の……? もしかして……キスされた……のか……!?


 大きく背を反らした夏緒の目に映るのは、こちらの胸倉を掴んだまま、同じく痛そうに涙目になっている金髪の女の子。


 正直、一瞬のことだったのでよくわからない。が、唇に触れた感触といい、前歯に生じた衝撃といい、どう考えてもそうとしか思えなかった。


 つまり――無理矢理キスされて、余った勢いで自分の歯と彼女の歯がぶつかり合ったのだ。


 可愛い女の子にキスされたという嬉しいような恥ずかしいような微妙な感情と、初対面の人間にいきなりこんな事をする不躾な行為に、カッと音を立てて頭に血が上った。


「お前ッ――!」


「はにゃぁん……」


 怒鳴りつけてやろうとした、その直後だった。変なタイミングでキララの顔が、【とろん】とふやけた。


「……は?」


 首に麻酔針でも撃ち込まれたみたいな、唐突な脱力。夏緒の視界にあった日本人離れした面貌が、すっと下へ落ちた。夏緒の胸倉を微かな力で掴んだまま、キララの体がズルズルと足元へと崩れ落ちる。結果的に、まるで痴話喧嘩の果てに女が男に縋り付いているかのような形が出来上がった。


「きょ、きょりは、しゅほい……ほれは、ひょんほにょにょ、ひんぬんははっふ……」


 酩酊しているかの如き舌足らずの声で、キララが何事かを呟くが、夏緒には何を言っているのかさっぱりだった。


 いきなり何だ。本気で全く意味が分からない。というか、わかりたくもない。


「……いい加減にしてくれ」


 怒りを押し殺した声で言って、シャツの喉元に絡むキララの両手首を掴み、ぞんざいに振り払った。


 それで、ちょっと予想外な事が起こった。


「うにゃぁぁぁ……」


 力がまったく入ってなかった細い両腕は振り払われるまま宙を躍り、夏緒から見て河側に向かってパタリと倒れた。


 同様に、金髪頭もコテリと河側に向かって転がった。


 そして、頭が転がった先はもう土手の斜面だった。


「あにゃ……?」


 現状を全く理解できていない声がこぼれて、重力と力点と支点と作用点が、物理法則に則っていつも通りの仕事をした。


 人体は頭部が特に重い。横に倒れることによって土手のアスファルトからはみ出したキララの頭部はそのまま重りの役目を果たし、テコの原理でもってその体は緑の斜面へと投げ出されたのである。


 草の茂った傾斜を、白いワンピースの女の子がフィギュアスケートの選手のごとくゴロゴロと転げ落ちていく。


「――にゃあああああああぁぁぁぁぁぁ!?!?」


 美しくない悲鳴が夏緒の耳を劈きながら、あっと言う間に遠ざかっていった。


「ふん」


 夏緒は無感動なまま、その行く末を見届けることなく踵を返し、改めて学校へ向かって歩き出した。


 何だかよく知らないが、ざまあみろ。わけのわからないことをするからだ。当然の報いだ。


 どぼん、と河の方から水っぽい音が生まれて、餅のように間延びしていたキララの悲鳴がプツンと途切れた。


 ちょうどいい。水にでも浸かってちょっと頭を冷やせばいいのだ。夏の河で、しかも自称〝雪女〟だ。風邪を引くこともあるまい。


 学校についたら冷たいサイダーよりも何よりもまず、口を洗う。


 そう固く決意して、夏緒は足を速めた。



 ●




 澤城夏緒が神無学園へ続く橋を渡り終え、その姿が見えなくなった頃。


 突如、その場にクリスタルグラスの砕けるような清澄な音が響き渡った。


 河川の水が一瞬にして真っ白に凍り付いた音だ。急激な温度変化に白いモヤが大量に発生する。


 時間を停止させたかのごとく綺麗に氷結した河のど真ん中から、パキパキと音を立てて、まるで超高速で成長する樹木よろしく氷の彫刻が生えてきた。出来上がった歪な氷細工が、夏の日差しを受けて不気味に煌めく。


 そんな刺々しい氷塊が、いきなり内側から爆発するように砕け散った。


 中から現れたのは、つい先刻まで夏緒に絡んでいた白いワンピースの少女、キララである。


 しかし、先程とはまるで様子が違う。純度の高い氷のように絢爛と輝いていたサファイアブルーの瞳は、今は吹雪が吹き荒れる雪原のごとく薄く曇っている。


 さらに異常なのは、体表を縦横無尽に走る幾何学的な青い光の線であった。金色の前髪の向こうに隠れ見える額から、細くて白い指先、ミュールサンダルに包まれた足の爪先までびっしりとその模様は描かれ、どこか有機的に光を瞬かせている。


 少女は、もはや夏緒の姿のない橋を無表情に見上げ、


「あれが澤城夏緒さん……【ギンヌンガガップ】」


 これもまた別人のような抑揚のない声で呟き、白い息を吐く。


「きっと、私のものに」


 小さいながらも確信の籠もった語調で囁き、きゅっと唇を引き締めた。


 不意に強い風が吹き、周囲に漂う真っ白なモヤを大きく巻き上げた。キララの姿もその中に紛れて隠れてしまう。


 吹き荒らされたモヤが綺麗にはれた時、そこにはもう芸術的に凍り付いた河川だけが残り、金髪の少女の姿はどこにもなかった。



挿絵(By みてみん)

 

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