ケサランパサラン
ケサランパサラン。
白い毛玉のような物体で、空中をフラフラと飛んでいると言われる。
穴の開いた桐の箱の中でおしろいを与えることで飼育でき、増殖したり持ち主に幸運を呼んだりするといわれている。
風がひときわ強く吹いた。
枯れた葉が舞い、髪がおもいきり乱れ、私はスカートの裾を軽く押さえる。
パラパラと風に流されていく葉のなかにふと、白いわたげのようなものが交じっていることに気がついた。
ウサギのしっぽくらいの大きさのそれは、日光に照らされ、時折刺すようにきらりと光る。サイズさえもっと小さければ、何かの植物のわたげなんだとすんなり思うことができたのだろうが、私にはそれがわたげというよりもわたぼこりに思えてしまった。
――この街、汚れてる。
遊歩道をぬけるとがらんとした空間に出る。この公園の中央広場だ。
私は隅に設置されているベンチの一つに腰を掛けた。鞄からお気に入りの作家の本を取り出すと表紙のカバーの絵を軽く指でなぞる。
――ああ、違うのかな。
汚れているのはこの街ではなく、白光するわたぼこりを見て『汚れてる』と勝手に認識してしまう私の方か。
深く息を吐くと、白いもやがふわっと広がる。人がまばらにしかいない公園のベンチに一人。挟んだしおりを探しながら、こんな風に読書でもしていれば誰かと待ち合わせでもしているように見えるのだろうか、などと思考をめぐらす。
空が広がりと深みのあるブルーに染まっていた。おかげでこんなに日が照っているのに、かなり寒々しい。この青空が、乾燥しきっている空気と切れるくらいに冷たい風を強調してしまっているのだ。
早々に手がかじかんでくる。
風が我が子をあやすように鳴き、枯葉がぱさぱさと落ちてくる。風に吹かれた白く大きいわたぼこりが私の頬にまとわりついてきた。うっとおしいので軽く手で払い、ついでにマフラーの位置を直す。
――手、痛い。
首筋や膝が寒いのならマフラーや膝掛けを使えばいい。しかし本を読んでいるため、どんなに手がかじかんでも手袋を使うわけにはいかなかった。ページを上手くめくれなくなってしまうからだ。
手に息を吹きかけていると、さっき払ったばかりなのにまたわたぼこりが頬に触れてくる。あまりにもうっとおしくて、思わず鷲づかみにすると、それはほんのり温かかった。
訝しく思い、まじまじと手の中にあるものを見る。わたぼこりと目が合った、ような気がした。
――馬鹿馬鹿しい。
ただのわたぼこりと目が合うだなんて。
わたぼこりは私の手の中でキョトンとしているようにも見える。いやいや、キョトンも何もない。あるわけがない。
私は手の中のわたぼこりを放った。ふわっと空中に舞い、風に吹かれて飛んでゆく。
私は本を閉じ鞄にしまう。予想以上の寒さと、うっとおしいわたぼこりに根負けしてしまったのだ。どこかゆっくりとくつろげる店に入って熱いコーヒーを飲もう。そこで読書をしよう。溜息一つして私は立ち上がった。
**********
犬が飼いたい、と言ったのは私だ。ちゃんと面倒見るから、散歩は私がするから、と確かに言った。そうです、言いましたとも。だってそう言う以外ないじゃないですか。思わず拾ってきてしまった子犬を、あったところに戻してきなさいと怒鳴られ、どうして必死になって守らないでいられましょう?
早朝、えーえむ四時半。私はまだ真新しさの残る犬用リードを握り、子犬と歩け歩け時々走れ大会を催していた。
わんわんわん、ああはいはいお散歩うれしいね。
あくびをかみころしつつふるえながら、はしゃぐ子犬と歩く。多少は仕方ないとは思うけど、こんな朝っぱらからきゃんきゃん吠えさせていいのかな…。
ラッキー、と呼びかけてみる。それが自分のことだと理解していないらしく子犬は私を完全に無視し吠え続ける。
――くそう…なにがラッキー(幸運)だ。
まるでラッキーが呼び寄せたかのように風が強く吹いた。ジャージを貫いて冷たい風が私の身体に突き刺さる。
「寒いんですけどぉー」ともらす私。
ワウンキュウウー、となぜかわめくラッキー。
「なによー、あんたのためにわざわざ散歩してやってんでしょー? 何か文句あるわけぇ?」
「クーン」
ラッキーが立ち止まり、振り向いて私を見上げた。くそう、かわいいぞ、お前。
朝日が空を照らしはじめた。冷たい風に乗って白光するわたぼこりが一つ、飛んでいった。
**********
わたぼこりってどうしてこんなに気になるんだろう。
冬の廊下はひんやりとしていて、お掃除の時間は特に寒い。でも私はほうきの係りだからまだまし。ぞうきんの係りの人は大変だ。手がじんと溶けだしてしまうくらいに冷たい水でぞうきんをぬらし、しぼり、お掃除が終わったら今度はそれをきれいにすすがなくてはならない。
私がほうきでほこりを掃く。するとその掃いたところだけをぞうきんの係りの三人が拭いてゆく。
廊下に這いつくばってもくもくとぞうきんを動かす三人の、小さく震える唇からは弱々しい声が漏れている。小さな訴えを含んだ声は、冷たい空気の中にふわりと浮かんでは消えてゆく。
手が赤いよ。痛い。まだ終わんないよ。はやく、はやくしようよ。はやく終えてしまおうよ――。
「あっ」
ひとかたまりになっていたわたぼこりがふわっと宙に舞った。雑に掃きすぎたのだろうか?
ぞうきんの係りの人たちはみんな廊下に立てひざになっていて、舞うわたぼこりをぼんやりと眺めている。みんな寒すぎてぼうっとしているようだった。
**********
コーヒーがまずいと泣きたくなる。
これだったらコーヒーじゃなくてただのお湯を飲んだほうがまだましだ。
――それとも、椅子かまあり、屋根があり、暖房が入っているというだけで満足するべきなの?
ため息を吐く。吐き出した息は特に白くなることもなく、私を取り巻く空気の中に溶け込んでいった。
本の続きを読もうと鞄を開く。するとふわりとわたぼこりが飛び出してきた。わたぼこりは私を見てうれしそうに笑った、ように見えた。
――さっきの…。
さっきのわたぼこ…いや違う。そんなわけがない。
無意識にコーヒーを一口すする。まずい。
「このコーヒー、もっとおいしければいいのに」
何かを取り繕うように、でも何も取り繕えずに、少し錯乱しながら言葉をもらす。と。
いきなり雷鳴が響いた。驚いて窓の外を眺め、大雨が降りだしたのを見て、舌打ち。
――雨具なんて持ってないのに。
今日何度目かのため息を吐き、今度こそ鞄から本を取り出す。
――もういいや。雨が止むまで読書をしてやり過ごそう。
どうせにわか雨だろうし。気を取り直してコーヒーに口をつける。
「ん?」
いつの間にやらわたぼこりはいなくなってしまった。でも、いつの間にやらわたぼこりのことなどすっかり忘れてしまった私は、突然美味しく感じられたコーヒーに首を捻りつつ、手にした本のカバーをにらみつけた。
**********
ラッキーが外を見て切なげな声を出した。
「しょーがないでしょー?雨降ってんだから」
窓際に座るラッキーの隣に私も腰を下ろす。
ただでさえ寒いのに、窓際…しかも今日のように雨降りの日の窓際はかなり冷える。
「さっむー。あんた、よく平気だよね?その毛皮のせいなの?」
キュウン?ラッキーがつぶらな瞳でキョトンと私を見上げた。
くっそー。どうしてこいつ、こんなに上手に首を傾げることができるんだ!
「お前ほんっとかわいいなあ、このこのっ」
両手でラッキーの顔をもみくちゃにする。喜んでいるのか、うっとうしがっているのか。ラッキーはキュウンキュウンと喚いている。
「そんなに散歩したいの?残念だけど、雨降ってるから、きょーはむーりーなーのっ」
「キュウウ、ワウ、キューンキュウ」
ラッキーの背中の辺りからするりとわたぼこりのようなものが舞った。毛玉かな、と思い右手でパシッと掴む。ティッシュにくるんで捨てようと、開いた手の中には何もない。
「あれ?」
掴み損ねたかな、と首を傾げるとラッキーも一緒になってキュウン?と首を傾げる。それからふいと外を見て、かなりうれしそうにしっぽを振ってワンと吠えるラッキー君。
日光が窓から差し込んできた。誰も頼んでないのに照明のつまみをくいっと回したときのように、ふわっと部屋が明るくなる。
**********
「雨、降らないかな」
一番右端のぞうきんの係りの人が言った。
「あー、次の授業の体育、外かぁ」
一番左端のぞうきんの係りの人が言った。
「でも、すっごい晴れてるよ」
真ん中のぞうきんの係りの人が言った。
テルテルボーズ逆さにつるす? 間に合わないよ。
先生逆さにつるす? 誰がするの?
大きなわたぼこりが、小さく開いた窓から外へ飛んでゆく。
「はやく掃除しちゃおうよ」
私はわたぼこりを見ながら言った。ぞうきんの係りの三人も風に吹かれるわたぼこりをぼんやりと眺める。
そうだねそうしよう、手が赤いよ、痛い本当に痛いよなどと口々に言い、掃除を再開した。
ウサギのしっぽくらいの、白いわたげのようなものが、校内に植えてあるびわの木にひっかかっている。嫌味なくらいきれいに晴れている空の下、嫌味にしか見えない上下長袖のジャージを着た先生の指示で整列する私たち。びわの木のわたげもどきを見るともなしに見ながら、テルテルボーズの逆さづりくらいならやっておいてもよかったかもしれない、などと後悔する。
先生つるし上げられた?誰に?奥さんかな?
話し声に振り向くと、さっきのぞうきんの係りの三人だった。まだ赤くなっている手に白い息を吹きかけながら楽しげに話している。
半そで半ずぼんの体操着姿で震えつつ、先生の指示に従って体操隊形に広がった。おでこにバンソウコーをはった先生が笛をくわえる。