36音目 本物の鋼鉄
ドイツ・ワッケン。人口2,000人の村を飲み込む8万人のメタラーと、数え切れないほどの巨大ステージ。
Fractal LilyとJUPITERのメンバーを待ち受けていたのは、歓迎の言葉ではなく、
膝まで埋まる漆黒の泥と、身体の芯まで凍えさせる北ドイツの冷気だった。
「……これが、ワッケン……」
ユキは震える手でカメラを回す。
視界を遮るほどの巨大なメインステージ『Faster & Harder』からは、数キロ先まで届く凄まじい低音が地鳴りのように響いている。
アゼリアが用意した煌びやかなスタジオや、日本の整ったライブハウスが、まるで子供の箱庭に思えるほどの「暴力的なまでのスケール」がそこにはあった。
巨獣たちの饗宴
リリーたちの出番を待つ間、彼女たちは世界のトップバンドたちの演奏を目の当たりにする。
最初に彼女たちを戦慄させたのは、北欧から来たデスウェーブの重鎮たちだった。
ドラムのキック一発で空気が爆ぜ、ヴォーカルの咆哮一音で空が割れる。
それは「歌」や「演奏」といった概念を超えた、本能的な破壊衝動の塊。8
万人の観客が巨大な波のようにうねり、数千人が一度に円を描いて走り出す『ウォール・オブ・デス』が巻き起こる。
その光景は、日本で「バズり」を競い合っていた自分たちの矮小さを突きつけるには十分すぎる光景だった。
次に現れたのは、南米の民族楽器とスラッシュメタルを融合させた狂乱のバンド。
リズムの複雑さはリリーの楽曲を凌駕し、それでいて聴く者の血を沸騰させる情熱が宿っている。
ギタリストが奏でる超高速のシュレッドソロは、もはや指が見えない。
「……速いだけじゃない。一音一音に、数万人の人生を背負ったような重みがある」
ユウナが愛機を握りしめ、言葉を失う。レイラもまた、ステージ袖で、世界の頂点に立つ者たちの「音圧という名の暴力」に、ただ圧倒されていた。
突きつけられた「格」の差
バックステージで談笑する巨漢のバンドマンたち。彼らにとって、リリーやJUPITERは「YouTubeで見かけた珍しい東洋の子供たち」に過ぎない。
「おい、あんな細い腕で、ワッケンのアンプを鳴らし切れるのか?」
「日本のアイドルか何かだろ。怪我しないうちに帰れよ」
冷やかし混じりの、剥き出しの差別と軽蔑。アゼリアのサキが作り上げた「四天王」という肩書きも、ここでは紙屑同然だった。
「……悔しいか?」
百合先生が、いつになく真剣な、鋭い眼光で教え子たちを見つめる。
「これが世界よ。あなたたちが挑もうとしているのは、この怪物たちがひしめく魔境なの」
雨が降り始め、泥濘はさらに深まっていく。
隣のステージから聞こえてくる、地平線を揺らすような凄まじい歓声と咆哮。
琴音は震える拳を太ももに押し当て、雫は祈るようにベースのネックを抱きしめた。
しかし、ユキの瞳だけは死んでいなかった。
「……いい洗礼だ。これを黙らせなきゃ、俺たちがここに来た意味がない」
日本の小さな部室から始まった物語が、今、世界の理不尽なまでの巨大さに飲み込まれようとしていた。
だが、その絶望の深さこそが、次なる反撃のバネとなる。
嵐の前の静けさの中、リリーとJUPITERの10人は、漆黒の泥の中に深く、重く、自らの足跡を刻みつけた。




