第29話 麗奈の涙
天道隼斗は、眠る麗奈の顔をじっと見つめていた。
規則正しい寝息。微かに上下する胸。無防備に閉じられた瞼――そして、柔らかく結ばれた唇。
その唇に視線が吸い寄せられたまま、隼斗は小さく喉を鳴らす。
(……全然、起きる気配ねえな)
胸の内でそう呟きながらも、どこか落ち着かない。
(まあ……この状態で起きられても困るんだが……。いや、ていうか――)
無意識に、唇をもう一度見つめる。
(早くしねえと……)
ぐっすり眠っているとはいえ、何かの拍子に目を覚ます可能性はある。そうなれば、この距離、この状況の説明などできるはずもない。
(こんな機会……二度と来ないかもしれねえんだぞ……)
心臓の鼓動が、やけに大きく響く。
隼斗は意を決したように、ゆっくりと顔を近づけていく。
距離が縮まる。
あと少し――ほんのわずかで触れてしまう、その時。
ぽたり、と。
不意に、麗奈の目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
(……え?)
隼斗は思わず動きを止める。
(なんで……泣いてる?)
はっとして、彼はそっと耳を麗奈の口元へ寄せた。
聞こえてくるのは、変わらぬ静かな寝息。呼吸のリズムに乱れはない。
(起きてるわけじゃねえ……? じゃあ……)
考えが一つ、浮かぶ。
(夢……か。嫌な夢でも見てるのか……)
隼斗はそっと手を伸ばし、指先で涙を拭った。その仕草は、触れることをためらうように、どこまでも優しい。
そして、小さく息を吐く。
「……馬鹿やろう」
誰に聞かせるでもなく、かすかな声で呟いた。
「夢の中じゃ、俺が助けに行けねえだろ……」
少しだけ間を置き、視線を落とす。
「……それに、泣いてるやつにキスなんて、できるかよ」
苦笑にも似た表情を浮かべると、隼斗はゆっくりと身を起こした。
未練を断ち切るように一歩下がり、もう一度だけ眠る麗奈を見つめる。
それから踵を返し、静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音は、驚くほど小さかった。




