第11話 本編開始
古びた道場――時を重ねた木の香りがほのかに漂うその空間で、畳の上にひとりの少女が静かに立っていた。
白い道着に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばす。結び上げた黒髪のポニーテールが、わずかな呼吸の揺らぎに合わせて小さく揺れた。
少女はゆっくりと目を閉じ、息を整える。
吸って、吐いて――その繰り返しの中で、内に秘めた気が静かに研ぎ澄まされていく。
やがて、瞳が開かれた。
その瞬間、空気が変わる。
そして――。
「はあああああああああ! えいッ!」
裂けるような気合いとともに、少女は一気に間合いを詰めた。踏み込みと同時に繰り出される右の正拳突き。鋭く、迷いのない一撃。
しかし――。
対する老人は微動だにしなかった。
白い道着に身を包んだその老人は、ただ静かに右の掌を差し出す。そして、迫る拳を軽く弾いた。
それだけで、少女の攻撃はあっさりと軌道を逸らされる。
だが、少女は止まらない。
流れるように体勢を立て直し、腰を回転させる。次の瞬間には上段蹴りが閃き、さらに間髪入れずに中段へと連撃を繋ぐ。
鋭さ、速さ、そして正確さ――どれを取っても一流の域にある攻撃だった。
だが。
老人はそれらすべてを、いとも容易く受け流していく。
受けて、いなして、弾く。
まるで風が柳を撫でるかのように、少女の技はことごとく空を切った。
やがて――。
「はぁ……はぁ……」
少女の呼吸が乱れ始める。額に滲んだ汗が、頬を伝って畳へと落ちた。
「やっぱり……まだ駄目……ね……。お爺ちゃんから……一本も取れない……なんて……」
悔しさを滲ませながらも、どこか納得したように呟く。
「かっかっかっ!」
その言葉を受けて、老人は豪快に笑った。
胸元まで伸びた真っ白な顎鬚をゆっくりと撫でながら、その声は道場の中に高らかに響く。
「可愛い孫娘だからといって、そう易々と一本を取らせるわけにはいかんわい!」
「まったく、もう……。お爺ちゃんは……容赦がないんだから……」
少女は軽く頬を膨らませる。
だがその瞳の奥には、不満とは別の感情が宿っていた。
本気で向き合ってくれる――そのことが、何よりも嬉しいのだ。
この老人、天道重久。
白き長髭をたくわえたその姿は、一見すればただの好々爺に見える。だがその実、彼は天道流護身術を独自に編み出し、武の頂点に君臨した伝説の武術家である。
武の世界一を決する『世界最強武術大会』において、前人未到の五〇連覇を達成。
その偉業により、彼は“武神”の称号を与えられた。
そして――。
その“武神”と向かい合っている少女こそ、天道麗奈。
長い黒髪をリボンで結い上げたポニーテールがよく似合う、愛らしい容姿の少女である。
だがその内に秘めた実力は、決して見た目に収まるものではない。
彼女は聖都女学院中等部に通う一四歳の中学三年生。
毎年夏に開催される全国中学校武術大会・女子の部において、すでに三度の優勝を果たしている。
――三連覇。
その偉業を成し遂げた大会が終わったのは、ほんの一週間前のことだった。
今は、束の間の休息。
残りわずかな夏休みを、彼女はこうして――祖父との稽古に費やしていた。




