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第10話 最強の拳法

「ま、待て待て! 早まるな! ちゃ、ちゃんと話せばわか──」


 必死に言葉を繋ごうとする兄の声は、しかし彼女には届いていなかった。


 彼女は静かに目を閉じ、意識を内へと沈める。周囲の気配が凍りついたように遠のき、ただ己の内側にある“力”だけが鮮明に浮かび上がってくる。


 やがて、すう、と息を吸い込み――腰を深く落とした。両肘を折り、腕を脇腹へと引きつけ、握り締めた拳に全てを込める。


「はあああああああああああッ!!」


 裂帛の気合いとともに、彼女の全身から膨大な気が溢れ出した。空気が震え、床さえ軋む。


(や、やべえ! こ、これは洒落にならねえ! に、逃げねえと!)


 兄はその異様な光景に息を呑む。肌が粟立ち、本能が警鐘を鳴らしていた。逃げろ、と。


 だが――。


(だ、駄目だ! 頭では逃げなきゃいけねえって分かっているのに! か、体が思うように動いてくれねえ! こ、このままだと、俺はまた妹に殴られる! 殴られるのは分かってはいるが!?)


 恐怖と同時に、胸の奥底から別の感情がじわりと湧き上がる。


(悲しいかな妹に殴られたいという欲求の方が、逃げる事よりも勝っていやがる!)


 彼は気づいてしまっていた。自分の中に芽生えた、どうしようもない性質に。


 すでに――手遅れだった。


「さよなら、変態さん」


 彼女が淡々と告げる。その瞳は、氷のように冷えきっている。


 次の瞬間――世界が弾けた。


「あああああああッ!! たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた!!」


 爆発的な踏み込みとともに、彼女の拳が閃く。視認すら追いつかない速度で繰り出される連撃が、兄の体へと容赦なく叩き込まれていく。


 衝撃、衝撃、衝撃。


 空気が裂け、打撃音が連続して鳴り響く。


(い……痛い……! す、すごく……痛い……けど……! で、でも……これ……な、なんだ……この……キモチ……)


 意識が削られていく中で、彼の頬は不自然に緩んでいく。


(あ……だ、駄目だ……意識が……と、飛ぶ……)


 嵐のような拳を受けながら、彼の顔には――どこか満ち足りた微笑みが浮かんでいた。


「あたああああッ!!!」


 最後の一撃が、深く、鋭く腹部へと突き刺さる。


「天道流護身術奥義!! 烈波百裂拳!!」


 それは、天道重久が編み出したとされる最強の護身拳法、天道流の奥義。その極致に至るには本来五〇年の修練を要すると言われている。


 だが彼女は――わずか一〇年で、すべてを修めていた。


 類まれなる才と、積み重ねた努力の結晶。


「安心して、お兄ちゃん。急所は全部外してあるから」


 そう言って、ふっと力を抜く。


 崩れ落ちる兄の体を、彼女はそっと受け止めた。


 ぐったりとしたその身体を抱き寄せ、彼女はわずかに表情を緩める。


「あっ、もう何も聞こえてなかったみたいね」


 そして、彼の耳元に唇を寄せ――優しく囁いた。


「安らかにお休みなさい。私の、大好きなお兄ちゃん」


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