第1話 兄と妹、それぞれの思惑
昔々、とある家に、ひと組の兄妹が暮らしていた。兄は整った容貌を持ちながらも、妹を愛するあまり常軌を逸した行動に走る変わり者。妹はというと、可憐で大人しげな外見に反して、容赦のない拳と脚を持つ少女であった。
夜ごと、兄は忍びのように妹の部屋へと侵入し、そのたびに妹は拳を振るい、蹴りを放つ。殴っては蹴り、蹴っては殴る――そんな騒がしくも奇妙な日常が、当たり前のように繰り返されていた。
ある夜のこと。妹は布団の中で静かに息を潜め、寝たふりをしながら“その時”を待っていた。いつものように、兄が現れるはずの時刻を。
――だが。
「あれ? お兄ちゃん、今日は遅いなあ。いつもなら、とっくに来てるのに……」
闇の中で小さく呟きながら、妹は眉をひそめる。違和感が胸に広がる。それでも彼女は、もうしばらく待つことにした。
やがて、三〇分。
一時間――。
「もうっ! 何なのよ今日は! 来ないなら来ないって言いなさいよ! ずっと待ってる私が馬鹿みたいじゃない!」
ついに堪えきれず、妹は布団の中で怒りを爆発させた。
「もういい! 寝る!」
ぷいと顔を背けると、そのまま意識はゆっくりと沈み、やがて本当の眠りへと落ちていった。
――その時だった。
ガサ……ガサ……。
微かな物音が、静寂を裂く。音は、彼女のベッドの下から聞こえていた。
何かが、床を這うようにして動いている。気配は慎重で、息を殺し、音を極限まで抑えながら、ゆっくりと、じわじわと進んでいく。
やがて、それはベッドの影から姿を現した。
「フゥ……やっと寝たか。五時間も潜んでると、さすがに堪えるな」
小さく息を吐きながら立ち上がったのは、若い男――すなわち、この家の兄であった。
夕食の後、妹が風呂に入った隙を狙い、この場所へ潜り込んだのはいいものの、肝心の妹がなかなか眠らない。結果、長時間にわたり身を潜める羽目になったのである。
自業自得と言えば、それまでだが。
それでも彼は、痛む体をさすりながら、どこか満足げに微笑んだ。
そして、眠る妹を見下ろす。
「さて……。どうやって、可愛がってやろうか」
その声は甘く、歪んでいた。静かな部屋に、不穏な気配だけが、ゆっくりと満ちていくのだった。




