スレ番9が退職するまでの顛末『神の退職願』
会社から約1時間の場所にある都心近郊のベッドタウン。駅から徒歩10分、1LDK家賃7万円。
リビングが15畳、寝室が6畳程ある広々とした我が家だ。
家賃相場よりは安め。リビングはフローリングなのだが、寝室が畳部屋なのがその理由だ。
「めーちゃん、ここが俺ん家。上がって」
玄関扉を開けて、めーちゃんに入るように促す。
「これからよろしくね、リュっちゃん」
そんな事を言いつつ、室内に入るめーちゃん。
リビングに通し、2人掛けのソファーに座ってもらう。
ごく普通のリビングだ。ソファーにローテーブル、テレビ。そして少し離れたところにパソコンがある。
そして俺は台所で2人分のお茶を入れた。
「紅茶でいいかな? 甘くしたいなら砂糖使ってね」
俺はティーソーサーに載せたスティックシュガーとティースプーンを指した。
紅茶を出し終わると一旦寝室へ行く。
寝室の壁は外に面した一面には窓で、そうでない壁の一面は押し入れ。
室内は机とベッド、ハンガーラックと小さめの洋服ダンス、細めの全身鏡で構成されている。
俺は机の引き出しから便箋と茶封筒、ボールペンを取り出し、めーちゃんの待つリビングへと戻る。
もう着替える時間ないな、仕方ない出掛ける直前で下着だけ替えて、着てた服にファ◯リース吹きかけて会社行くしかないか……
ファ◯リース吹きかける事、通称ファブるは加齢臭に悩む中年オヤジの救世主だ。
これで少しは加齢臭を抑えられるはず。ファ◯リーズなかった昔の人はこう言う時、どんな対策で乗り切ってたんだろうなぁ。
俺はリビングに戻り、遅れてめーちゃんの横に座ると、テーブルに便箋を置き、退職願を書き始めた。
とは言っても文面なんてテンプレだから、書き損じさえなければ、結構すぐに書き終わる。
「リュっちゃん、それ何?」
「ん? これは『退職願』って言って、会社辞めますって事を意思表示するものだよ」
そっか、神さまには退職願なんて縁ないもんな。
「これで直ぐに会社辞められるの?」
「うーん、難しい質問だなぁ」
法律上は退職の意志を示した2週間後に退職出来る。
その上、俺は殆ど有給休暇消化してないから、その2週間で有給消化すれば実質即日退職だ。
ただ昨日のリストラ宣告で、今日の退職願……いくらAIに仕事を任せるとはいえ、人間の仕事がない訳でもない。
その辺りの引き継ぎはしないといけないだろうから、どんなに早くても実質の退職までに1週間くらいかかるだろう。
その事を出来るだけ、めーちゃんにも分かりやすく伝えた。
「むー、会社がリュっちゃんに辞めてくれって言ってるんだから、引き継ぎなんてしなくてもよくない?」
「確かにそれはその通りなんだけどね……」
俺は苦笑いする。『引き継ぐ仕事があるなら、リストラするなよ』って言うのが、こっちの言い分である。
「下手に引き継ぎしないで辞めて、後から難癖付けられるのも嫌なんだよね」
そう別に会社が困るから仕事の引き継ぎをするわけではない。
正直会社への忠誠心とか帰属意識とか他の社員たちへの思いやりなんて、もう0に等しい。
ネットとかで引き継ぎしないで辞めたら、会社が大変な事になってざまぁ……みたいな話は散見される。
それが一番いいとは俺も思う。
ただなぁ、現実問題として、引き継ぎせずに退職して、偽計業務妨害とかで訴えられたり、損害賠償請求の民事訴訟を起こされたりする可能性だってある訳だ。
そうなると弁護士雇って法定で戦う必要が出てくるし、それは滅茶苦茶労力使うはずだ。
それでこっちが勝てばいいけど、下手したら前科が付いたり、損害賠償支払う羽目になる。
リストラされたのに、結果がそれじゃ割に合わなさ過ぎるよ。
「リュっちゃんは別に引き継ぎしたいってわけじゃないんだよね?」
「しないで後腐れなく辞められるなら、それが一番いいとは思うよ」
「よしっ! だったらアタシに任せて!」
めーちゃんが拳を握り、胸を張って、胸のど真ん中をドンと叩く。
2つのメロンがたゆんと揺れるのもお構いなしに、めーちゃんは俺が書き終えた退職願を手に取った。
「神の名において命ずる。この書に書かれた意思は最短にして絶対、何人たりともこれに意を唱えること無かれ」
めーちゃんが呟き始めると、退職願の上に何やら魔法陣的なものが現れ、呟き終わると同時に、それは退職願の中に吸い込まれて行った。
「はいっ、リュっちゃん。これで大丈夫だよ!」
いい笑顔で俺に退職願を渡してくるめーちゃん。
「あ、ありがとね。めーちゃん」
もう、そう言うしかなかった。
何が大丈夫かは良く分からない。
多分、大丈ばないと思う。
一連の出来事に、ちょっと混乱しているが、外を見ると明るくなっており、テーブルの置き時計はいつもの出勤時間を示している。
色々めーちゃんに確認しておきたい事はあるが、とにかく時間がないので、もらった退職願を茶封筒に入れ、カバンにしまった。
「ゴメン! めーちゃんそろそろ仕事行かなきゃだから……お腹空いたら冷蔵庫のもの勝手に食べていいからね」
低くはないが高くもない給与の俺は、節約のため専ら自炊なので、冷蔵庫には常備菜やおかずの残りが入っている
「わかったー」
「じゃ行ってくるね」
そう言い俺は出掛ける前に服をファブり、玄関に向かった。
「いってらっしゃい」
玄関先でめーちゃんが見送ってくれる。その見送りを背に受け、俺は会社に向かった。
なんか見送ってくれる人がいるのっていいな……いや、めーちゃんは神さまだから、人じゃないか?
俺にとってはそんな事別に大きな問題じゃない。めーちゃんと言う存在に送ってもらったのが嬉しかったのだ。
会社に向かう心はいつも重いものだったが、今日はめーちゃんのおかげで、少しだけ軽かった。




