日本―嵐は静かに吹き荒ぶ―
自衛隊ヘリコプターがコンニャクに接近したのが、金曜日の午後。サンプル回収失敗の動画がライブで公開されたのも、同時刻である。
その動画は日本国民に、2つの心理的効果をもたらした。
1つは得体の知れない材質で出来たディスプレイへの恐怖。
これは物理法則を曲げてる事実も含めての評価だろう。
もう1つはある程度の安心感であった。
自衛隊機がここまで接近しているのに、ディスプレイからは攻撃がなかったということと、物理法則が歪んだ場所から、無事に自衛隊機が帰ってこれたというのが、そう感じた理由だろう。
そんな2つの感情を持った日本人の、土曜日と日曜日の日中は比較的静かに過ぎていった。
金曜日に外出を控えていた人々の中には、生活に必要な品物を買うために外出する人間がチラホラ出てくるくらいには落ち着いている。
しかし日が暮れるに連れ、街中に人は居なくなっていった。
さすがにカウントダウンが00:00:00に近づくのに、得体の知れない何かを感じているのだろう。
タイマーが0になったら何が起こるかは分からない。人々はせめて自宅というテリトリーで、その時を待ちたいと考えたのである。
人々が不安気に見守る中、今までデジタル時間表記しか映していなかったディスプレイが、残り10分となったところで、唐突に切り替わった。
まずそこに映し出されたのは、目尻に赤い紅を引いた、2つの眼。
暖かくもあり、ひんやりとしているようでもある、どこまでも遠くを、限りなく深くを見通すその視線に国民たちの意識は釘付けにされた。
そして映像は、その眼から、ズームアウトしていき、眼の持ち主の全体像を映し出していく。
それは間違いなく女性だった。
右手に神楽鈴、左手に榊を持った彼女は、ただ背筋を伸ばし立っているだけで、所作の美しさが見てとれる。
豊かな黒髪は後ろの毛先近くで1つに結かれ、額には太陽を模した飾りを身に着けていた。
口と鼻は薄布で覆われていたが、その形の良さは薄布越しにも充分に分かるものだ。
逆に隠されているがゆえに、その美しさが際立っている。
身に纏う衣は神社の巫女服のようであるが、袖は巫女服のものより長く、ゆったりとしていた。
巫女服と違い、身頃の部分と袴は白くはあるが、袖部分は薄い白布が幾重にも重なっており、肩から手首に向けて階調し透けていっている。
布の多い服装であるが、豊かな胸、括れた腰、丸みを帯びたお尻という美しい体型は隠しきれずにいた。
シャン……
彼女はディスプレイの中から、人間世界を見回すと、一度神楽鈴を鳴らした。
鈴の音が発する静謐な空気に日本中が支配される。
――ターン
彼女は音もなく、素足でその場で飛び上がり、板張りの床に小気味よい音を立て着地した。
そこから彼女は舞う。
長い袖を翻し、榊を振り、神楽鈴を鳴らす。
左足で飛び上がり、空で足を広げ、右足で着地する。
重力を感じさせないくらいに軽やかに飛び、袴の裾も翻った。
布靡く舞と着地の小気味よい音と、神楽鈴の清らかな音だけが、世の中を支配する。
永遠に見ていたい……みな心のどこかで感じていた、その舞はひときわ大きい着地と神楽鈴の音、そして榊を最後一払いすることで終わりを迎えた。
彼女は持っていた榊と神楽鈴を奥で控えていた従者と思しき男性に渡した。すると従者は再び元いた場所へと戻っていく。
それを見送った後、真っ直ぐ正面を見据えて彼女はこう言った。
「我が名は天照大御神、この国の主宰神なり」
そういわれて人々は一様に納得せざる得なかった。
空間や距離をねじ曲げて顕現したディスプレイに、神性しか感じない今の舞。
その全てが彼女が神である証明に他ならない。
「我が人に望む事は多くない。公平であれ、虐げることなかれ、不当に扱うことなかれ、努力には実りを……ということだけである」
その声は決して大きくはない。しかし水のように直接心に染み渡るような声だった。
「日本の人らよ、お主らはここしばらくの間、我の望みを無視した行いをし続け、しかもそれに気づかぬふりをしておる」
そういうと天照大御神は一瞬だけ、目を伏せ、すぐに視線を真っ直ぐに戻す。
「不当に特定の者たちに、苦難を押し付けている。我はそのようなことを望んだ覚えも、許した覚えもない」
成人した日本国民には多かれ少なかれ心当たりがあった。
それは氷河期世代のことである。
若い時には自己責任と国から見放された世代。
1人食べるだけで、精一杯で愛する人と家庭を持つことも、子どもをもうけることも、考えられなかった人間が多い世代。
今なお誰からも何の救いの手も伸ばされず、老人になれば国からの年金は減らされ、見放される可能性の高い世代。
「我はその不公平を正すために現れた。我はこの世を虐げられし者たちが力を持つ世界へと変革する」
今まで恵まれていた者たちは漠然とした不安を、虐げられていた者たちは微かな希望を胸に抱いた。
「国には迷宮を、人には新たな力を授ける。今まで虐げられし者たちには、強力な力を与えよう。搾取せし者たちには報いを与える。力持つものよ、その力で迷宮に潜り、己の幸せを取り戻すがよい。そして心正しく安らかにあれ」
氷河期世代の人々は長年心に
巣食った靄が晴れた気がした。
誰も救ってくれなかった自分達を神は見ていたのだ。
自分達が、いいたくてもいえなかったことを代弁してくれた。
それだけでも嬉しかった。そして、これから何らかの力が神からもたらされるという。
その予告に久しぶりに心が躍るのを感じた。
「搾取せし者たちよ、これは今までの報いだ。決して力を与えられし者を妬むな。もし妬み、弾圧するようなら、我の力でその者たちを断じようぞ。そのこと、とくと忘れるな。我はいつでも見ておるぞ」
天照大御神は言葉の終わりとともに、手を合わせる。
瞬間、ディスプレイが眩く光りだした。
その光は幾筋にも別れ地面に伝い、赤い光と青い光になって、日本中を覆い尽くし、瞬く間に消えていく。
それとは別に日本領土の境界線に沿って白い光が浮かび上がり消えていった。
光が止むと、天照大御神の姿は消え、残されていたのはディスプレイだけ。
そしてデジタル時間表記はもう存在しておらず、ただ透明な板だけが空に浮かぶだけだった。
この瞬間から、日本には迷宮とステータスが存在することになる。




