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祭り囃子

作者: 水本グミ

 玄関を出た瞬間、むっとする夏の夜気が肌にまとわりついた。

 浴衣の裾を気にしながら歩き出す。帯の締め付けにむせそうになり、息を吸うたび胸に圧迫感を覚えた。


「自分で結べばよかった」


 心の中でひっそりと愚痴をこぼす。母の手を借りなければ浴衣の着付けなんて到底無理だったにもかかわらず、素直に感謝する気にはなれなかった。


 髪の毛からはスタイリング剤の匂いがして、鼻につく。母の部屋の匂い。


「くさい……」


 吐き捨てるように呟いて、ふと浴衣の袖口に顔を寄せてみる。

 柔軟剤と古びたタンスの匂い。思わず顔をしかめた。


 家から少し歩くと、三人連れが向こうからやって来た。

 甚平姿の小さな男の子が、浴衣姿の母親に手を引かれ、その隣で父親らしい男が団扇でぱたぱたと仰いでいる。


 子供の笑い声。すれ違いざまに鼻をくすぐった線香花火のような匂い。

 ——みんな、もう祭りに向かってる。


 夜道を歩き続けると、遠くからだんじり囃子が聞こえてきた。

 甲高い鉦、腹に伝わる太鼓、そして「ヨーイヤサー」の掛け声。

 重なり合った音が波のように押し寄せ、帯で締め上げられた胸の奥をさらにざわつかせる。


 ——急がなきゃ。


 みんな、もう待ち合わせ場所に集まっているはずだ。

 遅れたら置いていかれる。グループから外される。

 それだけは絶対に嫌だった。


 駆け出したい気持ちだったが、履き慣れない下駄は歩きづらい。早歩きで進むのがやっとだった。


 スマホが震えた。

 画面を覗くと「今どこ?」の文字。クラスメートの誰かからだ。


 慌てて返信するが、焦っていたせいで打ち間違えた。


「急いで向かってる。すぐ逝きます」


 しばらくして返ってきた文面は思いのほかゆるかった。


「逝くなよw うちら夜店見てるから、ゆっくりでいいよ」


 ——呆れられた。


 胸の奥に小さな落胆が広がる。やっぱり置いていかれるのかもしれない。

 ひとりは嫌だ。孤立するのは嫌だ。

 せめて少しでも早く合流して、挽回するしかない。


 肩を落としながら歩き続ける。

 通り沿いの家々は薄暗く、窓の明かりもまばらで、人の気配はほとんどない。


 けれど匂いはあった。魚を焼く匂い、炒め物の匂い、風呂場の入浴剤の匂い……。

 鼻をひくつかせ、ひとつひとつ確かめるように吸い込む。匂いがある。それがなんだか、安心感をもたらした。


 そのとき——


 背後から低いエンジン音が這い寄るように迫ってきた。


 振り返る。暗闇の奥で車の影がこちらへ向かってくる。ヘッドライトは点いていない。


 心臓が喉まで跳ね上がり、悲鳴が出かかる。

 下駄の歯が石畳を滑り、体がよろけた。かろうじて横に跳ね退いた、その直後。


 ——ドンッ!


 轟音とともに車は、すぐそばの家の門柱に激突した。

 鉄と石が擦れ合うガリガリという音。フロント部分は深くめり込み、エンジン音だけが空しく唸り続ける。


 震える足を押さえつけながら、恐る恐る運転席を覗き込む。

 ……誰もいなかった。


 背筋を冷たいものが走る……。

 もし、避けられていなかったら、死んでいたかもしれない。


 けれど反芻している暇はない。

 目の前の恐怖よりも、クラス内で孤立する恐怖の方が勝っていた。


 よろめきながら立ち上がり、何事もなかったかのように歩き出す。

 下駄の歯がアスファルトを打つ音が、やけに大きく響いた。


 ——急がなきゃ、置いていかれる。


 耳に入るだんじり囃子の音は、着実に近づいてくる。

 焼き鳥らしき匂い、綿菓子らしき甘い匂いが、風に乗って運ばれてくる。


 頭の中に去年の電飾だんじりがよみがえった。

 闇夜を進む、まばゆい光の塊。

 赤や青や金色の電飾がきらめき、まるで巨大な宝石のようだった。

 その眩しさに心を奪われた。

 ——あれを、また見たい。


 去年の祭りの日は、まだ転校して日が浅かった。友達もできず、家にじっとしているのも耐えられなくなって、母に付き添ってもらって見物に行った。

 人混みの中で、母の袖をつかみながら見上げた電飾だんじり。

 あの眩しさに、ほんの一瞬だけ寂しさを忘れられた。


 でも、今年は違う。

 クラスの子たちと待ち合わせをして、一緒に祭りを回る。

 輪の中に入れてもらえる。笑い合える。

 ——そのはずだった。


 待ち合わせ場所の公園に着いたとき、胸を締め付ける帯がさらに苦しくなった。

 本来なら、ここは祭り客の集合場所だ。

 浴衣姿の子どもたちが駆け回り、屋台に向かう前の家族連れがシートを広げて休んでいる。

 同級生たちも、まずはここで合流して、笑い声を上げているはずだった。


 ……なのに。


 広場はがらんとしていた。

 誰の姿もない。

 街灯に照らし出されているのは、自分の影だけ。

 風に揺れる木々のざわめきと、自分の下駄の音だけが、やけに大きく響く。


 ——みんなもう夜店に行ったんだ。そうに違いない。

 そう自分に言い聞かせて、公園を抜け、商店街へ向かった。


 一層歩く足を早め、商店街の入り口へたどり着いた時には、息がきれぎれになっていた。

 だんじり囃子はますます近くなり、太鼓の連打が胸の奥に響く。


 風に乗り流れてくるのは、焼き鳥の香ばしい匂い、綿菓子やベビーカステラの甘ったるい匂い。

 間違いない、夜店はすぐそこだ。


 ……なのに。


 通りに足を踏み入れた瞬間、胸がざわめいた。

 本来なら、屋台がずらりと並び、色とりどりの提灯が光を放ち、浴衣姿の人波が行き交っているはずの場所だ。

 去年はそうだった。


 けれど今、そこにあるのは灯りのみだった。


 赤や白の提灯が規則的にぶら下がり、アスファルトをぼんやりと照らしている。

 だが、その明かりの下には誰の姿もなかった。


 焼き鳥の匂いはむせかえるほど濃く、綿菓子の甘さは喉の奥に貼りつくように感じられる。

 太鼓の音は耳を圧迫し、掛け声はすぐそばから響いてくる。

 なのに、視界の中に人影はひとつもなかった。


 ……きっと、みんな神社に向かったんだ。

 そうに違いない。そうじゃなきゃおかしい。


 胸を押さえながら、商店街を急ぎ足で通り抜けた。


 神社へ続く道を進むにつれ、「ヨーイヤサー」の掛け声が耳を塞ぎたくなるほど大きくなった。

 思わず立ち止まり、胸の奥がきゅっと縮む。


 掛け声はさらに近づき、太鼓の重い打音が「ドンッ!」と頭上から響き落ちてきた。

 鉦の甲高い音は耳元で弾け、誰もいない視界のすぐ脇で、誰かが叫んでいるように感じられる。


 同時に、匂いが鼻腔を突いた。

 焼き鳥や綿菓子の甘ったるさだけではない。

 汗の匂い。

 煙草の匂い。

 石けんの匂い。

 香水の匂い。

 唾液の匂い。

 酒の匂い。

 金属製のブレスレットの匂い。

 髪の焦げた匂い。

 無数の人々が、見えないまま、すぐそこにひしめいている。


 音と匂いが渦のように押し寄せ、頭の中が真っ白になる。

 息をすることすらできない。

 両手で耳を覆ったが、何の意味もなかった。


 太鼓と鉦と掛け声が、自分の体を一気に突き抜けた。

 冷たい風に貫かれたような衝撃で、膝ががくりと折れる。


 ……やがて、祭り囃子は遠のいていった。

 「ヨーイヤサー」の掛け声が薄れ、太鼓も鉦も次第に夜の向こうへ消えていく。

 取り残されたのは、澄み切った静けさだけだった。


 ふと顔を上げると、鳥居が月明かりを受けて静かに浮かび上がっていた。

 足下の石畳は夜露に濡れ、白く光を反射している。

 穏やかな光景。まるで、祭りのざわめきなど初めからなかったように思えた。


 突如、鼻の奥から金属のような、鉄のような匂いが広がった。

 腹の奥で何かが蠢き、こみ上げてくる。

 堪えきれず、石畳に口を向けた。

 吐き出されたのは——どす黒い液体だった。


 ——血。

 ぬるさも熱さもない、生臭い血。


 夜露に濡れた石畳に血液が散乱し、赤黒く広がっていく。

 ぽた、ぽた……と滴る音と、鼻を突く鉄の匂いだけが、あたりを満たしていく。


 ……あの門柱に車が突っ込んだ時、わたしは。


 静寂の中で耳を澄ますと、遠ざかったはずの囃子が、かすかに風に揺れて戻ってきた。


 祭り囃子はまだ鳴り止まない。


(了)

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