《密談①》
二度も恩返しに失敗したベアトリスは、自邸にて無表情ながら落ちこんでいた。
失敗は誰にでもある。セドリックたちの育成計画も、何度も失敗しては修正を余儀なくされてきた。
しかし今回のほうが落ちこみが激しいのは、恐らくセドリックたちのときよりも残された時間が少ないからだろう。
「姉様。そろそろ元気でてきました?」
腕の中の弟のルイスが、大きな瞳で心配そうに見上げてくる。
その愛らしさに心が慰められ、ベアトリスはさらにルイスをぎゅうぎゅうと抱きしめた。
(女神様のおかげで、今日も弟が天使です)
もう小一時間はこうしてソファーの上でルイスに慰めてもらっている。世界一愛らしい弟は、ベアトリスにとって最強の活力剤なのだ。
「本日も、大変姉弟仲がよろしいようで」
不意にからかうような声が聞こえ振り向くと、ユリシーズが談話室の入口からこちらを見ていた。そして後ろにもうひとり、見覚えのある人物が立っている。
(なぜ彼がここに……?)
気軽に出歩ける立場の人物ではない。むしろ公爵令嬢である自分が呼び出され会いに行かなければならない存在が、わざわざ向こうからやってきた。
嫌な予感しかしない、とベアトリスは無表情の下で内心ため息をついた。
「おふたりとも、本日お約束はなかったと思いますが……お暇なのですか?」
「いま帝都で最も忙しいと言ってもいい我らふたりを暇人扱いとは、さすが氷結の姫君!」
笑いながらユリシーズの後ろから現れたのは、先日祝宴の席にもいた帝国の皇太子。セドリックの異母兄であるエリオットだった。
濃いハニーブロンドにエメラルドの瞳と、セドリックによく似た風貌だが、その印象はかなり違う。
エリオットはセドリックの三つ年上で、体つきは一回りたくましく、甘い微笑を浮かべる顔にはたっぷりとした余裕が見受けられる。セドリックが三年後、このように自信に溢れた余裕を身に着けられるとは思えない。期待される者と甘やかされる者の違いが明確な兄弟だ。
「……氷結の姫君?」
「貴女のことですよ。悪役に徹せられている間に生まれた、ベアトリス様の異名です」
「ガルブレイス公爵令嬢は表情だけでなく血まで凍っている、だったか。おかしな話だ。貴女ほど慈愛に満ちた令嬢はいないというのにな」
そう言うと、エリオットはおもむろにベアトリスの手を取り、甲に口づけてきた。
流れるような自然な動き過ぎてベアトリスは反応できずにいたが、代わりにユリシーズがぺちんとエリオットの手を叩き落とした。
「皇太子殿下。お触りは厳禁です」
「やれやれ、小うるさい目付け役だ。だが私は障害が多いほど燃える性質でね」
「困った方です。真面目にお願いいたしますよ」
「私はいつだって大真面目だ。ベアトリス嬢、今日は貴女に話があって来た」
「私に? 嫌な予感しかしませんので、このままお引き取り願いたいのですが」
「ははは。ベアトリス嬢は冗談が上手いな」
ユリシーズに叩かれた手を擦りながら、エリオットが向かいのソファーに座る。
何やら込み入った話になりそうなのでルイスを下がらせようとしたが、なぜか愛らしい弟はエリオットを威嚇するように牙を剥いて離れなかった。
不敬なルイスの態度に、エリオットは「よい」と鷹揚に赦し話し始める。
「私にはふたりの側妃がいるが、正妃の席はいまだ空いていてね」
「存じ上げております。おかげでご令嬢たちの水面下の争いが激化する一方だとか」
「はっはっは。私を想って健気なことだが、無意味な争いだ。正妃の席に座る者は以前から決まっているのだから」
エリオットは足を組み、魅力的と言うにはいささか酷薄さのある微笑を浮かべた。
「ベアトリス嬢。私の正妃にならないか」
それはプロポーズと言うより、まるで事業提案のような物言いだった。
愛や恋といった情の類は微塵も感じないエリオットの態度だが、悪気がないこともベアトリスは知っている。次期皇帝は昔からこういう男なのだ。
「はっはっは。無表情でも嫌そうなのは伝わるものだな!」
「……お戯れを。私はつい先日、殿下の弟君と婚約を解消したばかりです」
「わかっている。セドリックとの婚約解消が七年前から決まっていたのと同じように、私の正妃も決まっていた、と言えばわかってくれるだろうか」
尊大な態度のエリオットにため息をつき、ユリシーズが補足してくる。
「ベアトリス様。皇帝陛下は、セドリック殿下との婚約解消後、貴女を皇室に迎え入れることを前々から決められていました。その為に皇太子殿下の正妃の座をずっと空席としていたのです」
使命の為の仮初の婚約であったとしても、実際にセドリックとは七年もの間婚約関係にあった。それが解消されるとなると、ベアトリスの社交界での評判に傷がつく。それを避ける為にはセドリックとの婚約以上の縁談を用意しなければならない。と、皇帝は考えたらしい。なんという余計なお世話。
第二皇子セドリックとの婚約以上となると、もう皇太子との婚約一択ではないか。恐らくベアトリスへの気遣いは嘘ではないのだろうが建前ではあり、ベアトリス・ガルヴレイスという特異な存在を皇室に取り込むのが目的だろう。
有力貴族の娘であり、神のしもべであり、ひとりで一個師団にも匹敵する戦闘力を持つ令嬢だ。友好的に使わない手はない。
「陛下は貴女の国と世界への貢献に、責任を持って報いねばならないとおっしゃっている。私も同じ気持ちだ。ベアトリス嬢。私の隣で幸せになってみないか?」