《聖者》
どこかから讃美歌の音色が聞こえてくる。
聖都の大聖堂に隣接する教皇の公邸、プレティオス宮殿に着いてから早五日。聖者認定式の準備に追われながら、ベアトリスはなんとかここでの暮らしに慣れようと努めていた。
柔らかな日差しが差しこむ部屋は明るいが、長年暮らしていた帝都のタウンハウスや領地の邸と比べると、飾りも色味も少なくもの寂しい。
白を基調とした部屋の中で唯一気持ちを華やがせてくれるのは、窓辺に飾った花だ。信徒が贈ってくれたという花束は優しい桃色をしていた。
花瓶に生けられた花を見ていると、どうしても黒紫の騎士を思い出す。
彼も時折花を贈ってくれた。ベアトリスの色の花束をくれたことは、生涯忘れることはないだろう。
ナイジェルには別れの言葉を伝えることが出来なかった。代わりに目いっぱいの感謝を伝えたつもりだが、いまでも考える。
きちんと別れを伝えるべきだったのではないか。いまからでも手紙を書いて、黙って帝都を発ったことの謝罪と、改めて感謝を伝えるべきではないか、と。
しかし、そんなことをして意味はあるのかと考える自分もいる。
手紙などもらっても、ナイジェルは困惑するだけではないのか。恩返しは終わったのだから、ベアトリスがナイジェルと関わる理由はもうない。ナイジェルもうるさく付きまとっていた女がいなくなって清々しているだろう。きっとベアトリスの存在など頭の片隅にも残っていないはずだ。
そんなふたつの考えが交互に浮かんでは消え浮かんでは消え、結局机の上の便せんは真っ白なまま置かれていた。
「いよいよ明日が認定式ですね。いかがです? 私と同じ聖者となる気分は」
準備の合間にユリシーズが顔を出し、からかうようにそう聞いてきた。
「……妙な気分です。使命を果たし終えた私が聖者になったところで、成せることは何もありませんのに」
「おやおや。ご機嫌ななめですか?」
窓辺の椅子に腰かけるベアトリスの手をとると、ユリシーズは目の前に跪いた。まるで騎士のように。
光に照らされるユリシーズは美しい。男女の性別を越えた、神秘的な輝きを放っている。
「ドレス姿のベアトリス様も美しいですが、祭服姿の貴女も格別に美しい」
同じようなことを考えていたらしい。
聖都に着いてすぐ、白地に金の刺繍が施されたこの祭服を仕立てられた。帝都で着たのは簡易的なもので、こちらが正式な祭服らしい。
ユリシーズの着ているものと似ているが、ベアトリスのものは袖回りや胸元の意匠がもう少し女性的だ。明日以降被ることになる冠にも、髪を覆うような長いヴェールがついている。
これからこの祭服がベアトリスの公的な衣装となる。着慣れたドレスに袖を通すことはもうないのだ。正直祭服のほうが手間が少なく着心地も楽だが、過去の自分を捨てていくような寂しさはどうしても付きまとった。
「ベアトリス様。貴方はこの七年間で、普通の人が一生をかけても届かないような尊い善行を積まれたのです。成すべきことを成したから、貴女は聖者になるのですよ」
「それなら……私はこれから、何をしたらいいの?」
「幸せになればいいのです。言ったでしょう? 私が貴女を幸せにすると」
気障っぽいウィンクを送られたが、ベアトリスは笑うことが出来なかった。
舞踏会の夜、ナイジェルの前で七年ぶりに笑ったが、あれからまた一度も笑えていない。家族を想って寂しくなっても、涙も流れない。
また、感情の表現の仕方を忘れてしまっていた。
どこか残念そうに微笑むと、ユリシーズは立ち上がる。
「明日の認定式のあと、聖者専属の補佐と、護衛の神殿騎士、それと側仕えの選定が行われます。終わりましたら昼食を挟み、新たな聖者のお披露目として大聖堂から市街地までの大通りで行進する予定です。休憩を挟み、大司教以上の聖職者を集めた晩餐会を持って明日の予定が終了します。忙しい一日となるでしょう」
「忙しいのは嫌いじゃありません」
(いまは特に、余計なことを考えずに済むもの)
窓辺の花から目をそらし、ベアトリスは明日の認定式の予行演習に向かうため、部屋をあとにした。
*
*
認定式は司教以上の上位聖職者たちに見守られながら、ルメスカラエ大聖堂で執り行われた。
聖歌隊による讃美歌が流れる大聖堂は厳かな雰囲気で、神聖な空気が満ち満ちていた。
噂好きの貴族の集まりとは違い、聖職者たちは誰もが沈黙を守っていた。その静謐さはこの先に待つ自分の余生のあり方を想像させた。
「お疲れさまでございました、聖者ベアトリス様」
「聖下」
式のあとユリシーズを伴い、教皇がベアトリスの部屋を訪れた。
そして開口一番そう言って深々と頭を下げたので、ベアトリスは慌てて止めに駆け寄った。
「頭をお上げください、聖下。そのようにされる必要はございません。聖下は教会の最高位、数多いる教徒たちの指導者であらせられるのですから」
「いえいえ。私はたまたま聖職者たちのまとめ役となった身に過ぎませぬ。女神の啓示を受けられた聖者様こそが、本来であれば最高聖職者でなければならないところを、このような老いぼれがそこに納まっているのが大変申し訳なく……」
「どうかそのようなことはおっしゃらないでくださいませ。私は神託を受ける前からずっと、神の代理人たる聖下をお慕いしておりました。これからもその気持ちに変わりはありません」
膝をつき、教皇の手をとり頭を垂れる。認定式で行った誓いの儀の再現だ。
「だから言ったでしょう? ベアトリス様は私の知る誰より敬虔な信徒なのです。聖下に傅かれては困ってしまうのですよ」
ねぇ? とユリシーズに同意を求められ、ベアトリスは驚きながらもうなずく。
「むぅ。ユリシーズの言う通りじゃったか。私はいつでもこの冠をお譲りするつもりでいるのじゃがなぁ」
「そんな目で見られても、私は絶対譲られてはあげませんからね」
教皇と枢機卿という関係にしては随分と親しげだ。無礼と言う感じはしない。どちらかと言うと、おじいちゃんと孫のような微笑ましさがある。
ああ、そうか。家族のような関係なのだ。
ふたりの冗談のかけ合いを聞きながら、ベアトリスは少しほっとした。彼らのように、自分も家族のような愛をここで育むことが出来たらいいと思う。
「聖者殿。……ベアトリス、とお呼びしても?」
「光栄でございます、聖下」
うんうんと頷くと、教皇はベアトリスを立たせしっかりと手を握りしめてきた。
「これからユリシーズとともに、多くの教徒たちを導く手助けをしてくれますかの」
教皇の柔らかなその声は、ゆっくりとベアトリスの心に染みこんでいく。
視界の端で、ユリシーズがうなずくのが見えた。
認定式の前に言ったことを、気にしてくれていたのか。これから何をしたらいいのかわからない。そんな弱音を吐いた自分に、未来の道標を見せてくれたのだ。
「……もったいないお言葉です、聖下。微力ながらお手伝いさせていただきます」
答えた声が震えたことに気づいたのか、ユリシーズは教皇の後ろで笑っていた。
『私が貴女を幸せにします』
(あの言葉は本気だったのね)
ベアトリスはユリシーズの誠実さを改めて知った気がした。
ユリシーズがいてくれるなら、きっと大丈夫だ。今日この瞬間から、聖者ベアトリスとして新しい人生を歩いていこう。
郷愁に似た寂しい風はまだ胸の中で吹いている。それでも前を向き歩いていくことを決意し、ベアトリスは教皇の手に額をつけ、敬愛を示すのだった。
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