《杳々②》
「……そういうことだ」
公爵の答えに、バサリと花束と焼き菓子の箱が床に落ちる。
目の前が真っ暗になった。公爵の言葉が上手く飲みこめない。
ベアトリスが聖者になれば、もう公爵令嬢として帝都に戻ることはない?
聖都は元々宗教国家の総本山だった。帝国に属する際に聖都として独立自治が認められた特別な神域なのだ。入る為には帝国と教会の許可が必要になり、その手続きも複雑だと聞いている。
そんな場所にベアトリスが向かった。ナイジェルにとってそれは一生の別れを意味しているのと変わらない。
「あなたのせいだ!」
不意に足元に衝撃を受ける。下を向くと、小柄な少年がナイジェルの脚に体当たりをしていた。
「おやめなさい、ルイス」
「やだ! ナイジェル卿が恩返しを断り続けてくれていたら、姉様はずっとここにいてくれたのに!」
「ルイス……」
姉様を返して、と泣きながらナイジェルの脚を叩くベアトリスの弟に、ナイジェルはかける言葉が見つからなかった。
公爵は「やめるんだ」とルイスをナイジェルから引きはがし、頭を下げた。
「息子がすまない。この子はまだ幼いからベアトリスがもう戻らないことを受け入れられずにいるが……私たちは卿には感謝してるんだ」
「……感謝? 一体、なぜ」
「ナイジェル卿が悪役を演じ続けていたベアトリスを支えてくれたことにもですが、卿への恩返しがあったからこそ、私たちは少しだけ長く、あの子と一緒にいることが出来ましたから……」
夫婦にありがとうと感謝されても、ナイジェルは少しも嬉しくはなかった。
突然聞かされたベアトリスとの別れを受け止められない。泣きじゃくるルイスよりも恐らく受け入れがたく感じている。
自分の人生においてベアトリス・ガルブレイスという女性がいかに大きな割合を占めていたか、本当の意味で思い知った。
公爵家のタウンハウスを後にしたナイジェルは、愛馬を走らせた。
帝都を出てひたすら街道を駆ける。この林を抜ければ小高い丘がある。その上から先の道が見渡せるはずだ。
ベアトリスたちの移動は馬車だ。速度はそれほど出さないはず。きっと追いつけるはずだと信じ、ナイジェルは愛馬とともに林の中を走り抜けた。
しかし、辿り着いた丘の上から聖都の方向を探しても、馬車は見当たらない。必死に目をこらしても、影すら見つけることは出来なかった。
これ以上は愛馬が持たない。自分は間に合わなかったのだ。
『実は、帝都に残る方法がひとつだけあったんだ。でもあの子はそれを拒否した』
タウンハウスを出る前、公爵が教えてくれた。
聖者にならずに済む方法。それは皇族との婚姻だった。
皇太子が正妃を持たずにいた理由はそこにあったのだ。ベアトリスが使命を果たした時に、聖者となり聖都に移るか、皇族となり帝都に残るかを選べるようにしていた。それが皇室の配慮だったのだ。
『なぜ……ベアトリス様は断ったのでしょう。ご家族と離れることになるのに』
『……ナイジェル卿。昨夜、ベアトリスが笑顔を見せたそうだね』
『枢機卿に聞きましたよ。涙まで流したと』
確かに、昨夜ベアトリスは涙をひとすじ流しながら笑った。
氷結の姫君と呼ばれるほど普段表情のないベアトリスであるから、特別なものを見た気持ちになったのだ。
その美しさに見惚れてしまい、馬車に乗り帰っていくベアトリスに、上手く言葉をかけることも出来ずただ見送ってしまったくらいだ。
あの時引き留めていればと悔やんだ。そうすれば、ここにベアトリスがいたかもしれない、と。
『実は、神託を受けてから七年間、あの子は一度も笑ったことがないんだ』
『きっとつらいことも多かったでしょうに、涙をこぼすこともありませんでした』
『まさか……家族の前でもですか?』
幼い頃、教会で見かけるときは表情が豊かな少女だった。それがセドリックの婚約者としての彼女と再会した時には、その顔からは一切の感情が消えてしまっていた。
なぜ、と不思議に思ってはいたが、まさか家族の前でもそうだったとは。
『使命のために、己の感情を封印したんだろう』
『そのベアトリスが、卿の前で笑い、涙をこぼしたのです。それがどういう意味を持つのか、わかりませんか?』
馬から下り、ナイジェルは傍に立つ木の幹を思い切り殴りつけた。衝撃で、はらはらと葉が舞い落ちる。
いますぐに、この想いを伝えたくてたまらない。叫びたくてたまらない。
ずっと貴女に恋をしていたのだと。貴女だけが特別だったのだと。誰よりも何よりも愛しているのだと。この先、一生貴女だけなのだと。
「ベアトリス様……」
遠くの山に向かって風が吹く。
溢れてやまない想いを伝えたい相手は遥か遠く、手の届かないところへと行ってしまった。
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