《返却》
「と、いうことなので、こちらはお返しします」
ベアトリスが聖剣を返しに行くと、皇帝はあからさまにほっとした顔で受け取った。
居合わせた皇太子エリオットと聖者ユリシーズが「良かったですね」と疲れたように皇帝をなぐさめる。
どうやら聖剣を手放したことをひどく後悔していたようだ。皇帝は泣きながら剣を納めた箱に頬ずりしていた。
そんなに剣を渡したくなかったのなら断ってくれれば良かったのに。と真顔の下で思うベアトリスだが、もちろん口には出さない。それくらいの分別は持ち合わせているし、そもそも断られていたとしても、真顔で押し切っていた自信があった。
ナイジェルに恩返しをするためなら、皇帝を落ちこませるくらいなんてことはない。
「ところでユリシーズ様、最近大聖堂を空けがちですか?」
「おや、気づきましたか。実は後任への引継ぎがほぼ済みまして、お世話になった方々へ挨拶回りをしているところです」
「後任ということは、大司教をお辞めになるのですか」
「ええ。枢機卿として聖都に戻ります。悪役を演じる貴女を手助けするという、ここでの役目も終わりましたからね」
「そうでしたね……」
ユリシーズは神託を受けたときはまだ、数多くいる修道士見習いのひとりでしかなかった。
それが神託を受けたことで神のしもべ、それから聖者となり、枢機卿や大司教といった役職を次々背負うことになった。
すべてはベアトリスの使命を手助けするため。その使命が果たされたいま、ユリシーズが帝都に残っている理由はなくなった。今後は聖者として聖都に戻り、教皇の補佐をすることになる。
「出立はいつだ?」
「来週にでもと考えておりましたが……」
ちらりとユリシーズがこちらをうかがってくる。
それは問題の多い妹を困ったふうに見つめる兄のような眼差しだった。
「それで、ベアトリス様はまだ諦めないので?」
ユリシーズの試すような問いかけに、ベアトリスはしっかりとうなずく。
失敗続きだが、まだたった三回だ。ナイジェルから受けた恩は六百九十七回分。簡単に諦められるはずがない。
「当然です。たとえ迷惑がられても、必ず恩返しさせていただきます」
「迷惑な時点で恩返しになるのか……?」
エリオットにあきれた顔をされたが、ベアトリスは気にしない。
皇太子が為政者らしく尊大で失礼なことは知っている。そうでなくても、誰にどう思われようと恩返しは成し遂げなければならない、ベアトリスの新たな使命なのだ。
「ベアトリス嬢は、ナイジェル卿が好きなのだな」
「好き……?」
「そうでなければ、ここまで執着しないだろう?」
思ってもみないことを聞かれ、言葉に詰まる。
神託を受け、使命に邁進している間、同年代の子息子女たちはみなパートナーを見つけ愛や恋に明け暮れていた。セドリックとミッシェルはその筆頭だ。
間近で見ていても、自分とは縁のない、物語の中の出来事のように遠く感じていた。
誰かと恋をし愛を育むという行為は、女神の使命を遂行したり、ナイジェルに恩返しをする上で、必要な行いとはとても思えない。
「……ナイジェル卿に感謝や尊敬の気持ちはありますが、恋愛感情は私には必要ないものです」
いまも、そしてこれからも。自分の心身は女神のものである。
思わず胸の前で祈りを捧げながら答えると、未知の生物を見たような顔をされた。
「……これは本気で言っているのか?」
「本気でしょう。無自覚なのです」
(なぜふたりに憐れみの目を向けられているのかしら)
釈然としない気持ちでいると、やがてエリオットが残念そうに肩を落とした。
「やれやれ。貴女の気質は皇太子の妃に向いていると思うんだがな」
「殿下。無理強いはいけませんよ」
「わかっているさ。しかし、あの頑固者のどこがいいんだ?」
頑固者とは、まさかナイジェル卿のことだろうか。
確かに彼は側近護衛騎士の身でありながら、奔放な主を本気で窘めるほど真面目で、セドリックによく融通が利かないと文句を言われてはいたが。
「ナイジェル卿か……。確か彼はまだ、婚約者がいないのではなかったか?」
いまだ箱にへばりついたままの皇帝が、思い出したように呟いた。
「本当ですか陛下? 未婚ではあったと思いますが、あの年で婚約者もいないと?」
「確かな。ロックハート伯爵が以前嘆いておった」
「なるほど……そういえば卿のお兄様も未婚で、兄が婚約や結婚をする前に自分が身を固めることはできない、というようなことをセドリック殿下と前に話していたような」
そのときは『兄を立てる謙虚で誠実なナイジェル卿』にドッキンコドッキンコした覚えがある。
ナイジェルの兄とは一歳しか違わないはずだが学園で見かけたことはないので、恐らく魔法の才がなく魔法学園には入らなかったのだろう。
しかし、伯爵家の男子ふたりともが結婚できる年齢になっても婚約者がいないというのは、いささか不自然ではある。
「伯爵の嫡男が未婚? 何か問題のある人物なのでしょうか」
「伯爵からはあまり嫡男の話を聞かんな。一時、ナイジェル卿が嫡男だと思っていたくらいだ。もしかしたら才能に差があるのかもしれん」
「それは大いにあり得ますね。ナイジェル卿はとても優秀な方ですから」
ベアトリスが多少誇らしい気持ちで言うと、なぜかエリオットに不憫な者を見るかのような目を向けられた。
「……しかし、それならば兄に遠慮して独り身なのはもったいないな。未来の帝国、世界のためにも優秀な卿には優秀な子をどんどん生んでもらいたいものだ」
ニヤニヤと、底意地の悪そうな笑みを見せながら皇太子が言った。
親の才能、身体能力や魔力が子どもに受け継がれる世界だ。エリオットの言う通り、魔王が復活することが確定しているいま、才ある者は待ち受ける魔族との戦いのために優秀な子を生み育てるべきだろう。
ナイジェルの子どもなら、きっと勇者にも負けない強い子になるだろう。
喜ばしいことだ。それなのに、胸にモヤモヤとしたものが広がるのはなぜか。
ベアトリスが黙りこむと、ユリシーズがそっと肩に手を置いてきた。
「ベアトリス様。恩返し、お手伝いいたしましょうか?」
兄のような顔で言うユリシーズに、ベアトリスはモヤモヤの名前を考えながら首を振る。
「いいえ。これは私の恩返しですから」
「しかし、もう長くは待てませんよ」
時間が迫っている。
ベアトリスはユリシーズの手に自分の手を重ねて小さくうなずいた。
「……わかっております」
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