《誘惑①》
卒業祝宴の翌日から早速、帝国騎士団長によるセドリックの鍛錬は始まった。
それまではベアトリスが間接的に担っていた戦闘訓練を騎士団長が直接的に指導するようになり、セドリックは逃げることもサボることも出来ず、いまの所大人しく受けている。
最初は渋々、仕方なくといった風だったが、二週間も経てば諦めの境地に至ったらしく、愚痴や弱音を吐くこともなくなった。
喜ばしいことだ、とナイジェルはたまに鍛錬の手伝いをしながら思っている。何せ二十数年後には魔王が復活することが、神託により明らかになっているのだ。しかもセドリックが未来の勇者の父となることまで決定しているのだから、簡単に手を抜かれては国民どころか人類が困る。
ただ、もう少し自主的に鍛錬するなり、前向きになってもらえたら。そうと思っていたところに、起爆剤となりえる人物が現れた。
「ナイジェル卿。恩返しに参りました」
悪役を辞して時間を持て余しているのか、恩返しの押し売りがライフワークになったらしいベアトリス・ガルブレイス公爵令嬢である。
真顔の仮面を貼り付けたかのように表情がないが、本日も大変麗しい。見惚れそうになる己を叱咤し、ナイジェルは騎士らしく礼をとった。
「なぜベアトリスが宮殿にいる⁉」
元婚約者の登場に、庭園で騎士と打ち合いをしていたセドリックが思わずといった風に剣を構える。
どうやら若干ベアトリスがトラウマとなっているらしい。起爆剤どころか爆弾そのものになる可能性も大いにあることに気づき、ナイジェルは軽い頭痛を覚えた。
「恩返しだと、たったいま言いましたが。ご無沙汰しておりますセドリック殿下」
「たった二週間、ご無沙汰と言うほどでもないだろう……」
「二週間前までは毎日顔を合わせていた仲ではありませんか」
真顔でそんなことを言うベアトリスに、セドリックは「悪夢の日々だった……」と青い顔で返す。そして剣を構えていたことにようやく気付き、少し恥ずかしそうにそれを降ろした。
「私は、お前が嫌いだ」
「殿下! ベアトリス嬢は……」
「わかっている。私個人の気持ちの問題だ。だから、帝国の第二皇子としては、ベアトリスに感謝しなければならないんだろう」
セドリックは口をむっつりと閉じながらも、深く頭を下げた。
「これまで、すまなかった」
ナイジェルは少し感動した。あのセドリックが感謝し、頭を下げている。
出来の悪い弟の成長を目の当たりにした気持ちでいると、騎士団長をはじめとした騎士たちも、遠巻きに同じような目をしていることに気が付いた。
バカな子ほど可愛いとはこのことか。厳しいことを言いはしても、結局皆セドリックには甘いのだ。
「感謝も謝罪も不要ですのに。……殿下。私はあなたのそういう所が、嫌いではありませんでしたよ」
ベアトリスの言葉に、セドリックは勢いよく頭を上げて、ベアトリスを凝視した。
何かおかしなことを言っただろうか、とでも言うようにベアトリスが真顔で首を傾げる。
血さえ凍っていると恐れられる氷結の姫君が、嫌いではない、という消極的ながらも好意を言葉にしたのだ。婚約者だった間、一度もベアトリスと心を通わせた経験がなかったセドリックが驚くのも無理はない。
ベアトリスが無表情なのは変わらないが、全身を覆っていた堅い鎧を外し始めたような変化をナイジェルも感じた。
悪い変化ではないはずだ。だが、なぜだろう。非常に面白くない。
「……悪役を降りたお前となら、仲良くやれるかもしれないな」
「殿下? 先ほどと真逆のことをおっしゃっていませんか?」
「な、何だナイジェル。何を怒っているんだ」
腹立たしくなりナイジェルが詰め寄ると、セドリックが視線を逸らし後ずさりする。
「私と仲良くする必要もございませんよ。今後殿下と関わることもほぼないでしょうし。それよりも運命の乙女、ミッシェル様と仲良くなさってください。そういえば彼女の姿が見当たりませんね。もしかして鍛錬は別々に? 殿下、いけませんよ。剣は自分、魔法は彼女に、等と役割分担しようとしていらっしゃいませんか? ミッシェル様にも扱えない属性の魔法はあるのですから、殿下も剣ばかりではなく魔法の鍛錬も並行して進めていただきませんと」
「う、うるさい。わかっている」
「本当にわかっておられますか? 殿下たちが早く強くならないと、いつまで経っても子作りに至れませんよ」
「こ……っ⁉ やっぱり私はお前が嫌いだ!」
傷ついたような辱められたような、泣きそうな顔で地団太を踏むセドリックに誰もが同情した。
ナイジェルとしては同情よりも清々しさのほうが勝ったが。
「くそ! あいつを宮殿から追い出せ!」
「どうどう、殿下。せっかく和解出来たんですから」
「どこがだ⁉」
暴れるセドリックのなだめ役を騎士団長に任せ、ナイジェルは今日はどんな恩返しをしに来たのか尋ねることにした。断るにしても、一応内容を聞くのが礼儀だろう。
「本日はこちらをナイジェル卿に。気に入っていただけるといいのですが」
そう言ってベアトリスが差し出したのは、くすんだ赤いビロードと金の細工で飾られた長い箱だった。かなり年季が入っているように見える。