【第8話】選ばれなかった男
~主な登場人物~
【小峰慎志】
主人公。埼玉の所沢市にあるアパートに住んでいる27歳の青年。
大学を卒業して就職するも、仕事が長続きせず職場を転々としている。
しかし新しい職場である携帯端末の販売店では順調なようだ。
中野麗海という女性と出会い、縁があって交際に発展。
恋人関係の充実した日々を過ごし、彼女と将来的に結婚したいという願望を抱く。
【中野麗海】
慎志と交際している2歳年上の29歳お姉さん。埼玉のさいたま市に住んでいる。
都内のドラッグストアで登録販売士の仕事をしているお姉さん。
性格は優しく穏やかで、大人の余裕も感じさせる女性。
一世代前だが、芸能界にいた伊東○咲と井上○香を足して割ったような端麗な容姿である。
【山方哲也】
慎志と同い年で同じアパートに住む青年。互いに暇さえあれば部屋を入り浸る仲。
毒舌だが、慎志からはテツと呼ばれ、よく相談事を持ち掛けられている。
埼玉県を中心とする食品スーパーに勤務。夕方には必ず帰るシフトを組んでいる。
彼女はいない。彼女の出来た慎志をよく思っていない。
【浅野純太郎】
慎志と哲也と住む同じアパートに住むIT系会社勤務の男。
ふたりからは”先生”と呼ばれている。
慎志と哲也より3歳年上で、彼らを名字で小峰氏、山方氏と呼ぶ。
眼鏡をかけ、太った体系をしているが、それは優しさが詰まっているから。
穏やかな性格で頼りがいもあることから、慎志と哲也から尊敬されている。
恋愛も仕事も全てが順調だった。
仕事は本来であれば数か月から半年のうちに担当する商材が変わり、合わせて異動となるのだが、僕を含めた現場メンバーはしばらく固定となった。
都内にある商店街の小さな店舗でスマートフォンをメインとした携帯端末の販売、契約手続き、オプション変更、相談などを受け付ける。
売上目標もあったが、達成しようがしまいが店舗単位で評価されるので個人が詰められることはなかった。
客からのクレームは思ったより多い。
無論、大手通信会社のアンテナショップとしての役割を果たし、元請けの代わりに苦情を引き受けるのも業務の一環である。
飲食店で働いていた時に、オペレーションが回らずに客を激怒させてしまった時とはまた違う。
どうみてもこちらに非があるものは真摯に対応し、あからさまに理不尽なクレーム客は頭の中で、相手を人間以外のものに変換した。
発想の転換。以前、麗海から心の負担を軽減するためのアドバイスとして授かったものだ。
傲慢な客はゴキブリや宇宙人に例えたりした。そうやってユニークに捉えれば、相手のハラスメントを真に受けずに接客出来た。
客のイレギュラーなクレーム対応を経て、その度にマニュアルは増えるが、覚えきれなかったり、久しぶりの対応になると戸惑う事もある。自分や同僚、時に上司もやらかすが、それはそれで仕方ないという風土が出来上がっていた。
こういう職場もあるのだ。
仕事仲間で良い雰囲気が保たれているおかげなのか、今までの僕の仕事ぶりを思うと、不自然なくらい順調だった。
来月で麗海と交際して一年半になる。
最近では一週間に一回会えれば良い方だった。
麗海の仕事量が増え、忙しいという。
彼女の仕事終わりを見計らって、働いている店舗や家まで行って待っていようかと思ったこともあるが、それは止めた。
事前に連絡して承諾を得てないと迷惑になるだろう。
彼女も疲れているだろうし、1人でゆっくりする時間も必要なのだ。
今日は新宿の店舗に欠員の応援で来ていた。
夕方には仕事を終えた。
ここからだと麗海の働いているドラッグストアは近い。
麗海も残業が無ければそろそろ退勤時間のはずだ。
久々に二人で外で晩御飯を食べたいな。
そういう思いで麗海にスマホでメッセージを送る。
”今、新宿で仕事を終えたんだけど、麗海の職場も近いし、もし良かったら仕事が終わった後、都内で一緒に晩御飯食べない?”
少しの間、その辺をぶらぶら歩いて返信を待ってみたが、まぁ流石にすぐには既読にならないか。
もうちょっと新宿を散策してよう。
新宿御苑から都庁方面へと歩いていく。
辺りは暗くなり、完全に夜となった。
商業店の看板やビルの無数の窓から見える光、大通りに均一で並んでいる街灯、車道を絶え間なく往来する車のライト。さまざまな極彩色に包まれた新宿の街景は混沌としている。
それでもその断面を切り取ってみれば実に面白く見えた。
仕事帰りで足早に駅へ向かう大勢の老若男女。
駅前では若者が通行人にティッシュ配りや店に客を呼び込もうとして、威勢のいい掛け声をあげている。
仲睦まじそうに腕を組んで繁華街を歩くカップル。
通りの居酒屋の入口から覗く、楽しそうに晩酌をしているサラリーマンのグループ。
観光だろうか、目を輝かせてスマホで写真を撮りながら歩く外人も最近ではよく目につくようになった。
不思議なものだ。
以前の僕なら無感情にそれらを見送っていた。
今では彼らを温かい目で見れる。
心が豊かになったんだんだと思った。
宝飾店の前で僕は足を止めた。
4°F。有名なアクセサリーブランドだ。
何気なくショーウィンドウに飾られた指輪を見る。
綺麗だ。
麗海とペアリングしたいな。
サプライズでいきなりプレゼントしたら彼女は喜んでくれるだろうか。
最初はペアリングでも、その次は婚約指輪、そして結婚指輪と、ステップを踏んでいけたら…。
付き合いたての時は、ふたりの未来のことを本気で考えていなかった。
結婚とか、そういうのは遠い話だと思っていた。
でも今は彼女と結婚したい、夫婦になりたい。
そういう考えが現実味のある想いとなっている。
これからもずっと麗海と一緒に生きていきたいと心から願っている。
僕らは沢山の思い出を共有し、そしてこれからも沢山の思い出を作って共有していくのだろう。
そしてこの先、何が待っていても、きっと麗海となら乗り越えていける!
そんな自信があった。
そろそろお互い、両親に会わせる時期なのかもしれない。
将来的な結婚を見据えて。
仲睦まじく談笑する老夫婦とすれ違った。
僕と麗海もいつかは、あの老夫婦のようになれるだろうか。
麗海にメッセージを送って1時間が経った。
やはり残業か、忙しいのだろう。
今日は諦めて、今度は事前に誘おう。
そうやって西武線駅に向かって踵を返した時だった。
「あ…」
何という偶然。
車道を挟んだ向こう側の歩道に麗海の姿が見えた。
なんという偶然、新宿にいたのか。
ちょうどよかった!声をかけて驚かせてやろう。
「おーい…!?」
…。
……。
誰かが隣にいる。
麗海はスーツ姿の男と一緒に並んで歩いていた。
僕と同い年ぐらいの、20~30代の男。
男の体型はスーツの上からでもガッチリしているのが分かる。
体育会系の部活出身といった印象だ。
背が麗海より頭1つ高く、髪型はオールバック。
顔は彫りが深いが整っており、芸能人に例えるなら若かりし頃の阿○寛といった感じだ。
僕は咄嗟に出かかった声を引っ込めた。
何者なんだあの男は。
麗海と肩を並べて仲良さそうに談笑している。
親族…兄弟?
麗海に兄弟がいるなんて話、聞いたことない。
もし兄弟だとしても…。
麗海は男と手を繋いで歩いている。
子供なら分かるが、はたして大人になった兄弟が手を繋いで歩くだろうか。
心臓が高鳴る。
もしかして…。
得体の知れない不安に僕は身を震わせた。
麗海と男が通り過ぎた後、僕は20メートルほど後方の離れた位置からふたりを追う。
隠れながら、ふたりに見つからないようにしながら。
こそこそ後をつけて、これじゃあまるでストーカーじゃないか。
僕は麗海の彼氏だ。
何も隠れる必要なんてないじゃないか。
堂々と声をかけて隣の男が誰なのか問いただせば良い。
それなのに、何故か麗海の前に姿を出すのが怖かった。
歌舞伎町方面へ麗海と男は歩いていく。
頭の中で警笛が鳴る。
第六感とでもいうのだろうか。
もしかしたら相手の男は…。
最低だな僕は。
彼女を信じれないのか。
お願い信じさせて。
何度自分に言い聞かせても不安は拭えない。
取り憑かれたようにふたりの後をつける。
距離を取って尾行していても、麗海が楽しそうに笑っているのが分かる。
あんなに男と顔を近づけて。
何の話をしているのだ!?
仲睦まじそうにまるで恋人同士のようではないか!
嫉妬の念が、まるで炎のように身体を燃やしている。
スマホで再度、麗海にメッセージを送ろう。
”今、何してるの?”
”おーい、返信してー!”
…。
……。
既読にならない。
既読にならないー!
何通目だ。
なら電話だ。
…。
……。
通話も出てくれない。
何で、どうしてだよ。
額に嫌な汗が滲んできた。
スマホの液晶画面に汗雫が落ちる。
そのせいか指で操作しても画面が反応しない。
袖で強引に液晶画面を拭く。
スマホで麗海へのメッセージを打ち込みながら尾行を続ける。
迷いのない足取りで進んでいく麗海と男。
ふたりの行き先は決まっているようだ。
おい待ってくれ。
この先は…ホテル街だ。
僕は焦っていた。
このあとの展開に。
このあと判明される目的地に。
心拍数が上がる。
心臓の脈動が激しすぎて身体全体が揺れる。
信じさせて。
どうか…。
お願いだから!!
いつの間にか両手を結んで祈っていた。
神様!仏様!
祈りは絶叫に変わっていた。
あ!ああ!ああああ!
おい!行くな!行くなって!行かないでくれ!
おいおいおい嘘だろ…
だめ!だめだって!!
うわぁっ!!うっわぁぁあああ!!!!
極彩色の装飾を施され、面妖な雰囲気が漂うホテル街。
僕の祈りは紙切れのように破れ散った。
麗海と男はホテルリゾート”ミントバニラ”の中へと消えていった。
頭の中で台風のような強風が吹き、大雨が降っていた。
驟雨のごとく降り注ぐ雨粒は濁流となり、悲しみの大河を作った。
激流により発生した蒸気が頭いっぱいに広がり、意識が真っ白になった。
もう何も考えられない。
何も感じない。
それからどうやって帰ってきたか分からない。
気づけば自宅のアパート前にいた。
「こんばんは。遅い帰宅だね」
アパート前の自動販売機で飲み物を買っていた先生に声をかけられた。
「って、小峰氏どうしたの!?この世の終わりみたいな顔してるけど…」