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【第51話】もうどうしようもないのか

~主な登場人物~


小峰慎志(こみねしんじ)

主人公。埼玉県所沢市で妻の千春(ちはる)、娘の真桜(まお)と暮らしている。

意識不明で入院中の父に会いに、実家のある長野県上田市までやって来た。


小峰千春(こみねちはる)

夫の慎志(しんじ)、娘の真桜(まお)と一緒に埼玉県所沢市で暮らしている。

義父の急病を聞きつけて長野へ娘と向かう。


小峰真桜(こみねまお)

慎志(しんじ)千春(ちはる)の間に生まれた女の子で保育園に通うおてんば娘。


小峰怜志(こみねれいじ)

慎志(しんじ)の父親。畑仕事中に倒れ、意識不明で病院に運ばれた。


小峰彩代(こみねさよ)

慎志(しんじ)の母親。意識不明で入院中の夫の容態を見守る。

挿絵(By みてみん)




朝からまばゆい日差しが地表に降り注いでいる。

長野だろうが、埼玉だろうが、夏は暑い。

身体が気だるく感じるのはそれだけではない。

不安と心配、父が失われる恐怖が倦怠感となり、重く身体にのしかかっていた。


母は朝からテーブルの椅子に座ったまま、病院からの連絡を待っている。

微動だにせず沈黙したままの様子は、まるで家具として家の一部に同化してしまったかのようだ。

僕もそうだった。

喜怒哀楽の哀以外の感情に蓋をされてしまったようで、哀の感情以外を求めるなら、もう心を空っぽにして無感情になるしかなかった。

その無感情への試みもぎこちなく、一瞬の隙をついて哀しみが感情を染め上げようとする。



僕は病院からの連絡を待っている間、外に出て近所を散歩する。

眩しい陽光が、心に暗い影を落とす僕を皮肉なほど照らした。

聞こえるのは蝉の鳴き声。

遠くに見える山々の彩りに満ちた緑色。


夏の情緒も何の慰めにもならない。

見るもの聞こえるもの全てが空しい。

暗い気持ちになると、世界はこんなにも味気ないものになってしまうのか。

少し歩いただけで身体中から汗が噴き出した。

まるで僕という存在を保っている境界線が、溶け出していくようだ。


病院から連絡があったのは昼頃だった。

僕と母は車に乗り込み、急いで病院へと向かう。


父のことを思う。

精密検査の結果、何を医師から告げられるだろうか。

吉報だけを望む。

信じている。父のことを。

早く目を覚まして欲しい。

まったくどれだけ僕らを待たせるのだろうか。


ーーー


「大変申し上げにくいのですが…」


僕と母は医師から説明を受け、完全に頭が真っ白になった。


父の診断結果は重度の低酸素脳症による脳機能の停止。

全身に血流は巡り、生命維持装置さえあれば呼吸も出来る。

しかし脳の活動が見られない。

脳幹死に近い状態だと言う。

もう現代の医学では打つ手がないと告げられてしまった。


僕も母も黙っていた。

言葉を失うとはこのことだろう。

何か喋ろうとしても口どころか、身体も動かないのだ。

現実を受け入れるのに時間を要した。

やがて感情を取り戻した母は嗚咽する。

無理にでも喋ろうとすれば、僕も母のように言葉にならない言葉を吐くだろう。

絶望。

絶望という文字すら生温く感じた。

実際に僕と母が味わっているこの気持ちが、二文字で表せるわけがない。


医師の説明は続く。


「怜志さんは一定の経過観察後、脳死同然と判断されることになります」


「脳死の場合、生命維持装置をつけていても短い間しかもちません。やがて心臓も止まり、命を落とす場合がほとんどです」


「しかし稀に心臓が動き続けたまま、何年にもわたり眠り続けるケースがあります。ですが回復の見込みはほぼありません」


「今後、親族の代表として生命維持装置を外す決断を迫られる場面も想定されます。覚悟しておいて下さい」



僕は泣いていた。

声を押し殺して、押し殺した分、涙が止まらなかった。

母は嗚咽の音量を一際上げていた。

生々しく、部屋に響き渡る泣き声が、ずっと、ずっと。

外の廊下にも聞こえるくらい。

医師も看護師も何も言わなかった。


ーーー


母が静岡や大阪の親戚に連絡を入れる。

何人かは明日にもこっちに来れるという。


宛もなく病院内をふらふらした。

病院内には男女ともに高齢者が多いが、若い人、子供だっている。

入院している人もいれば、退院で祝われる人も。

病院を利用する人々の病気に軽重はあっても、患者の命そのものに差別は作らない。

父の命は僕たちにとって特別なものでも、病院側からしたら重病患者の一人に過ぎないのだろう。

医師や看護師は患者へ平等に当たるし、仕事だって山積みだと思う。

僕の父に付きっきりになどなれない。

一人の老人にいつまでも構っていられない。

次の患者に向き合った方が、一人でも多くの命を助けられる。

分かっている。

分かってはいても、もっと同情して欲しかった。



病院に千春と真桜が到着した。


「千春!真桜!」

「千春さん、それに真桜ちゃんも。来てくれたのね。ありがとう」

「いえ、お義父さんが心配で」


神妙な面持ちの千春と笑顔の真桜。


「ばーば!ばーば!」


母は、孫の姿を見て少しだけ顔を綻ばせた。


「真桜ちゃん元気?パパはちゃんとやってる?」

「ぱぱはね、こころをこめてえほんをよんでくれないの」

「慎志、駄目じゃない!」

「だって何度も何度も読んでってせがまれるんだよ。飽きちゃって」


真桜だけは状況が分からず普段通りの様子だった。

逆にそれが母の沈んだ気持ちを少し和ませてくれるかもしれない。



親族ということで千春たちも父と面会出来た。

父の無惨な姿を目の当たりにして、千春は目を滲ませる。


「お義父さん、こんなことになってしまって…」


「じーじ、ねてるね。いつおきるの?」


真桜は能天気だった。


千春に父の容態の詳細を伝える。

千春は絶句して涙を流した。

僕はその涙が嬉しかった。


「お父さんとお母さんにも話してるけど、こっちに呼んだ方が良いかな?」

「僕から連絡を入れるよ」



部屋を出ると廊下に老人たちが待っていた。

声をかけられる。

話を聞くとシルバー人材センターの人たちだった。

父と一緒に畑で仕事をしていて、父が倒れた時に病院に通報してくれた人もいた。

埼玉で仕事の定年を迎え、長野に越してきた父の新しい仕事仲間。

父は老後になっても人と交流する場を持ち、社会との繋がりを維持していた。


「怜志さんの見舞いに来たんですが、親族以外は面会出来ないと病院側から言われてしまい、でも部屋の前まで来てしまいました」


「それはどうも。父、怜志の息子の慎志です」


「息子さんでしたか。この度は突然のお父さんの入院で大変だと思いますが、くれぐれもお大事になさってください。お父さんの一日でも早い回復を願っております」


「…」


「それで、お父さんの様子はどうですか?」



ーーーーー



実家に帰る。

気持ちの整理がつかないまま。

母は悲しみを通り越して放心状態になっていた。

すでに涙を出し切り、乾いて、そして枯れていた。

昨日の今日で更に老いてしまった気がした。

無理もない。

母は父と一番長い付き合いなのだから。

一番辛いのは母だろう。


悪夢ではなく現実。

母は憔悴しきっていた。


「お義母さん、私何か作ります!キッチン使わせて下さい」


無気力な母を気遣ってか、千春が夕飯作りに名乗りをあげた。


「まおも てつだうー!」



テーブルの椅子に座り、虚ろな目で母がチラシを読んでいる。

僕は尋ねてみた。


「何を読んでるの?」


「この前、郵便ポストに入ってた葬儀の広告」


「ええええ!?」


僕はずっこけそうになった。


「気が早すぎるでしょ!」


母は表情とやっていることのギャップが凄まじい。


「だってお隣に住む真田さん、祖父が亡くなった時、葬儀屋に家族葬でって言ったのに、一般葬で話を進められたんですって」


「だから?」


「ご遺体の移動、保管場所やドライアイス、献花や化粧に火葬のグレード、改名とか、その他諸々を葬儀屋の言われるがままにしたら最終的に200万円もかかったとか。当初の予算は80万円と言っていたのに」


「そんなにお金かかるんだ」


「そうよ。だから事前に勉強しておこうと思って」


母は切り替えが早いというか、感情が器用というか。

ある意味、メンタルが逞しいのかもしれない。




千春が作ってくれた夕食を皆で食べる。

真桜の呑気な態度だけが、重い空気を和らげてくれた。


「真桜、コップをそんなテーブルの端に置いてたらこぼすよ?」

「だいじょーぶだもん」


案の定、真桜はコップを落として麦茶をこぼした。

真桜の服と床が汚れる。

怒る気力も無かった。


「そういえば慎志が小さかった頃の服、2階の部屋のタンスに仕舞ってあるから、真桜ちゃんの服として持ってったら?」


「母さん、僕の子供の頃の服なんか、まだ捨てずに取ってたの?」


「一部の服は情が移ってしまって捨てられなかったの。真桜ちゃん女の子だけど、子供の服って男の子も女の子も似たようなものだから、違和感なく着られると思うわ」



千春は食後の食器洗いも買って出てくれた。

母はお風呂に入っている。

真桜はテレビで夏休みの子供アニメ特集を観ていた。

僕も何かしてないと負の感情に囚われてしまう。


僕はひとり2階へ上がった。

母がさっき言っていた僕の子供の頃の服。

それを確かめる為に。



懐かしいな。

タンスの中に仕舞われた幼児の服を見て、最初に抱いたのは懐古的な気持ちだった。

30年くらい前の服。

まるでタイムカプセルを掘り出したような気分だ。

感慨深くなるのも無理はない。


僕はタンスに仕舞われた服の中からズボンを手に取り、両手で広げる。

このズボンは、お気に入りでよく好んで履いていた気がする。


ん、ポケットに膨らみがある。

何か入っているな。

ポケットに手を忍ばせる。


これは⋯。


ポケットから出てきたのは、古い駄菓子だった。

洗濯されてボロボロになりながらも、何とか包装は維持されていた。

見覚えのある形状、これはコーラ味の10円ガム。


苦い記憶が思い起こされる。

まだ家族で埼玉に住んでいた頃。

生涯でただ一度だけの万引き。

悪いことなのは幼児の頃の僕でも理解はしていた。

それでも欲しくて我慢出来なかったのか。

或いはスリルを求めてふざけてやったのか。

僕は駄菓子屋から盗ったそれを、父に見せびらかした。

悪ふざけ程度の気持ちだっただろう。


それから⋯。


それから父は、僕の頬を叩いて⋯。


それから⋯。


一緒に駄菓子屋に謝りに行った。


思い切り頬を叩かれた僕は泣きわめいたまま。

店にちゃんと謝ったのは父だけ。


結局、僕が盗んだ10円ガムは父が買い取った。



込み上げてくる激情。

怒涛の如く涙が溢れ出した。

自分の愚かさにただただ泣くしかない。


こんなもので父親に大恥をかかせた。

幼児の頃に万引きした、たかだか10円のお菓子が、時を越えて大人になった今の僕に重い罪の意識を突きつける。


ごめんなさい。

迷惑ばかりかけた。

子供の頃から言う事を聞かなくて。

大人になってからもポンコツで。

いつまで経ってもだらしない。

誇れるような親孝行なんてした記憶もない。

自分への嫌悪感が後悔や自責の念へと連鎖的に結びついていく。


父さん…。


父さん!


もう一度、父の声を聞きたい。


もう一度、父の笑う顔がみたい。


一緒にお酒でも飲んで、他愛もない話でも構わないから言葉を交わしたい。


二度と叶わないのか。


父が死ぬ。


もうどうしようもないのか。

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