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【第45話】魂の咆哮

~主な登場人物~


小峰慎志(こみねしんじ)

主人公。埼玉県所沢市の賃貸マンションで妻の千春(ちはる)、娘の真桜(まお)と暮らしている。

都内で建物の維持管理サービスを生業とする株式会社マホロバ・ビルサービスの社員。

まだ乳児の娘の育児に妻と奮戦。日々、父親の勉強をしている。


小峰千春(こみねちはる)

夫の慎志(しんじ)、娘の真桜(まお)と一緒に埼玉県所沢市の賃貸マンションで暮らしている。

育児休暇を取っていたが1年が経ち、都内の大学職員として仕事復帰する。

実家は川越市にあり、父の名は月原篤(つきはらあつし)、母の名は月原万葉(つきはらまよう)


小峰真桜(こみねまお)

慎志(しんじ)千春(ちはる)の間に生まれた女の子。

まだ1歳なので世の中のことを何もわかっていない。あうー!

挿絵(By みてみん)




娘の真桜が1歳になった。

たった1年で真桜は随分変わった。

身体はひとまわり大きくなったし、髪の量も増えた。

自ら移動する事も出来ず、泣くことしか出来ない赤ちゃんだったのに。

いつの間にかハイハイして部屋中を這いずり回るし、何かに掴まって立とうとする。


目覚ましい成長だ。

大人の1年と子供の1年は天と地の差ほどあると実感した。

とはいえ、僕にとっても濃厚な1年であった。

真桜の成長を間近で見る日々は真新しく、育児を通して父親として勉強の日々だった。

妻の千春にとっても濃厚な一年であったことだろう。


「真桜、1年でずいぶん大きくなったわね。もう私のお腹に戻せないわ」


千春がジョークを言う。

更に1年経てば、真桜はやはり見違えるほど成長するのだろう。

大人からみれば、子供の成長速度は凄まじく、驚かされるばかりである。

同時に時の流れの早さを実感させられ、日々のスピードに翻弄されるのだった。

もちろん育児は大変な面もある。

しかし真桜が生まれてきてくれた事で、僕も妻も人生に充実感を抱いていた。



千春の育休期間が終わる。

大学職員として仕事に復帰するのだ。

あれだけ真桜と四六時中一緒にいたのに、千春は少し寂しそうだった。

でもそれと同時に社会復帰出来る喜びも感じているようだった。


育休期間は要件を満たすともう1年間取れるらしい。しかし千春にはその気はないようだ。

千春の職場の同僚は千春よりも早く育休を取り、そして職場に復帰することなく退職したという。

育休の取得条件は職場に戻る意思があることが前提だが、そのまま退職してもペナルティはないらしい。実際、そのまま仕事を辞める女性も多いそうだ。様々な理由があるのだろう。


妻と共働き。

今では珍しくもなんともない。

二馬力で稼いで家庭を支える。

仕事も家事も半々に担えれば理想だ。


育児に関しては、平日は真桜を保育園に預けることになった。

幸いな事に自宅からそう遠くない場所に保育園があり、入園希望を出したところすんなり受け入れられた。

世間では”待機児童”という言葉が流行っていたが、僕らはありがたいことになんとかなった。


入園の手続きも滞りなく済ませた。

僕らが仕事と家庭に居場所があるように、真桜も家庭以外に居場所が作られるのだ。


入園初日、真桜はポカーンとしていた。

保育園の先生は笑顔で迎え入れてくれる。

以前、真桜を千春の実家に預け、迎えに行った時、義父の篤さんと義母の万葉さんはボロボロになっていた。

真桜はおてんば娘だ。大丈夫だろうか。


心配も杞憂だった。

夜迎えに行く時、真桜は保育園の他の子供たちと溶け込んでおり、面倒を見る先生もさすがプロだと思った。

先生から話を聞くと、真桜はお父さんお母さんがいなくても寂しくて泣いたりしないらしい。

どちらかと言うと、お友達が持っている玩具で自分も遊びたかったり、そういう羨ましさや悔しさで泣くようだ。

保育園ではトイレの練習もやってくれるそうで、本当にありがたい限りだった。


真桜を保育園に入れたことで、僕と千春は仕事に集中できる。

なんて…うまくいかず、現実はなかなか難しい。

真桜の送り迎えは大変だった。

出勤前の朝早く真桜を保育園まで連れていき、夜は退勤時間の早い妻が保育園に真桜を迎えに行った。

しかし残業の発生など、イレギュラーな事はよくあった。

時間通りに子供を送り迎えすることの厳しさを実感した。

他の保護者の方たちも苦労されているんじゃないだろうか。


ある日に昼間、保育園から連絡が入る。

真桜が風邪を引いたからすぐ迎えに来てほしいと。

千春と電話で相談する。


「どっちが迎えに行くかなんだけど、僕は無理だよ、このあと点検の立ち合いが入ってる」

「私だって無理よ!この前は私が早退して真桜を迎えに行ったでしょ!今度は慎志が行ってよ!」」

「会社に断れないよ。代替できる人がいないんだ。千春、お願い」

「何よ!私だって毎回、他の職員に頭下げて帰らせてもらうの大変なんだから!簡単に言わないで!」


夫婦ともにフルタイムで共働きすると、子供の不測の事態に対応出来ない。

なかなかに難しい態勢だった。


何度か行き詰まってしまった時、代わりに義母の万葉さんが真桜を迎えに行ってくれた。

救世主である。


「いつもすみません。迷惑かけちゃって」

「迷惑かけたって良いじゃない?家族なんだから」


ああ…万葉さん。本当に良い人だ。

でも常に頼ってばかりではいけない。

万葉さんに何でも甘える前提では駄目だ。

万葉さんにも万葉さんの都合があるのだから。

僕と千春が解決せねば。

真桜のことも思う。

毎回限度時間いっぱいまで真桜を保育園に預けるのは親の都合ではないか。

真桜の気持ちはどうなんだろうと。

そして後悔しない育児とは何か考えた。




千春が大学の職員として職場復帰してしばらく経った頃。


「ただいま〜」

「おかえり⋯」


千春に元気がないな、そう感じることがあった。


もしかして僕が原因かな。

仕事に家事と育児、忙しさに追われる日々。

何でも夫婦で半々でやれたなら良いのだが、偏る時期もある。

千春は過負担に感じていないだろうか。

僕も心に余裕がなくて素っ気ない態度になってしまったり、喧嘩になってしまったり。

そういう事もある。

誰かが短気になると、それが他の家族にも感染するのだ。

どうして妻と子供にもっと優しく出来ないのだろうか。

そう反省することが時々あった。


「ちょっと仕事がね…疲れたわ」


元気のない直接的な原因が仕事だと言うので、僕のせいではなくて良かったと少なからずホッとした。


「大学で嫌なことあったの?」


「何だか以前より居心地が悪いなって。仕事もやり辛くなっちゃったかな」


「今はどんな仕事をメインでやってるの?」


「学費未納の学生やその保護者に電話やメール、手紙で入金を催促するのを延々とね。それと受付で相談受付という名のクレーム対応係。私に丸投げされちゃって」


僕はかつての仕事で営業電話をかけまくり、罵声を浴びせられ断られ続けて心が折れた頃を思い出した。そんな感じの仕事かな。


「産休前は尊敬していた上司の女課長がいるんだけど、今じゃ態度も素っ気なくなった気がする」

「”おつぼね”ってやつだね」

「すぐ感情的になって怒るの」

「面倒くさいね、その人」

「それに…そういった態度を総務課の中で、私にだけしてる気がする⋯」


千春の気持ちは分かる。

僕も同じ経験がある。

大学を卒業してから就職した1社目と2社目。

営業販売を生業としていたが、顧客も上司も仲の良かった同期も、いきなり態度が変わる事があった。

それから僕は若干の人間恐怖症になり、人の顔色をうかがう癖がついてしまったと思う。

人とのやり取りがぎこちなくなってしまう事があるが、これはその時の後遺症のせいか。


「とりあえず無理しないで。何かあったらすぐにまた相談して」


「分かったわ。私も1年以上仕事休んでたし。久々だからまだ私の仕事の手際がぎこちなくて、課長から見たらじれったいのかもしれない。頑張ってみるわ」


「そっか。でも気を張りすぎず、自分を追い込みすぎず、適度に頑張って!」


「あぅ!あぅ!!」


真桜が僕らの話を何も分かっていないだろうけど、千春に向けて声援を飛ばした。


「ほら真桜も応援してるって!」


「真桜〜!ありがとう~!おいで〜!」


千春が両手を広げて、真桜を誘い寄せる。

真桜がハイハイして近づいてきたところを千春は抱きしめた。


「あ〜ん!良い子ね〜!この世で一番愛してるわ〜!」


ちぇっ⋯。

やはり千春が一番愛しているのはもう僕ではないのか。


でも、なんだろう。

僕にはこの光景が、千春が真桜を抱きしめているようには見えなかった。

逆に、母親を心配する真桜が千春を抱きしめているように見えたのだ。





「つらい」


家に帰ると、元気のない千春。妻が暗い顔をする日が続く。

休日も仕事の事を考えて気が休まらないという。

何だか、僕はかつての自分を見ている気がした。

どこの職場も馴染めずに転職を繰り返し、鬱気味になっていた頃の自分。


「やっぱ”おつぼね”の女課長のせい?」

「うん」

「それはもうパワハラだよ!訴えなよ」

「でも完全にそうとも言い切れないの。確かに言ってる事は正論だし。私がミスするのも悪いの」

「そんな、自分を責めないで。千春はこんなに苦しんでるのに。職場に相談出来る相手は?」


「仲の良かった同期の子は辞めちゃってもういないし」

「他の人は?」

「みんな課長の息がかかってると思う。あの人、勤務して一番長い古株だし」


千春は労働環境を巡って戦う意思はないようだった。

だからといって耐え続ける気力もなさそうだ。


「私、もう生理的に課長のこと嫌いになっちゃった。大学のことも」


「私、本当に課長のこと嫌い。感情的に何でも怒って、ネチネチして最悪」




ある日、家にて。


「あ〜!ちょっと!真桜なにしてるの〜!?」


僕は真桜に注意していた。

ちょっと目を離していた隙に、真桜が本棚を散らかしていたのだ。

仕事の資料もあるというのに。


「あぅ!あぅ!!」

「あぅあぅ、じゃないよ!…ん?あ、ああ、ああああ!!」


僕の絶叫が部屋に響く。

なんと真桜が散らかした書類の中には、僕のビル管理士の免状があった。

そしてその免状はビリビリに破かれていた。


「こらーっ!!真桜っ!!!」


僕は怒りに任せて真桜の頭を引っ叩いた。


「うわぁあああん!」


火がついたように泣きわめく真桜。

破かれたビル管理士の免状。

これを取るためにどれだけ苦労したことか。


「ちょっと何してるのよ~?」


台所にいた千春が駆け寄ってきて、泣きわめく真桜を抱きしめる。


「何で叩くのよ?叩く音、台所まで聞こえてきたんだから」

「だって、真桜が僕の大切な資格の免状を破いたから」


「相手は小さな子供よ?」

「小さな子供でもやっちゃいけないことがあるでしょ!」

「…慎志って、もしかして私の見てないところで真桜に平気で暴力振るってるの?」


何だって?


「真桜が暴力に怯えて、大人の顔色を伺いながら生きる子になったらどうするの?」


千春の言い分は話が飛躍し過ぎてる。


「子供が何かしたからってすぐ手をあげて暴力に訴えるなんて幼稚よ!」


「あー分かった分かった。確かに手を上げたのは悪いよ。今後は気をつけるよ。でもそれを大袈裟に捉えて千春はムキになり過ぎ!僕が子供の頃なんて、親もそうだけど学校の先生にも普通に叩かれてたからね!」


「…うちには子供がふたりいるわ」

「なんだよそれ」

「慎志も幼稚で子供!だから私は2児の母親みたいなものね。私はシングルマザーだわ」

「どんだけ屈折した解釈だよ!千春だってよく感情的になって怒るじゃないか、それこそ幼稚なんじゃないの?この前話してた職場の女課長と、千春も一緒だね!」


「…っ」


千春は声を押し殺して泣いていた。

僕は動揺してしまう。

ちょっと待った。

こんな事で泣く千春じゃないだろう。

千春と真桜、我が家の女性たちが泣いている。

完全に僕は悪役だった。



ーーーーーーーーーー



久々に家族三人で晩御飯は外食することにした。

気になっていた居酒屋。

小さな子供もウェルカムな珍しい居酒屋だ。

離乳食がメニューにあるんだから、今の居酒屋って本当に色々なコンセプトがあるな。


千春がひたすら酒を飲む。やけ酒のように。

僕が一杯飲み切る頃に、千春は四杯目を口に運んでいた。

やがて離乳食メニューで真桜はお腹いっぱいになったのか、寝てしまった。


ここからは大人の時間だ。


千春の口から漏れるのは仕事の不満。

千春が笑い飛ばすように世間話する姿を僕は忘れてしまった。

千春の語り口は本当に辛そうだった。

救援のサインだと思った。


だから、僕は切り出した。


「もうさ、仕事辞めちゃいなよ」


「え?」


千春は目を見開き、杯を置いた。

彼女の頬の赤らみが急速に消え、酔いが一気に覚めているようだった。


「そんな…だってずっと続けてきたし、これから真桜も大きくなったらお金かかるだろうし」


「良いじゃん辞めちゃって。千春が苦しんでるの、もう見たくないよ」


千春は僕とは違う。

転職を繰り返し、履歴書がボロボロな僕とは違うのだ。

ずっと彼女は大学職員として頑張ってきた。

さまざまな課を経験し、大学の為に働き、学生を見送り、仕事のやりがいも見出していたことだろう。

だから仕事を辞める事に対しての認識が僕と違うのは当たり前だ。

だけど、このままじゃ千春は病んでしまう。


「お金なら心配しなくていい。残業代や手当を含めて僕の月収は手取りで23万円もあるんだ!千春と真桜を養ってあげる!安心して仕事辞めて良いよ!」


「手取り23万円で偉そうに言わないで!」


すぐに千春からツッコミが入る。

僕はかっこよく決まったと思っていたので、シュンっと落ち込んでしまった。

でも僕は無理に収入を上げる為に過酷な労働環境に身を置くのは抵抗がある。

過去にトラウマもある。

高収入を目指すよりも続けられる環境の仕事を。

それが僕のモットーだった。


「…でも、考えとくわ」


千春が遠い目をしながらぽつりと呟いた。

妻は今、居酒屋の壁じゃなくて、もっと別のものを見ているに違いなかった。




居酒屋からの帰り道。

外灯の光が控えめに照らす広い公園の敷地を歩く。

園内には誰もおらず、僕らの芝生を踏む音しか聞こえない。


「夜の公園って昼間とは雰囲気違ってまた良いよね」

「そうね」


空気も美味しい、夜空の星もきれい、酒の余韻もあり気持ち良い。


僕が抱っこ紐で抱きかかえていた真桜が眠りから覚めた。


「あうー!」

「おはよう。星空が綺麗だね。見える?」

「あうー!!あうー!!」


真桜は犬の遠吠えのような叫び声をあげた。

身体は小さいけれど、まるで命ある者として存在を高らかに宣言しているかのようだ。


「私も…叫んでいい?」


真桜に触発されたのか、千春が言う。


「え?」


「あのクソババァァアア!!!!」


いきなり千春が夜空に向かって暴言を叫んだ。


「過度に干渉してくんな!どうだっていいことを!余計、仕事し辛くさせやがってぇー!」


「ど、どうしたの千春?落ち着いて」


「あんたの古臭いモノサシを何でも押し付けるなぁー!あんたはそんなに偉いのか!!あんたの言う通りにして私の人生、あんたが責任取ってくれるのか~!?」


千春の叫びに呼応するかのように抱っこしている真桜が暴れる。


「どうした?地面に降りたいの?」


「あうー!!」


僕はそれをイエスと受け取り、真桜を抱っこ紐から外し、地面に足を着けさせてみる。


「え?おっ?おおっ??」


なんと!真桜がひとりで立った!

しかも、あっ!ああっ!うわっ!マジか!歩いたっ!!



「真桜が!真桜が立ったぁー!しかも歩いたぁー!!見て!千春!見てーっ!!ああ~!!」


「くっそババァァアアー!!私の心に土足で上がってくるなーっ!!」


「あぅー!あぅあぅーー!!」

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