【第44話】おてんば娘の真桜(まお)
~主な登場人物~
【小峰慎志】
主人公。埼玉県所沢市の賃貸マンションで妻の千春、娘の真桜と暮らしている。
都内の建物の維持管理サービスを生業とする株式会社マホロバ・ビルサービスの社員。
まだ乳児の娘の育児に妻と奮戦。日々、父親の勉強をしている。
【小峰千春】
夫の慎志、娘の真桜と一緒に埼玉県所沢市の賃貸マンションで暮らしている。
都内の大学で職員として働いていたが、現在は育休中。
実家は川越市にあり、父の名は月原篤、母の名は月原万葉。
【小峰真桜】
慎志と千春の間に生まれた女の子。
まだ赤ちゃんなので世の中のことを何もわかっていない。ばぶー!
「べろべろばー!あっはっは!真桜ちゃんは可愛いなぁ~」
妻の父、僕にとって義父の篤さんが豹変した。
真桜を抱っこしてあやす篤さんの顔は緩み切っていて、満面の笑みが逆に不気味なほどだ。
かつての威厳を感じて近寄りがたく、険しい顔をしていた頃の態度は微塵もない。
篤さんの娘でもある千春も、孫が出来てからの父親の豹変ぶりに驚きを隠せないようだった。
「かわいいでちゅね〜!」
無理やり孫の真桜の頬にキスを連打する篤さん。
「ばぶ、ばぶ?」
幼い真桜もキスされながら困惑した表情を親の僕と千春に向けている。
苦笑いするしかなかった。
定期的に川越の妻の実家に真桜を連れて遊びに行く。
その度に義父の篤さんと義母の万葉さんは喜んでくれた。
長野にいる僕の両親にも孫の真桜を見せに連れて行ったことはあるが、まだ一回だけだ。
「おい、慎!真桜ちゃんのおでこに傷の跡がある。まさか…暴力でも振るったのか?」
「いえいえ、この前、家の中をハイハイしてて、机の角にぶつけただけですよ」
真桜はハイハイが出来るようになった。
余程楽しいようで、最近はずっと部屋中をハイハイして動き回っている。
手間がかからずにそのまま様子を見ているのだが、真桜はこの前、机の角に頭をぶつけて怪我してしまった。
目を離した隙に真桜を部屋の中で見失ってしまうこともある。
焦って部屋内を探すと、真桜が浴槽の中にいたことがあった。
まだ立てないのにどうやって浴槽の中に入ったかは謎だ。
お湯を抜いていた状態だったので本当に良かった。
「真桜ちゃんが怪我をしたのは慎の監督不足だ。遠隔暴力だと言っていい」
「真桜は落ち着きがないんですよ。常に動いてばかりで見てるの大変なんです」
ガラガラ…襖が開く。
「賑わってますね~」
義母の万葉さんがお茶と菓子を持って居間に入ってきた。
「万葉、きいてくれ。慎の奴、真桜ちゃんに暴力を振るっているぞ!」
「あらっ、乳児虐待ってやつですね?」
「だから、違いますって!ほら千春からも何か言ってよ」
「お父さん、見て」
千春が長袖をめくって腕を晒す。
そこには数か所、何かに噛まれて内出血した跡が皮膚に残っていた。
「真桜、最近歯が生え始めてきて、噛まれたの」
篤さんと万葉さんが目を丸くする。
「僕のも見てください!」
僕は上着を捲って腹を出した。
広範囲にわたり、爪で引っかかれた跡がある。
「このひっかき傷は全部、真桜にやられたものです」
篤さんと万葉さんが再び目を丸くした。
「私たち、娘の真桜から暴力を受けているの」
「この子、可愛い顔して意外と狂暴なんですよ!」
「お前たち、苦労しているんだな」
篤さんが真桜を抱えながら、しみじみと言った。
「ばーぶー?」
・・・。
「今日は真桜ちゃんを私たちで預かるから、たまには慎ちゃんと千春ふたりっきりで休日を過ごしなさいな」
おお、万葉さんからありがたい提案が。
「本当に良いんですか?」
「お母さん良いの?やったー!」
「あなた、いいわよね?」
「勿論だ。真桜ちゃんは万葉と私に任せなさい。たまにはふたりだけで羽を伸ばしてくると良い」
義父と義母が娘の面倒を見てくれる。
ありがたいことだった。
…本当に大丈夫かな?
「真桜ちゃんこっち、おじいちゃんの方に来なさい」
「おばあちゃんの方に来て」
ハイハイする真桜。
篤さんと万葉さんが両手を広げ、こっちに来いと誘いをかける。
「おじいちゃんの方へ来てくれたら何でも買ってやるぞ」
「おばあちゃんの方が良いわよね?いらっしゃい」
真桜は少し迷った素振りを見せた後、万葉さんの方へハイハイした。
寄ってきた真桜を抱きしめる万葉さん。
「良い子ね~」
勝ち誇った顔をする万葉さん。
「なぜだ!なぜなんだ!なぜこっちに来ない!?」
大袈裟すぎるほど落ち込む篤さん。
本当にこの人の威厳はどこへ行ったのやら。
「何してるの?早く行きましょ?見ての通り、真桜はお父さんとお母さんに任せて大丈夫よ」
「そうだね。オムツや玩具、離乳食も大量にあるし」
そうして僕らは真桜を千春の実家に預け、久しぶりに育児から解放される。
久々に千春とふたりっきりで歓楽街にまで足を運び、ショッピングや外食を楽しんだ。
「今日は息抜きが出来たわね~」
「千春の御両親に感謝だね」
「これからも時々、お父さんとお母さんに真桜を預けて息抜きしましょう!」
「あはは…それは助かるけど、篤さんと万葉さん迷惑じゃないかな?」
真桜を迎えに千春の実家に戻ってくると…。
「お父さん、お母さん、真桜の面倒見てくれてありがとう。おかげでリフレッシュ出来たわ」
「お、かえり…なさい」
「千春、待ちくたびれたぞ…」
絞りだすような声。
万葉さんと篤さんは肩で息をしており、かなり疲れた表情をしていた。
半日の間に何があったというのか。
「ばぶー!」
真桜だけが元気だった。
孫の世話は想像以上に大変だったということだろう。
精神的に参って、孫疲れしてしまったに違いない。
しばらく真桜を預けるのはよそう。
ーーーーーーーーーー
所沢の僕らの住む賃貸マンションに妻の友達が遊びに来た。
僕の知る団子さんと初めて会う天海さんという方。
軽く挨拶した。
ふたりとも千春の学生時代の同級生だ。
ふたりとも幼い子供を連れている。
千春も含めてママ友連合集結だ。
一気に人口密度の上がった部屋で女子会が展開され、談笑が飛び交う。
男の僕が入り込める余地はない。
子供たちは子供たちで仲良く遊んでおり、真桜も溶け込めている。
随分と部屋は賑やかだ。
僕は隣の部屋で勤務中に終わらず、持ち帰った仕事を片付けることにした。
女子会の会話が耳に入ってくる。
子育てや家族のことなど。
盗み聞きのようで申し訳ないが、他の家庭の話が聞けるのは斬新だった。
「この前、息子の初節句で神社にお参りしてきたんだけど。急に雨降ってくるし、息子も体調崩すわで全然良い写真撮れなかったの~!」
「あ~、分かる分かる!イベントの時に限って天気が悪かったり、子供の調子が良くないのよね~!」
「うちの旦那、娘が風邪を引いたときに座薬を娘にしたんだけど、穴を間違えて入れてたのよ~!」
「きゃ~旦那、最悪~!」
そして始まる旦那の品評会。
お〜怖い怖い。
集中できないし、流れ矢が飛んでくる前に僕は退散しよう。
「ちょっと僕は外出してきますね~」
「慎志、ついでにお菓子と飲み物、買ってきて」
千春め…僕をパシリに使いおって。
ーーーーーーーーーー
所沢の僕らの住む賃貸マンションにテツと岡浦が遊びに来た。
「おっす、慎志。ガキを見に来てやったぜ。あ、千春ちゃん、こんにちは」
「小峰くん、久しぶり。千春さんも初めまして」
ふたりとも僕と同い年の友人だ。
テツは以前、僕が一人暮らししていた時のアパートの住人で、今は熊谷の食品スーパーで働いている。
岡浦は高校の同級生で、誰にも敬語を使う癖がある。今は都内で雑誌の編集者をしている。
「おお~!どうぞあがってあがって!」
「私、みんなに何か作ってあげるよ!」
千春が台所へ向かう。
「さっすが千春ちゃん。気が利く」
「ありがとうございます」
・・・。
「へぇ~この子が慎志の娘か」
「幼女の真桜ちゃん…ふふ、可愛いですね!小峰くん!触っても良いですか?」
「どうぞどうぞ」
まるで猫でも撫でるようにして岡浦は真桜を触る。
その時、真桜が岡浦の指を咥え、舐め始めた。
「あ、ああ…」
「こら、真桜、やめなさい」
「小峰くん止めないで下さい!良いんです!このままで良いんです!真桜ちゃんのしたいように!」
どうした岡浦?何故、頬を赤く染めている?
「この子しゃぶるのうまいわぁ」
テツが真桜の様子を見てぽつりと言った。
「何か嫌な発言だな…」
千春が作ってくれたおつまみと軽くお酒も嗜みながらみんなで世間話に華を咲かせる。
真桜が眠たそうになってきたので、千春は真桜を寝室に連れて行った。
寝かしつけてくれるのだろう。
「ところで慎志、俺とお前の仲だ。正直に言っても良いか?」
「ん?どうぞ」
テツが切り出した。
「ここはSNSじゃない。炎上なんてしないから思っていることを言わせてもらうぜ」
僕と岡浦はテツの言葉を待った。
「ずばり、子供なんて作っちまったら人生終わりだと思ってる」
「な、なにを言い出すの山方くん!?」
ああ、これだ。これがテツだ。
辛辣な意見がむしろ彼らしくて落ち着く。
「自分の人生に他人が土足で転がり込んできたようなもんだ。そんでその相手が社会に出るまで面倒をみることになる。時間や金、時には自身も犠牲にして」
テツは次の発泡酒缶を開け、一口飲んでから続けた。
「何故、わざわざ重荷を背負おうとするんだ。それこそ自ら人生の逃げ道を閉ざすようなもんだ。このご時世、コスパもタイパももっと優れた娯楽が豊富だろ。社会は分業化して個人の生き方だって多種多様になった。昔みたいに結婚やガキの出産を押し付けられるような時代じゃなくなったんだ。自分中心で身軽でいた方がよっぽど良くないか?」
僕は黙っていた。
岡浦は何か言い返そうとしていたが、うまく言葉がまとまっていないようだ。
「少子化なんて知ったこっちゃ無いぜ。人口が減ったら減ったで、その都度、経済圏を調整して社会を縮小すりゃ良いんだ。いつか日本の人口が0になる前に頭の良いお偉いさんが何か妙案でも考えるだろ。要はなるようになるってこと。冷静に考えれば人生の自由や選択の幅を狭める結婚や子作りなんて、効率悪いぜ」
テツがそこで一度区切り、再び酒を飲む。
「俺はわざわざ苦労を背負うのは御免だな、時間もお金も自分の為に使うわ。自由に使える時間も金も制限されるなんて御免だぜ」
僕はテツの意見に苛立ちは覚えなかった。
ひとそれぞれ考え方は違うのだ。
それでもひとつ確かなのは、僕は父親となった事に後悔はしていない事だ。
僕と千春の間に真桜が生まれてきてくれて、僕は心底感謝している。
「山方くんの意見も分かります。ぼくも独身で今の生活スタイルを気に入ってるので。でも…生物学的に見たら小峰くんが正解ですよね?子孫を残すのが生命の本能ですから」
岡浦が僕の顔色を窺い、僕の立場を擁護するように唱える。
僕が気を悪くしてるんじゃないかと、岡浦のそういう気遣いが感じられた。
しかし人は生物ではあるが、他の生き物と違ってありとあらゆる事柄を深く考えることが出来る。
自分にとっての優先順位、価値観を構築し、それをもとに物事を判断して生きることが出来る。
そう考えると、生物としての本能である子孫繁栄の願望に囚われない人間は本能の破綻した生き者であると言えるかもしれない。
「それにしても、このご時世に生まれてくる子供は可哀想だな。真桜ちゃんは不幸だぜ」
「不幸?」
「政府の腐敗、経済の低迷、環境問題、貧困の拡大とか色々さ。国民の負担は大きくなるばかり。将来に希望を持てない、それどころか明日さえも不透明なのが今の日本だ。こんなご時世に生まれてくる子供は不幸だぜ」
この意見については、僕はテツに反論した。
「いやいや、不幸かどうかはあの子自身が決めることだよ」
そして愛情を持って子供を育てていけば、きっと真桜はこの世に生まれてきて良かったと思ってくれる。
僕はそう信じている。




