【第43話】華やかな育児は幻想か
~主な登場人物~
【小峰慎志】
本編の主人公。埼玉県所沢市の賃貸マンションに妻の千春と暮らしている。
都内の建物の維持管理サービスを生業とする株式会社マホロバ・ビルサービスの社員。
この度、妻との間に赤ちゃんが生まれた。めでたい。
【小峰千春】
本編のヒロイン。夫の慎志と埼玉県所沢市の賃貸マンションで暮らしている。
都内の大学で職員として働いていたが、娘を出産し、育児休暇中。母親として奮闘。
旧姓は月原。実家は川越市で、父の名は篤、母の名は万葉。
真桜。
それが生まれてきてくれた娘の名前。
僕らが初めて娘に送る大切なプレゼント。
小峰真桜。
新しい家族として迎え入れるうちのお姫様。
娘がこれから僕ら家族の中心となるだろう。
市役所に出産届を提出する。
住民票にも小峰真桜が追加され、マイナンバーも与えられた。
晴れて日本国民、併せて埼玉県民、そして所沢市民となる。
諸々子育て支援の申請もする。
子供の手当優遇は申請しないと受けられない。
初めて書く書類の多さに戸惑いもしたが、ネットにも情報が載ってるし、市役所の人も親切に教えてくれた。
「児童手当って2ヶ月ごとに3万円も支給されるの!?」
「そうみたいよ」
「オムツやミルク代、真桜に必要な乳児用品がタダみたいなもんじゃん。お釣りくるかも」
「それにもし真桜が体調を崩して小児科に行っても診察や薬代もタダ」
「素晴らしい。病気仕放題じゃん」
「ふふ、何その言い方。3歳からは幼稚園・保育園の利用費もタダよ」
「到り尽くせりだ!」
「今のうちだけね」
税金を払っている人たちのおかげか。
ありがたや、ありがたや。
僕は東西南北を順に向いて頭を下げた。
「国民のみなさん、ありがとうございます!この制度を作ってくれた行政にも感謝」
「何、媚売ってんのよ。でも私も1年間は育休手当貰うし、本当に助かるわね」
真桜は静かだった。
自分の立場が分かっていないようでベビーベッドで動かずにぼ~っと宙を見上げていた。
時々泣き出すのだが、声も弱々しく騒音とは程遠い。
そして一日の大半は寝ているのである。
「手、小さいね」
僕は真桜の手のひらを指でつつく。
そうすると僕の指を真桜の小さな手が懸命に握り返してくるのだ。
なんと愛らしいのだろうか。
千春は真桜のほっぺを指でつつく。
「雪見だいふくみたい。あ~、肌の艶、羨ましいわ!」
近場への外出時はだっこ紐を僕か千春の身体に括り付けて真桜を抱える。
ベビーカーも買ったが、エレベーターの付いていない賃貸マンションなので階段の昇り降りが大変だ。
ベビーカーを持ち上げて地上と部屋を行き来するのはそれなりに重労働だった。
「あら〜可愛いわね」
マンションのお隣さんが、すれ違いざまに赤ちゃんの真桜を祝福してくれた。
「ありがとうございます」
心の中で、”僕はそうでしょう!そうでしょう?”とつぶやいた。
千春も自慢げにニヤニヤしていた。
僕と同じことを考えているのだろう。
親バカ発動中である。
ベビー用品は近所の商業施設パルコに西松屋が入っており、とても重宝した。
「あれも可愛い!これも可愛い!」
千春が手当たり次第に買う。
真桜の衣服やら玩具がカゴに積まれていく。
「買いすぎじゃない?」
「だって安いし!」
千春は真桜の物となると衝動買いが多かった。
西松屋に来る度に千春はこうだ。
服やオムツのストックで家は常に溢れかえっていた。
まだ0歳の真桜には使えない玩具も、既に沢山買ってある。
必要なとき、適齢期に買えば良いのではと何度も思ったが、僕は一切文句を言わないことに決めた。
出産で一番頑張ったのは千春なのだ。
千春の気の済むようにやれば良いと思った。
それにしても近所にパルコがあって本当に良かった。
子供用品が豊富な西松屋があるし、100円ショップや本屋、雑貨屋や服屋もある。
服屋と言えば、最近、僕は服を買ってないな。
社会人になってから服を買うことが減った。
学生時代の頃の方がよく服にお金をかけていたと思う。
真桜の服は安いとはいえ、千春は大量に買うから、結局それなりの金額になった。
子供の成長は早いから来年、真桜が着れるかも分からなかった。
最上階フロアにある映画館も真桜が産まれたからしばらくは行けないかな。
いや観たい映画があったら千春と真桜の子守を交代して観に行こう。
そうじゃなくても疲れて気分転換したい時はパン屋やスターバックスで寛げる。
お金を使いたくない時は中庭のテラスで休息だ。
地下の食品スーパーは駅前の食品スーパーと値段や品を比べながらよく交互に利用した。
「あなた行ってらっしゃい」
笑顔の千春が、真桜を抱きかかえながら玄関で僕を見送ってくれる。
「仕事行きたくないなぁ」
「なーに言ってんの」
「あ、真桜がいま笑ってくれた!もう目も見えているのかな?」
「さあどうでしょうね〜。真桜、パパちゃんに行ってらっしゃい〜って」
千春が真桜の小さい手を取り、ばいばいと振る。
「あ〜!真桜〜!離れたくない~!」
そうやって朝はいつもの通勤電車に乗り遅れる事が多々あった。
親ばかここに極まれり。
笑顔で妻と子供にいってらっしゃいと見送られ、帰宅すれば笑顔でおかえりなさいと迎え入れられる。
贅沢なことだと思った。
妻の千春と一緒に愛娘の真桜を育てていく。
絵に描いたような華やかな育児。
子供の成長を間近で見守りながら仲良く暮らしていく。
微笑ましい生活が待っているのだと。
”最初の頃”はそう思っていた。
「粉ミルクも最初は分量をちゃんと測ってね。慣れたら目分量も感覚で分かってくるから。それまでは横着しないでね」
「はいよ」
千春からミルクの作り方を教わる。
ネットや製品に作り方は載っているが、千春は丁寧に僕に説明した。
哺乳瓶にお湯と粉ミルクを入れ、科学の実験のように瓶を振る。
粉ミルクが完全に溶けたら哺乳瓶を冷水につけ熱を冷ます。
熱すぎないように人肌の温度…っと。
真桜はミルクと母乳、両方を与えている。
ミルクを飲ませた後、真桜にゲップさせるのだが、この子は全然ゲップしなかった。
そして大丈夫かなと、時間が経って油断した後でミルクを吐いたりするのだ。
「ゲェェ」
「きゃぁ~!慎志!タオル持ってきて!」
「うわぁ、了解!」
吐き戻した場所がソファーやベッド、カーペットの上だと後処理が大変だった。
不思議なことに母乳だと真桜は吐いたりしなかった。
千春のおっぱいを夢中で吸う真桜。
「千春」
「何?」
「母親やってるね〜」
「あなたも父親でしょ」
「千春」
「何?」
「僕もおっぱい飲みたいでちゅ~!」
「慎志…きもい」
「…冗談だよ」
真桜のおむつの交換も最初は一日に十回くらいした。
「真桜ってば、この歳で頻尿でちゅね~」
「もうちょっとおしっこしてからオムツ交換してみようかしら?」
「そうだね。真桜が泣かないなら、おしっこしててもオムツが不快じゃないってことだもんね」
しばらく経って。
「オムツがおしっこ吸いすぎてパンパンだ。では、真桜さん。オムツの方を替えさせて頂きます」
「おまたのおしっこも拭いてあげてね」
「分かった」
「おんぎゃぁあ!」
「ちょっと慎志、強くウェットティッシュで擦り過ぎ」
ぷ〜ん。
香しい臭い。
今度はうんちだ。
「では、これより真桜氏のオムツ脱着および新オムツ装着の儀に移らせて頂きます」
・・・。
「大変だ!うんちがオムツから漏れてる〜!」
「きゃあ!ちょっと慎志そのまま!もっとティッシュ持ってくるから!」
たまにこういうことがあった。
ひだ付きのオムツでも隙間から漏れる。
数回だけ、もっと凄惨なことがあった。
うんちが真桜の背中の方に漏れて、真桜に着せている衣服や敷き布団が悲惨な事になったのだ。
僕のお気に入りの服も一度だけ、漏れた真桜のうんちにびちょびちょにされた。
うんちはおしっこよりもダメージが大きい。
真桜にとってはどこでもトイレなのだ。
時間が経つと微かに部屋にうんちの臭いが漂う。
固形のうんちならトイレに流せるのだが、赤ちゃんはペースト状のうんちなのでオムツから取れず。
オムツを消臭袋に入れて捨てているのだが、完全にシャットアウトできないみたいだ。
なので専用の消臭ゴミ箱を買った。
赤ちゃんの沐浴。これも神経を使う作業だった。
「おんぎゃああ!!」
「こらっ!慎志!真桜を溺死させる気!?」
「ひぃぃ!ごめんなさい!」
赤ちゃんは繊細なのだ。男のように豪快に洗ってはならない。
それにしても最近はよく千春に怒られる。
怖いなと思うことが増えた。
千春は女性から母親にクラスチェンジしたのだ。
そして千春にとって、僕よりも真桜の方が遥かに地位が高い。
明らかに真桜に比べて僕はぞんざいに扱われている気がする。
真桜は赤ちゃんなのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれども。
僕は少なからずジェラシーを感じていた。
おのれ真桜め…。
「真桜は何でもやってもらえていいね」
「ばーぶ?」
真桜に話しかけるが、何を言われているか、もちろん分かっていない。
「赤ちゃんは食っちゃ寝、食っちゃ寝で、良いご身分だこと」
「ばーぶ!」
真桜のくりっとして澄んだ瞳が、僕の穢れた目を見つめている。
ああ…なんて純粋な瞳の輝きなんだ。
僕には眩しすぎる。
真桜、可愛い。
最も苦しめられたのは夜泣きだった。
寝かしつけは苦労せず、真桜はすんなり寝てくれる。
でも夜中の1時、2時頃によく起きて泣きわめくのだ。
最初の頃はまだ良かった。
泣き声も弱々しく、こんなもんかと思った。
千春が母乳を与えるとまたすんなり寝てくれた。
でも数か月が経ち、泣き方の要領を掴んだのか、段々と声量も上がってきた。
千春が母乳をあげてもなかなか泣き止まずに寝てくれないようになってきた。
そういう時は千春と僕が交代して真桜を抱っこし、寝てくれるまで部屋内を歩き回った。
とにかく寝ていたのに中途半端に起こされる。
これが連日続くとイライラが募った。
寝不足の日々。
仕事の休憩時間に昼食に時間を割くよりも仮眠に充てる事が多くなった。
真桜は夜泣きの極意を体得していた。
酷い時期はほぼ毎夜、そして朝までの間に数回、夜泣きを繰り返した。
あやしてまた寝かしつけても時間が経ってから泣きわめき、起こされる。
壊れた目覚まし時計みたいに。
赤ちゃんなのだから仕方ない。
朝まで起きずに寝てほしいと思っても、思い通りにはいかない。
分かってはいてもイライラが止まらなかった。
そしてイライラの矛先は妻の千春にも向かった。
おそらく妻の千春もイライラの矛先を夫の僕にむけていただろう。
誰かにどうにかして欲しいのだ。
もうギクシャクした。
次の日が早朝から業者の立ち合いなどで出勤が早い時は我慢の限界だった。
イライラで冬でも身体が火照るくらいに。
明日の仕事に響くからと、千春に断って、僕だけは離れた場所で寝る事もあった。
隣りの部屋、廊下、玄関など。
それでも真桜の夜泣き声は聞こえてくる。
泣きたいのはこっちの方だった。
世間で子供の虐待のニュースが取り上げられて、それを見る度に親は最低だなと思って見ていた。
だけど僕も親となって追い詰められているような状況になった時、見えてくるものがある。
子供をどうかしてしまいたい気持ち。
無論、虐待は絶対ダメだが、その切っ掛けとなる入口が見えた。
そこに行ってはいけない。
とにかく忍耐だった。
「ああ!ああああ!!真桜に殺されるーッ!!」
僕は一度、夜中に発狂した。
ーーーーーーーーーー
「あ、おはようございます」
朝、マンションのお隣さんとすれちがい、挨拶する。
「…」
無視された。
あれ?よく挨拶を交わしてたのに。
真桜のことも可愛い赤ちゃんですねって言ってくれたことがあったのに…。
心当たりはすぐに思い浮かんだ。
お隣さんも連日の真桜の夜泣きで迷惑しているのだ。
そうですよね…。
申し訳ない。
もし仮にお隣さんも子育て中だったら、子供の泣き声も”お互い様”の精神で寛容してくれただろう。
でも実際はそうじゃない。
このまま真桜の泣き声が酷ければマンションの管理会社に退去を迫られるかもしれない。
僕らに出来る事。
それは隣の部屋の壁にアマゾンで買った防音シートを貼り、真桜はなるべく角の窓際の部屋にいさせることだった。
子育て。赤ちゃんのお世話。
華やかで微笑ましい日々だと信じていた。
しかし現実はそんな生易しいものではないという事だ。
育児は大変だということは覚悟していたけれど…。
これ程とは。
想像の倍、いや三倍、四倍は大変だった。
もはや戦いの日々である。
真桜が成長して反抗期とかになったらどうなっちゃうんだろう。
今の段階で満身創痍だというのに。
戦々恐々する僕であった。
ーーーーーーーーーー
「真桜、寝たわね。今日もお疲れ様」
「うん、千春もお疲れ様」
夜の20時過ぎ、寝室で真桜を寝かせ、リビングで千春とふたり。
「何か温かいの飲む?」
「あ、いいね、ありがとう」
千春が淹れてくれた狭山茶。
温かいお茶を飲みながら、ふたりで一息つく。
千春の疲れた顔。
笑顔になってもどこか弱々しい。
そうだ。
僕は自分のことばかり考えていたが、千春はもっと大変なのだ。
千春は育休中で仕事は休みだが、僕には仕事がある。
だから家では休憩したい、リラックス出来るのは当然だと思っていた。
しかし千春はどうだ?
仕事は休みとはいえ、真桜に24時間付きっきりなのだ。
育児も仕事、ならばブラック企業も顔負けの長時間労働ではないか。
「千春」
「なに?」
「いつもありがとね」
「ん?うん」
ふたりで真桜の様子を見に寝室へ行く。
真桜はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。
「寝顔可愛いね」
「そうね」
無防備で、無垢で、純粋な、そんな真桜の表情。
愛しい娘の寝顔を見ていると、何もかも許してしまえるから不思議だ。
「まだ世の中のこと、何も分かっていないんだろうね」
「だから私たちが守ってあげなくちゃ」
その通りだ。
こんなに幼い小さな命の真桜を思い通りに従わせようとするのは無理だし、心が擦り減ってしまう。
「でもさ、いつかさ、寂しくなるんでしょうね」
「え?なにが?」
「育児って大変で、毎日が戦争みたいで…でもそんな日々が、いつか恋しく思えるんでしょうね」
「…今だけってことか。そう思えば真桜のお世話が出来る限られた時間は貴重かも」
「そうよ。真桜が大きくなったら、オムツの交換も、ミルクを与えるのも、お風呂に入れるのも、寝かしつけるのも、する必要はなくなるわ」
今は大変でも、いつか育児に奮闘していた頃を懐かしんで、逆に寂しく思う時が来るかもしれない。
千春の言いたいことは、そういうことだろう。
「真桜の笑い声も、泣き声も、聞けなくなったらきっと寂しくなるわね」
遠い未来、真桜とは同じ屋根の下、一緒に過ごすことも無くなるだろう。
実家から離れて暮らす今の僕と千春みたいに。
「だから真桜を大切に育てないとね」
千春が笑う。
今度は力強い笑顔だった。




