【第42話】春風とともに産まれた命
~主な登場人物~
【小峰慎志】
本編の主人公。埼玉県所沢市の賃貸マンションに妻の千春と暮らしている。
妻が妊娠しており、臨月を迎える。今春に赤ちゃんが産まれ父親となる予定。
【小峰千春】
本編のヒロイン。夫の慎志と妊活の末、子供を身籠り、いよいよ出産の時を迎える。
それは週末の深夜、僕も千春も就寝中の時だった。
「爆発したーっ!」
唐突な千春の叫びで目が覚めて飛び起きる。
「いきなりどうしたの!?びっくりしたよ」
「私の中で、”何か”が爆発した!」
「”何か”って、何?⋯ま、まさかお腹の赤ちゃん?千春!産気?陣痛とかない?」
「いや、体調は何も」
なんだ、焦ったけど杞憂だったな。
「千春ってば変な夢でも見たんじゃない?」
「そうかなぁ⋯」
出産予定日はまだ2週間先である。
寝ぼけて寝言とともに起きたのだろう。
それにしても爆発って⋯やれやれ、ハードな夢でも見たのだろう。
再び布団を被り眠りにつこうとしたその時⋯。
「痛い、痛い!痛い!!」
千春の切羽詰まった声が部屋に響く。
「赤ちゃんがお腹の中で暴れてる!」
「普通の胎動じゃなくて?」
「分からない!でも何だか今までと違う、この子の本気を感じるわ!」
「え、どういう事?」
僕は消灯していた部屋の電気を点けて、千春の膨らんだお腹に目をやる。
もごもご活発に動いていた。
これは確かに胎児の本気を感じる。
「痛い!痛い!ちょっとタイム!!」
千春の顔は苦痛に歪んでいる。
千春の尋常ではない様子に、僕は事態の重さを感じた。
もしかして赤ちゃんが産まれようとしているのかもしれない。
「とにかく、病院に連絡するよ!」
「お、お願い」
戸瀬病院に電話をかけ、妻の容態を話す。
そしたら今から病院に来て下さいと返答があった。
「千春!今から病院に来てだって!」
「う、うぅ⋯」
「大丈夫?タクシー呼ぶよ?」
「う、うぅ⋯」
僕は緊急時の為に冷蔵庫に貼っていたタクシー会社の電話番号を書いたメモ用紙を手に取った。
スマホで電話番号を入力する指が震えている。
僕は若干、混乱していた。
タクシーを手配してしばらくすると、外から車の走行音。
窓から見下ろすとマンション前の道路で停車するタクシーが一台。
「タクシー来てくれたよ!」
「う、うぅ…」
僕は外出の為に服を着替えていたが、千春は着替える余裕がなかった。
僕はパジャマ姿のままの千春を導くように同伴し、一緒にタクシーに乗り込んだ。
タクシー会社に電話した時に妻が産気づいていると伝えていたからか。
タクシーの後部座席にはシートが被せられていた。
おそらく破水した時の為の処置だろう。
しかし千春に破水の様子は見られなかった。
それでも…
「あっ!ああっ!やばい!やばいやばい!」
「産まれそう?」
「すごい!この子、荒ぶってる!外に出る気満々!」
千春は苦しそうだが、顔は半笑いしてるようだった。
本当に辛いのか、この状況を楽しんでいるのか、いまいち心の状態が分からない。
タクシーが戸瀬病院に到着した。
お会計が深夜料金のはずなのに2000円程度だった。
安い!
「元気な赤ちゃんを産んで下さい」
タクシーの運ちゃん、あなたは仏様か!
病院の入り口でインターホンを鳴らし、状況を伝える。
「いよいよね、慎志」
「そうだね、千春」
「立ち合い出産できるかしら?」
「うん、僕もそばにいるよ。赤ちゃんが産まれてくるの待ってる」
明日は会社が休みだ。
…いや日付はもう変わっているので、今日は会社が休みだ。
そういう意味ではタイミングが良かった。
出産に何時間かかろうとも、とことん待てるぞ。
やがて病院の玄関に看護師がやって着た。
「申し訳ありませんが、旦那様は病院内に入れません」
「へ?」
僕も千春も目がキョトンとした。
「今、巷を騒がせている新型ウイルスの流行で、奥様以外は病院内には入れない事になってるんです」
なんてこったい!
「来月から解除されるんですが、今月はまだそういう決まりで…」
そんな…。
「慎志、家に帰ってて。私行ってくるわ」
「千春…分かった。離れてるけど、僕も寝ないでずっと起きて待ってるよ」
「ありがとう。出産の連絡を楽しみにしてて」
「千春と赤ちゃんの無事を祈っているから!」
そうして僕と千春は分かれた。
ひとり真夜中の暗い歩道を歩く。
自宅のマンションまで歩いて30分以上かかる距離だが、タクシーを呼ばずに歩いて帰りたい気分だった。
夜風が吹く。
まだ夜は冷える季節だが、風は寒く感じなかった。
むしろ温かく、どこか懐かしい気持ちにさせる風だった。
町は静まり帰り、僕以外に出歩いている人は誰もいない。
車道を走る車もなかった。
信号も意味を成さず、赤と緑の点灯を繰り返している。
軒並みの家々も窓は等しく電気が点いておらず消灯していた。
二十四時間営業のコンビニは照明は点いているが、外から店内を覗くと客も従業員もいなかった。
僕は静寂の夜空を見上げる。
澄み切った暗闇の大気は、そのまま宇宙空間のように感じられた。
幾つかの星が瞬いて見える。
星々の下、まるで世界中には僕しかいないような気分だ。
でも寂しくはない。
居心地の良い静寂に、逆に胸は高鳴る。
遂に子供が産まれるのか。
僕が父親になるんだって。
こんな未来がやって来るとは、改めて人生って感慨深いな。
少しだけの間、歩道から路幅の広い車道に出て、スキップしてみた。
るんるんるん~♪
そして思いっきり走ってみた。
うおおおおお~!
正直な気持ちが身体を使った行動に表れたのだろう。
息を切らせながら歩道に戻る。
久々に全力で走った気がする。
吐いた息がわずかに白く曇った。
再び夜空を見上げる。
煌めく星たち、そして宇宙に思いを馳せる。
光年という人の尺度では到底推し量れない途方もない空間。
広大な宇宙にとって地球とは、取るに足らない小さなものだろう。
そしてそんな地球という小さな世界の更に小さな場所で。
もっとも~っと小さな命が誕生しようとしている。
宇宙からしたら、本当に取るに足らないあまりに小さな命。
人の一生なんて、宇宙の広さや歴史と比べたらきっと無に等しい。
刹那の幻に過ぎないだろう。
でも。
僕にとって。
僕にとっては、産まれてくる子供は、何よりも大きく、かけがえのない命に違いなかった。
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
【翌朝】
「くかー!!」
「むにゃむにゃ⋯。ん、んん!?」
カーテンの隙間から日差しが部屋の中に漏れている。
「しまった!いつの間にか寝てた!てか、もう朝やんけ!」
慌ててテーブルに置いていたスマホを手に取る。
画面を確認すると⋯不在着信5件。
しまった!絶対に千春からだ!
ラインにも10通以上メッセージが送られていた。
恐る恐るアプリを開いて文面を見る。
”赤ちゃん産まれたよー!元気な女の子~!”
”もう本当に大変だったんだから~!”
”でも無事に出産できて本当に良かった〜!”
”写真送るね!”
添付された画像には助産師さんに抱かれているところどころ血の付いた赤ちゃんの姿。
そして頬がこけて力なく笑う千春が分娩台のベッドに横たわる姿。
おお!遂に赤ちゃんの顔が見れた~!千春も無事で良かった~!
”念願の私と慎志の娘だよ〜!”
”何だかお猿さん⋯というより大仏みたい。どっち似だろうね(笑)”
確かに⋯大仏様のようなご尊顔だ。
”おーい、電話出てー!返信してー!”
”どうしたの?何かあったの?”
”慎志?”
”まさか…寝てんの?”
”私が出産頑張ってる間、起きてるって言ったよね?”
”待ってるからって言ってたよね?”
”赤ちゃん産まれた大事な時に、私と赤ちゃんより睡眠を優先させたのね?”
”おーい、慎志!電話出てー!返信してー!”
”殺すぞ!”
殺すぞって、恐ろしいメッセージ送ってきたなぁ。
とにかくすぐ電話だ!
ーーーーーーーーーー
千春は3時間のスピード出産だった。
「ごめんごめん寝ちゃってて。でも千春も赤ちゃんも無事で良かったよ~」
「別にいいわよ。代わりにお父さんとお母さんが電話に出てくれたから。慎志より先に出産の喜びを分かち合ったわ。慎志の御両親にもラインでメッセージと写真を送ってあるから」
「あはは⋯」
千春とビデオ通話でやりとりする。
早く千春に会いたい。赤ちゃんにも会いたい。
病院で待たせてくれていれば、もう対面出来ていただろう、おのれ新型ウイルスめ。
「私ね、赤ちゃんが産まれてきた時は、痛みなんて忘れるくらい感動すると思っていたの」
「うんうん」
「でも写真も送ったけど、赤ちゃんはお猿さんのような、大仏のような顔で。正直ね、これは…可愛いのか?って戸惑っちゃった。ふふふ」
「あっはっは、そうだね。なんというか、既に貫禄のある顔だったね」
「赤ちゃんが出た後もね、胎盤がなかなか取れなくて、手を突っ込まれて痛かった~」
想像するだけで背筋が凍った。
「会陰切開してね。お股の間を切ったの!凄く痛かったし、まだ痛い!」
それまた想像するだけで身体が震えた。
結局、千春は当初予定していた無痛分娩が出来なかった。
予定より産気が早く、病院に駆け込んだ時に麻酔の担当者がいなかった為だ。
千春はそのせいで無痛分娩が出来なかったが、後々になって卵管造影の方が痛かったと語った。
「無痛分娩しなかったから10万円浮いたわ。私が使ってもいい?」
「どーぞどーぞご自由に」
「でもこの子の為に取っておこっかな」
退院は数日後になるという。
「退院はまだだけど、赤ちゃんは見に来れるよ!」
翌々日に千春の両親と一緒に赤ちゃんと千春の面会に行くことになった。
既に千春から長野の両親にも無事に娘を出産したことを連絡済みだが、僕も長野の両親に連絡を入れた。
ーーーーーーーーーー
翌々日。
千春の御両親と共に病院を訪れた。
マスク着用、面会は30分だけという条件での来院。
やはり新型ウイルス対策で病院側も仕方なく対応を取っているのだろう。
千春は車椅子に乗ってやってきた。
立つことも歩くことも辛いということだろう。
千春も勿論マスクをしている。
「大丈夫?」
「なんとか…ね」
白い肌着を身に纏う千春は力なく答えた。
短い間で随分とやつれたように見える。
「会陰切開したところが痛いの、トイレも怖くて」
まるで災害で被害を被った後のように千春は弱々しい姿だった。
それだけ頑張ったということだ。
「千春、出産お疲れ様!」
「千春、良くやったな!」
「千春、頑張ったわね!」
お義父さんの篤さん、お義母さんの万葉さん、そして僕も千春に労いの言葉をかける。
「みんな、ありがとう」
千春は産後の弱った身体とは真逆に満面の笑みを作った。
千春の乗る車椅子を僕が押して一同は新生児室へと向かう。
ガラス張りになっている部屋。
通路側から覗くと中で横たわって寝ている赤ちゃんたち。
「言わなくても分かるぞ、この子が千春の赤ちゃんだろう?」
そう言って新生児のいるガラス越しに近寄る篤さん。
喜々として一番はしゃいでいるように見えた。
普段の頑固そうな風貌は微塵もない。
「あら、そうね。この子が千春と慎ちゃんの赤ちゃんね。ふたりに似てるもの」
万葉さんもふふっとほほ笑んで興奮気味にガラス越しからその新生児を覗く。
ふたりの初孫が出来て嬉しい気持ちがひしひしと伝わってくる。
しかし、篤さんと万葉さんがが見ている新生児に僕は違和感を覚えた。
えっと…本当にこの子か?
「なかなか可愛いではないか。新生児室にいる赤ちゃんで一番愛嬌がある」
「そうね。うちの子が一番可愛くみえてしまいますね」
「さすが千春の子だ。それに比べて隣に寝ている子は仏像のような顔だな。うちの子の方が断然可愛い」
「あらあら、あなた。気持ちは分かりますけど、そんなこと言っちゃ駄目ですよ。みんな可愛いです」
ガラス越しから赤ちゃんを見て嬉しそうに語り合う篤さんと万葉さん。
「あの…お父さん、お母さん、その子じゃない。隣に寝てる子が私と慎志の赤ちゃんなんだけど」
千春が気まずそうに告げる。
「あ…そうなのか」
「え、そうなの」
千春が産んだ孫娘を間違えて、苦笑いする義父の篤さんと義母の万葉さん。
若干焦ってる感じだが、すぐに切り替える。
「千春、お前の産んだ子が一番だ!」
「そうそう、可愛い孫が出来て本当に嬉しい!」
面会はすぐに終わってしまった。
千春は退院までもうしばらくかかる。
退院までの間に赤ちゃんへの母乳のあげ方や沐浴の仕方など色々教わるのだという。
病院での食事を写真に撮って送ってくれたが、まるでホテルのビュッフェのように豪華だった。
しかし、千春は食欲がなくて毎回半分以上残してしまったそうだ。
僕はその間、スーパーで買った総菜弁当が食事のメインだった。
ひとりきりの就寝はなんだか落ち着かなかった。
孤独なんて感じなかったのに、今では何故か心細い。
妻と産まれてきた娘と早く会いたかった。
そして待ちに待った千春の退院の日。
ふたりの赤ちゃんを家に迎え入れる日。
病院まで迎えに行き、初めて娘を抱きかかえる事が出来た。
「軽い、柔らかい。なんかガラス細工みたいで思いっきり抱きしめたら壊れそう」
「そうよ、だから優しくだっこしてあげてね」
軽いけど重い命。
我が家に産まれた新しい家族。
今後の僕らの生活の中心になるであろう、お姫様の誕生である。
タクシーで自宅の賃貸マンションまで帰る。
「ようこそ、ここがあなたのおうちですよ~!」
「これから一緒に暮らして沢山思い出を作っていきましょうね」
僕と千春、ふたりで赤ちゃんを抱きしめて家に迎え入れた。
当たり前だが、赤ちゃんは何が何だか分かっていない様子だった。
部屋には月原家から頂いた粉ミルクやオムツなどの乳児用品の入った段ボール箱が大量あり、部屋を囲むように山積みになっている。
全てはこの腕の中で眠る愛娘の為のもの。
「凄いね…まだ実感わかないや」
「そうね」
「あ~、女に生まれて良かったわ~」
「なんで?」
「だって、女は全部経験できるから。男はどんなに頑張ったって子供は産めないもんね」
「はは、そりゃそーだ」
そこに出産して疲れ切った表情をしていた頃の千春はいない。
千春の眼差しからは力強い意思が感じられ、堂々とした母親の表情を浮かべていた。
「赤ちゃんの名前もそろそろ決めないとね。市役所に出産届出さないと」
「名前の候補もだいぶ絞ったけど。慎心、最後はあなたが決めてあげて」
「僕が決めていいの?」
「ええ。慎志からこの子へ最初の、大事なプレゼントを送ってあげて」
大役だ。
でも極めて大切なこと。
カーテンが揺れ、窓の外から春の温かい風が吹き込んできた。
それはとても心地の良いものだった。
この子の名前は⋯




