【第41話】妊婦様ご乱心
~主な登場人物~
【小峰慎志】
主人公。埼玉県所沢市の賃貸マンションで妻の千春と一緒に暮らしている。
【小峰千春】
ヒロイン。妊婦で、夫の慎志との子供をお腹に宿している。
妻の千春がめでたく妊娠した。
順調にいけば10か月後に僕と千春の間に赤ちゃんが産まれる。
これは人生の一大事である。
僕が父親になる、なんだか現実感が湧かない。
卑屈で、臆病で、メンタルも弱くて、自分勝手で優柔不断。
自己肯定感が低いくせに自分に情けをかけて被害者意識は人一倍ある僕。
その僕がパパに!?
改めて考えると戸惑いの感情に直面する。
でもじわじわと嬉しさが溢れてくるのであった。
「ひゃっほーい!ねぇ千春!さっそくお互いの両親にも報告しようよ!」
「待って、市販の妊娠検査薬の結果も間違いないと思うけど、ちゃんと産婦人科クリニックで診てもらいましょう?」
「プロのお墨付きを頂くわけだね!了解!」
そうして後日、千春と一緒に産婦人科クリニックへ。
医師から妊娠確定を告げられた。
「やったね!それじゃあ両親に報告しよう!」
「待って、この時期って流産しやすい時期なの」
「流産?」
「ええ、だいたい妊娠10週くらいまでは油断できないわ」
「そんな、流産なんて身体に無茶させなければそうそう起きないでしょ?」
「慎志、勉強不足。流産は普通に過ごしていても、誰にだって起こるかもしれないんだから。この時期の流産が最も多くて、確率は2割いくかいかないか、それくらいに考えておいた方がいいわよ」
「そんなに?」
「ここだけの話、団子も一人目の凜ちゃんの前に早期流産したって言ってた」
「そうなんだ…」
団子さん、千春の友人で明るい性格が印象的だったけど、辛い思いしてたんだな。
「だから万が一を考えて、10週を過ぎて落ち着いてから両親には報告しましょう?」
「分かった!」
「慎志、私が流産してしまわないように、しばらく家事全て任せたわ」
「え?あ、そういうものなの?」
産婦人科クリニックで赤ちゃんを出産する病院を検討するよう言われた。
近くの病院を調べて、最寄りにある戸瀬病院を希望することにした。
医師からこれから千春の悪阻が始まるけど、頑張るよう激励された。
悪阻は妻が妊娠した夫婦の最初の試練だと。
悪阻は千春に起こるが、これは夫の僕も妻の立場で当事者として当たるようにと念を押された。
それだけ辛いということか。
身構えていたのだが、悪阻の時期とされる期間に入っても千春は元気だった。
相変わらず細身なのによく食べる。
「悪阻って個人差があるって言うし、私は症状が軽いのかもね」
「千春が何事もなくて良かったよ」
千春と買い物から帰ってきて家で寛ぐ。
千春は買ってきた松屋の牛丼と貢茶のタピオカ紅茶を飲み食いしながら、ゲラゲラとテレビを見て笑っている。
いつもと変わらない休日の昼下がりの光景だ。
その時だった。
「うっ!気持ち悪い」
千春が口元を抑えてトイレの方へ駆け出す。
それが悪阻の始まりだった。
トイレまで間に合わず、千春はキッチンのシンクに吐いた。
ペーストされた牛丼と形を保ったままのタピオカが排水口に詰まっている。
「大丈夫?」
「気持ち悪い…ちょっと横になってるわ」
千春が体調不良で仕事を休む。
それも一日や二日じゃなかった。
悪阻で有給休暇を消費していく。
「職場の人に恨まれてないかな?」
「大丈夫だよ。みんな分かってくれるさ」
「何か食べる?」
「ありがとう、でも食欲ないわ」
「気持ち悪い。ずっと船酔いしてるみたい」
「僕らが住む地球は大きな宇宙船みたいなもんだ。どう?うまいこと言った?」
「は?」
「あ~もぅ、髪もボサボサ。お風呂に入る元気もない。この苦しみ、男にも味あわせてやりたい」
この時期、家事は本当に僕が全てやることになった。
正直言うと、千春が悪阻で大変なのも分かるが、ムッとする時も多々あった。
しかし、この展開は想定済みである。
ネットで妊娠した妻との接し方について、あらゆる情報を収集して予習していた。
千春が怒りっぽい時も、ご乱心の時も、そういうものだと我慢した。
千春はもっと我慢しているだろうから。
この時期の夫の態度を、妻は出産後も忘れることなく後世にまで根に持つという。
僕という器が試されている気がした。
妊娠届を提出し、役所から母子手帳を手渡される。
母子手帳を確保し、千春と再び産婦人科クリニックへ訪れる。
紹介状を書いてもらい、今後は分娩予定の戸瀬病院へと通う事になる。
「それじゃあ元気な赤ちゃんが産まれますように」
「はい!今までありがとうございました!」
僕と千春は頭を下げて医師にお礼を言った。
流産しやすい時期を過ぎ、僕らは千春のお腹のエコー写真を添付してお互いの両親に報告した。
そしてある休日、川越の千春の実家を訪れると。
「あの⋯何ですか?部屋を囲むこの大量の乳児用品は?」
紙オムツ、粉ミルクなどが入った段ボール箱が所狭しと積み重なっているのを僕は指さした。
かつて何度もお邪魔し、広々としていた居間が今では乳児用品の倉庫みたいになっている。
「気が早かったかしら?赤ちゃんが楽しみでついつい」
義母の万葉さんは照れ笑いを浮かべる。
心底、初孫が産まれてくるのを楽しみにしている様子だ。
千春も万葉さんの喜ぶ顔を見て嬉しそうだ。
「どこの病院で出産するか決めたのか?」
義父の篤さんが聞いてくる。
いつも表情が岩のように厳顔で険しい目つきなのだが、最近は少し柔らかくなった印象だ。
「住んでるところから比較的近い戸瀬病院という場所で出産予定です」
「川越で産みなさい」
「え、何でですか?」
「所沢よりも川越で産まれた方が子供に箔が付く」
どういう理屈だ。
「お父さんお母さん、私ね、無痛分娩にしようと思ってるの」
千春が話題を変える。
「無痛分娩?なんだそれは?」
篤さんと万葉さんには馴染みのない言葉だったかもしれない。
僕と千春は麻酔を用いることで出産時の痛みを緩和する処置だと説明した。
「わたしは感心しないな。出産時の苦痛が母親になる自覚、その覚悟の総仕上げになるんだ」
「でたっ!お父さんの偏った考え」
「そうよあなた、何様なの?」
千春と万葉さんから非難を浴びる篤さん。
月原家は女性が強いようだ。
失言だと咎められた篤さんは少し居心地が悪そう。
僕が千春との結婚を承認してもらおうとしていた時期に感じていた篤さんの威厳はどこへやら。
「別にいいじゃない、負担減らせるなら」
「そう言うが万葉、お前は出産の時、無痛分娩などしなかっただろう?」
「ええ。でも今は選択肢が広がって自由に選べる良い時代よね」
そう言う万葉さんの笑顔はいつながら天使のように感じてしまう。
千春も篤さんはともかく、万葉さんが無痛分娩に理解を示してくれて安堵しているようだった。
「お母さんが私を出産した時の話、聞かせて~!」
「良いわよ」
そうして万葉さんが千春を妊娠出産した頃の話を語る。
僕と千春は熱心に話を聞いた。
「で、出産予定日はいつなんだ?」
「来年の春頃です」
「楽しみだな。慎、守ってやれ」
「はい」
篤さんが僕の肩を叩く。
親が孫の誕生を楽しみにしてくれる。
とても温かい気持ちになった。
戸瀬病院での定期健診。
エコー写真を撮られる。
「最初はエイリアンみたいだったけど、どんどん人の形になってる」
「このおでこの部分の突起が可愛いね。それに手の指の形、はっきりしてきたね」
千春のお腹の中、羊水の中の胎児の姿。
僕らは産まれる前の子供の姿に興奮するのだった。
千春が再び大食いに戻った。
「だって二人分食べないとじゃん!」
勢いのある食べっぷりを見て、僕は苦笑いする。
もう悪阻のような気持ち悪さもないという。
後期悪阻も千春にはなかった。
きっと最初の悪阻の時に、辛さが一気にきたのだろう。
「あ~!はやく酒を浴びるほど飲みたい!慎志、出産したら回転寿司に週一で通うわよ!」
千春は妊娠中に控えた方が良いと言われている飲み物、食べ物を律儀に避けていた。
千春が情緒不安定になっている。
最近、よく泣いているのを目にする。
「どうして泣いているの?」
「ネットで妊婦のブログ見てたんだけどね、胎児の首にへその尾が巻き付いて大変だったんだって」
「それで心配して情が移って泣いてるんだね。その赤ちゃんは無事だったの?」
「うん、緊急で帝王切開して大丈夫だったんだって。でも、もし私も同じような状況に置かれたらと思うと…」
「そうだね」
赤ちゃんが無事に産まれてくるのを願うばかりである。
「千春、また今日も泣いてる。どうしたの?」
「車の免許の更新で警察署に行ってきたんだけど、講習で交通事故のビデオ見せられて…」
「うん、それで?」
「まだ小さい子供が車に轢かれちゃうの。もう悲しくって…」
「お、おぅ、そうなんだ」
千春の感受性が爆上がりしている。
「千春、また泣いてるね。今度は何があったの?」
「さっきスーパーに買い物に行ったんだけどね…」
「うん、それで?」
「店内で流れていた音楽が優しすぎて、もう感極まって涙が止まらないの」
「いや、それはさすがにメンタルの均衡が崩れすぎでしょ!」
そんなこんなで千春が心を乱すことが時々あった。
妊婦というのは想像以上に繊細なのかもしれない。
ーーーーーーーーーー
新年を迎える。
僕の勤める建物の維持管理を生業とする株式会社マホロバ・ビルサービス。
この時期に次年度の社員の配置転換の連絡がある。
連絡を受けた者は滅多なことがなければそのまま辞令となり、人事異動が決定する。
僕には特に人事の連絡が降りず、引き続き東京支社の設備部の巡回課に所属することになった。
しかし、入社時期からお世話になった巡回課、課長の細渕さんが次長のポジションで大阪本社へ。
そして営繕課、課長の安田さんが仙台の新事業所へ立ち上げ要員として異動することになった。
僕の面倒をよく見てくれて、何度も助けてくれた二人。
東京支社から去ってしまうのが寂しかった。
「そんな暗い顔しないでよ、小峰くん」
「はい…でも本社へ異動になるなんて、さすが細渕さんですね。やっぱ僕なんかと器が違います」
「器といえば、小峰くんの奥さんは妊娠中でしょ?優しく気遣ってあげてね。人間誰だって、機嫌の良い時は人に優しくなれる。そうじゃない時も優しくなれるかどうか、それが男の器さ」
「はい!肝に銘じておきます!」
「あーあ、オレが大阪に行きたかったぜ」
安田さんが会話に入ってくる。
「安田さん、性格的に東京よりも大阪の方が性に合いそうですもんね」
「なんだ、小峰?馬鹿にしてるのか?」
この頃になると僕も安田さんに対して言う事は言える間柄になっていた。
細渕さんと安田さん。
二人とも僕の尊敬する上司だ。
異動してしまったらもう会えないかもしれない。
僕はなんとも言えない気持ちになった。
「お二人には本当にお世話になりました!本当にありがとうございました!!」
感謝の気持ちを伝えるが、少し泣きそうな声になってしまった。
「小峰くん、異動は次年度の春だから。まだまだ時間あるよ」
「そうだぞ小峰、気がはえーぞ?」
「時期が近付いたら東京支社で送別会もあると思いますけど、これからは退社のタイミングが合えば是非、僕に付き合って下さい。飲みに行きましょう!僕が奢りますよ!」
「生意気言ってんじゃねーよ」
「はは、後輩に奢らせるのは気が引けるな」
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そうして時は流れ、いよいよ春がやってくる。
出産予定日が近づいていた。
千春が産休期間に入った。
赤ちゃんが産まれたあと一年はそのまま育休に入る予定だ。
「なんだか、大学には申し訳ないわ」
「何言ってんの。国が定めた当然の権利だよ!」
出産一時金や育児休業給付金の段取りも済ませた。
しかし、まだ大事な事が決まっていない。
「名前、どうしよっか」
「悩むわね」
千春が膨らんだお腹を撫でながら考えに耽る。
何度も見た光景。
子供の名前の候補はふたりで50通りほど挙げた。
しかしそこから絞れない。
もしかしたらどの名前にしようか悩むこと、それ自体を楽しんでいるのかもしれない。
「お腹、だいぶ膨らんだね」
千春のお腹は目を見張るほど大きくなっている。
僕も千春と一緒に膨らんだお腹を優しく撫でる。
「慎志、父親になる準備オッケー?」
「え?あ、うん。でもまだ半分夢を見てるような気持ちかな」
「私も。ちゃんと母親できるかなって、少し不安かも」
誰だって初めて子供を授かる時は、きっと不安を抱くんじゃないだろうか。
父親になるということ、母親になるということ。
大きな責任であると同時に、僕らにとって大きな喜びだった。
「二人きりの夫婦生活も、もうお終いね」
「きっとこれからは、今まで以上に賑やかな毎日が待ってるよ」
いよいよ臨月だ。




