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【第39話】むなしい身体の交わり

~主な登場人物~


小峰慎志(こみねしんじ)

本編の主人公。既婚者で妻の千春と埼玉県所沢市の賃貸マンションで生活している。


小峰千春(こみねちはる)

慎志の妻で旧姓は月原。以前は川越市民だったが今は所沢市民。夫と妊活に励んでいる。

挿絵(By みてみん)




最近、千春が体調不良を訴える事が増えた。

下腹部が頻繁に痛み、生理の時も以前とは比べ物にならないほど辛いのだと言う。


「ただいま~」


千春が婦人科クリニックから帰ってきた。

表情が曇っている。


「おかえり!どうだった?」


クリニックでの検査の結果、”チョコレート嚢胞”と診断されたという。

子宮内膜症の一種で、月経のたびに経血が卵巣内に溜まってしまう症状。

溜まった血液は古くなって、チョコレートの様な液体になることでチョコレート嚢胞と呼ばれている。

発症の原因ははっきりと解明されておらず、女性ホルモンが何らかの影響を及ぼしているらしい。


「で、チョコレート嚢胞はどうやって治療するの?」

「酷い状態だと手術するみたいなんだけど、私の場合、薬物療法だって。薬を貰ってきたわ」

「手術にならなくて良かったね。千春が早く良くなりますように」

「…うん」


「ねぇ、慎志」

「なに?」

「私ね、クリニックで不妊の相談もしてきたの」

「そうなんだ」


千春は結婚して一緒に住み始めた時から子供が欲しいと言っていた。

だから夜の夫婦の交わりも、千春の排卵期のタイミングは欠かさずに致した。

それでも現在に至るまで1年以上妊娠しなかったわけだが。

まだそれだけしか経っていない、たかだかそれだけの短期間で妊娠できなかっただけで。

それを”不妊”と捉えるのは、早とちりなのではないか。

その時の僕はそう思った。


「今回、チョコレート嚢胞って診断されて、それが不妊の原因かもしれないって医師に言われたの。炎症による内膜の癒着によって、妊娠し辛くなるんだって」

「そっか、じゃあ尚更治療して治さないとね」

「うん。でもね、もしかしたら不妊の原因となる他の可能性が考えられるから、チョコレート嚢胞の治療が終わってから卵管に関してまた別の精密検査をすることを医師に勧められたわ」

「精密検査?そっか…」


”不妊となる他の原因”

千春の表情が曇っている本当の原因はこれだと思った。

医師から別の精密検査を勧められる…その経緯はチョコレート嚢胞を診断されたその延長として自然なことなのだろうか。

一抹の不安を抱えたまま、千春の薬物療法が始まった。




それからしばらくして、千春の容態は投薬治療によって改善された。

これでこの件は、めでたしめでたし、で終わると思っていたのだが。


「あのね、不妊の精密検査を受けてきたんだけど…」

「うん、どうだった?」


「私、妊娠し辛い体質みたい…」


なんて言い返せば良いか、僕は咄嗟に言葉が出なかった。


千春は医師から説明を受けたことを僕に話した。

卵管のねじれと変則的な収縮。

そして精子が卵子と受精する合路およびその過程での酸性と塩基性のバランスに異常があるという。

これに関しては病気とかではなく、言わばその女性の体質的なものだという。

不妊の原因がチョコレート嚢胞の後遺症の類ではなく、千春の身体の先天性的なものが関わっているのならば、どうしようもない。

妻の落胆する表情、女性としてショックだった事は僕も想像できる。

少しだけ…少しだけ雲行きが怪しくなってきた。

僕はそれを振り払うように千春に言う。


「”妊娠し辛い”ってだけで、”妊娠できない”って言われたわけじゃないでしょ?そんな気を落とさないでよ。とりあえずチョコレート嚢胞が治って良かったね!」

「…うん」


それでも千春の浮かない顔が晴れることはなかった。


「それより喉が渇いたね。お茶でも淹れようか?一緒に温かいものを飲んで一息入れよう」

「そうね、私が淹れるわ」

「そう?ありがとう」


千春が淹れてくれたお茶はとても薄く、ほとんどお湯の味しかしなかった。

これは相当参ってるな。


「ねぇ千春、僕ら妊活して何年も経っているわけじゃない。世間的にみたら全然問題じゃないよ。千春の身体だって異常じゃない。普通の人よりも妊娠のしやすさが低いってだけでしょ?子供が産めないわけじゃないんだから」

「…そうね」


千春の悲観は大袈裟すぎるんじゃないか。

そう思い、彼女を励まそうとするが、千春の反応はいまいちだった。



ーーー



ある日。


「ただいま!」

「お、おかえり」


久々に聞いた千春の明るい声。


「慎志、次の手を打ってきたわ!」

「次の手って、何の?」

「妊活よ!クリニックで”卵管造影”やってきたの!」

「卵管造影?」

「卵管を広くして精子を通りやすくさせるの。一定期間妊娠率が上がるんだって!でもめっちゃ痛かったわ」

「そっか、痛いの耐えて千春は偉いよ」

「全然気持ちがこもってない労いね。本当に痛かったんだから!慎志、想像してみて?おちんちんの穴にパンパンに何か押し込まれるのを」


僕はパンツをまさぐり上から股間を目視する。

この尿道を広げるというのか。

恐怖である。


「うわぁ、想像しただけで股間が痛くなってきたよ…」


千春はよく頑張った。



ーーー



「またね、生理がきたの」


今回もうまくいかなかったようだ。

千春の悲しむ様子を見るのは仕事の疲れよりも心を疲弊させる。

卵管造影の効果が期待できるといわれる期間の終わりが迫っていた。

しかし焦れば焦るほど、千春は自身を絞めつけるだろう。


この間、僕も千春の勧めで自分の精子検査をしてもらった。

クリニックに提出した精子。結果は量も運動率基準値も異常は見られず、概ね正常だった。

僕は安堵した反面、それで千春が不妊の原因が彼女自身にだけあると苛まないか心配だった。



ーーー



「団子がね、SNSで二人目の子供妊娠したって報告してたの」


団子とは千春の学生時代の同級生で、彼女の親友だ。


「お腹の膨らんだ画像、SNSにあげてたわ」

「へぇ…そうなんだ」

「最近ね、SNSで同級生の妊娠とか、子育てに関しての投稿が多くて」

「ふ~ん」


あからさまに千春は面白くない顔だった。

でも友達だから建前で”良いね”を毎回つけているという。


「職場でも同期の子が妊娠して、今度産休取るって」

「千春、他人は他人、うちはうち、だよ。影響されすぎないように」



「はぁ…私だけが取り残されているみたい」

「傷つくならSNSなんて、見なければいいじゃないか?」

「みんな友達なの!そういうわけにいかないでしょ」


「ねぇ、千春の人生の主役は千春自身でしょ?他人の事ばかりに気を取られてちゃ駄目だよ」

「なによ、分かった風に言わないで」


僕は溜まっていた思いを口にする。


「千春はさ、急ぎすぎっていうか、焦りすぎだと思う。確かに医師から妊娠し辛いって言われてショックなのは分かるよ。でもさ、何度も言ったけど、妊娠が出来ないって言われたわけじゃないし。ちょっとその悲観は大袈裟すぎると思う」


「慎志には私の気持ちは分からないわ。高齢になればなるほど、妊娠は更に難しくなるのよ。時間は貴重なの」


「でもそれで焦って、強迫観念のように千春は自身を追い込んでる。そのせいで最近は日常に閉塞感を僕は感じているよ」


「何よ!私が悪いっていうの?」


「世間的にみたら千春はまだまだ若いじゃないか。それなのに不妊に対して深刻に考えすぎなんじゃないかって言ってるのさ。ちょっと肩の力を抜いて今後もしばらく様子を見ようよ」


「いててて…生理痛い」

「大丈夫?」

「いいわよね、男は」

「え?」

「女はこんなに苦しい思いを毎回してるのに、男なんてピュ~って出して気持ち良くなって、それだけじゃん!」



ーーー



「あーあ、あと1年で華の20代が終わっちゃう」


「千春…世の中には僕らよりも年上で長い期間、不妊に悩みながら何年も妊活してる夫婦もいる。30代で妊活に励む人たちだって大勢いるんだ」


「そういう人たちに比べたら私たちはまだまだだし、逆にそういう人たちに対して失礼だって、慎志は言いたいわけ?」


「千春…」


「私ね、クリニックで普通に妊娠しづらい身体って言われただけだったら、ここまで気分も沈まなかったと思うの。でもね、その原因が先天性的なものって言われたから。女は妊娠できるもの。でもそれが出来ない私は女として欠陥品なんじゃないかって」


この発言は一線を越えたものだった。

何が千春にそう言わせてしまうのか。


「そんな、女性を物みたいに言うのやめなよ。それこそ世の中の妊娠に問題を抱えている女性たちに失礼じゃないか」



ーーー



僕らの事情なんてお構いなしに、時は流れる。季節は移ろう。


「慎志、あのね、もしね、私のせいで子供できなかったらごめんね」


僕は呆気にとられた。

どうして千春はそう深刻に捉えるのか。

何が千春をそこまで追い詰めるのか。

千春の弱々しく泣きそうな声に僕は動揺してしまった。


「ごめんね、この頃、立て続けに親しかった友達が妊娠報告したり、子育ての情報を発信してて、そういうのがタイミングよく重なってしまったから、私も影響されて不安定なんだと思う。だからそういうのが落ち着いたら、たぶん私も大丈夫になると思う」


「千春、世の中には子供のいない夫婦だって大勢いる。あえて子供を作らない選択をした人たちだって。僕だって、子供を作らないで千春と夫婦ふたりで生きていくのも構わないよ」


励ますつもりが、この一言が悪手だった。

千春は声をあげて泣き出した。


その涙を見て、僕は理解した。


僕は夫として千春の一番の理解者でなければならない。

千春は不妊、妊活に対して大袈裟だとか、深刻に考えすぎだとか。

子供を持つ世代、夫婦の年齢、社会の情報と照らし合わせてどうとか、世間と比較してどうとか。


そうじゃない。これは千春と僕の問題なのだ。

僕は千春の気持ちに真に寄り添うことなく、一歩引いた所から彼女を見ていた。


謝るのは僕の方だ。

千春を責められない。責められるわけがない。

一番、苦しんでいるのは千春なのだ。




もはや夫婦の夜の身体の交わりも、楽しむような状況ではなかった。

子供を望んでの夫婦の房事。


「妊娠できないのに、エッチに何の意味があるんだろう…」


ある夜、ポロリと漏らした妻の呟き。

僕はそれを聞いて深い穴底に突き落とされたような感覚に襲われた。


夫婦の肉体的な性の交わり。

やらしさとは次元の違う、性的なコミュニケーション。

それは互いに愛を確認し合う尊い行為であったはず。


千春の言葉はそれを無価値と断じて地に落とすものだった。

子供の出来ないセックスになんの意味があるのか。

その呟きは遠回しに夫の僕を否定しているようなものだ。


ざらついた質感、冷めた肉の体温。

愛のない性交。

いつしか僕らふたりにとって、セックスは苦痛な行為になっていた。

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